[いつか晴れた日に(分別と多感)] [デビッド・コパーフィールド] [ハワーズ・エンド] [ダロウェイ夫人] [つぐない(贖罪)]
放送大学岐阜学習センター 平成21年度第1学期 面接授業  内田勝(岐阜大学地域科学部)
映画で読むイギリス小説 第6部 (2009年04月19日 11:10-12:35)
ウルフ原作『ダロウェイ夫人』[後半]([前半]はこちら)
*参照した映画:スティーヴン・ダルドリー監督『めぐりあう時間たち』(日本公開2003年)
引用文中の[…]は省略箇所、[ ]内の文字は原文のルビ、【 】内は私の補足です。
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[1]六月の朝。五〇代の女性が家を出る。外はまばゆい都会の喧噪。彼女は花を買いにいく。夜に自宅で開くパーティのために。その途中で旧友に会う。彼女の若き日の記憶がよみがえる。車から覗く有名人の姿を垣間見る。けれども、それが誰であるか、はっきりとは分からない。花を買った彼女は家へ帰る。彼女の名前はクラリッサ……。

 こんなふうにはじまり、主人公の人生のなかのある一日だけを描いた作品は何でしょう? 二〇世紀のイギリス小説に少し詳しい読者なら、かんたんに言い当てるに違いない——モダニズム文学の旗手、ヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』(一九二五年)でしょう、と。しかし、二一世紀の読者にとって、おそらく話はそう単純にはすまなくなった。二〇世紀末に、こんなふうにはじまる小説を、もう一冊手にすることになったのだから。(カニンガム『めぐりあう時間たち』p.276、高橋和久「あとがき」より)

[2]『めぐりあう時間たち』(The Hours)というタイトルそのものが、ウルフが『ダロウェイ夫人』として出版することになる作品に仮題として与えたものだったのである。同時にこの仮題、つまりは本書のタイトルは両作品における流れる時間への拘[こだわ]り、鮮やかに現在に蘇る過去いやむしろ、封じ込もうとしても否応なく現在に流入してくる過去、という時間の共存を雄弁に物語っている。人はおそらく現在にだけ生きられるほど幸せではない。(カニンガム『めぐりあう時間たち』p.277、高橋和久「あとがき」より)

[3]『めぐりあう時間たち』は、三人の「普通の」女性の人生における、六月の暑い一日を描いている。『ダロウェイ夫人』執筆中のヴァージニア・ウルフ。エイズにかかり今にも死にそうなリチャードという友人を見守る、ニューヨークの編集者、クラリッサ・ヴォーン。そして、本好きの不幸な主婦、ミセス・ブラウン。彼女がリチャードの母親であることにわれわれ読者はやがて気づくことになる。クラリッサ・ヴォーンは、ウルフの同名の登場人物のように、パーティを開こうとしている。物語は、彼女がパーティの花を買うために、ニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジをさまよう様子を追ってゆく。これは、ロンドンのウェスト・エンドをクラリッサ・ダロウェイが彷徨するさまと呼応する。クラリッサのパーティは、リチャードの小説に対してある賞が授与されるため、それを祝う会である。その小説は、明らかにクラリッサについてのウルフ的な物語であり、「ひたすらひとりの女について思索をめぐらしている」ものである。リチャードの子供時代の物語(「ミセス・ブラウン」)において、彼の母ローラ・ブラウンは、家庭生活の閉塞感から逃れて、ホテルの一室で『ダロウェイ夫人』を読む。ウルフのクラリッサ同様、カニンガムのクラリッサも、ローラも、性的に逸脱したキスをそれぞれ経験する。それはウルフが「存在の瞬間」と名づけた、かの有名な啓示の瞬間である。こうして、二〇世紀末、クラリッサのニューヨーク、一九二三年、ウルフのリッチモンド、一九四九年、ローラ・ブラウンのロサンゼルスという三部作に分けられ、それぞれが現在の「時」として語られながらも、緻密に関連づけて織りあげられた『めぐりあう時間たち』は、もはや誰の人生も普通ではありえないことを宣言するのだ。[…]。この二つの小説は共生関係を有しており、それぞれがお互いをあわせ読むことでより深められる。(ヤング「『ダロウェイ夫人』と『めぐりあう時間たち』」pp.158- 60)

[4]驚くべきは、表面上無関係に見える三つのストーリーを、これもさりげなく、結びつける手法である。家を出ること、パーティ、女同士のキス、ベッドにまつわる水のイメージ、死への想念、黄色のバラ……——読者は三つのストーリーの内的連関を、奇妙な言い方だけれども、無意識のうちに意識させられることになる。(カニンガム『めぐりあう時間たち』p.282、高橋和久「あとがき」より)

【『めぐりあう時間たち』においては、まずプロローグで、1941年に入水自殺を遂げるヴァージニア・ウルフの姿が描かれたあと、それに続く本編では、時空を超えて結びつく3人の女性たちの物語が描かれる。】

【まず、「ミセス・ダロウェイ」と題された物語では、20世紀末のニューヨークで出版社の編集者をしているクラリッサ・ヴォーンが主人公となる。かつての恋人リチャードから「ミセス・ダロウェイ」というニックネームで呼ばれているクラリッサの物語は、ほとんど『ダロウェイ夫人』のパロディのように、ウルフの小説を思わせる文体で、ウルフの小説で起こるのと似た出来事が描かれていく。】

