[いつか晴れた日に(分別と多感)] [デビッド・コパーフィールド] [ハワーズ・エンド] [ダロウェイ夫人] [つぐない(贖罪)]
放送大学岐阜学習センター 平成21年度第1学期 面接授業 内田勝(岐阜大学地域科学部)
映画で読むイギリス小説 第7部 (2009年04月19日 13:35-15:00)
マキューアン原作『つぐない』[前半]([後半]はこちら)
*参照した映画:ジョー・ライト監督『つぐない』(日本公開2008年)
引用文中の[…]は省略箇所、[ ]内の文字は原文のルビ、【 】内は私の補足です。
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[1]一九三五年の真夏、英国の田舎町に住むブライオニー・タリスは一三歳で、奔放な想像力——あるいは妄想力?——の勢いに乗せて創作に励む毎日を送っています。イギリスの片田舎。それなりに裕福ですが、歴史らしい歴史を持たないタリス家の屋敷です。大好きな兄リーオンが、友人ポールをつれて久しぶりに帰ってくるので、ブライオニーはお芝居を書いて、家のみんな——気に食わない従姉弟たちも加えて——で兄のために上演しようと楽しみにしていました。
姉のセシーリアは大学を終えて戻ってきたところ。[…]これから人生をどう過ごすかを考えている点で[…]デリケートな立場に立っています。そのセシーリアと、タリス家の敷地に住むロビー青年との、緊張感に満ちたやりとりを、妹のブライオニーは文脈がよくわからないまま、覗き見してしまうのでした。ロビーはタリス家の使用人の息子で、少年時代からブライオニーたちの父に経済的な援助を受けて大学に進み、優秀な成績で卒業し、こんどは医学の世界へと進もうとしている青年です。
その夕刻から晩にかけて、ふたつの事件が起こります。ひとつはブライオニーがある——禁断の——場面を見てしまったこと、そしてもうひとつは従姉のローラがなにものかに襲われてしまったこと。ブライオニーは正義感に駆られて、犯人をつきとめたと信じたのですが、それによってタリス家の縁者たちの運命は、取り返しのつかないルートを辿ることになるのでした——。[…]。
[…]冒頭にオースティンの『ノーサンガー・アベイ』[…]の一節が引用されたりと、いろんな「合図」が埋めこまれていて、とてもスリリングな小説です。しかしなんといってもその結末——一九九九年のロンドンでブライオニーが語る部分も含めて——があまりに厄介なものなので、この複雑な入り組んだ味わいを簡単にここで説明することはできません。
イアン・マキューアン『贖罪』(二〇〇一)、こんな小説がまだ残っていたのか。二一世紀文学もけっして捨てたものではありません。(千野『世界小娘文學全集』pp.164-5)
[2][BOOK著者紹介情報] マキューアン,イアン[McEwan, Ian]
1948年、イギリス・ハンプシャー生まれ。シンガポール、北アフリカのトリポリなどで少年時代を過ごす。サセックス大学を卒業後、イースト・アングリア大学創作科で修士号を取得。76年、第一短篇集【『最初の恋、最後の儀式』】でサマセット・モーム賞を受賞、その後『時間のなかの子供』『黒い犬』など話題作を相次いで発表し、97年刊行の『愛の続き』がブッカー賞最終候補に。翌年『アムステルダム』で同賞を受賞。01年刊行の『贖罪』は全米批評家協会賞など各賞を受賞するとともに世界的ベストセラーとなり、マキューアンは名実ともに現代英文学を代表する作家のひとりとなった。オックスフォード在住。『土曜日』で、ジェイムズ・テイト・ブラック記念賞受賞。(『紀伊國屋書店BookWeb』<http://bookweb.kinokuniya.co.jp/> より、マキューアン作『土曜日』商品ページの著者紹介)
[3]【映画『つぐない』前半のあらすじ。ロビーの人物設定を誤解しているが、おおざっぱな筋の展開はつかめる。】
1935年のイングランド。政府官僚の娘セシーリア(キーラ・ナイトレイ)は、屋敷で働く使用人のロビー(ジェームズ・マカヴォイ)に密かな恋心を抱いていた。ある昼下がり。2人の些細な諍いから、噴水に落ちた花瓶を拾おうとセシーリアは服を脱いで水に飛び込むが、その結果ロビーに下着姿を見られてしまう。気まずくなったロビーは謝罪の手紙を書くが、彼女に対する思いがこみ上げ、猥雑な文面になってしまう。彼は書き直した手紙を彼女に手渡すよう、セシーリアの妹ブライオニー(シアーシャ・ローナン)に依頼。しかし、ブライオニーが受け取ったのは最初の手紙。噴水の一件も密かに目撃していた彼女は、好奇心からその手紙を読んでしまう。手紙の間違いに気付いたロビーは、セシーリアに謝ろうとするが、却って互いの正直な気持ちを伝えることになる。暗がりで愛し合う2人。だが、その現場を目にしたブライオニーはロビーに対する嫌悪と恐怖を募らせていく。その夜、従姉妹のローラ(ジュノー・テンプル)が何者かに襲われる。現場から逃走する人影を見たブライオニーは、それがロビーだったと警察に証言。連行されるロビーの耳元でセシーリアは囁く。“戻ってきて。私のところへ。”(「作品情報:つぐない」『キネマ旬報映画データベース』<http://www.kinejun.jp/> より)
[4]【巻頭に掲げられたエピグラフ(題辞)。ジェイン・オースティン『ノーサンガー・アビー』(1818)の一節。】
