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「補償の理論と現実」 華山謙 著 1969年刊 勁草書房

戦後、日本では、今の「日本国憲法」が発布され、
その第29条には「財産権はこれを侵してはならない。財産権の内容は公共の福祉に適合するように、法律でこれを定める。私有財産は正当な補償の下に、これを公共の福祉のために用ひることができる」と定められましたが、
収用法は旧法のまま、昭和26年まで待たなくてはなりませんでしたし、この文言をとってみても、私有財産権も曖昧であり、正当な補償とは何かという点については、法学的に論争の余地は十分にあるものでした。

 戦後のダム建設は昭和22年から始まります。

 昭和22年は、農地改革が、始まった年でもあります。おおまかにいえば、農地改革は、不在地主の持つ土地の一定限度以上を国が買い上げ、小作人に売り渡すもので、その接収価格は、算定根拠はあるものの、当時のインフレーションの中では、安い価格と言わざるをえないものでした。
 戦後まだ収用価格・保証内容に統一基準がなかった時代は、それぞれの管轄する省で、基準を決めて建設を行っていた為、
建設省管轄の石渕ダム(岩手県)では、収用する土地の把握も正確になされず、算定根拠の元になった法律は「自作農創設特別措置法」(自創法)によって、一反90円~100円の値段がつけられた。但しこの時期の米は一升17円、ヤミでは70~80円である。又対象になった人には交渉というものもなく、1回限りの説明会のあと、別個に一人ひとりに印鑑をおさせたという強引な手法でした。こういった手法は、各地のダム建設地でみられたようです。

 また別の農林省直轄の山王海ダム(岩手県)では、ダム建設が発表されると反対運動が起きたため、農林省は、ダムを作ることで恩恵を受ける(これを受益地といいます)開田地区に代替農地を造成し、水没者は集団移転し、生活を安定させたという例もあります。

昭和25年以降、ダム建設ブームが到来し、各地にダム建設が予定されました。 まだ補償基準は、統一のものがなく、土地の収用に関しては、買取価格の提示とそれに対して団体交渉を行い、折り合いをつけていくというかたちがとられており、交渉を通じて、戦前にはなかった補償項目も上がってきていました。
 昭和26年に「土地収用法」の改正がなされましたたが、その後に起こった砂川事件は、この法律に基づいて最初に収用が行われた立川基地に関するものです。
この裁判では、計画された事業は憲法第29条の「公共の福祉」にあたるのか?土地収用法第1条の「公共の利益の増進」となるものなのかが問われましたが、裁判の経過をみると、事業起業者と土地所有者間に激しい意見の対立があった場合、収用法は、起業者側の権力の道具としての機能を果たすものだとわかるということです。
 この時期には、統一した基準のない中、
 

 

「電発要綱」と「建設要綱」の最大の違いは、生活補償を行うか否かで、前者は行う、後者では殆ど払拭されており、実際の現場の交渉によって加味されたというのが現実です。

昭和30年代には、公共工事の規模も大きくなり、それに伴い事業費に占める用地関係費の 割合が著しく高くなってきました。それまでに出された補償の各基準には、相互に矛盾点 もあり、起業者の側より、統一した補償基準の策定が求められました。



 昭和36年「公共用地の取得に関する特別措置法」(S36.法律第150号)
  特に緊急性の高い公共事業について
   ⅰ)収用手続きを簡素化すること
   ⅱ)起業者に対して現物補償の強化、生活再建措置の義務付け
   ⅲ)「公共用地審議会」(建設大臣の諮問機関)の設置
→この「公共用地審議会」の答申は用地行政に多大な影響を与えました。
   ⅰ)統一的基準の確立
   ⅱ)公共補償基準の確立
   ⅲ)鑑定評価制度の確立
   ⅳ)保証項目の統一整理を行う

これは補償の対象を財産権に絞り、“精神損失”・“事業損失”・“生活権”、これらに対する補償・追加払い・協力奨励金の項目は原則的に否定しました。
これを受けて  昭和37年6月「公共用地の取得に伴う、損失補償基準要項」(S37.6.29閣議決定)が出 されました。これは前の答申を踏襲するかたちで、
  ⅰ)補償の対象を財産権のみに絞り、
  ⅱ)補償額をその物件の市場価格を基準として算定するとしました。

同時の閣議了解された「要綱の施行」では、あらゆる公共工事で、この基準を採択するように求めています。
但し、要綱は法律ではないので、要綱に沿わない補償が成されたからと言って、法律違反にはなりません。又土地収用法第51条には「収用委員会は、独立してその職権を行う」としているので、要綱に拘束されません。
けれど実際の運用では、行政監察や会計検査等のチェック機能が入るので、大きく逸脱は出来ない為、要綱といえども、法律と同じような拘束力はあったと見られています(著者私見)。
 これによって各省が保証基準を作成し、以後この基準に従って補償交渉を行うこととなりました。

  ・建設(S38.4.1.訓令第5号)
  ・通算(S38.11.25.次官通達)
  ・農林(S38.323.農地局長通達)

実際の運用については、その時々の社会状況により、要綱から外れた運用が行われた場合も多々あるのは事実です。
この著作は、これ以降の頁で「ダムの水没補償の実態調査と検討」をおこなっていますが、ここでは割愛させていただきます。

  引用文献:「補償の理論と現実」 華山謙 著 1969年刊 勁草書房
       p24~66 「第二章 わが国における補償問題の歴史的展開」-ダム補償を中心に-

この本を読んで、昭和37年のこの要綱の施行が、「御母衣ダム」と「徳山ダム」の補償の問題の明暗をわけたのではないかと思われます。事実御母衣ダムの建設反対運動の「死守会」の書記をしてみえた若山初枝さんは、若山さんのもとを訪ねてこられた徳山村の人の補償の話を聞いて、大変気の毒に思ったと述べておられます。 これらのダムはどのように作られたのか、そこにいた人たちは、どう行動したのかを、 みていきたいと思います。

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