[5]まだ花を買う仕事が残っているわ。クラリッサはひどく苛立ったふうを装い(実はこうした用向きが好きなのだが)、サリーが化粧室を掃除しているのにまかせて、部屋を走り出る。三〇分ほどで戻るから、と声をかけながら。
 ニューヨーク。二〇世紀の終わり。
 玄関のドアを開けると、外は晴れ渡り磨き上げられた六月の朝。クラリッサは戸口で立ち止まる。プールの端でよくそうしたように。[…]。
 わくわくする快感、なんという驚き。六月の朝に生きているということは。[…]。わたし、ひとりの平凡な人間(この年になって、それを否定しようなんて面倒なこと、する必要などないわ)であるクラリッサ・ヴォーンは、花を買いに行き、パーティを開く。[…]。彼女は五二歳。まだほんの五二歳、不自然なほどの健康に恵まれている。ウェルフリート【マサチューセッツ州の海辺の町】でのあの日の感覚と何ひとつ変わっていないと感じる。一八歳だったあの日もガラスのドアからちょうど今日みたいな一日へと足を踏み出した。新鮮で痛いほど澄み切って、上り坂の生命力にあふれて張り切っている一日。[…]。リチャードがうしろからやってきて、わたしの肩に手を置いて言った、「やあ、ミセス・ダロウェイ」ミセス・ダロウェイという名前はリチャードの着想だった。寮の飲み会の夜、ヴォーンなんてどう見ても似つかわしくない、と彼がさかんに言い張って生まれた気紛れな思いつき。(カニンガム『めぐりあう時間たち』pp.18-20)

[6]【参考までに『ダロウェイ夫人』の冒頭をもう一度。】
 ミセス・ダロウェイは、お花はわたしが買ってくるわ、と言った。
 ルーシーはたくさん仕事をかかえているのだから。ドアは蝶つがいからはずすことになっているし、ランペルメイヤー菓子店からは配達が来ることになっている。それに、とクラリッサ・ダロウェイは思った。なんてすてきな朝だろう。海辺で子どもたちに吹きつける朝の空気のようにすがすがしい。
 なんという晴れやかさ! 大気のなかへ飛びこんでいくこの気分! ブアトンの屋敷でフランス窓を勢いよくあけ、外気のなかへ飛びこんでいったとき、いつもこんなふうに感じたものだった。いまでもあの窓の蝶つがいの少しきしむ音が聞こえるようだ。早朝の空気はなんとすがすがしく、穏やかだったことか。もちろんここよりずっと静かだった。ひたひたと打ち寄せる波のように、その波の接吻のように、空気は冷たく、刺すようで、しかも(あのとき十八歳だったわたしには)厳粛な感じがした。(ウルフ『ダロウェイ夫人』p.11)

【『めぐりあう時間たち』では、『ダロウェイ夫人』の冒頭近くにある「一回しか登場しない通行人が主人公を眺める場面」に相当する場面もちゃんと用意されている。】

[7]彼女は八丁目と五番街の角で、信号の変わるのを待ちながら肩を伸ばす。彼女だ。朝、何度かこの近くでクラリッサとすれ違ったことのあるウィリー・バスは思う。歳を取っても美人だ、歳を取ったヒッピーの趣がある。髪はまだ長く、染めたりせずに老いに挑むような白髪の混じり方。ジーンズに男物のコットン・シャツになんだかエスニック調のスリッパ(インドのものか、それとも中米のものか?)といういでたちで朝の散歩にお出ましになる。どこかまだセクシーだ。どこかボヘミアン的で善い魔女を思わせる魅力がある。[…]。二五年前の彼女はだれもが振り向くとびきりの美人だったに違いない。(カニンガム『めぐりあう時間たち』p.23)

【クラリッサが今日パーティを開くのは、若き日の恋人で今は詩人になったリチャードが、権威ある文学賞を受賞したのを祝うためである。リチャードはかつて、クラリッサのことを描いた小説を発表したこともある。しかしその小説は失敗作とみなされた。】

[8]【クラリッサと話している知り合いの意識】
そう、彼女は書物のなかの女性、多大の期待を寄せられたほとんど伝説的とも言える作家の手になる小説の主題。でもその作品は失敗作だったはず。酷評され、静かに波間に姿を消した。(カニンガム『めぐりあう時間たち』p.26)

【クラリッサとリチャードはどちらも同性愛者である。若いころ、リチャードとその恋人の美青年ルイス、そしてクラリッサの3人は、海辺の町で一緒に過ごしたことがある。クラリッサはリチャードを愛していたが、結婚はしなかった。】

【のちに精子バンクを利用して娘を産み、シングルマザーになったクラリッサは、今はテレビ局のプロデューサーであるサリーという女性と同棲している。しかし長年連れ添ったサリーとの関係は一種の倦怠期にある。一方リチャードはルイスと別れ、今は一人で暮らしている。エイズを発症した彼は、病状が悪化してもう長くは生きられない。】

【このように、『めぐりあう時間たち』の人物設定や人間関係は『ダロウェイ夫人』に似ているが、二つの小説の人物が一対一対応で結ばれるわけではない。たとえば『めぐりあう時間たち』の詩人リチャードは、主人公クラリッサの元恋人という点では『ダロウェイ夫人』のピーター・ウォルシュに対応するが、幻聴を聞いたり自殺願望を抱えている点では『ダロウェイ夫人』のセプティマス・ウォレン・スミスに近い。作者カニンガムは、『ダロウェイ夫人』の人物たちがもつさまざまな要素を抜き出してシャッフルし、それらの要素を『めぐりあう時間たち』の人物にばらばらに割り振っているのだ。このように、二つの小説は一筋縄ではいかない複雑な絡み合い方をしている。】