「ミス・モーランド、あなたの抱いた疑いがいかに恐るべきものか、考えてもごらんなさい。何を根拠にそんなことを? ここはイギリス、しかも現代です。わたしたちはイギリス人、そしてキリスト教徒なのですよ。理性と常識を働かせ、日常の経験と突きあわせてごらんなさい。わたしたちの受けた教育がそんな非道を許すものでしょうか? わが国の法が黙認するものでしょうか? そんなことがしでかされて、この国で知れわたらないということがあるでしょうか——社交のやりとりも文筆のやりとりも発達し、喜んでスパイ役を引きうける連中にみんなが取り囲まれ、交通網と新聞とがあらゆる事柄を暴露するこの国で? ミス・モーランド、あなたという人は、まあ、なんという考えを心に入りこませるのですか?」
ふたりは廊下の端に達しており、彼女は恥ずかしさに涙を浮かべながら自分の部屋に駆けこんだ。(マキューアン『贖罪[上]』p.8)
【『ノーサンガー・アビー』の主人公ミス・モーランドは、当時流行のゴシック小説(恐怖小説)ばかり読んでいる文学少女だが、夏のあいだ友人一家の邸宅「ノーサンガー・アビー」に滞在することになり、謎めいた古い屋敷を興味津々で探検して回る。やがて彼女は、友人の母が亡くなっているというのは嘘で、実は夫によって屋敷の秘密の部屋に監禁されているのだと確信して大騒ぎするが、もちろんそれは彼女の勝手な思い込みだった。題辞になっているのは、ミス・モーランドが友人の兄から自分の妄想の愚かさを指摘されてしょげる場面である。】
【「勝手な思い込みによる愚かな勘違い」は、『贖罪』の重要なテーマでもある。】
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【『贖罪』の「第一部」では、1935年の真夏のある一日の出来事が、主人公ブライオニー・タリス、姉のセシーリア、母のエミリー、使用人の息子ロビーらの視点から描かれる。】
[5]【冒頭の文章。13歳の少女ブライオニーは自作の劇の上演準備に忙しい。】
その劇——ポスターもプログラムも切符もブライオニーがデザインし、折りたたみ式のつい立てを横に傾けた切符小屋も作り、料金箱も赤いクレープペーパーで裏張りした、その劇——は、創作熱にうかされた二日間で書き上げたもので、そのために二日目の朝食と昼食は抜きになった。準備が完了すると、完成稿をじっと眺めつつ、遠い北国から従姉弟[いとこ]たちが到着するのを待つより他にすることはなくなった。兄が帰ってくるまでに、リハーサル期間は一日しかなかった。(マキューアン『贖罪[上]』p.11)
【ブライオニーは、物事がきっちり整理整頓されていないと気が済まない几帳面な子どもである。】
[6]ブライオニーは、世界をきちんと整理する欲望に取りつかれた子供のひとりだった。姉の部屋が、開いたままの本、畳んでいない服、乱れたままのベッド、吸い殻が山盛りの灰皿といったもので満ちていたのとは対照的に、ブライオニーの部屋は、彼女に取り憑[つ]いた管理の守護神をまつる神殿のようだった。奥行きの深い窓棚に広げられた農場の模型にはお決まりの動物たちが顔をそろえていたが、それらはまるで合唱を始めるかのように一方向を——持ち主のほうを——向いており、鶏たちまでがおとなしく囲いの中にいた。じっさい、邸[やしき]の二階より上でちゃんと片づいているのはブライオニーの部屋だけだった。(マキューアン『贖罪[上]』pp.13-4)
[7]【自分の作った物語の世界に酔うブライオニー。】
自作の物語を邸の図書室で朗読してくれとせがまれると、両親や姉が驚いたことに、ふだんはおとなしいこの末娘は堂々たる朗読ぶりを見せて、空いた片腕で大きな身振りを入れ、声色を使うときには眉を逆立て、物語の途中で数秒間も休みを入れてページから顔を上げ、一同の顔を見回しては、自分が投げかける語りの魔力に家族がひれふすことを大胆に要求したのである。(マキューアン『贖罪[上]』p.17)
[8]物語を書くという行為は、秘密の要素を有するのみならず、あらゆるものをミニチュア化する愉[たの]しみをも与えてくれた。五ページのうちにひとつの世界が築かれるのであり、この世界は模型農場よりも深い満足を与えてくれるのだった。(マキューアン『贖罪[上]』p.18)
【北国から従姉弟たちが訪ねてくるのは、ブライオニーの叔母と叔父にあたる両親が離婚の危機にあるからだった。】
[9]十五歳のローラ、九歳の双子のジャクスンとピエロが両親の激しい家庭内戦争を避けるために送られてきたという事実に、ブライオニーはもっと注意を払うべきだったのだ。[…]。【ブライオニーにとって】離婚とは修復不可能に決まっている俗事のひとつであって、物語作者の題材にはならない出来事、無秩序の領域に属する出来事だった。大事なのは結婚、というか結婚式なのだった——美徳が報われるという形式が整然と踏襲され、はなやかな行列と祝宴が胸をわきたたせ、生涯にわたる結びつきが約束された幸せに目くるめくような結婚の儀式。(マキューアン『贖罪[上]』pp.19-)
【ブライオニーは、従姉弟たちを子供部屋に集めて、上演の計画を説明しようとするが、双子のピエロとジャクスンは劇に出るのを嫌がる。二人の姉であるローラは、自分たちはこの家にお客にきたのだから文句を言わずに劇に出るようにと弟たちを叱る。】
