[いつか晴れた日に(分別と多感)] [デビッド・コパーフィールド] [ハワーズ・エンド] [ダロウェイ夫人] [つぐない(贖罪)]
放送大学岐阜学習センター 平成21年度第1学期 面接授業 内田勝(岐阜大学地域科学部)
映画で読むイギリス小説 第3部 (2009年04月18日 13:35-15:00)
ディケンズ原作『デビッド・コパーフィールド』[後半]([前半]はこちら)
*参照したテレビドラマ:英国放送協会(BBC)制作『デビッド・コパーフィールド』(1999年)
引用文中の[…]は省略箇所、[ ]内の文字は原文のルビ、【 】内は私の補足です。
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[1]【『デイヴィッド・コパフィールド』という】作品の登場人物は、主人公を中心に互いに密接な連関を持つ。たとえば名家の出を誇る魅力的な学友スティアフォースは、デイヴィッドの初恋の相手エムリーを誘惑し、ペゴティー氏の家庭を破壊する。[…]スティアフォースはデイヴィッドの理想の英雄でもあれば、上昇志向や階級意識を反映する者でもあり、隠された欲望の体現者でもある。一方、アグネスをめぐる恋敵ユライア・ヒープは、聖書のバテシバをめぐるダビデとウリアの物語の転倒の構図から、主人公の転落への恐怖とその反動としての野心、そして性的欲望を体現する分身の役割が与えられている[…]。(新野「『デイヴィッド・コパフィールド』」p.251)
【少年時代のデイヴィッドが恋したエミリーとアグネスは、それぞれデイヴィッドの分身によって誘惑される。】
【青年時代のデイヴィッドにとって、一方のスティアフォースは、首尾良く「成り上がり」を遂げた後の自分自身の理想像であり、他方のユライア・ヒープは「成り上がり」の欲望に取り憑かれた自分自身の最も醜い姿の反映である。】
【なお、旧約聖書のサムエル記下に登場するウリア(Uriah、英語読みはユライア)はダビデ王(David、英語読みはデイヴィッド)に仕える軍人で、戦地に行っている間に妻のバテシバをダビデ王に寝取られ、王の計略で戦死する。バテシバをめぐるウリアとダビデの対立は、アグネスをめぐるユライアとデイヴィッドの対立に反映されている。】
[2]デイヴィッドが露骨な嫌悪感を表明するこの救貧院上がりの事務員が、語り手本人に似ていることは多くの批評が指摘してきた[…]。どちらも強い上昇志向と、その実現に不可欠の克己心を併せもち、どちらも雇い主の娘を手に入れようとする。ユーライアのアグネスに対する邪恋は砕かれるが、彼ら二人とデイヴィッドの三人は、デイヴィッド、エミリー、スティアフォースのそれに似た三角形を構成している。(村山「男と男のあいだ」p.61)
【デイヴィッドは、エミリーという同じ女を欲望することでスティアフォースとの友情もしくは愛の絆を深めている。同様に彼は、アグネスという同じ女を欲望することでユライアとの愛の絆を深めてもいるのだ。】
[3]この【デイヴィッドのユライアに対する】嫌悪感が魅惑と紙一重であることは、眠っているユーライアを見つめるデイヴィッドのことばに耳を傾ければわかる。「現実の彼のほうがわたしの乱れた夢想のなかの彼よりもすさまじく、その後わたしは反感を感じながら魅入られて、ほとんど半時間ごとに出たり入ったりして彼を見ずにはいられなかった」【第25章、岩波文庫版第3巻 pp.55-6】。(村山「男と男のあいだ」p.62)
【ところで、この小説を語っている時点でのデイヴィッドは、若い頃とは違って、スティアフォースの放埒な生き方を全面的に肯定しているわけではない。欲望のままに行動する「多感」なスティアフォースには、「分別」あるいはマードストン的な「厳格な規律」を与えてくれる父親が必要だと、スティアフォース自身に告白させている。】
[4]【ある夜、スティアフォースがペゴティー氏の船の家で、物思いに沈んでいる。】
「で、おれはここにじっと坐ってさ」部屋をぐるりと見渡しながら、スティアフォースは言った。「ほら、ここにやってきた晩、あんなに大喜びしていた人たちだって——今のうら寂しい雰囲気から見ると——ひょっとして、散り散りになるか、死んじまうか、想像もつかない何かひどい目に遭うんじゃなかろうかって考えてたのさ。デイヴィッド、この二十年間、きちんと物が分かった父親というものが、こんなおれにもいてくれたら、と心底思うよ」
「ねえ、スティアフォースさん、いったいどうしちゃったんです」
「もっとちゃんと導いてくれる人間がいたら、と心からそう思うよ」スティアフォースは大声をあげた。「もっとちゃんと自分を正しい方向へ導くってことができてたら、と本心から思うよ」。その態度が思いつめた失意のどん底といった態[てい]だったのに、ぼくはびっくり仰天した。(ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド[2]』p.356)
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【そして今、デイヴィッド本人は、どこか自分の母親に似て子どもっぽいドーラに盲目的な愛情を注ぐことになる。】
[5]スペンロー氏邸に招かれ、氏の娘ドーラを一目みた瞬間、デイヴィッドはその愛らしさに目が眩み、真っ逆様に恋の淵へ一一。(間「ディケンズ:David Copperfield:概要」)
【ドーラのモデルになったのは、若き日のディケンズが恋した裕福な銀行家の令嬢、マライア・ビードネルとされる。】
[6]彼は17歳のころ、銀行家の娘で一つ年上のマライア・ビードネルに恋したことがあったが、当然のことながら身分の釣り合わぬこの思いが叶うはずはない。(小池「ディケンズの生涯」p.24)
