岐阜を代表するダムと問われた時、「徳山ダム」と「御母衣ダム」を思い浮かべる方が多のではないでしょうか?
「御母衣ダム」はダムというよりは、荘川桜の方が有名かもしれません。どちらもロックフィル式ダムで、その規模は全国でもトップクラスのものです。
それらのダムとしての記述は、ダムに関するサイトに詳細にかかれていますので、省きます。
この2つのダムはどちらも、そこに住む多くの民家の立ち退きを経て作られたダムです。
構想が起こった年代自体はそれほど時間差があるわけではありません。けれど完成については、実に46年の差があります。
その間に、日本の経済・産業を始めとするあらゆる環境が変わってきています。公共事業の見直しも進められて、「徳山ダム」は日本に於ける最後の巨大ダム建設となるとも言われます。
ここでは、二つのダムに関する書籍より、「御母衣ダム」「徳山ダム」について、読み解いてみたいと思います。
先祖代々受け継がれてきた土地を手放すというのは、そこに住む人にとっては、大変に辛いことであるのは、想像に難くないと思います。
それがたとえ其の場所に、将来が見えなくて、過疎化するであろうとわかっていても、おいそれとその場所を手放すことはできないのでしょう。 この二つのダムでは、御母衣ダムでは、荘川村のいくつかの地区が、徳山ダムにいたっては全村が、水底に沈むということで(正確には、徳山ダムでは一地区だけ水没は免れているのですが、そこへ到る交通手段が著しく制限されるため、離村でざるを得なかった)、それに対する補償ということが大きな問題になってくるのは当然のことです。
御母衣ダムと徳山ダム、それぞれ土地を離れて生きなければいけない人々の聞き書きを読んだ時、決してそうではないかもしれませんが、傍目には幸せな離村と映る御母衣ダムの住民の方々と、選択の余地がなくなんとか生活の再建を志した徳山ダムの住民の方々には、大きな隔たりがあるように感じました。
この二つのダムの明暗を分けたと言うと言い過ぎかもしれませんが、
公共工事の補償の問題の変遷を、まず知識として理解する必要があると感じました。
それを理解した上で、二つのダムについて、書籍を手がかりに紹介したいと思います。
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