[10]ブライオニーは、自分勝手に始めてしまった計画がとつぜん恥ずかしくなった。従姉弟たちが『アラベラの試練』に出たくないかもしれないなどとは考えてもみなかったのだ。[…]。とはいえ(と、ブライオニーは困難な思考をまとめようとした)、ここには何か作為がないだろうか? ローラは双子の弟たちを利用して、自分が抱いている敵意なり破壊的意図なりを表明しようとしているのではないだろうか? ローラよりふたつ年下であるという事実、その二年間にローラが蓄積した手練手管、それらを相手にしなければならぬ厄介さがブライオニーにも感じられ、今や彼女の劇は、みじめで気恥ずかしい代物[しろもの]に変わりつつあった。(マキューアン『贖罪[上]』pp.27-8)
【主役の座までちゃっかりローラに奪われ、演出に徹するしかなくなったブライオニーはすっかりふてくされる。結局劇の上演は中止になってしまう。】
【一方、ケンブリッジ大学の最終試験を終えて戻ったばかりのセシーリアは、自分がこれから何になるべきか迷っている。家を出て働くことも考えているが、まだ決心がつかない。彼女は、久しぶりにロンドンから帰ってくる兄のリーオンとその友人でチョコレート会社の経営者ポール・マーシャルを迎えるために、花瓶に花を生けようとしている。】
[11]幼なじみで大学が同窓のロビー・ターナーがハマナスの生垣の前にしゃがんで雑草を取っており、セシーリアはロビーと会話を始めたくなかった。少なくとも今は。風景庭園づくりは、大学を出てからロビーが夢中になった対象のうちで二番目に新しかった。最新のは医学部に行くとか行かぬとかいう計画だったが、文学の学位を取ったあとで医学部というのはいささか虚栄まじりのように思えた。それに厚かましい話でもあった、金を出すはめになるのはセシーリアの父親なのだから。(マキューアン『贖罪[上]』p.37)
【ブライオニーやセシーリアたちのタリス家は、ブライオニーの祖父の代で鍛冶屋から身を起こし、南京錠や掛け金の特許で財産を築いた「成り上がり」の家柄ではあるが、今では広大な邸宅を構えて「アッパー・ミドル・クラス」(上流中産階級)に属している。一方タリス家の掃除婦グレース・ターナーの息子であるロビーのほうは、使用人の息子として明らかに労働者階級に属していながら、屋敷の当主ジャック・タリスに気に入られ、主人一家の子弟と同等にアッパー・ミドル・クラスの教育を受ける機会を与えられた。階級の面から見て、ロビーは非常に特殊な位置にいる。】
[12]セシーリアとロビーは七つのときからの幼なじみなのに、今になって会話がぎこちなくなったのはセシーリアにとって不愉快だった。総じて向こうが悪いのだとセシーリアは感じていたが——一等学位【成績優秀者に与えられる学位】を取ったせいで頭がおかしくなったのだろうか?——自分のほうにも、出発を考える前に整理しておかねばならぬことがあるのは分かっていた。(マキューアン『贖罪[上]』pp.42-3)
[13]この人【ロビー】の眼が自分は好きなのだ、とセシーリアは考えた——オレンジとグリーンが混じりあわずに同居し、太陽のせいでその対比がいっそいう際立[きわだ]っている眼が。ロビーがとても背が高いこともセシーリアは好きだった。ひとりの男のなかで、知性と巨体が組み合わさっているのは興味深いことだった。(マキューアン『贖罪[上]』p.49)
[14]自分はもとの自分だったが、ロビーが変化したことは疑いもなかった。きわめて開けっぴろげに接し、すべてを与えてきたタリス家から、ロビーは距離をおこうとしているのだ。(マキューアン『贖罪[上]』p.53)
【ロビーは、使用人の息子でありながら主人の子どもたちと対当に扱われている自分の境遇に、屈折した感情を持つようになっている。そのために、本来お互いに好意を抱いているセシーリアとの関係もぎくしゃくしているのだった。】
【タリス家には、家宝とも言うべきマイセン磁器の花瓶があった。当主ジャック・タリスの弟で第一次世界大戦中に戦死したクレム・タリスが、戦時中にフランスの小さな町で住民たちを救った礼として町長から贈られたものである。】
[15]セシーリアが十代だったころ、父の友人でロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館に勤めていた人が花瓶を鑑定にやってきて、けっこうな品だと太鼓判を押したことがある。本物のマイセン磁器、偉大な工匠ヘロルトの作品であって、一七二六年に絵付けされたものだそうだ。[…]。タリス邸の美術品[…]のどれよりも高価な品という鑑定が出たが、ジャック・タリスは、弟を称[たた]えるためにも花瓶が実際に使われることを望んだ。(マキューアン『贖罪[上]』p.46)
【噴水の泉で花瓶の水を汲もうとするセシーリアに、ロビーは手を貸そうとするのだが、セシーリアはつい強情を張って自分で汲もうとし、花瓶の取り合いになってしまう。】
[16]セシーリアは花瓶を握りしめ、身をよじってそっぽを向こうとした。が、ロビーも頑固だった。乾いた枝が折れるような音がしたと思うと、花瓶の口の一部がロビーの手にもぎとられ、ふたつの三角形に割れて水に落ち、シーソーのように追いつ追われつしながらひらひらと底に沈んで互いから数センチの距離に落ちつき、光のゆらめきに輪郭をゆがめた。
セシーリアとロビーは、争う姿勢のまま凍りついた。(マキューアン『贖罪[上]』pp.54-5)
[17]【泉に潜って花瓶の破片を拾おうとしたロビーは】シャツのボタンを外しはじめた。何をするつもりなのか、即座にセシーリアも見て取った。もう我慢ならない。この男は、自分の家を訪ねてきて靴と靴下を脱いでみせるようなやつなのだ——よし、思い知るがいい。セシーリアはサンダルを蹴[け]り捨て、ブラウスのボタンを外して脱ぎ去り、スカートのホックを解いて両脚をもどかしく踏み出し、水盤の壁に歩み寄った。ロビーは手を腰に当てて、下着姿のセシーリアが壁を乗り越えて水に入るのを眺めていた。手助けを断り、事態をまるく収める道をすべて絶つことで、この男に罰を与えてやるのだ。予想外に冷えきった水にはっと息を呑[の]んだのも、ひとつの罰になった。セシーリアは息を止め、水に沈んで、髪の毛を水面に広がらせた。(マキューアン『贖罪[上]』p.56)