[7]ディケンズはマライアに熱烈な恋をした。ほぼ4年間というもの、あまりに彼女のことを思いつめたため、「ほかのことは何一つ考えなかった」とのちに語っている。始めのうち、マライアはディケンズの関心を歓迎した。しかし、求婚者はほかにもいたし、彼女が求婚者たちを対抗させて面白がっているのは明らかだった。いずれにせよ、彼女の両親が、若い「ディキン氏」【ディケンズのこと】[…]や浪費家の彼の父を認めてくれるはずもなかった。[…]。そして、「薄情な無頓着さを何度も見せ付けられて」苦しみ、幾晩も眠れないままに、恋人の家の周りを行ったり来たり、失意のうちにさまよったあげく、ついにディケンズはマライアとの交際に終止符を打つ。21歳の誕生日の直後のことだった。(ジェイムズ『図説 チャールズ・ディケンズ』p.27)
【マライアはディケンズに冷たかったが、ドーラはデイヴィッドに優しい。作者ディケンズは自分がかつて直面した厳しい現実を改竄[かいざん]して、ロマンチックな恋物語を作り上げたのだ。】
[8]温室では綺麗なゼラニウムが所狭しと咲き乱れていた。ぼくらはその前あたりをぶらぶらしたのだが、ドーラはしょっちゅう足を止めては、ほら、この花、あの花、綺麗ねえ、とうっとりしていたから、ぼくも立ち止まって、同じ花に、綺麗ですねえ、とうっとりしてみせた。すると、ドーラはニッコリ笑って、子供っぽい感じで犬を抱き上げ、花の香りを嗅がせてやった。[…]。今でもゼラニウムの葉のにおいを嗅ぐだけで、[…]青いリボンの付いた麦藁帽子とカールした豊かな髪、それから、ほっそりとした両腕に抱きかかえられ、色鮮やかな葉に縁どられてずらりと並んだ花々に顔をすり寄せる黒い小犬、などが目に浮かんでくるのだった。(ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド[3]』pp.84-5)
[9]あれをどう済ませたのか、自分でも分からない。ぼくは、あっという間に片づけてしまった。ぼくはジップ【ドーラの小犬】を押しのけて、えいとばかりにドーラを両腕に抱き締めた。ぼくは淀みなくしゃべり続け、一言もつっかえることはなかった。あなたのことが好きで好きでたまらないんです、とぼくは言った。あなたがいなきゃ、ぼくは死にます、とも言った。あなたを女神と崇[あが]め、大切な宝と慈しみますから、とぼくは言った。[…]。ドーラとぼくは婚約した。(ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド[3]』pp.314-5)
【厳しい現実を改竄してロマンチックな物語に変えるのは、作者のみならずデイヴィッド少年の得意技でもあった。】
[10]【マードストン=グリンビー商会で働かされていた少年時代のデイヴィッドの日常。】
一ペニー【仮に1ポンド=1万円とすると約42円】のパン一個と一ペニー分の牛乳というぼくだけの朝食は自分で準備した。さらに晩に帰宅したとき、夜食用にパンをもう一個とわずかばかりのチーズとを、ぼく専用の食器入れのぼく専用の棚にしまっておいた。こうすれば、週給の六シリングか七シリング【3,000〜3,500円】をおおかた使い果たしてしまうことになるのは十分承知していた。(ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド[1]』p.401)
[11]【今は裕福な人気作家となったデイヴィッドが、貧しい少年時代を過ごした街を歩く。】
かつての懐かしい界隈[かいわい]を踏みしめると、一人の無垢でロマンチストの少年【昔のデイヴィッド自身】がぼくの前を歩いていて、こんな奇天烈[きてれつ]な体験やさもしい事柄から独自の想像の世界を生み出しているのを見て、思わず慈しみを覚えても不思議はない。(ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド[1]』p.423)
[12]【上の引用箇所において、】自己の本質を「ロマンティック」と定義するデイヴィッドの言葉は、さらに、彼の想像力の特殊なあり方をも明らかにするだろう。つまりそれ【彼の想像力が作り出すもの】は、[…]醜悪な「現実」に対抗し、それを緩和する、現実離れのした空想の世界なのである。(新野『小説の迷宮』p.118)
[13]ドーラの愛情を得て秘密の婚約を結び、雲の上を歩む思いも束の間、悲報が相次いで彼を襲う一一。ひとつはスティアフォースとエミリーの駆け落ち、もうひとつは大伯母の全財産が投資の失敗で突然消えたこと。(間「ディケンズ:David Copperfield:概要」)
[14]【駆け落ちの直前、スティアフォースがデイヴィッドに語る。】
「なあ、デイジー坊や【デイヴィッドのこと】、おれたちがどうしても別れ別れにならなきゃならない羽目になっても、一番いい時のおれのこと、思い出してくれよな。ほら、約束だぜ。今後、別れるような事態になっても、一番いい時のおれのことを思い出すんだぜ」
「スティアフォースさんにいい時とか、悪い時とか」ぼくは言った。「そんなものありませんよ。いつだって、同じようにかけがえのない方で、ぼくの心の片隅にずっと棲[す]み続けるに決まってますよ」[…]。
——もう二度とないんだなあ、スティアフォース、ああ、情けないよ、愛と友情にあふれた、あのなよやかな手に触れるってことは。もう、二度と、二度と、ないんだなあ。(ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド[3]』pp.181-3)
【語り手デイヴィッドは、スティアフォースがすでに死んでいることをほのめかす。】