【クラリッサが花屋で花を選んでいるとき、外から耳をつんざくような音が聞こえて驚く。窓から外の通りを見ると、ちょうど映画の撮影中で、映画のスタッフが何かで大きな音を立ててしまったらしい。】

[9]とつぜん一台のトレーラーのドアが開いて、だれもが知っている顔がのぞく。[…]。すぐには誰の顔だかクラリッサには見極められないが(メリル・ストリープかしら? ヴァネッサ・レッドグレーヴかしら?)、その女性が映画スターであることはたしかだと知れる。(カニンガム『めぐりあう時間たち』p.39)

【ウルフの『ダロウェイ夫人』では、大きな音を立てた自動車に乗っている謎の人物は、皇太子、王妃、総理大臣といった「やんごとなきお方」と思われるのだが、『めぐりあう時間たち』ではそれが映画スターになっているのが興味深い。ちなみにヴァネッサ・レッドグレーヴは映画『ダロウェイ夫人』の主役を務めた女優であり、メリル・ストリープはのちに『めぐりあう時間たち』が映画化されたとき、クラリッサ・ヴォーン役を務めることになる。】

【詩人のリチャードは、名誉ある文学賞を授与されることになったにもかかわらず、授賞式にもクラリッサのパーティにも出席したがらない。詩人としてのプライドが高すぎるリチャードは、これまでの自分の作品に満足できないのだ。】

[10]【リチャードがクラリッサに語る。】
「残念ながらぼくは落伍者なんだ。それで決まり。ぼくの手には負えなかった。[…]。ぼくは自分が天才だと思っていた。実際自分にはひそかにそのことばを使っていた」
「それで——」
「ああ、プライドだよ、プライド。ぼくはすっかり間違っていた。ぼくは打ちのめされた。とても打ち勝てる相手ではなかった。[…]。きみの一部についての物語の一部を語りたかった。ああ、そうしていたらなあ」
「リチャード、あなた本をまるまる一冊書いたじゃないの」
「でもぜんぶそこから除かれているんだ、ほとんどぜんぶがさ。[…]。」(カニンガム『めぐりあう時間たち』pp.84-5)

【リチャードが本当に描きたかったのは、若き日のリチャードとクラリッサが交わしたキスの衝撃らしい。】

[11]「池のほとりできみはぼくにキスをした」
「一万年も昔の話ね」
「それがいまでも起きているんだ」
「ある意味において、そうね」
「現実において、そうなんだ。それはあの現在において起きている。これはこの現在でおきている[…]。ぼくたちは中年、そしてぼくたちは池のほとりに立っている若い恋人たち。ぼくたちは同時にありとあらゆるものすべてになっている。それってすごいことじゃないか?」(カニンガム『めぐりあう時間たち』pp.85-6)

【過去のある時点で交わした濃密なキスが、現在もリチャードの意識に鮮明に存在している。そもそも「記憶」とはそういうもので、ごく当り前のことなのだけれど、リチャードは「記憶」を通して複数の時間がめぐりあっていること自体に感動している。】

【「記憶」を通して複数の時間が結び合わされることは、『ダロウェイ夫人』および『デイヴィッド・コパフィールド』の重要なテーマでもあった。】

[12]【リチャードの部屋から家に戻るクラリッサが、リチャードとのキスを回想する。】
リチャードはクラリッサがもっとも豊かな未来を感じていた瞬間に愛した人間だった。リチャードは裾を切り落としたジーンズにゴム草履という格好で、黄昏[たそがれ]どきに池のほとりで彼女の隣に立ち、彼女のことをミセス・ダロウェイと呼び、そしてふたりはキスをした。彼の口が彼女の口に通じ、彼の舌が(刺激的で、しかも少しの違和感もない感触——絶対に忘れないわ)おずおずとなかに入ってきて、彼女はそれを自分の舌で迎えたのだ。ふたりはキスをして、池のまわりをいっしょに歩いた。[…]。クラリッサの心のなかで三〇年以上にもわたって色褪せずに生きているもの、それは黄昏どきに小さな枯草の広がりの上で交わしたキスと、次第に闇が濃くなるなか、蚊の羽音に囲まれながら池のまわりをめぐった散歩。[…]。いまでは彼女には分かる——あれが決定的な瞬間、まさしくあのときが。二度とそんな瞬間は訪れなかった。(カニンガム『めぐりあう時間たち』pp.121-2)

【『めぐりあう時間たち』には、「完璧なものを作ろうとして、満足するものができずに死にたくなる人々」が3人登場する。(作中人物としての)ヴァージニア・ウルフ、詩人のリチャード・ブラウン、そしてリチャードの母であるローラ・ブラウン。】

【彼らはある意味で、「レナード・バストの呪い」に取り憑かれているのかも知れない。『ハワーズ・エンド』のレナード・バストは、本を読み教養を身に付けることで階級の壁を乗りこえ、自分が持っているはずの豊かな才能を活かす場を求めたが、その高すぎる目標の達成がいかに困難であるかを思い知らされ、結局は本の山に埋もれて死んでいった。『めぐりあう時間たち』の登場人物たちは、それぞれ自分の人生に対して高すぎる目標設定をしてしまうがゆえに、目標が果たせずどんどん追い詰められていく。】

【良くも悪くも彼らに欠けているのは、『分別と多感』のエリナーが持っていたような、自分の分際を知る「分別」であろう。しかも目標設定が高すぎるままで「私は…なのだから〜しなければならない」という「分別」を働かせることにより、彼らはさらに追い詰められる。】