[18]二、三秒後、両手にひとつずつ磁器の破片を持ってセシーリアが浮かび上がったときには、ロビーも彼女が水から上がるのを手伝おうとするほど愚かではなかった。きゃしゃな色白のニンフは、筋肉隆々のトリトンよりもよほど効果的に水をしたたらせながら、破片を注意深く花瓶のそばに置いた。手早く服を身につけはじめ、濡れた腕を無理やりシルクの袖[そで]に通し、ブラウスのボタンはかけずに裾[すそ]をスカートに押しこんだ。サンダルを拾いあげて小脇[こわき]にかいこみ、破片をスカートのポケットに入れて花瓶を取り上げた。動作は荒々しく、ロビーと眼を合わせようとはしなかった。(マキューアン『贖罪[上]』pp.56-7)
[19]【ブライオニーは、子供部屋の全開した窓から外を眺めていて、偶然ロビーとセシーリアを見てしまう。】
手前に広がったタリス荘園[しょうえん]の草地は、きょうは乾ききって荒れた外見であり、サバンナのようにじりじりと照りつけられて、ぽつりぽつりと立った木々が濃く短い影を落とし、長く伸びた草にはライオンの毛皮を思わせる晩夏の黄色がすでに忍びこんでいる。さらに手前、障壁の内側にはバラ園が見え、なお近くにはトリトンの噴水があって、水盤の胸壁のそばに姉が立っており、姉と向かいあう形でロビー・ターナーがいた。脚を開き、頭をもたげて立っているロビーの様子にはどこか儀式を思わせるものがあった。(マキューアン『贖罪[上]』p.68)
[20]プロポーズでもしているのだろうか。だとしても、ブライオニーにとって不思議はなかった。自分でも、溺[おぼ]れかかった王女を貧しい木こりが救ってついには結婚するという話を書いたことがあるくらいだ。[…]。ロビー・ターナー、貧しい掃除婦の一人息子、父親さえ分からない男、ブライオニーの父に大学まで学費を出してもらい、風景庭園専門の庭師になりたがり、そして今は医学を学びたがっているこの青年が、大胆な野心をひっさげて、セシーリアの手を求めているのだ。完璧に首尾が一貫していた。このようにして境界が飛び越えられることこそが、日常のロマンスの本質なのだ。(マキューアン『贖罪[下]』pp.68-9)
【ブライオニーは、姉とロビーによって噴水の前で演じられる異様な無言劇に魅入られる。】
[21]姉がロビーに抵抗できないとは不思議なことだ。ロビーの強請によってセシーリアは服を脱いでいた、それもおそろしく速く。ブラウスを脱いだかと思うとスカートを地面に落とし、スカートから足を踏み出す姉の様子を、ロビーは待ちきれない様子で腰に手を当てて眺めていた。ロビーはセシーリアにいかなる神秘的な力を及ぼしているのだろうか。ゆすり? 脅し? ブライオニーは両手を顔にあてがい、窓から一歩下がった。眼を閉じて、姉が受けている屈辱を見ないようにしなければならない、という気がしたのだ。が、それは不可能であり、さらなる驚きが待ち受けていた。ブライオニーがほっとしたことに、セシーリアは下着をつけたままでいたが、彼女はその姿で水に歩み入り、腰まで水につかって、鼻をつまみ——そして見えなくなった。(マキューアン『贖罪[上]』p.69)
[22]姉やロビーより二階上にいる自分は、強い逆光にさえぎられて向こうから姿を見られないがゆえに、年齢を飛び越えて、大人たちの振る舞いを——自分がまだ何も知らぬ儀式としきたりを——目にしているのだ。そうだ、大人の世界ではこういうことが起きるのだ。姉の顔が水面を破って現れた瞬間——ああ、よかった!——その瞬間、すでに、ブライオニーは人生で初めてかすかに感じていたのである——もはやおとぎ話のお城や王女さまはありえないこと、あるのは「いま・ここ」の不可解さだけであること、自分が知っている普通の人々のあいだにも何らかの交渉が行なわれていること、ある人間が他の人間に対して権力をふるいうること、そしてまた、すべての事物を間違った形でとらえるのがきわめて容易であることを。(マキューアン『贖罪[上]』p.70)
[23]セシーリアは水盤から上がり、スカートを身につけ、濡[ぬ]れた肌に無理やりブラウスを広げていた。そしてとつぜん向きを変え、今までブライオニーの目に入っていなかった、花がささったままの花瓶を噴水の胸壁のかげから取り上げ、それを手にして邸[やしき]に向かった。ロビーとは言葉も交わさず、眼を向けることさえしなかった。(マキューアン『贖罪[上]』pp.70-1)
[24]【ブライオニーは、今見た光景を小説にしようと思いつく。】
子供部屋で従姉弟たちが戻ってくるのを待ちながらブライオニーが感じたのは、あの噴水のそばで起きたような場面を紙に書きつけ、自分と同じような隠れた観察者を登場させるのも今なら可能なはずだということだった。自分が今すぐ寝室に駆けこみ、マーブル模様のベークライト製万年筆を手に、罫線[けいせん]入りのまっさらな紙に向かうところが想像できた。(マキューアン『贖罪[上]』p.72)