[15]【エミリーが婚約者ハムに宛てた手紙の一部。スティアフォースの妻として玉の輿に乗れると信じている。】
「ちゃんと奥さま[レディ]として里帰りするのでなければ、決して戻ってはまいりません。この手紙をご覧になるのは、時間がずっと経った明日の夜のことでしょう。[…]。ああ、愛情深く、思いやりの限りを、こんなあたしにくださったことなど、どうか忘れてください——結婚することになっていたことなど、どうか忘れてください——ですから、あたしなんか、子供の頃に死んでしまって、もうどこかのお墓にでも入っているんだって、考えるようにしてくださいね」(ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド[3]』pp.222-3)
【駆け落ちしたスティアフォースとエミリーは、フランス、スイス、イタリアを転々とするが、二人の間には次第に口論が目立つようになる。】
[16]【スティアフォースの従者がデイヴィッドに語る。】
「際限のない言葉のやりとりやなじり合いがあって、とうとうジェイムズさま【スティアフォース】はある朝、うちの別荘のございますナポリ近郊を[…]出て行かれ、その際には、一日二日のうちに戻るから、と言い逃れてのことでございました。が、実のところ、この私にあとは一切まかせるから、みんなの幸せのために[…]出ていったことを打ち明けてやってくれ、とのことでございました」(ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド[4]』p.321)
【スティアフォースはエミリーを従者に妻として与えると言い残して逃げてしまう。傷ついたエミリーは、ナポリの別荘を抜け出して行方をくらませる。】
[17]【スティアフォース家の居候で、彼の幼なじみであるミス・ダートルが、彼の近況を語る。】
「あの男【従者】が耳にしたところによると、今頃はあの男のご主人さまはスペインの沿岸を航行していて、これが済んだら、今度は遠洋で飽きるまで道楽の船乗り家業をご堪能なんですって」(ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド[4]』p.329)
[18]【エミリーとスティアフォースの駆け落ち、および二人の自滅が、デイヴィッドを心理的に大人にした。】
初恋の相手が模倣すべき理想自我に誘惑されて捨てられ、つまり彼の異性愛の対象と同性愛の対象が一挙に排除されることによって、デイヴィッド本人は生き延びる。(村山「男と男のあいだ」p.58)
【同時にベッツィ伯母さんの経済的破綻によって、デイヴィッドは経済的にも自立せざるを得なくなる。】
[19]「ベッツィ【自分のこと】は[…]顧問弁護士【ウィックフィールド氏】の助言に従って、土地を担保に投資をやったのよ。で、これがうまくいって、[…]自分で投資をやってみようなどと浅はかなことを思いついたの。そうしたら山がはずれちゃって。[…]。外国への投機でね。それがまた、ふたを開けてみたらものすごくひどい投機だったのよ。最初は鉱山関係で損をして、[…]今度は金融関係で損をしちゃったの。[…]。ともかく跡形もないほどの大暴落で、六ペンスも返せないだろうし、実際に返せっこないの」(ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド[4]』pp.372-4)
[20]ユライアの計画着々と進んで、彼が【ウィックフィールド法律事務所の】共同経営者になった旨も報じられる。この難局に当たってデイヴィッドは奮起一番、大伯母の経済的危機の一助にもと自立の生活を目指し、旧師ストロング博士の辞書編纂を手伝う傍ら、議会討論の報道記者たるべく速記の独習を始める。(間「ディケンズ:David Copperfield:概要」)
【生活の必要に迫られたデイヴィッドは、義父マードストンが重んじた「厳格な規律」を苦労して身に付けてゆく。】
[21]ぼくがどんなに死に物狂いの努力をして、速記法を勉強したかということ、そしてまた、めっきり上達したことなどを書いたりしたら[…]【この物語の中では】やっぱり筋違いな感じがする。[…]この時期、ぼくが粘り強く頑張ったこととか、[…]自分の性格の中でも強いところだとは感じている弛[たゆ]みない永続的な活動力のこととかは、もうすでに書いてしまったことだから、いま何か付け加えるとすれば、昔を振り返ってみて気づくのは、それがぼくの成功の源になっていたんだということくらいだろう。(ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド[4]』p.162)
[22]時間厳守とか、規律、勤勉とかいった習慣がぼくになかったら、また、たとえ次から次へといろんなことがあわただしく起きても、[…]一時[いちどき]には一つのことだけしか集中しないという決意がなかったら、ぼくのやり遂げたことだって、到底できやしなかっただろうという気がする。[…]。ぼくが言わんとするのは、つまり、人生において、このぼくがやろうとしたことは全部、それこそ身も心も打ち込んできちんとやろうとしたってこと、(ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド[4]』pp.162-3)