【『めぐりあう時間たち』の「ミセス・ウルフ」と題された物語では、作家ヴァージニア・ウルフが、自分の最高傑作を書きたいと思って、苦心しながら執筆を進めている。時は1923年、彼女が住んでいるのは生まれ育ったロンドンではなく、ロンドン郊外の町リッチモンドである。都会より郊外のほうが精神の安定にいいというので、夫とともに郊外に移り住んでいたのだ。】

[13]【ウルフが『ダロウェイ夫人』の冒頭を思いつく場面。】
 ミセス・ダロウェイは何かを言った(何を?)。そして自分で花を買った。
 ロンドン郊外。一九二三年。
 ヴァージニアは目を覚ます。こんな書き出しも悪くないかもしれない。悪くないはず——六月のある日、買い物に出かけるクラリッサ。[…]。でもそれが正しい書き出しだろうか? 少し平凡にすぎはしないか? ヴァージニアはベッドに静かに横になる。眠りが再び彼女をとらえる。(カニンガム『めぐりあう時間たち』p.40)

[14]【ウルフの伝記的事実】
 ヴァージニア・ウルフは知的な上層中流階級【アッパー・ミドル・クラス】出身である。[…]。しかし、彼女が十三歳の時に母親が亡くなる。この突然の死に彼女は傷つき、情緒不安定な状態に陥ってしまう。[…]。
 ヴァージニアは作家の道を志すものの、悲しみと孤立感のために神経をすり減らしていく。兄や弟に混じってブルームズベリー・グループの一員として知的議論を楽しみながら執筆活動をするが、なかなか最初の小説が書けずにいた。幻聴や頭痛に悩まされ、精神科医から安静療法を強いられるが、最終的な治癒は果たせない。この苦しみと精神科医への批判は『ダロウェイ夫人』における青年セプティマスの境遇に反映されている。レナード・ウルフと一九一二年に結婚した後、不安定な精神状態に悩み続けながらも、『船出』『ジェイコブの部屋』『ダロウェイ夫人』など数々の小説を世に送り出し、女性小説家としての地位を確立していった。しかし、再び精神的危機を感じた一九四一年、忽然[こつぜん]と近所の川で入水自殺し、五十九歳の生涯を自ら閉じてしまう。(大石「ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』」p.109)

[15]【ヴァージニア・ウルフの意識】
 彼女はテーブルの上の時計を見る。二時間近くが経っているが、まだ力がわいてくる気がする。とはいえ明日になって書いたものを見直すと、勿体ぶっていて、中身が薄いように思うかもしれない。いつだって心のなかにある本の方が、なんとか紙に書き留めることができるものよりもまし。冷たいコーヒーを一口。そしてこれまで書き上げたところを読んでみる。
 なかなか悪くないように思える。とてもいい箇所だって少なくない。もちろん希望は大きい——これを自分の最高傑作にしたい、ようやく自分の期待を満たすことになる作品に。でもふつうの女性の人生のなかのたった一日を、小説にふさわしいものにできるものだろうか? ヴァージニアは親指で唇を軽くたたく。クラリッサ・ダロウェイは死ぬことになる、それはたしかだ。もっとも、こんな書きはじめの段階では、どのように死ぬのかも、どうして死ぬのかも分からないけれど。彼女は、とヴァージニアは確信する、自分の命を奪うことになるのだ。そう、彼女はきっとそうする。(カニンガム『めぐりあう時間たち』pp.89-90)

【『めぐりあう時間たち』の登場人物としてのウルフは、詩人リチャードと重なる部分が多い。作家としての高いプライドを持ちながらも、自分の作品に自身が持てずにいる。なお、ウルフが最初はダロウェイ夫人を小説の終わりで死亡あるいは自殺させるつもりだったのは事実である。】

[16]【ウルフ、家を抜け出して駅へ向かう。ロンドンに行こうというのだ。】
リッチモンド【ロンドン郊外の町】で静かに休んでいれば、それだけわたしは健康になり、安全にもなる。話しすぎず、書きすぎず、感じすぎなければ。衝動的にロンドンに行って、歩きまわったりしなければ。けれども、このままではわたしは死んでしまう。ゆっくりとバラのベッドで死につつある。実際、水のなかであの魚のひれに向き合うほうがいい。隠れて生きているよりは。(カニンガム『めぐりあう時間たち』pp.207-8)

【切符を買い、ホームのベンチに座るウルフだったが、列車が来るまでに間があるので待ち切れなくなり、いったん駅の外に出て時間をつぶそうとする。そこへ彼女を心配して捜しにきた夫のレナード・ウルフが現われる。】

[17]レナードが言う、「ネリー【使用人】が肉料理を作ってくれている。戻らないと。彼女が暴れ回って家に火をつけるまで、およそ一五分しかないぞ」
 ヴァージニアはためらう。でもロンドンに! まだ列車に乗りたいという思いは消えない。死ぬほど乗りたい。[…]。あちら側には列車が、ロンドンがある。そして自由とキスについて、芸術の可能性と狂気の狡猾で暗い煌めきについてロンドンが暗示するすべてがある。ミセス・ダロウェイは、と彼女は思う、パーティがこれからはじまろうとする丘の上の家。死は下に広がる街。そしてミセス・ダロウェイはその街を愛し恐れる。ミセス・ダロウェイはなんらかの道を通って、その街の奥深くまで踏み入りたいと願っているのだ。帰り道が見つからなくなるほど奥深くに。
 ヴァージニアが言う、「そろそろロンドンに戻る時期じゃないかしら?」
「わたしにはどうにも分からないが」彼は答える。
「よくなってもうずいぶん経つわ。いつまでも郊外でうろうろしているわけにはいかないでしょう?」
「夕飯を食べながら話そうじゃないか」
「分かったわ」(カニンガム『めぐりあう時間たち』pp.210-1)