[25]あの場面は、三度にわたって三つの視点【自分と姉とロビー】から描くことができるはずだ。ブライオニーが感じていたのは、自由を目の前にした人間の興奮、善と悪やヒーローと悪役の面倒なもつれあいから解放された人間の興奮だった。三人の誰も悪人ではなく、かといってとりたてて善人でもない。決まりをつける必要などないのだ。教訓の必要などないのだ。ただひたすら、自分の精神と同じく生き生きとした個々の人間精神が、他人の精神もやはり生きているという命題と取り組みあうさまを示せばいいのだ。(マキューアン『贖罪[上]』pp.72-3)
[26]人間を不幸にするのは邪悪さや陰謀だけではなく、錯誤や誤解が不幸を生む場合もあり、そして何よりも、他人も自分と同じくリアルであるという単純な事実を理解しそこねるからこそ人間の不幸は生まれるのだ。人々の個々の精神に分け入り、それらが同等の価値を持っていることを示せるのは物語だけなのだ。物語が持つべき教訓はその点に尽きるのだ。(マキューアン『贖罪[上]』p.73)
【この文章は、この時点でのブライオニーの意識を描いているというより、この小説の作者自身の信念を語っていると考えたほうがよさそうだ。なぜなら『贖罪』は、「錯誤や誤解が不幸を生む」ことについての小説であり、「他人も自分と同じくリアルである」ことに気づかず自分の勝手な思い込みで他人の人生を支配してしまった愚かな人間についての物語だからである。】
【兄のリーオンとその友人のポール・マーシャルが到着し、使用人の息子で自らも使用人のダニー・ハードマンが荷物を運んでくる。ダニーは階級的にはロビーと同じ立場である。セシーリアはダニーに少し不穏な雰囲気を感じる。】
[27]このところダニーは子供たちのそばをうろうろしていることが多かった。ローラに興味があるのかもしれない。ダニーは十六歳で、もはや少年とはいいかねた。かつての頬の丸みは消え、子供っぽかった唇も細長くなって無邪気な残忍さを帯びていた。(マキューアン『贖罪[上]』p.85)
【セシーリアはリーオンやポール・マーシャルと談笑する。ポールは、自分のチョコレート会社の製品について得々としゃべり続ける。】
[28]すべてが達成された今、アーミー・アモーというさらなるチャレンジが待ち受けている——「弾薬を渡せ[パス・ジ・アモー]!」というスローガンつきのカーキ色のチョコレートバーです。この計画の主眼は、ミスター・ヒトラーが面倒を起こしつづけるなら軍事費は増大しつづけるに違いないという点でしてね。このバーは軍の標準糧食に加えられる可能性さえあるんです。もしそれが実現して、しかも徴兵が実施された場合には、さらに五つの新工場が必要になる。(マキューアン『贖罪[上]』p.87)
[29]この長広舌の最初の数分間、セシーリアはマーシャルを眺めつつ、胃のあたりが空っぽになるような、いっそ楽しいと言った方がいいような感覚を味わった。ハンサムというところまでほんの一歩、とんでもない金持で、底知れぬほどの馬鹿[ばか]であるこんな男と結婚するのは、なんと楽しい自己破壊であることか——ほとんどエロティックなまでの。この男は、大きな顔の子供たちを自分につぎつぎ産ませるだろう。揃[そろ]いも揃って声が大きく、頭が空っぽで、鉄砲やサッカーや飛行機に夢中になるような男の子たちを。(マキューアン『贖罪[上]』p.88)
【実業家ポール・マーシャルの描かれ方には、E・M・フォースターの『ハワーズ・エンド』における、実業家の息子チャールズ・ウィルコックスの描かれ方に通じるものがある。これらの人物は作者から軽蔑されているのだ。】
[30]【ポール・マーシャルは、子供部屋にいたローラと双子に出会う。】
きしむ廊下を通って子供部屋に入ると、三人の子供がいた。見ると少女は若い女になりかけており、傲然[ごうぜん]と落ち着きはらった様子は、腕輪や髪の房やマニキュアを塗った爪やベルベットのチョーカーと相まって、ラファエル前派の絵に出てくる王女にそっくりだった。
そのローラに、マーシャルは言った。「すごく服の趣味がいいね。そのパンツスーツ、とても似合ってますよ」
ローラはきまり悪いというよりもむしろ嬉[うれ]しくて、細い尻[しり]の周りでふくらんでいる生地を指でそっと撫[な]でた。「リバティ百貨店で買ったんです、母に連れられてロンドンに劇を見にいったとき」
「そう、劇は何でした?」
「『ハムレット』」実際に見たのはロンドン・パヴィリオンでやっていたマチネーの茶番劇で、それを見ている途中、ローラはストロベリー・ドリンクをドレスにひっかけてしまい、たまたまリバティ百貨店が筋向いにあったのだった。(『贖罪[上]』p.105)
【ロビーはセシーリアに謝って仲直りするために、タイプライターで手紙を書こうとするのだが、泉から上がってきたときのセシーリアの姿がちらついてしまうせいで、謝罪の手紙の最後についつい卑猥な文章を打ってしまう。】
[31]「夢の中でぼくは君のおまんこ[cunt]にキスしているよ、君の可愛[かわい]らしい濡[ぬ]れたおまんこ[cunt]に。ぼくは君とセックスすることばかり考えている」
ああ、台なしだ。手紙は台なしになってしまった。ロビーは紙をタイプライターから引っぱり出してかたわらに置き、【まともな内容のほうの】文面を手書きにして、こうした親密な雰囲気こそ今の場合にふさわしいはずだと考えた。(マキューアン『贖罪[上]』pp.146)
【タリス邸でのディナーに招待されたロビーは、一張羅のスーツを着て、母と暮らしているバンガローから屋敷に歩いていく。途中でブライオニーに出会い、セシーリアに手紙を渡してくれと頼む。ブライオニーが手紙の入った封筒を持って走り去った後で、ロビーはさっき慌てて家を出るとき自分が封筒に入れたのが、手書きのまともな手紙ではなく、タイプ打ちした卑猥な手紙のほうだったのに気づいて愕然とする。】
