工学部 化学・生命工学科 安藤研究室  

   

Z-選択的Horner-Wadsworth-Emmons試薬の開発秘話

岐阜大学 工学部 応用化学科 教授 安藤 香織

 Z-選択的Horner-Emmons試薬の開発の経緯について紹介するよう依頼を受け,これから研究を始める人や恵まれない環境で研究をしている人の参考になればと思い筆を取りました。

 私は,今年4月より岐阜大学に赴任している予定ですが,表題の研究を行なったのは琉球大学教育学部でのことです。1993年4月琉球大学教育学部に助教授として赴任した時,実験設備はほとんどなく1年目は講義と学生実験の準備にあけ暮れました。教養部にあった60 MHz NMRTMSが7重線に出るような調子の悪い装置で,私の実験に使える時間も考えると当時やろうとしていた生理活性物質の全合成は無理でした。そこで,合成計画の中の一つの反応であるZ-選択的Horner-Emmons反応の研究を行うことにしました。Stillの開発した3はこの反応に広く用いられ,定評のある試薬でした(現在も)。しかし,5当量用いる18-crown-6は高価で吸湿性の高い薬品で,用いる塩基KHMDSはわずかな水分により分解してしまう高価な薬品です。「実用的な試薬の開発をやろう」と考え,文献検索をした所,さらに14が見つかり,アルデヒドの種類によっては2Z体を与えることが分かりました。当時考えられていた反応機構は下図のように,ホスホネート試薬のアニオンがアルデヒドに付加し,エリトロ,トレオの付加体を与えます。この反応は可逆的で,これら付加体のOがリンを攻撃してリン酸エステル部分が脱離し,それぞれZ, Eオレフィンを与えます。通常の試薬でE体が得られるのは熱力学的に安定なトレオ体を経由して反応が起こるためで,Z体を得るには初めの付加が高エリトロ選択的に進行し,平衡を起こさずオレフィンを与えることが必要です。平衡を起こさないためにはOのリンへの攻撃を起こりやすくすれば良いと考え,電子吸引基を持ったアルコールのリン酸エステルにすることとしました。試薬14の構造も考えて,5員環で電子吸引基の付いている酒石酸エステルのリン試薬5なら,さらに高いZ選択性が得られるのではと考えました。さらに不斉識別もできるかもしれません。しかし,私は実験を始めませんでした。思いつきで実験をやっていつもうまくいかない経験から,二の矢,三の矢を準備しなければ実験は始められないと思いました。しかし,他に良い候補は思い浮かばず,試薬カタログを片っ端から探して電子吸引基を持ったアルコールを抜書きしようかとも思いましたが,やはり何か基準がいると思ったのです。 

 Stillの3の化合物ではトリフルオロエタノールが用いられています。それと比べられるような基準が欲しい→電子吸引基を持ったアルコールのpKa値は小さい→pKa値の小さいアルコールといえばフェノールがある。つまり,化合物6となります。pKa値をいろいろ変えたアルコールを使って試薬をつくるのは良い考えのように思えましたが,6の構造を紙に書いてみてあまりの平凡さに私は失望してしまいました。こんな簡単な化合物を誰も作ったことがないなどと信じられませんでした。しかし,Z選択的な試薬として6は誰も報告していません。気を取り直してとにかく56を合成してみました。予感は的中し,5はうまく合成できませんでしたが6は合成でき,しかもZ体が選択的に高い収率で得られたのです。1994年9月末のことでした(同年8月に琉球大学理学部に500 MHz NMRが導入されたのは本当にLuckyでした)。 

  その後の研究のやり方として,私は2つのことを考えました。一つ目は,実験の下手な私が反応を開発すれば私にでもできるのだから『誰にでもできる反応』が開発できるはずだ,という信念です(実験が下手な皆さん,うまく使えばそれは特技になります)。もう一つは,どうせ論文数を競った研究をやれるわけもなく,もうこれ以上何も改良できなくなるまで論文は書かないという方針でした。その後の2年間,講義や学生実験の合間を縫っては,体育会系ののりで実験を本当によくやりました。講義がない日は1 kgのドライアイスを買ってきて,10個の反応をやり,その後3~4日かけてNMR測定,カラム,NMR測定といったスケジュールでした。オルト置換フェニル試薬(Me-,Et-,i-Pr-Ph)ではさらに高い選択性が得られ,1996年,満を持して論文をJACSに投稿しましたが,「反応機構について少し調べたら採択する」という審査結果が返ってきました。反応機構について実験的に調べることは実験設備の揃っていない研究室では困難で,理論計算以外ないと思いましたが計算をやってくれる人が見つかりません。結局,この論文はJOCで出版され,多くの方々に引用していただいています。JACSの審査員の一人のコメントが面白かったので引用しておきます。「研究者はとかく難しいことをやりたがる。だから,重要でも簡単な研究は忘れられる。こんな研究なんか,化合物6がZ選択的だとわかっていれば15年も前に終わっていたはずだ。」というものです。でも,誰も6がZ選択的だとは思っていなかったのです。そして簡単な研究だから誰もやろうとしなかったのです(若い皆さん,まだまだ宝の山は眠っているかもしれませんよ。)
  その後,私はUCLAのK. N. Houk教授の研究室に6ヶ月間留学して計算の勉強を始め,帰国後分子軌道計算を用いたHorner-Emmons反応の反応機構の研究をやりました。こちらも論文として出版されています。諸事情で実験する時間がさらに取れなくなり,2001年以降,私の専門は有機合成化学から計算有機化学に変わってしまいました。有機合成への熱い思いを胸に理論計算を行なってきました。こういうスタンスで理論計算をやっている人も少なく,計算化学者としてもなんとかやれています(人と違う価値観や考え方を持っていることは武器になります)。今年から岐阜大学工学部,今度は学生さんたちといっしょに有機合成化学がやれそうです。

安藤香織 "Z-選択的Horner-Wadsworth-Emmons試薬の開発秘話"TCIメール(2007年)より

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