植物分子生理学研究室
Lab for Plant Molecular Physiology, Fac Appl Biol Sci, Gifu University
有名研究者思い出話(随時更新)
Highly Cited Researchers of Gifu University
私もそろそろ定年退職が近づいてきた(あと7年)ので消えてしまう前に昔話をしたいと思った。過去お付き合いがあった研究者についての思い出話をここにまとめておく。読む人のことを考えて有名人重視(若手現役は軽視)にしたが、偉人列伝ということでもなくて、、、単なる私の体験談である。
杉浦昌弘 (1998頃, 名大遺伝子)
私の師匠(=学生時代の指導教員)小保方潤一先生が若い頃ポスドクをしていたのが杉浦研、という関係。杉浦先生から見ると私は孫弟子にあたる。
杉浦先生は言わずと知れた植物分子生物学と植物ゲノム研究の創始者で、メンデルメダル(ドイツアカデミー)、みどりの学術賞、文化功労者、瑞宝重光章等々を受賞しておられる。経歴については御自身で書かれているものがあるのでそちらをご覧頂きたい。関係者にはノーベル賞クラスの方々がおられ、分子生物学黎明期の雰囲気が味わえる。
(JT生命誌研究館サイト https://brh.co.jp/s_library/interview/82/)
ラジオアイソトープを使ったサンガー法のシークエンシングで、タバコ葉緑体ゲノム配列150kbpを決定したのが主要な業績(1986)。 当時は「機能のわからない遺伝子や遺伝子間の配列を決めて何の役に立つ?」といった批判もあったらしい。そんなこんなで、研究費の申請書は「他人より半歩先」を目指しなさい、というのが杉浦先生の教え。「一歩先だと理解してもらえないから」とのこと。
最終講義では過去の業績でmRNAの1塩基と2塩基目半分を同定してNatureから出版された、という話を紹介され、ゲノムプロジェクト紹介のマクラにされていた。「昔は一塩基半の同定で褒めてもらえました」みたいな。たしか放射標識された特定のRNAを精製して加水分解後TLCで展開、で塩基の同定をするのだったと思う(ワンダリングスポット法とか言ったような、、、)。BC時代の話(BC=Before Cloning、ちなみにその後はAD時代という(=After DNA))。
タバコの次にイネ葉緑体のゲノム解読を行ったが、材料は吟味の上地元愛知県農試が開発した日本晴を用いた。その後世界のイネ分子生物学研究は日本晴を用いる流れになったが、モトは杉浦研の葉緑体ゲノム解読である。
これは師匠経由の又聞きの話(1980年代)。名大遺伝子は世界の植物分子生物学のハブのような存在だったので、外国からの訪問客は多かった。留学生もそこそこ参画していたらしい。インドから来た学生の机の上が片付いておらず見苦しかったのである日杉浦先生が注意したところ、その学生は机の上のゴミをざーっと床に落として「先生片付けました」と言ったそうな。
日本人なら血液が逆流しそうな話だが、インド人的には常識的な行動になるらしい。当時はインドで大学まで行けるのはカーストの一番上の階級だけで、家に使用人が多数いることも珍しくない。床の掃除をするのは特定の使用人の担当なので家人はその仕事を奪ってはいけない、と小さい頃から教育されるのだとか。こんな逸話も、「留学生の面倒を見るのは大変です」とさらりと結語されるところがとても先生らしい。
私の理研研究員時代に名大遺伝子を訪問した際(師匠が名大遺伝子の助教授だった、 これが1998年頃)、キャンパス内で帰宅途中の杉浦先生にお会いした。先生はマスクをされていたので「風邪ですか?」と聞いてみたら(世間話のつもり、季節は冬)、「風邪を引かないようにマスクをしているのだよ、山本君」と返ってきた。先生は地下鉄を警戒しておられたのだ。偉大な先生は日常生活からして心構えが違った、という話。
性格は中部地方のヒトらしく(岡崎出身)フランクで実直、華美を嫌うようなところが見られた。が、接待は重厚。
杉浦研出身者は私が知っているだけでも錚々たるメンバーである:小保方潤一(北大、名大、他) 篠崎一雄(科技庁理研) 高木(大目)優(経産省産総研, 埼玉大学, 台湾成功大;やしきたかじん似) 高岩文雄(農水省) 林田信明(理研, 信州大) 杉田護(名大) 島田浩章(東京理科大) 山田恭司(富山大) 加藤明(農水省北農試) 若杉達也(富山大) 広瀬哲郎(産総研、北大、阪大) 湯川泰(名市大) 宮本徹也(テキサスA&M大) 中村崇裕(九大) (順不同です)