【屋敷の中で、ブライオニーはセシーリアのそばを駆け抜けざまに、封筒から出された手紙だけを手渡す。】
[32]母親が自分を見つめているのを意識したセシーリアは、面白半分の好奇心といった表情を作って紙を開いた。あっぱれにも表情を維持したまま、タイプ打ちの小さな段落を見つめ、一目ですべてを飲みこんだ——この意味単位が持っている強烈な力は、たったひとつの言葉の繰りかえしから来ているのだ。[…]。
しばらくの間、ひとつの単純なフレーズだけがセシーリアの頭を駆けめぐっていた。そうよ、そうだったのよ。どうして気づかなかったのだろう? これですべてに説明がついた。きょう一日のことにも、ここ数週間のことにも、自分の子供時代にも。これまでの人生すべてに。すべてが明らかになった。ドレス選びでさんざん迷ったのも、花瓶を奪いあったのも、あらゆるものが今までと異なって見えたのも、自分が邸を去りがたいのも、ほかに何の原因があろうか?(マキューアン『贖罪[上]』p.190)
【ロビーへの愛に目覚めたセシーリアは、手紙が封筒に入っていなかったことに気づき、ブライオニーが手紙を読んだことを確信する。】
【もちろんブライオニーはロビーの卑猥な手紙をセシーリアに渡す前に盗み読んで、衝撃を受けていた。そこへローラがやってきて、さっき家に帰りたがって暴れる双子にやられたと言い、腕の付け根や手首のひっかき傷を見せる。どちらにも子供がやったにしては不自然なほど強くつかんだ跡があった。怪我をしたローラに同情して気を許してしまったブライオニーは、ロビーがセシーリアに送った卑猥な手紙のことをローラに相談する。】
[33]こんどはローラがブライオニーの肩に慰めの手を置く番だった。
「恐ろしかったでしょう。あの人は偏執狂ね」
偏執狂。この言葉には高級な響きがあり、医学的な診断の重みがあった。自分がずっと昔から知っているあの男は偏執狂だったのか。(マキューアン『贖罪[上]』p.204)
【偏執狂が家の中にいるという緊急事態にどう対処すればいいのか悩んでいたブライオニーは、図書室でかすかな物音がしたのを聞いてドアを開ける。】
[34]ドアを押し開けて部屋に踏みこんだ当初は、まったく何も見えなかった。[…]二、三歩進むと、いちばん遠い片隅で暗い影になったふたりの姿が見えた。ふたりは静止していたが、ブライオニーの判断では、自分が踏みこんだために、ひとつの襲撃あるいはつかみ合いの格闘が中止されたらしかった。[…]。誰ひとり動くものはなかった。ブライオニーはロビーの肩ごしに姉のおびえた眼を見つめた。ロビーは侵入者を見つめ返すためにこちらを向いていたが、セシーリアを放しはしなかった。(マキューアン『贖罪[上]』p.211)
【その20分後、タリス家のディナーの席で、ロビーは図書室で起こった事件を回想している。二人は手紙のことについて、人目を避けて暗闇の図書館で語り合っていた。】
[35]「あれは間違いだったんだ」
「間違い?」[…]。
「ぼくが送るつもりのほうじゃなかったんだ」
「ええ」
「違うほうを封筒に入れてしまった」
「そうね」[…]。
セシーリアが言った。「ブライオニーがあれを読んだのよ」
「なんてことだ。すまない[…]。馬鹿なことをしてしまった。君に読ませるつもりじゃなかたんだ。誰にも」(マキューアン『贖罪[上]』pp.225-6)
[36]「ねえ、どうしてここまで自分を知らずにいられたのかしら? どうしてここまで鈍感でいられたのかしら?」不快な思いにとらわれたらしく、セシーリアはびくりと身を震わせた。「わたしが何を言ってるか、あなたも分かってるはずよ。分かってると言って」[…]。
ロビーはセシーリアに近づいた。「分かってる。よく分かってるよ。でもどうして泣くの? 何か別のことがあるの?」
何かとてつもない障害の存在をセシーリアは口にするのではないか、と感じたロビーがいま言おうとしたのは、もちろん「誰か別の人間」ということだったが、セシーリアにはそれが理解できなかった。どう答えてよいか分からず、ひどく動揺した眼でロビーを見た。自分はどうして泣いているのか? これほど強い感情が、これほどさまざまな感情が自分を飲みこんでいるというのに、説明のしようがあろうか?(マキューアン『贖罪[上]』pp.229-30)
[37]ロビーが両手をセシーリアの肩に置くと、剥きだしの肌の感触は冴[さ]えざえとしていた。互いの顔が近づく途中も、セシーリアが身を振りほどいたり、映画のように平手で自分の頬桁[ほおげた]を張りとばしたりしないか、ロビーは確信が持てなかった。セシーリアの唇は口紅と塩の味がした。ふたりは一瞬離れ、ロビーが腕をセシーリアの身体に回して、ふたりは前よりも確信のこもったキスをした。思い切って舌先を触れあわせたとき、セシーリアは溜息[ためいき]のような下降する音を立てたが、あとからロビーが考えてみると、これこそが変化のしるしだった。その瞬間までは、慣れ親しんだ顔が自分の顔のすぐ近くにあることにどうしても一抹の滑稽[こっけい]感がぬぐえなかった。子供時代の自分たちが不思議そうにこっちを見つめている気がしたのだ。けれども、舌という生き生きとして滑りやすい筋肉の触れ合い、濡[ぬ]れた肉のからみあい、そのことがセシーリアに発させた奇妙な音、それらによって状況は変わった。この音はロビーの体内に入りこんで身体を縦に刺し貫くようで、肉体のすべてが開いたロビーは、自己の殻を抜け出てセシーリアにキスを浴びせられるようになった。(マキューアン『贖罪[上]』pp.230-1)