【話し合いの結果、ウルフ夫妻はロンドンに戻ることに決める。ヴァージニアは『ダロウェイ夫人』を書き進める。】

[18]どんどん書こう。この作品を仕上げ、そうしたら次の作品に取りかかる。正気を保ち、生きるはずであったように生きよう——気の合う人たちに囲まれ、自分に与えられた能力を手放すことなく十二分に駆使して、深く豊かな人生を。(カニンガム『めぐりあう時間たち』p.253)

[19]【ヴァージニアは、その日彼女を訪ねてきた姉のヴァネッサ・ベルと交わしたキスを思い出す。】
ネリー【使用人】が背を向ける。すると、ふたりにそんな習慣はまったくないのに、ヴァージニアが身体をのりだして、ヴァネッサの口にキスをする。それは無邪気な、どこまでも無邪気なキス。しかしいまこのとき、このキッチンのネリーの背後では、それはもっとも美味な、禁断の木の実の味がする。ヴァネッサがキスを返す。(カニンガム『めぐりあう時間たち』p.190)

[20]あのキスは無邪気なものだった——どこまでも無邪気なキス——でも同時にそこには、ヴァージニアがロンドンに求めるものとどこか似たものがあふれていた。複雑で貪欲な愛、ずっと昔からあって、これとかあれとか言えない愛があふれていた。[…]。
 クラリッサ・ダロウェイはかつて女性を愛した経験を持っているのだ。そう。別の女性を、若いころに。彼女とその女性はキスを交わしていたはず。おとぎ話に出てくる稀有な魔力を秘めたキスにも似たたった一度のキス。そしてクラリッサはそのキスの記憶を、そのキスに宿っていた天翔ける希望を、生涯を通じていっときも手放さない。彼女はその一度のキスが約束したかに見える愛をけっして見出すことはないのだ。
 ヴァージニアは興奮して椅子から立ち上がり、テーブルに本を置く。(カニンガム『めぐりあう時間たち』p.254)

[21]そう、クラリッサは若いときに女性を愛したはず。女性にキスをしたはず、一度だけ。クラリッサは身近な人間を失って、深い孤独を味わうだろう。けれど、彼女は死なない。人生を、ロンドンを、愛しすぎているから。ヴァージニアは彼女に代わる別の人物を想像する。そう、強い肉体と傷つきやすい精神を持った人物、どこか天才肌、詩人肌のところがあり、世間の動きによって、戦争と政府とによって、医者によって、押し潰された人物。それはつまるところ、狂気に冒された人物。なぜならその人物は、あらゆるところに意味を見出すから、木々は知覚力を持った存在であり、スズメがギリシャ語で歌うことを知っているから。そう、そんな人物が必要。クラリッサ、正気のクラリッサ——意気揚々として、ありふれた人間であるクラリッサ——は生き続けるだろう。ロンドンを愛し、ありふれた喜びからなる人生を愛しながら。死ぬことになるのはだれかほかの人間、発狂した詩人であり幻視者であるその人物。(カニンガム『めぐりあう時間たち』p.255)

【クラリッサ・ダロウェイの分身としてのセプティマスが生まれ、『ダロウェイ夫人』の基本構想が固まる。】

【一方「ミセス・ブラウン」と題された物語では、詩人リチャードの母ローラが主人公となる。】

【1949年のロサンジェルス。『ダロウェイ夫人』を熱心に読むローラ・ブラウンは、平凡な主婦である。第二次世界大戦帰還兵の夫と結婚した彼女は、3歳の息子リチャードに恵まれ、2人目の子どもを妊娠している。】

[22]【ローラはまるでレナード・バストのように、忙しい仕事の合間に本を読んで教養を高めようとしている。】
わたしはミステリーやロマンスは読まない。少なくとも、自分の精神の向上を続けている。いま読んでいるのはヴァージニア・ウルフ。ヴァージニア・ウルフの全作品を一冊ずつ。ウルフのような女性のことを考えるととても心が惹かれる。光彩陸離たるあの才能[…]。彼女、ローラは(それはもっとも固く閉ざした秘密のひとつ)自分だってわずかながらも、かけらだけでも、輝く才能を備えているのだという想像に浸るのが好き。でも分かっている、きっとたいていの人は、けっして漏らすことはないけれど、同じように望みの切れ端を小さく丸めたこぶしのように心のなかに抱えて暮らしているのではないだろうか。スーパーマーケットでカートを押しながら、或いはまた、パーマをかけてもらいながら、彼女は思う、ほかの女性たちも、程度の差こそあれ、同じように考えてはいないのだろうかと——ここに輝く精神がある、悲しみに満ちた女性が、法外の喜びに満ちた女性がいるのよ。別のところにいたいのに、単純で本質的に馬鹿みたいな仕事をすることに、トマトを調べ、ヘアードライヤーの下におとなしく座っていることに同意したのは、それがわたしの芸術であり、義務だから。(カニンガム『めぐりあう時間たち』pp.55-6)

【ローラにとっては「幸福な家庭」こそが完成させるべき芸術作品である。彼女は「幸福な家庭」を支える完璧な妻、完璧な母親になろうとして必死であり、かえってそのことでプレッシャーに押し潰されそうになっている。】