2024.2.23
篠崎一雄 (1990, 理研)
師匠(小保方潤一)の名大杉浦研時代の上司。
篠崎先生は言わずと知れた植物科学研究の第一人者であり、文化功労者、国際生物学賞、日本学士院賞、瑞宝重光章、ASPB功労賞、トムソンロイター引用最高栄誉賞、等々を受賞されておられる。米国科学アカデミー国際会員。
先生の経歴は私の知っている限りでいうと、学生時代の所属は名大岡崎令治研(ラボには小原雄治(遺伝研)もいた)、名大遺伝子の杉浦研では杉浦先生の元で助教授としてタバコ葉緑体ゲノム解読を牽引され、その後筑波理研で独立され現在に至る、というもの。今調べてみると、名大の次は遺伝研におられたようなのでそのころから杉浦先生と御一緒されていたのかも(詳細は不明)。学位取得(1979)前に遺伝研研究員(1978-)をされておられるようである。有名人なのでWikipediaに情報が出ている。
最初にお会いしたのは理研で独立されて1〜2年した頃だったと思う。私は北大小保方研の学生だったが、共同研究者の林田信明さんが新しく出来た篠崎研の研究員になっており、学会のついでにつくば理研まで遊びにいった。今調べてみると1990年に植物生理学会が東大駒場であったので、このときではないかと思う。当時TXはまだなかったので、東京駅八重洲口から直行バスで行った。バイオハザードP4の実験施設を見せてもらったりした。北大遺伝子にはP3施設がありなじみはあったのだが、初めてみるP4はさらにSF色が強かった(未知の宇宙生物を扱うような雰囲気)。当時は篠崎夫妻は揃ってラボにおられて、小さなお子さんがピペットマンで遊んでいた。
当時、葉緑体遺伝子については御本人の研究ですべて同定できたが、核遺伝子についてはほぼ手付かずという状態であり、分子生物学者として植物学に切り込んで行く際のテーマは選び放題だった。その中で、篠崎先生が選ばれた研究テーマが農学の超重要事項の「植物の乾燥ストレス耐性の分子機構」だったのは今考えてもすばらしい。それまでの葉緑体ゲノムの研究とはギャップがあるのでよく考えられた上での選択だと思われる。ただ、当時理学部修士課程の学生だった私にはその重要性をあまり理解できていなかった(地味?、とか思っていた)。
それから10年ほど後、私が理研ゲノムセンターの研究員だったとき(2000-2003)所属研究室(松井南研)の姉妹ラボが篠崎研になった。その縁で数回合同セミナーを行った。つくば理研でセミナーを行ったので松井研は大型バスを借りて和光理研から移動する、という大騒ぎだったが、篠崎研にはその数倍の人数がいた。ゼミでの新年度の篠崎先生のスピーチはマイクを使うという噂だった(ということは100人規模)。当時太地さんは修士くらいの学生だったが光る発表をされておられたのを記憶している。
合同セミナーでの私の発表はLUCのジーントラップラインを作るというプロジェクトの紹介だったが、「単コピー挿入系統の選抜をPCRで行う」という前例がなかった戦略に対して「そんなこと出来る訳がない」と参加者から批判されたのは覚えている。保守的なのである。後日その方法論が無事完成して論文になったのだが(つまり、頂いた批判はサスペンドしてそのままプロジェクトをプロシードしてしまった、ということになる)、そうすると今度は「できて当然」と同じ人から言われてしまう。ま、世の中そんなものである。
<遺伝子トラップとオーファンプロモーター:書きかけ>
当時出始めのマイクロアレイを姉妹ラボのよしみでいち早く使わせて頂いた。篠崎研が収集してきた完全長cDNAを利用してのオリジナル開発品である。論文は2003年に出版されよく引用された。なんといっても頼りになるのは大ラボである。こういうのに味をしめると、用もないのに大ラボの周りをうろついて「なんかおいしい話ない?」みたいな聞き方をするようになっていく、のかも知れない。
先生はおそらく無駄がとてもお嫌いな方なのだと思う。なので研究で冒険はしないというスタイルである。国から頂いた研究費は確実に研究成果に昇華させていく、という意味でもある。
杉浦先生同様、篠崎先生も温和で優しい方である。が、仕事の進捗に敏感な方でもある。優しい性格と凄腕マネージャーが両立しているというのはある意味奇跡。魔法でも使っているのかも知れない(詳細不明)。
