Lafcadio Hearn "In A Japanese Garden"

from "Glimpses of Unfamiliar Japan" 1894
renewal!

1998.9.2 renewal






旧版の序

1998.2.3 記 

     ラフカディオ・ハーンが横浜の港に降り立ったのは、明治23年(1890)4月4日、ハーンは39才でした。その年8月に中学校英語教師の職を得たハーンは島根県松江市に赴き、翌年5月に、終生愛してやまなかった北堀町塩見縄手の家に転居します。このホームページでは、現在に至るまでほぼその時期の原形をとどめている小泉八雲旧居を、ハーンの「日本の庭」(『知られざる日本の面影』)のテキストと対応させながら紹介したいと思います。
     
     ここ数年のラフカディオ・ハーン再評価の動き(とくにベンチョン・ユー氏による『神々の猿−ラフカディオ・ハーンの芸術と思想』の邦訳はたいへん示唆的でした)、そして今年は私のゼミでも卒論にハーンを取り上げる学生が出たことなどから、わたしもデジカメ片手に数十年ぶりに師走の松江を訪れました。そして松江という土地の人気(じんき)が、いまでも特有のやわらかさをもっていること(私は着いてすぐ松江駅前でバスの発着についてたずねたのですが、係りの人は私がバスを待っている数分の間にとおりかかるたびに「もうすぐですから」と声をかけてくれました)を痛感しました。

     ハーンが見、愛し(そして憎悪し)、そして欧米に紹介した日本とはなんだったのか。ハーンの感受しそしてつくりだしたイメージは、まさに近代化の発展途上の日本(ハーンが亡くなったのは明治37年9月26日。これは日本が日露戦争に突入した年であり、この時期は第一軍第二軍第四軍の遼陽占領後、第三軍が第一回目の二百三高地攻略に惨憺たる失敗をした直後です)のはらむさまざまな渦と温度差そして矛盾のなかから生まれてきたものでした。

     松江から熊本、東京あるいは横浜・神戸というそれぞれの場所は、おのおのが近代日本の諸相そのものの象徴であったといえます。それらが、19世紀末のアメリカの強大な物質文明のなかで傷ついた(と断言してもかまわないと思います)、アイリッシュでありまたギリシャの血を引いたハーンによってどのように感受されていったのかを考えるとき、ハーンの問題とは、結局のところ東と西の邂逅というきわめて興味深い、しかもデリケートな解析を必要とするテーマであることを再認識させられます。

     そのなかでの松江の意味とはなにか。実際に松江の地にたってみると、いまでもハーンの傷ついた心にしみわたっていったなにかがここにはある程度残っているような思いに駆られます。それが現在の島根県にとってどういう意味を持っているのか、というのはまた別のむずかしい問題です。







リニューアル版の序 にとぶ




以下の写真は、ヘルン旧居の現在の管理者の根岸道子・タカ子両氏の了解を得て、1998年7月15日から16日にかけて撮影したものです。

ハーンのテキストの日本語訳は、著作権上の問題に配慮し根岸泰子が行いました。日本語訳にあたっては、ハーンが欧米の読者向けに書いたテキストである点に留意していますが、語学が専門ではありませんので参考程度にお考えください。より正確で流麗な訳文としては、平井呈一氏ほかの業績があります。
ハーンのテキスト(日本語訳)は、実際の庭の様態にそって配置してあります。したがってかならずしも原文の章の順番には対応していません。
ハーンのテキストの原文は右の英語版でみることができます。

english version








    宍道湖の美しい眺めを見られなくなるのは残念だったが、このさい引っ越しはやむを得ないと考え、私は市の北の方の、荒れ放題になっていた城(千鳥城)を背後にひかえた、ひどく閑静な町へ移転した。新しい我が家は、家中屋敷(かちゅうやしき)―かつて高禄のサムライの住まいしていた屋敷だった。


*この写真だけは、前回のものと同じです。結局これがベストアングルでした。






門をくぐると、屋敷までのアプローチは、おなじように両側がずつと壁になっている。
だから、予告なしにここを訪れた人はただ、玄関をぴったりと閉ざしている、真っ白い障子だけをみることになる。

    *今回はちゃんと障子をみることができました。
    ところで今回はカットした「テガシワ」が左側に見えますが、お気づきになりましたか?

    ちなみに正面の木はるりやなぎです。












屋敷は、瓦葺きの長くて高い塀によって、城のお堀をぐるっとかこんでいる通り(というよりは車道というべきか)からへだてられている。







てっぺんに松江城をいただく「お城山」の一部が、なかば松の木に隠れながら正面の塀の瓦葺きの上に見える。が、それもほんの一部にすぎない。

屋敷の裏手には百ヤードばかりの空き地があるが、そこは木が密生した小高い丘のようになっていて、地平線も見えないし、空の大部分も遮られてしまっている。







何とも残念なことに、ここからは湖はまったく見ることができないし、おまけに見晴らしの良さというものがまるでない。



*宍道湖の落陽 (松江市ホームページ)




だが、このようないわば監禁状態も、なんともすばらしい代償によってじゅうぶん償われている。それは、ひじょうに美しい庭、いやより正確に言うなら、母屋を三方から取り囲むひとつづきの庭地(a series of garden spaces)である。広いベランダ(縁側)がそれらの庭地を見渡しており、そしてそのベランダのある特定の位置からは、二つの庭をいっぺんに眺め渡すこともできるのだ。




南側の第一の庭






二つめの北の庭
三番目の庭

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