【この日はローラの夫の誕生日である。ローラは夫のために、完璧なバースデーケーキを焼こうと決心する。】

[23]彼女はバースデーケーキを作ろうとしている。たかがケーキ。しかしこの瞬間、彼女の心のなかでそのケーキは、どんな雑誌のどの写真にも負けず光沢を帯びてまばゆく輝いている。彼女は考える、いちばん粗末な材料を使って、壺や家の持っている均衡と権威を備えたケーキを作り上げるのだ。いい家が慰安と安全を物語るように、そのケーキは恵みと喜びを物語るだろう。[…]。『ミセス・ダロウェイ』のような書物だって、最初はなにも書かれていない紙とインク壺だったはず。たかがケーキ、彼女は自分に言い聞かせる。それでも。ケーキにだっていろいろあるのだ。この瞬間、カリフォルニアの空の下、きちんとした家のなかで、ふるいにかけられた小麦粉でいっぱいになったボウルを抱えながら、彼女は、いま自分の心を満たしているのは、第一行目を書き出そうとする作家、図面を引きはじめるときの建築家と同じ満足、同じ期待なのだ、と思う。(カニンガム『めぐりあう時間たち』pp.97-8)

【近所の主婦キティがローラを訪ねてくる。キティは子宮に腫瘍のようなものができ、入院して検査しなければならないと言う。恐怖におびえるキティを胸に抱いて慰めているうち、ローラはふとキティに性的欲望を抱いてしまう。】

[24]ふたりはともに苦悩を与えられ、神の祝福を受けている。たくさんの秘密を共有したまま、たえず努力している。それぞれがだれかの役を演じている。疲れ、追いまわされ。ふたりはそんなにも桁外れに大きな仕事を担っているのだ。
 キティが顔を上げ、ふたりの唇が触れる。ふたりとも自分たちがなにをしているか分かっている。ふたりの口が止まる。互いの口にもたれあって。ふたりは唇を触れ合わせる。しかしそれは、はっきりキスと呼べるものではない。
 身を引いたのはキティの方。
「あなた、やさしいのね」キティが言う。
 ローラはキティを放し、一歩退く。彼女はやりすぎた[…]。ローラは黒い目をした捕食者。ローラこそが異常者、よそ者、とても信頼できない。ローラとキティは同意する、声には出さず、その通りだと。
 ローラはリッチー【3歳の息子リチャード】をかいま見る。彼は相変わらず赤いトラックを握っている。相変わらず見つめている。(カニンガム『めぐりあう時間たち』p.137)

【夫のために作ったバースデー・ケーキが失敗作だと思ったローラは、せっかく作ったケーキをゴミ箱に捨て、ケーキを焼き直す。2回目に作ったケーキは、1回目よりうまくできたものの完璧ではない。パニックを起こし、何もかもから逃げ出したくなったローラは、息子のリチャードを近所に住むミセス・ラッチに預けると、一人で車を走らせ、豪華なホテルに部屋を取る。彼女はそこで『ダロウェイ夫人』を読み進めながら、自分の死について考える。】

[25]【ホテルの部屋でローラが読む『ダロウェイ夫人』の文章。クラリッサ・ダロウェイの意識。】
そういえば一度、サーペンタイン池に一シリング銀貨を投げ入れたことがあった。誰にも思い出はある。だけどわたしが愛しているのは、目の前にあるこれ、ここ、いま。タクシーのなかの太ったご婦人だ。それなら、どうでもいいことではないか? ボンド・ストリートのほうに歩きながら彼女は自問した。自分がいつかかならず跡形もなく消え失せ、そのあともこのすべてがいままでどおりつづいていくとしても、どうでもいいことではないか? べつに腹立たしいことではない。死はすべての終わりにはちがいないが、にもかかわらず自分もピーターもなにかのかたちでこういったロンドンの街並のなかに、諸物の干満に揺られながら、ここそこに生きつづけると信じられるならば、それはむしろ慰めになるのではないかしら? わたしたちがお互いのなかに生きる。たしかにわたしはブアトンの木々の一部、ぶかっこうな、つぎはぎ細工のような、だだっ広いあの屋敷の一部、一度も会ったことのない人の一部となって生き残ってゆく。ちょうど靄[もや]が木々に支えられるように、わたしがいちばんよく知っている人たちのあいだに、靄のように広がりながら、彼らの枝に支えられて。はるか遠くまで生き残ってゆく、わたしの人生が、わたし自身が。だがハッチャーズ書店のショーウィンドーをのぞきながら、彼女【クラリッサ・ダロウェイ】はなにを夢想していたのだろう? なにを思い出そうとしていたのだろう? ひらいてある本を読みながら、いった彼女は白々とあける田舎の夜明けのどんなイメージを思い出そうとしていたのだろう?