[23]【ドーラの父スペンロー氏は裕福に見えたが、実は身の程を超えた贅沢を維持するために借金まみれだった。】スペンロー氏の不慮の死で、ドーラが無一文で世に残されたことを知り、デイヴィッドは一段と奮い立って速記習得に心血を注ぐ。悪夢の苦闘を経て議会の報道記者の地位を得、ドーラと念願の新家庭を持つに至るが一一。早々に彼女の家政能力欠如が明らかになり、召使には嘗められっぱなしで家計は目茶々々、自ら「幼な妻」を名乗って甘えるだけの恋女房に、デイヴィッドは厳しい人生の伴侶として頼りなさを覚える。胸には苦い後悔と不安と【が】奥深く潜むのに気づく。(間「ディケンズ:David Copperfield:概要」)
[24]【デイヴィッド、作家となる。】
【速記術を活かした議会報道記者とは】別の職業でも、ぼくは世に出た。恐れおののきつつ、物書きをやり出した。こっそりと、ちょっとした文章を書いて、雑誌に投稿してみたら、うまいことその雑誌に載ったのだ。それからというもの、ぼくは度胸が坐り、どれも長さはわずかなものだが、いろいろと小品を書いたのだ。今や、定期的に原稿料も入る身となった。(ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド[4]』pp.215-6)
【議会報道記者および作家として年収350ポンドを稼ぐ身となったデイヴィッドは、晴れてドーラと結婚する。】
[25]いつもドーラがちゃんとそこにいるというのは、なんとも変な感じだった。わざわざ会いに出掛けなくてもよかったし、ラヴ・レターを書かなくても済むし、二人きりになる機会を画策したり捻[ひね]り出したりしなくてもいいというのは、まったくもって奇妙なことだった。(ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド[4]』p.233)
【しかし箱入り娘だったドーラには家事の才能がまったくなく、使用人や出入り業者にもなめられてしまう。】
[26]ぼくらと接触を持った人間はみんな、ぼくらを騙[だま]す気だったようだ。店頭にぼくらが姿を見せたら、それはもう、傷物の商品を並べる合図のようなものだった。[…]。数々の失敗を繰り返しているうちに、[…]ずいぶんと出費がかさんでいることにはたと気づくのも、当然だった。ご用聞きの帳簿を見ると、まるで地下室一面にバターを塗りたくったとしか思えないほど、大量にバターを消費していた。(ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド[4]』pp.249-50)
[27]【ドーラは自分の主婦としての無能さに劣等感を抱くようになり、アグネスの知性と分別に憧れる。】
「丸々一年、田舎に行って、アグネスさんと一緒に暮らせてたらよかったのになあ」長い沈黙の後に、ぼくの奥さんは話を続けた。
ぼくの肩の上で両手の指を組み合わせ、そこにあごを載っけて、青い瞳をそっとぼくの目に注ぎ込んでいた。
「なんでまた」ぼくは訪ねた。
「だって、わたしも少しはましになれてたかもしれないし、アグネスさんからいろいろ教えてもらえてたかもしれないじゃない」ドーラは言った。(ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド[4]』p.258)
[28]心からぼくの奥さんを愛していたし、幸せだった。でも、むかし漠然と夢に描いていた幸せと、いま味わっている幸せとは違うものだったし、いつも何か物足りないという感じがあった。[…]。それは幼い頃に空想した夢であって、実現なんか、どだい無理なものだったんだ、と。そして今、すべての人と同様に、ようやくそれが無理だったと悟って、当然のことながら、その痛みをずしりと覚えているのだった。だが、ぼくの奥さんがもっとぼくの力になってくれて、他に相談相手もいないぼくと一緒に、いろいろ沢山かかえた悩み事を、親身になって考えてくれるような女[ひと]だったら、どんなによかっただろう、そして、あながちこれは、できないことでもなかったはずだ、とぼくには感じられた。(ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド[4]』pp.390-1)
【大人になり、作家として安定した地位を得たデイヴィッドが求める女性は、盲目的な愛情を注いでくれる「多感」で幼稚なドーラではなく、厳格な規律を守る「分別」を備えたアグネスのほうだった。】
【デイヴィッドはドーラを厳格に「教育」して教養を身に付けさせようとする。】
[29]ぼくはドーラの精神を鍛える決心をしたのだ。
早速、ぼくは取りかかった。[…]シェイクスピアを読んできかせたところ——これはもう、ドーラをへとへとに疲れさせてしまった。それから、さり気なく、ちょっとした役に立つ知識とか健全な考え方を伝えていくようにした——すると、ぼくが口にした途端、ドーラは爆竹みたいに、パッパッと逃げ出してしまった。どんなに偶然を装い、あるいは自然を装って、可愛らしいぼくの奥さんの精神を鍛え上げようと努力してみても、いつも直感的に、ぼくが何をやろうとしているのかを見抜いてしまい、ドーラはびくびくと不安にとらわれていくのだった。とりわけ、はっきりしたのは、どうもシェイクスピアのことを、ぞっとする奴と考えているらしいのだ。だから、鍛える方は、さっぱり捗[はかど]らなかった。(ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド[4]』pp.384-5)
【おびえるドーラの姿は、義父マードストンの高圧的な教育におびえるデイヴィッド少年の姿に重なる。大人になった彼は、かつてあれほど憎んでいたはずのマードストンと本質的に同じことをやっているのだ。】
[30]母との同一化と同時に義父への欲望が生起し、やがてこの魅力と嫌悪の対象である義父と同一化することで、彼はドーラという、母によく似た女性を手に入れ支配することになるだろう。そのとき彼は母や少年時代の自分がもっていた可愛らしさを削ぎ落とし、幼い日に義父に覚えた魅力を自分のなかに再生産している。(村山「男と男のあいだ」p.56)