【二人はそのまま図書室の中で結ばれる。】
[38]「だれかきたわ」
ロビーは目を開けた。図書室。邸[やしき]のなか、完全な静寂。[…]。セシーリアの間違いだ、間違いであってくれとロビーは必死に願ったし、じじつ彼女の間違いのようだった。ロビーがセシーリアに向きなおってそう言おうとしたとき、セシーリアがロビーの腕にかけた手に力をこめ、ロビーはふたたび振りかえった。ゆっくり視界に入ってきたブライオニーがデスクのそばに立ちどまり、そしてふたりに気づいた。腑抜[ふぬ]けたように立ちつくしてふたりを見つめたブライオニーは、西部劇の決闘シーンのガンマンのように腕を両脇[わき]にだらりと垂らしていた。(マキューアン『贖罪[上]』p.237)
[39]ブライオニーだからというわけではなく、誰が入ってきたとしてもロビーはその人間を憎んだはずだった。[…]。何が起こったのか、ロビーにもはっきり想像できた——ブライオニーは封筒を開けて手紙を読み、その内容に嫌悪[けんお]を覚え、自分なりにどことなく裏切られた気になったのだ。そして姉を探しにきて——おそらくは姉を守るなり警告するなりしようという思いに興奮しつつ——閉ざされたドアの向こうの物音を聞きつけたのだ。底知れぬ無知と愚かな空想と少女らしい潔癖に突き動かされて、ふたりの行為を止[や]めさせに入ってきたのだ。そんな必要はほとんどなかった——ふたりは自分たちで身体[からだ]を離し、どちらも鹿爪[しかつめ]らしく服を整えはじめた。ことは終わった。(マキューアン『贖罪[上]』p.238)
【家に帰りたがっていた双子が、ディナーの最中にこっそり置き手紙をしてタリス邸を抜け出してしまい、一家総出で懐中電灯を手に双子を探すことになる。】
【屋敷に残ったブライオニーたちの母エミリー・タリスは、典型的なアッパー・ミドル・クラスの人間として、ロビーという厄介な存在に思いをはせる。彼女は夫のジャックがロビーを自分の子と対当に扱うことに反対していた。】
[40]エミリーもロビーのことは好きだったし、彼が秀才に育ってくれたのはグレイス・ターナー【ロビーの母】のためにも喜ばしかった。けれども結局のところ、ロビーはジャックの趣味であり、ジャックが長年のあいだ追い求めてきたひとつの平等原則の生ける証拠に他ならなかった。ロビーのことを(ごくたまにだが)話すときのジャックには、どこか独善的な正当化の雰囲気があった。[…]。ジャックがロビーの教育費を払うと言い出したときに自分が反対したのは、要らざるお節介の気味を感じたためであり、リーオンや娘たちに対して不公平なやり方だと思えたためだった。(マキューアン『贖罪[上]』pp.259-60)
【エミリーが双子の失踪事件を電話で夫に報告しているとき、家族が戻ってくる。全員が重苦しい表情をしている。】
[41]背後の物音にエミリーは振りかえった。リーオンが正面のドアから入ってきた。すぐあとに続いたセシーリアは、困惑で口がきけないような表情だった。それからブライオニーが、従姉[いとこ]の肩に腕を回して入ってきた。ローラの顔は粘土の仮面のように真っ白くこわばっており、そこの何の表情も読み取れなかったエミリーは、最悪の事態が生じたことを瞬時に理解した。(マキューアン『贖罪[上]』p.264)
【時間が30分前に戻り、ローラが暴行を受けた事件がブライオニーの視点から語られる。】
[42]【ブライオニーは一人きりで闇に包まれた敷地内を歩き、双子を探している。】
橋の欄干に触れようと手を伸ばしたとたん、アヒルが甲高い不愉快な声を立て、ブライオニーを飛び上がらせた。気息まじりの下降調の声はほとんど人間に近かった。[…]。
[…]ブライオニーが即座に立ちどまらなかったのは、これは低木であって自分が見ているものは暗さと遠近感の錯覚だと信じこんでいたからである。一、二秒後、二歩ばかり進んだとき、そうでないことが分かった。ブライオニーは足を止めた。垂直な固まりは人影であり、その人間はブライオニーから後じさりして木々の暗がりに溶けこもうとしていた。地面に残った、より暗い部分もまた人間であり、ふたたび形を変えると、座りなおしてこちらの名前を呼んだ。
「ブライオニー?」
ローラの声には絶望がこもっており——アヒルの声と思えたのはこれだったのだ——一瞬のうちに、ブライオニーはすべてを理解した。嫌悪[けんお]と恐怖で吐き気がした。大きなほうの人影がふたたび現れ、空き地の端を回って、ブライオニーが下りてきたばかりの土手に向かった。ローラの介抱をしなければならないのはブライオニーも分かっていたが、斜面を軽々と上がりきって車道へと消えてゆく男の姿を眺めずにはいられなかった。(マキューアン『贖罪[上]』pp.280-2)
[43]ローラは前かがみに座り、腕を胸で交差させて、自分を抱きしめるような姿勢でかすかに身体を揺らしていた。声はかすれて歪[ゆが]んでおり、喉[のど]が気泡か何かにふさがれているような、粘液に邪魔されているような感じだった。ローラは咳[せき]ばらいをするほかなかった。そして曖昧[あいまい]に言った。「ごめんなさい、わたしその、ごめんなさい……」
「誰だったの?」とブライオニーはささやき、相手が返事するまえに、あたうかぎり平静な声でつけ加えた。「わたし見たわ。あの人を見たのよ」
ローラはおずおずと答えた。「ええ」[…]。
ブライオニーは言った。「あの人だったんでしょ?」