 もはや恐れるな、灼熱の太陽を、
  はげしい冬の嵐を。
(ウルフ『ダロウェイ夫人』pp.21-2)

[26]【上の文章を読んだローラの意識。川の水に足を踏み入れるヴァージニア・ウルフに思いをはせる。】
 死ぬことは可能である。ローラは唐突に考える、自分が——自分にかぎらずだれにしても——どうしたらそんな選択ができるのかを。[…]。自分は死を決心することができるのだ。それは抽象的で仄[ほの]かな光のようにゆらめく考え。かくべつ病的というわけではない。ホテルの部屋というのは、だれもがそんなことを考えたりする場所ではないかしら。[…]。彼女には分かる、ホテルに行くことによって、人は自分の生活の細々とした問題を置き去りにして、どっちつかずの領域、清潔な白い部屋——死ぬことがそれほど奇妙とは思えない場所——に入るのだ。[…]。
 彼女はお腹をさする。けっしてしないわ。清潔な静まり返った部屋で、そのことばを大声で口にする——「けっしてしないわ」わたしは人生を愛している、絶望的なほど愛している。少なくともある種の瞬間には。(カニンガム『めぐりあう時間たち』pp.185-6)

【ローラは、いつでも死ねるという発見に勇気づけられて、生きることを選び、その後も生き続ける。】

【自殺をやめたローラは、そのままホテルで『ダロウェイ夫人』を読み進め、夕方になるとホテルを出て、息子のリチャードを預けたミセス・ラッチの家に車を走らせる。】

[27]そろそろ六時。『ミセス・ダロウェイ』を半分近くまで読み進んだ。ミセス・ラッチの家に車を走らせながら、彼女は読書の余韻に浸っている——クラリッサにセプティマス、花、パーティ。イメージが心をよぎる——車の中の人物、メッセージを送る飛行機。ローラが身を置いているのは一種のトワイライト・ゾーン【幻と現実の境目があいまいな領域】。一九二〇年代のロンドンと、トルコ石の明るい青緑色をしたホテルと、見知ったこの通りを走っているこの車とによって構成される世界。いつもの自分であると同時に、自分ではない。わたしはロンドンの住人、上流階級の女性、青白くて魅力的で、少しだけ欺瞞的な。わたしはヴァージニア・ウルフ。(カニンガム『めぐりあう時間たち』p.230)

【息子のリチャードを迎えにきたローラは、彼女を見つめるリチャードの様子がおかしいことに気づく。】

[28]彼女は彼に視線を走らせる。彼と目が合う。そしてそこにはっきりとは捉えがたいものを見る。彼の目、彼の顔全体が、内側から光っているよう。彼ははじめて、彼女が読みとることのできない感情に苦しんでいるように見える。
「リッチー」彼女は言う、「どうしたの?」
 彼が言う、必要以上に大きな声で、「おかあさん、ぼく、おかあさんのこと、愛しているよ」
 彼の声にはどこか奇妙なところ、どこか冷え冷えとしたところがある。これまで彼の口から聞いたことのない音調。取り乱した、別世界の響き。[…]。彼は知っている。知っているに違いない。この小さな少年にはわたしがどこか行ってはいけないところに行っていたことが分かっている。わたしの嘘が分かっている。[…]。彼はひたすらわたしを注視し、解読することに没頭している。わたしがいなければどこにも世界がないのだから。
 わたしが嘘をついたとき、彼に分からぬはずはない。(カニンガム『めぐりあう時間たち』pp.235-7)

【ローラはリチャードを連れて家に帰り、何事もなかったかのように、夫のために家族だけのバースデー・パーティを開く。】

【のちに詩人になったリチャードは、このときの体験から受けたトラウマを題材にした詩を発表することになる。】

【20世紀末のニューヨークでは、夕方になり、クラリッサ・ヴォーンはパーティの主賓であるリチャードを迎えに行く。ところがリチャードがいつもの部屋にいない。クラリッサは不安になる。】

[29]彼女は隣の部屋に駆け込み、リチャードが相変わらずのローブ姿で、開いた窓の下枠に乗っているのを見つける。下枠を跨ぐ格好で、痩せた脚の一方を部屋のなかに、もう一方を、こちらには見えないが、五階の高さからぶらつかせて。
「リチャード」彼女は厳しい調子で言う。「そこから下りなさい」
「外は気持ちがいいよ」彼が言う。「最高の日だね」(カニンガム『めぐりあう時間たち』p.239)

【五階の部屋の開け放った窓枠にまたがったリチャードは、若き日にクラリッサやルイスと海辺の町で過ごした、ある六月の朝の濃密な体験を回想する。芸術家としてのリチャードが目指していたのは、そうした強烈な体験を再現することだったのだ。】

[30]「あのとききみは一八歳で、ぼくは一九になったばかりじゃなかったっけか。ぼくは一九歳でルイスに恋をしていて、そしてきみに恋をしていた。きみが朝早く、まだ眠たげに、下着姿でガラスのドアから出てきた姿を見て、ぼくはこんなに美しいものは目にしたことがないと思ったんだ。それって奇妙だろうか?」
「そうね」クラリッサは言う。「そうよ、奇妙だわ」
「ぼくは落伍者だ」
「そんなふうに言うの、お止めなさい。落伍者なんかじゃないわ」
「そうなんだよ。同情を買おうとしているわけじゃない。違うんだ。ひどく悲しい気分になっているだけさ。ぼくがやりたかったことは単純至極に思えた。だれかの人生のある朝、平凡きわまる朝に拮抗できるくらい生き生きとしていて、強烈なものを創造したかったんだ。考えてもみてくれ。そんなことを目指すなんて。なんて馬鹿なんだ」
「馬鹿なんてこと、少しもないわ」
「パーティには行けそうもないな」
「パーティなんか気にしないで。お願い。パーティのことは考えないで。こっちに手を出して」
「きみはずっとやさしくしてくれたよ、ミセス・ダロウェイ」
「リチャード——」
「きみのこと、愛しているよ。陳腐な言いぐさかな?」
「いいえ」
 リチャードが微笑む。頭を振る。彼は言う、「ぼくたちほど幸せなふたりって、いなかったんじゃないかな」
 彼は少しずつ前に動き、静かに窓枠から滑り出る。そして落下する。
 クラリッサが悲鳴を上げる[…]。(カニンガム『めぐりあう時間たち』pp.243-4)