【厳格な規律を重んじるマードストンは幼稚なクレアラを支配する。/クレアラの息子デイヴィッドは母と自分を同一化している。/デイヴィッドは母が欲望している義父マードストンを自分も(恐れながらも)欲望する。/デイヴィッドはマードストンと自分を同一化する。/デイヴィッドはマードストンと同じことをしようとする。/厳格な規律を身に付けたデイヴィッドは、母クレアラに似た幼稚な女ドーラを支配する。】
[31]不幸なクララ【デイヴィッドの母】が代表するセクシュアリティと女性性こそがそれ【この小説における批判の対象】であり、対して称揚されるのは、黒々と口髭を生やしたマードストン氏の「厳格な」男性原理と規律なのである。(村山「男と男のあいだ」p.49)
【そのためこの物語の最大の「善玉」である大伯母ベッツィ・トロットウッドは、厳格な規律を重んじる男性的な人物として描かれる。】
【とは言え、デイヴィッドはマードストン的な厳格な規律の必要性を感じながらも、どこまでも優しいドーラの盲目的な愛情に溺れる居心地のよさを捨てきれない。彼はドーラの「精神を鍛える」ことをすぐにあきらめてしまう。】
[32]この頃、ユライアの秘書になっていた旧友ミコーバー氏[…]からの「ウィックフィールド事務所」への訪問要請の手紙がデイヴィッドの手に届く。デイヴィッド、トラドルズ、ベッツィ・トロットウッド、アグネス、それにユライア本人が顔を揃えたその席で、意外やミコーバー氏が秘書勤務を装いながら集めたユライア偽造の書類を提示し、この卑劣漢の「事務所乗っ取り」の計画犯罪一切を暴く。ユライアは最後の足掻きを見せながらも母親の懇願で降伏、帳簿でもみ消されていたベッツィ・トロットウッドの財産も、ウィックフィールド氏の資産も一部回収の見通しが立つ。(間「ディケンズ:David Copperfield:概要」)
【窮乏の末にユライア・ヒープの秘書に成り果てたミコーバー氏だったが、やがてユライアがウィックフィールド法律事務所の顧客から巨額の金を横領していることに気づき、デイヴィッドの学友の弁護士トラドルズと協力して、デイヴィッドたちの前でユライアによる横領の証拠を突きつける。】
[33]「この男、総額一万二千六百十四ポンド二シリング九ペンスにのぼるW氏【ウィックフィールド氏】への委託金を抜き取れるよう、巧みにその権限を自分に移行させてしまったのであり、しかもこのお金を、もうすでに支払い済みか、あるいはそもそもありはしない、架空の事務諸経費と欠損金の弁済に当てることにしたのであります。そのうえ、この仕業は始めから終わりまで、W氏自身の悪辣[あくらつ]な意図に端を発し、W氏自身の悪辣な行為によってなされたものと装ってのことでありました」(ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド[5]』p.107)
[34]「【その後ウィックフィールド氏は体を壊して引退が危ぶまれたため、】前記の者が——もちろん、ヒープのことですが——前述致しました一万二千六百十四ポンド二シリング九ペンスに利息を付けた額の証文を、あたかもW氏の手になるかのごとく、自分で早々に作成するのが得策と思いついたのでありました。その証文には、W氏の手形不渡りを救済すべく、W氏に対して融通されたるもの、との記載事項がありましたが——もちろん、それはヒープにより、とあるのです。そして、実際には、その金額は、この男が融通したものでは決してなく、ずっと以前に返済済みのものでした。[…]この証書にある署名は、偽造されたものであります——もちろん、ヒープによってであります」(ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド[5]』p.112)
[35]「W氏は長年にわたり、想像しうる限りのありとあらゆるやり方で、強欲で不実なる守銭奴の資産増強のために騙され続け、お金を奪われていったのであります——もちろん、ヒープによってであります。そして、手中に独占すべき次なる目標は、W氏ならびにW氏息女【アグネス】であり[…]、両者をもっぱら自分に屈服させることでありました[…]」(ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド[5]』p.116)
[36]これまでじっとおし黙ったまま、耳をそばだてて話を聞いていた伯母さんをひょいと見たら、なんと、ヒープめがけて飛びかかっていって、両手でヒープの襟首を締め上げ始めたのだった。[…]。
「アグネス、ねえ、わたくしは、あなたのお父さまに財産をすっかり使い果たされたものとばかり思っていた間は、それをここ【ウィックフィールド法律事務所】に投資していたってことは[…]おくびにも出そうと思わなかったし、実際、出しませんでしたよ。だけど今、責任があるのはこの男だったって分かった以上、返してもらいますとも」(ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド[5]』pp.120-1)
【おかげでベッツィ伯母さんの財産は、ほとんどが戻ってくることになる。】
[37]【成り上がりに失敗したユライアは、成り上がりの成功者デイヴィッドに捨て台詞を残して去っていく。】
「コパフィールド、ずっと大っ嫌いだったよ。あんたは、ずっと成り上がり者だったし、ずっとおれに逆らってきたものな」(ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド[5]』p.126)