従姉のうなずきはゆっくりとして内面的で、ブライオニーの目に映るというより胸の肌に感じられるものだった。同意のうなずきでなく、疲労のための動作だったのだろうか。
何秒もたったあと、ローラはさっきと同じく弱々しい従順な声で言った。「ええ。あの人よ」(マキューアン『贖罪[上]』p.282-3)
[44]すべては筋が通っているではないか。発見したのは他ならぬ自分なのだ。これは自分の物語、自分のまわりに記されつつある物語なのだ。
「ロビーよね。そうでしょ?」
あの偏執狂。ブライオニーはこの言葉を口に出したかった。
ローラは何も言わず、動きもしなかった。
ブライオニーはもう一度、今回はいかなる疑問もはさまずに言った。自分は事実を述べているのだ。「あれはロビーよ」(マキューアン『贖罪[上]』p.284)
[45]警部のおだやかな視線にさらされたブライオニーの喉[のど]はつまり、声はゆがみだした。自分は何の罪を犯したわけでもないのに、この警部が自分を抱きしめ、慰め、そして許してくれればという気分になった。けれども警部はじっとブライオニーを見つめ、耳を傾けるだけだった。あの人です。わたし見たんです。ブライオニーの心が感じ口が語っている真実をさらに裏づけるかのように涙が流れだし、母の手がうなじを撫[な]でると、彼女は完全に自制を失って居間へと連れてゆかれた。(マキューアン『贖罪[上]』p.298)
[46]【ブライオニーはロビーが偏執狂であると証明するために、勝手に姉の部屋に入って手紙を探す。】
ブライオニーは、自分は善をなしつつあるのだ、自分は善なのだという感覚に駆り立てられつつ、間違いなく人びとの賞讃[しょうさん]を自分に集めるであろう意外な品物を持ち帰らんがために、階段を二段ずつ駆け上がっていった。[…]。ブライオニーは三階の廊下をセシーリアの部屋めざして走った。なんというむさくるしい無秩序のなかで姉は暮らしているのだろう![…]。まったくの話、彼女には絶望的にたよりないところがあった。階下[かいか]で姉が見せたきつい眼つきは怖かったが、年下の少女は別の引き出しを開けながら、これは正しいのだ、姉のためにやっているのだ、自分は姉に代わって明晰[めいせき]に思考しつつあるのだと考えつづけた。(マキューアン『贖罪[上]』pp.302-3)
【ブライオニーはついに手紙を発見し、それを警官に渡す。警官たちはそれを回し読みし、リーオンに渡す。母のエミリーもその手紙を読み始める。事態に気づいたセシーリアは血相を変えて走り寄り、手紙を取り返そうとする。】
[47]「わたしのものよ」とセシーリアは叫んだ。「触らないでちょうだい!」
エミリーは手紙から目を上げさえせず、時間をかけて何度か読みかえした。それが済んでから、娘の煮えたぎる怒りを、より冷ややかな怒りで受けとめた。
「あなたのようにご立派な教育を受けた娘さんなら、これをわたしに見せるのが当然だと思ったはずです。あなたがそうしていたら、わたしたちも前もって手を打つことができたし、あなたの従妹もあんな悪夢を見なくてすんだんですよ」(マキューアン『贖罪[上]』pp.305-6)
[48]ロビーが罪を被[かぶ]せられたのは、きっかけこそブライオニーが作っているが、使用人の息子でありながらケンブリッジ大に送られ、主人の子供よりも優秀な成績を収めた彼が、周囲から暗黙の嫉妬[しっと]と反感を受けていたためではないか。(マキューアン『贖罪[下]』p.319、武田将明「解説」より)
[49]すべてはここで終わるべきだったのだ——夏の夜を中心として滑らかに連続するこの一日は、警察車が私道に消えてゆくとともに完結すべきだったのだ。けれども、最後にひとつの対決が残されていた。車は二十メートルも行かないうちにスピードをゆるめた。ブライオニーが気づいていなかった人影が私道の真ん中をこちらに近づきつつあり、道をゆずる様子はなかった。だいぶ背の低い女で、歩くと肩が揺れ、花柄のプリントドレスを着ており、手には杖[つえ]のようなものを持っているが、よく見ると、それはガチョウの頭の柄[え]がついた男物の傘だった。車が止まってクラクションを鳴らすと、女はラジエーターグリルの前に立ちはだかった。ロビーの母親のグレイス・ターナーだった。グレイスは傘を振り上げて叫んだ。(マキューアン『贖罪[上]』p.317)
[50]半ば抱えられるようにして私道の路肩へ押しやられてゆきながらグレイスはただひとつの言葉を叫びはじめたが、とてつもない大声のせいで、ブライオニーの寝室にもそれは聞こえた。
「嘘[うそ]つき! 嘘つき! 嘘つき!」と、ミセズ・ターナーはわめいた。(マキューアン『贖罪[上]』p.318)
(『つぐない』[後半]に続く)
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【引用した文献】
●イアン・マキューアン作、小山太一訳『贖罪[しょくざい]』上下巻(新潮文庫、2008年)[原著2001年]
●千野帽子『世界小娘文學全集——文藝ガーリッシュ 舶来篇』(河出書房新社、2009年)
(『つぐない』[後半]はこちら)
(c) Masaru Uchida
2009
ファイル公開日: 2009-4-22
[いつか晴れた日に(分別と多感)] [デビッド・コパーフィールド] [ハワーズ・エンド] [ダロウェイ夫人] [つぐない(贖罪)]
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