【主賓であったリチャードの死によって、クラリッサ・ヴォーンのパーティは中止になる。混乱が一段落した午前0時過ぎ、クラリッサがパートナーのサリーや娘のジュリアとともにリチャードを偲んでいるところへ、リチャードの母親、ローラ・ブラウンが到着する。】

【リチャードが3歳の時に自殺するのをやめたローラは、その後夫や子どもを捨てて一人でカナダに渡り、その後はトロントの図書館員として暮らしていた。ローラは今では80歳過ぎになっている。】

[31]【クラリッサ、80歳を過ぎたローラに出会う。】
これが彼女なのだ、とクラリッサは思う。これがリチャードの詩に描かれた女性——失われた母親であり、挫折した自殺志願者であり、一切を置き去りにして立ち去った女。ショックであると同時に元気づけられもする、そうした人物が実際は、両手を膝にのせてソファに座るどこからみてもふつうの女性だと分かると。(カニンガム『めぐりあう時間たち』p.264)

[32]【リチャードは死に、彼の書いた本もすぐにこの世から消えてしまう。】
もうすぐクラリッサは眠るだろう。彼を知っていただれもがほどなくして眠りに就くだろう。そして明日の朝、目覚めたときみんな気づくのだ、彼が死者の仲間入りをしたことに。彼女は考える、明日の朝はこの世でのリチャードの人生が終わることを記すだけではなく、彼の詩の終わりがはじまることを記すことになるのではないかと。結局のところ、本は溢れるほど出ているのだ。[…]彼の本も消えてしまう可能性のほうがはるかに高い。小説中の一人物であるクラリッサも消えるだろう、失われた母親、受難の人であると同時に悪霊でもあるローラ・ブラウンといっしょに。(カニンガム『めぐりあう時間たち』p.269)

[33]【濃密な一時間の思い出を慰めにして、はかない人生を生きる。】
わたしたちはわたしたちの人生を生きるのだ、それがなんであれやることをやり、そしてそれから眠るのだ——そんなにも単純でありふれたこと。窓から身を躍らせたり、入水したり、錠剤を飲んだりするものも少しはいる。それより多くの人が事故で死ぬ。そしてわたしたちの多くは、圧倒的大多数は、なにかの病気に、或いは、とても幸運であれば、時そのものに、ゆっくりと貪り食われていく。慰めになるのはただ——思いもかけず、あらゆる予想を裏切って、わたしたちの人生がはじけるように開かれ、それまで心に思い描いていたことすべてをわたしたちに与えてくれると思われる一時間が、ここに、或いはそこにあること。(カニンガム『めぐりあう時間たち』pp.269-70)

【『ダロウェイ夫人』のクラリッサ・ダロウェイにとってそれはサリーとのキス。『めぐりあう時間たち』のクラリッサ・ヴォーンにとってそれはリチャードとのキス。ローラ・ブラウンにとっては『ダロウェイ夫人』の読書体験。】

【クラリッサ・ヴォーンは、リチャードを偲ぶ内輪のパーティを開くために、ローラをキッチンに招き入れる。】

[34]彼女は居間へ、ローラ・ブラウンのところへ戻る。ローラはクラリッサに弱々しい微笑みを向ける。彼女の考えていること、感じていることがクラリッサに分かるはずもないのだから。そう、彼女はここにいる。怒りと悲しみに満ちた女性。悲哀に満ちた、目眩[めくるめ]く魅力に満ちた女性。死に恋した女性。リチャードの作品に取り憑いていた犠牲者であり拷問者。ここにいるのはひとりの老婦人。トロントに住む元図書館員。老婦人用の靴を履いて。
 そしてここにわたし、クラリッサがいる。もはやミセス・ダロウェイではない。わたしをそんなふうに呼ぶ人間はもういない。新たな一時間を手にしたわたしがここにいる。(カニンガム『めぐりあう時間たち』pp.270-1)

【クラリッサは生き抜いたローラに感動し、ローラに出会った今がもう一つの「濃密な瞬間」になったことを感じる。】

【いくつかの濃密な瞬間の記憶を慰めにして、はかない人生を生きる——それがこの物語の中でクラリッサ・ヴォーンのたどり着いた結論のようである。】

【ありふれた言葉で言えば「幸せだった過去の思い出にすがって生きる」ということ。そういう生き方は、みんなが思っているほど後ろ向きで消極的なものではないのかもしれない。】

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【引用した文献】

●ヴァージニア・ウルフ作、丹治愛訳『ダロウェイ夫人』(集英社文庫、2007年)[原著1925年]
●マイケル・カニンガム作、高橋和久訳『めぐりあう時間たち——三人のダロウェイ夫人』(集英社、2003年)[原著1998年]

●大石和欣「ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』」工藤庸子・大石和欣編著『世界の名作を読む(放送大学教材)』(放送大学教育振興会、2007年)108-16ページ
●トーリー・ヤング著、藤田登久子訳「『ダロウェイ夫人』と『めぐりあう時間たち』」窪田憲子編著『シリーズ もっと知りたい名作の世界 (6) ダロウェイ夫人』(ミネルヴァ書房、2006年)158-69ページ

(『ダロウェイ夫人』[前半]はこちら)
(c) Masaru Uchida 2009
ファイル公開日: 2009-4-22
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