【ふたたび失業者となったミコーバー氏は、ユライアの下で働かなくてもよくなった喜びを妻のエマに叫ぶ。】
[38]「エマ」ミスター・ミコーバーは言った。「心の翳[かげ]りは消えたよ。昔、あんなに強かったお互いの信頼もまた取り戻せたことだし、これからはもう邪魔は入れさせないからね。さあ、貧乏だって大歓迎だ」涙を流しながら、ミスター・ミコーバーは叫んだ。「さあ、苦難よ、来い。宿無しよ、来い。さあ、腹ペコでも、ぼろ服でも、嵐でも、乞食でも、何でも来いだ。お互い信頼していれば、一生とことん支え合っていけるとも」(ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド[5]』p.129)
【このころエミリーを探して諸国を旅していたペゴティ氏は、ついにロンドンで窮乏していたエミリーを発見する。スキャンダルにまみれてしまったエミリーを故郷の漁師町ヤーマスに連れ帰ることは不可能なため、ペゴティ氏はエミリーを連れてオーストラリアに移住することを決める。ミコーバー氏の一家も移住に加わることになる。】
[39]病弱だったドーラは衰弱日増しに募り、手厚い看護もむなしく、ついに他界する。臨終の夜にはアグネスが一人ドーラの枕頭に立って遺言を聞き取った後、悲嘆に沈むデイヴィッドをやさしく慰める。(間「ディケンズ:David Copperfield:概要」)
[40]【臨終の床についたドーラが、デイヴィッドに優しく語りかける。】
「とっても幸せだったわよ、とってもね。でも、年月が経てば経つほど、わたしの大事な坊やは、赤ん坊奥さんにうんざりしてきちゃったのよ。だんだん旦那さまのお相手ができなくなっちゃったんだもの。[…]」
「おい、ドーラ、お願いだから、そんな言い方はしないでくれよ。一言一言が責められてるみたいじゃないか」
「あら、そんなこと全然」ぼくにキスしてくれながら、ドーラは答えた。「あら、まあ、あなたはそんな、決して責められるような人じゃなかったわよ。それにわたしは、あなたのこと、もう大好きで大好きで仕方がなかったんだもの、本気であなたを責めるような言葉なんか言えるはずないわ——わたしの取り柄って、これしかなかったんだもの、まあ、美人だっていうのは別としてね[…]。さあ、どうか、一つ約束してね。わたし、アグネスさんと話がしたいの。階下[した]へ降りていったら、アグネスさんにそう言って、わたしのところに来てもらって。それと、わたしが話をする間、誰にも来させないで——伯母さまもよ。アグネスさんにだけ話したいことがあるの。アグネスさんと二人で話したいの」(ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド[5]』pp.146-7)
【ドーラに会って戻ってきたアグネスの顔を一目見て、デイヴィッドはドーラの死を知る。】
[41]——あんなに哀れみと悲しみに満ちた顔、涙の雨、恐れ畏[かしこ]まってぼくに向けてよこす無言の訴え、天の方へかざす厳粛な手といったら。
「アグネス、そうなの」
とうとう終わりが来た。ぼくは目の前が真っ暗になり、しばらくは、ぼくの記憶の中から何もかもが消え失せていく。(ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド[5]』pp.149-50)
[42]デイヴィッドは、アグネスの勧めに従い大陸旅行を決意するが、出発前にエミリーから託された最後の手紙をハムに届けるべくヤーマスに向かう。未曾有の暴風吹き荒れる浜辺の遠からぬ沖合に、座礁して山なす大波に弄ばれる帆船と、その折れたマストにしがみつく人影が見える。その生存者を救うべく、あのハム【エミリーの婚約者】が体に綱を巻き付けて怒濤のなかに飛び込んで行き、あわや舟に届くとみえた時、「高く、青く、巨大な山腹のような大波」が船もろともにハムの姿を飲み込んでしまう。(間「ディケンズ:David Copperfield:概要」)
[43]ぼくみたいな未経験者の目にも、難破船はばらばらに解体しようとしているのが分かった。中央から真っぷたつに折れ、マストの上にたった一人とり残された男の命も、もはや風前の灯火[ともしび]といった感じだった。それでも、男はマストにしがみついていた。変てこな赤い帽子——船乗りの帽子のようではなく、もっと色鮮やかだった——をかぶっており、自分と破滅とを隔てる二、三枚のたわむ板が揺れて浮き上がり、先を見越したように弔鐘【甲板の鐘】が鳴ると、ぼくらみんなに見守られるなか、男はみずから鐘を振り回した。そういう姿を見ていると、その行動がいかにもかつての親友のことを彷彿[ほうふつ]とさせたので、ぼくははっとして、気持ちを取り乱してしまったように思う。(ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド[5]』p.213)
[44]ついにハムは難破船に近づいた。ぴったりそばまで来ていたので、力いっぱいもうひと掻きすれば、船に辿り着いていたところだ——と、その時、船の背後から、丈[たけ]の高い翠[みどり]色をした、まるで山腹といった感じの巨大な波が、浜辺の方へと打ち寄せてきたかと思ったら、ハムは力いっぱい跳び上がって、船へと乗り移ったように見えたのだが、もはや船はその姿を消していた。[…]。連中はハムを、ぼくの足許まで引き揚げてきた
——意識はない——死んでいた。(ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド[5]』pp.214-5)
[45]【しばらくして、浜辺に水死体が揚がる。デイヴィッドは知り合いの漁師に呼ばれてそれを見に行く。】
