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垣根の内側が蓮池のある北の庭になります。 第三の庭はその外側に広がっています。 |
使われているそうです。 |
三番目の庭は、大変大きいもので、垣に囲まれた蓮の池の庭から、この武家地の一角の北北東の境界にあたる木の茂った丘のふもとまでつづいている。往時はこの平坦でだだっ広いスペースは竹藪だったのだが、いまではまあ、雑草や野の花のおいしげる荒れ地といったところである。北西の角には、なかなかいい井戸があって、器用に竹のパイプでこしらえた水路(筧 かけい)を通って、ここから家の中までひんやりと冷たい水が運ばれてくる。 |
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そして北西のはずれには、丈の高い雑草に隠れるようにして、ひどく小さなイナリの社がたっている。そしてその前には、その社にふさわしいちいさな石の狐が二匹、すわっている。 |
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最後に、ハーンの『日本の庭』の最終章に戻ってみることにしましょう。 「私は、この住まいをすこしばかり好きになりすぎてしまったようだ」ということばにはじまって、ハーンは、「土塀の外」の「電信・電話・新聞・汽船・ありとあらゆるかわりはてた近代日本の声」から遮断された「土塀の内」に、「いまなおひっそりと息づいている十六世紀の自然と夢の幸福感」を見いだします。しかしそれもまた瞬時に過去のことになってしまうでしょう。それほどまでにハーンの目前で日本の近代化は、猛烈なスピードで進行していきます。 |
しかしながら、これらすべてのもの−この古い家中屋敷とその庭−は、おそらくもうあと数年も経たないうちに、永久に滅び去ってしまうのだ。すでに数多くの庭が、このわたしの庭よりももっと広く、もっと美しい庭が、田圃か竹藪に変わってしまっている。そしてこのひなびた出雲の町も、たぶんここ十年のうちに、かなり以前からの鉄道敷設計画が実現することで、町は膨張し、変わりゆき、ありきたりの場所になり果て、そして先を争ってその土地を工場や製造所の用地へと差し出すようになるのだろう。 ここだけではないのだ。この国のすべての場所で、かつての昔の平和と魅惑とが、消え去ってゆく運命にあるように思われる。 なぜならば、どこよりもここ日本では特に、無常とは、すべてのものの自然なありようだからである。そして、このような変化やそれをもたらしたものは、この国にもう変化の余地がすっかりなくなってしまうまで、ともに変遷を重ねていくことだろう。そして−、それを悲しんでみたところで、ただむなしいだけだ。 |
ところで、この塩見縄手の武家屋敷に関するかぎり、ハーンの予言は幸いにもあたりませんでした。 ハーン一家が熊本へ転居した5年後の1896年(明29)、この塩見縄手の家の本来の持ち主である根岸干夫(ねぎしたてお)一家が、簸川郡郡長の職を終えて、松江に戻ってきました。新たに八束郡の郡長となった干夫は塩見縄手の家に入り、手狭になった家はこの時期内部を改装したり、一部建て増しがおこなわれたりしたそうです。長男の磐井(いわい)は父の赴任中は、松江中学校の生徒としてひとり寄宿舎から通学、そしてヘルン先生の後を追うように、熊本の五高から東京帝大へと進みました。さて日銀に就職し東京に住んでいた磐井は、1907年(明40)にドイツのタウハニッツ社発行の『知られざる日本の面影』英語版上下2巻を丸善で入手、はじめて、郷里の我が家の庭がハーンによってきわめて魅力的に紹介されたことを知ります。その後磐井は、1913年(大2)に松江銀行へ招かれ帰郷、父の没後の家に戻りました。 さて、磐井は出雲地方の小銀行の合併に奔走するかたわら、明治25年から42年間にわたって松江を訪れた3,614人の外国人がハーンの『知られざる日本の面影』をよんで日本に惹かれたとの警察の調査を読み、松江の観光都市としての振興のためにもとハーンの住んだ旧居の保存を思い立ちます。そして残されていた池の図面等により、北の池の上にたてられていた隠居所を取り壊し、池を掘り、もとどおりの庭へと復元しました(ハーンは、この庭の作者を非常に古い時代の庭師と考えていましたが、実はこの庭は版籍奉還直後に干夫とその父の小石が庭師とともに大根島から石を運び、樹木を選んで、思うがままに作り上げた庭でした。干夫は後に松江の園芸会長をつとめたりしたそうですので、父子ともにそうしたことが好きだったようです)。 時は移り、磐井の死後は、その妻の菖蒲とそのこどもたちが彼の遺志を継ぎました。戦時中には、ハーンが外国人であることから憲兵の訪問−もちろん庭の見物ではありません−なども受けたそうです(その時に彼らを撃退した菖蒲の武勇伝は、のちに彼女からその話を聞いた末っ子の朗−私の父です−によって、いまなお記憶されています。なお、憲兵の訪問はヘルン旧居を訪ねる外国人たちの素性についてであったようです)。 現在では、この旧居は磐井の次男啓二夫人道子とその長男の夫人タカ子によって、保存・公開されています(啓二によって南側の庭は長く苔や土に埋もれていた花壇の縁取りの石が掘り出され、ハーン在世当時のすがたをよみがえらせました)。 ハーンが通り過ぎていった日本の1890年(明23)から1904(明37)年とは、くりかえしになりますが、まさに激動の近代のひとこまにほかなりません。この時期の日本にあって、ハーンがそこにみいだした「the ancient peace and the ancient charm」とはなんだったのか。ハーンのテキストを訳していると、この庭のうえに彼は、近代から隔絶した、まさに前近代の空間を求め、そしてそこには日本の前近代、そしてアイルランドの地を去っていってしまったエルフたちの残り香のようなイメージがかさなりあって投影しているように私には感じられました。ハーンにおける美しいロマン主義的な幻影−まさにロマンチック・イロニー−と、そして彼の前にあった現実の日本の近代化の進行の問題、これは今日にあってもさまざまな困難さを抱えた西と東の邂逅の、実に可能性に富んだ問題提起であると私には思えます。 *ヘルン旧居に関する叙述は、根岸道子氏によるリーフレット『ヘルン旧居覚え書き−歴史遺産と根岸家』(1997.8発刊 これは1997.5から「読売新聞(島根版)」に6回にわたって連載されたもののまとめ)を参考にしました。 参考リンク 厨川白村「小泉先生の舊居を訪ふ」(K.Inadomi's Private Library) 2002.4.30追加 |
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