男はぼくを浜まで案内してくれた。エミリーとぼくが、まだほんの子供だった頃、貝殻を探し集めた海岸のあの場所には——昨夜[ゆうべ]、風であっけなく吹き倒された、あの【ペゴティ氏の】古い船の家の残骸のかけらがいくつか、風で散らばっているあたりには——あの男がずたずたに傷つけてしまって家庭の廃墟には——昔、学園時代によく見かけたことがあるその姿のままに、あの男が腕枕をして眠っているのだった。(ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド[5]』p.216)
[46]ミコーバー氏は一家を引き連れてオーストラリアヘと船出する。同行するのはペゴティ氏とその姪エミリー(スティアフォースに捨てられて長い苦難の末、悲嘆と後悔の身を伯父の手に委ねた)[…]その他。船は赤い夕日の水平線に消え、ケントの山々とデイヴィッドの身辺を闇が包む。(間「ディケンズ:David Copperfield:概要」)
[47]大陸に渡った傷心のデイヴィッドは一年の放浪の後、美しいスイスの谷間の夕暮れに心の傷が癒されるのを覚える。いつに変わらぬアグネスからの励ましの便りを読み返すうち、自分の心の奥底にあり続けた愛の対象が彼女に他ならなかったことを始めて、はっきりと知る。その遅すぎた自覚と悔いと悲しみに耐え、さらに二年を大陸にとどまって作家としての仕事を世に問い、かなりの名声を得てのち、彼はイギリスに帰る。(間「ディケンズ:David Copperfield:概要」)
[48]大伯母の暗示から、諦めていたアグネスが今なお自分を愛していることを知り、愛切なる告白の場面を経て二人は結ばれ、仕合わせな家庭を基盤に、デイヴィッドは作家としての道をひた進む。(間「ディケンズ:David Copperfield:概要」)
【デイヴィッドと同じように人気作家であった作者ディケンズ自身の結婚生活は、決して幸福なものではなかった。】
[49]【1836年、ディケンズ24歳の年に】彼は知り合いの新聞編集長の長女、キャサリン・ホガースと結婚した。[…]彼が、特に美人でもなく頭がよく働くわけでもない、平凡な女キャサリンを、どのくらい愛していたかはわからない。マライア【との失恋】の苦い思い出を早く消すために、無理に愛してもいないおんなと結婚したのだとか、本当に愛していたのはキャサリンの妹メアリーだったとか、いろいろ説がある。(小池「ディケンズの生涯」pp.24-5)
[50]齢40を越してから、20年間も連れ添い、10人の子供を生んだ[…]妻キャサリンとの間が、次第にうまくいかなくなった。そこへ1857年【『デイヴィッド・コパフィールド』刊行の7年後】[…]18歳の金髪の美人エレン・ターナンに会って、彼は一目で参ってしまい、二人の関係は短時間にぐんぐん進み、とうとう翌58年5月には、ディケンズは妻と別居することに決意した。[…]40男のディケンズがこれほどまでに夢中になったのに、当のエレンのほうはそれほど彼を愛していたのではなく、むしろ迷惑気味だったらしい。(小池「ディケンズの生涯」pp.29-30)
[51]【妻との別居の前年、ディケンズが親友に語った言葉】
「気の毒だが、キャサリンと私は結局のところ相性が悪いのだ。これはどうしようもない。妻が私を不快にし、不幸にするだけではなくて、私のほうでもあれに同じことをしているのだ、それももっとひどく」。自分の厄介な気質や落ち着かない暮らしぶりに責任の一端があることは認めるが、変えるにはもう遅すぎる。「それを変えるのはただ一つ、すべてを変える死のみだ」(ジェイムズ『図説 チャールズ・ディケンズ』p.88)
【「自伝的要素の濃い小説」である『デイヴィッド・コパフィールド』は、その幸福な結末に至って、ディケンズの実人生とはまるでかけ離れてゆく。】
【あえて作者自身の実体験に似た要素をふんだんに盛り込んだこの小説は、作者ディケンズが実人生の物語を改竄[かいざん]することによって自分の「こうあるべきだった人生」を詳細に具体化し、そうすることで辛い現実からの癒しを求める企てだったとも言える。】
【物語を作ることで「(架空の)幸せな日々の思い出にすがって生きる」ことが可能になるのだ。】
【小説の中では、ついにデイヴィッドがアグネスに愛の告白をし、結婚を申し込む。歓喜に震えるアグネスが答える。】
[52]「わたし、とっても幸せよ——胸がいっぱいで——でも、これだけは言っておかなくちゃ」[…]。
そっと両手をぼくの肩にかけると、穏やかにアグネスはぼくの顔を覗き込んだ。
「何だか、もう分かったでしょ。[…]。わたしね、最初からずっと、あなたのことが好きだったのよ」
ああ、二人とも幸せだった、ぼくらは幸せだった。二人の涙は、こうしてここまで来るのに嘗[な]めてきた辛酸のせいではなく[…]、こうしてここまで漕ぎつけられて、もう別れ別れになることもないという喜びのあまりだった。(ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド[5]』pp.384-5)
【デイヴィッドは、自分がこれまでずっとアグネスの性的欲望の対象だったことを知って驚喜する。アグネスは決して彼が想像してきたような「分別」の権化ではなく、かつて母クレアラや妻ドーラが与えてくれたような盲目的な愛情を彼に注いでくれる「多感」な人物でもあったのだ。】
【「多感」に憧れ「分別」の必要に迫られて生きてきたデイヴィッドにとって、アグネスはその両方を共有してくれる理想のパートナーなのだった。】
[53]【結婚し、デイヴィッドの妻となったアグネスが、ドーラが死んだ日のことを語る。】
「あの女[ひと]、わたしのことを呼びに、あなたを来させたでしょう」
「そうだったねえ」[…]。
「最後のお願いがあるの、最後の預かりものを託したいんだけどって、わたしに言ったのよ」
「で、それって——」
「つまり、この空っぽの椅子に坐ってほしいのは、このわたしだって」
ここで、アグネスはぼくの胸に顔を埋[うず]めて泣き、ぼくも一緒に泣いた。ただ、二人とも幸せでいっぱいだった。(ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド[5]』p.389)
[54]十年後、作家としての名声【を】確立したデイヴィッドの家に、思いがけなく訪ねてきたのがペゴティ氏、オーストラリアに移住した親しい友人たち夫々の嬉しい消息をつたえて、「デイヴィッド半生の記」は終わる。(間「ディケンズ:David Copperfield:概要」)
[55]【ミコーバー氏はオーストラリアの町で名士になっていた。地元紙の記事。】
「わが移住民の同輩にして、同町在住のポート・ミドルベイ地区治安判事、ウィルキンズ・ミコーバー氏の殊勲を祝う晩餐会が、昨日ホテルの大広間で開催されたが、息苦しいほどの人々の数で会場はごった返した。[…]。かくして交わされた乾杯の声の嵐は筆舌に尽くしがたく、うねる波のように、それは幾度となく高まったり静まったりを繰り返した。やがて、これもやむと、ウィルキンズ・ミコーバー氏が立ち上がり、感謝の意を述べた。ひとえに、現在の至らぬ本紙の体制にあっては、その総力をもってしても、高名なるわが同輩の、洗練され、かつ修辞を駆使した謝辞のまことに流麗たる美文をつまびらかにお伝えするのは、とうてい及ばぬことである。話術の傑作とだけ言えば十分であろう。さらに、自身の成功に至るまでの険しい道のりを、とりわけその源にまでさかのぼって説き、年若い聴衆に向かって、弁済不可能な負債を背負う、隠れた危険に気をつけるよう警告した件[くだり]では、会場にあってきわめて毅然とした男性の目にすら、思わず涙を誘うものであった。」(ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド[5]』pp.404-6)
[56]さて、これでぼくの綴る物語は終わりだ。もう一度だけ——これで最後だが——本のページをしめくくる前に振り返ってみることにしよう。[…]。
ここにいるのは、以前より度の強い眼鏡を掛け、八十歳を越すおばあさんになっているぼくの伯母さんだ。だが、いまだに背筋をぴしっと伸ばし、冬の季節でも一気に六マイルはしゃんしゃんと歩く。[…]以前はがっかりしていた伯母さんも、今はもうすっかり報われた。正真正銘、生きたベッツィ・トロットウッドの名付け親になったからだ。(ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド[5]』pp.411-2)
[57]【小説の結末。幻灯が消えるように人々の面影が消えていく。最後に残る映像は愛しいアグネスの姿である。】
さて、まだまだ書き足りないような気持ちを抑え、このあたりで物語の幕を閉じることにしようとすると、懐かしい人々の顔もすうっと消えていくようだ。[…]。
振り向くと、美しく穏やかな表情を浮かべたその顔が、ぼくのそばにちゃんといてくれる。[…]。この愛[いと]しい女[ひと]がいてくれなければ、ぼくなんか、ただの木偶[でく]の坊だったところだろうが、今はこうして、夜更けまで黙々と書き続けていても、ずっとぼくに寄り添っていてくれるのだ。
ああ、アグネス、愛しい女[ひと]、ぼくの命が尽きるときにも、やっぱりこうしてそばに付き添っていてほしい。それから今、懐かしい人々の面影がすうっと消え失せていくように、いろいろなことの実在感がぼくの中から薄らいでいくときにも、君には、やっぱりこうしてそばにいてほしいんだ。はるか高天を、きりっと指差してね。(ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド[5]』pp.420-1)
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【引用した文献】
●チャールズ・ディケンズ作、石塚裕子訳『デイヴィッド・コパフィールド』全5巻(岩波文庫、2002-3年)[原著1850年]
●小池滋「ディケンズの生涯」西條隆雄ほか編著『ディケンズ鑑賞大事典』(南雲堂、2007年)15-35ページ
●エリザベス・ジェイムズ著、高橋裕子訳『図説 チャールズ・ディケンズ』(ミュージアム図書、2006年)[原著2004年]
●新野緑『小説の迷宮——ディケンズ後期小説を読む』(研究社、2002年)
●新野緑「『デイヴィッド・コパフィールド』」西條隆雄ほか編著『ディケンズ鑑賞大事典』(南雲堂、2007年)237-55ページ
●間二郎「ディケンズ:David Copperfield:概要」ディケンズ・フェロウシップ日本支部ウェブサイトより <http://www.dickens.jp/archive/dc/dc-outline.html>
●村山敏勝「男と男のあいだ——『デイヴィッド・コパフィールド』のセクシュアリティ」『(見えない)欲望へ向けて——クィア批評との対話』(人文書院、2005年)48-66ページ
(『デビッド・コパーフィールド』[前半]はこちら)
(c) Masaru Uchida
2009
ファイル公開日: 2009-4-22
ファイル更新日:2012-9-15(リンク先のアドレス変更に伴うリンク修正)
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