大変高名な方なので先生と接するときは身内といえども緊張する。以下は先生が現場を離れられて「マネージャー業」を自称されておられた頃の話:
篠崎先生:「バイオインフォマティクスは最近どうかね?」
部下櫻井:「はっ、みんながんばってます!」
篠崎研出身者は多すぎて把握できてない。中の人でも全貌はよくわからないのだとか。林田信明(信州大) 井内聖(理研) 関原明(理研) 太地輝昭(東京農大) 清末知宏(学習院大) 櫻井哲也(高知大) 佐久間洋(愛媛大) 本橋令子(静岡大) 吉田理一郎(東北大) 能年義輝(岡山大) 中島一雄(農水省国際農研) 藤田泰成(国際農研) 圓山恭之進(国際農研)(順不同、誰かWikipediaにまとめて下さい)
2024.2.23
中井謙太 (2007, 東大医科研)
名大研究員時代のある年分子生物学会の年会(横浜)でポスター発表してると、「私の研究室でセミナーをしてほしい」と声を掛けられた。それまで全く面識はなかったが、彼の学生時代の業績(PSORTである)は分子生物学の分野では知らない人はいないくらい有名だったので光栄に思い、後日いそいそと白金の研究所を訪問した。後に、理研時代の上司松井南の後輩平山隆志(岡山大)と同級生であることを知る(宇治つながり)。
足がお悪いので不便な車イス生活(車の運転はできるらしい)なのだが、科学界では「車イス=ホーキング=天才」の連想が働くので後光が射して見える。
2024.2.23
鈴木穣 (2007, 東大医科研)
当時のボスは菅野純夫、所内の中井研とはタイトに共同研究を行なっていたようだ。ポスドクとして名大小保方研に在籍していた2007年頃、科研費プロジェクトゲノム特定の菅野さんが「すごいシークエンサー(楽器にあらず)が入ったんだよ」と小保方先生に話されていたのを横で聞いていた。当時はSolexaと呼ばれていたNGS(Next Generation Sequencer)の日本への1台目が医科研に納入されたのであった(その後のIlluminaである)。
私が最初にNGSを論文に使ったのはかのシドニーブレンナー開発のMPSSというひとつ前の型(使用は2006、論文は2009)。名大時代に菅野研のSolexaを使わせて頂いたことはなかったが、2009年に岐阜大に移ってから鈴木さんにNGS解析をお願いした(菅野研なのでOligo-cap、論文は大分遅れて2017)。
転写開始点を決めるためには完全長cDNAを作成してその5’末端部分を調製する必要があるのだが、これにはOligo-Cap(東大菅野研)とCap-Trapper(理研林崎研)というふたつのやり方があった。どちらも日本発なので(Cap構造の発見も日本)日本人的にはめでたい話ではあるが、菅野研と林崎研は国から大型プロジェクトを奪い合う競合関係にありとても仲が悪かった。両者重量級のビッグラボであり、対立にも迫力があった。私は「龍虎の戦い」と密かに呼んでいた。山本研は医学系大型プロジェクトとは無縁の植物系であり、両派の勢力図に影響しない圏外ラボなので、どちらからも警戒されることなくお付き合いすることができた。両方のメソッドで論文を書いているのは私だけではないかと思う。
鈴木先生というのは、頭の良い人が馬車馬のように働くと(馬力もあるのだ)こんなことになるのだな、というレアな実例、別のことばでいえば奇跡である。質、量ともに恐ろしい程の業績を産出し続けている。HPによると2022年の論文は27報でCell Rep, Sci Signal, Nat Commun がある。前年の2021年は53報(!)で、Genome Biol, PLoS Genetics, Stem Cells, 等々々 (リスト長くて最後まで見てません、勘弁して下さい。ちなみに山本研の場合50報出すのに最低10年は欲しいです)。
覚えているのは遺伝研ワークショップ(2011)での発表で、例えて言うならNature Genetics一報、EMBO 三報、NAR 二報の内容をまとめて20分で紹介する、というくらいの怒涛のプレゼンであった。これでは次の演者はどうがんばっても見劣りしてしまって大変だな、と会場の誰もが思うところであるが、悲しいことに次の演者は私なのであった。仕方がないので「すいません、次は私の地味な研究を紹介させて頂きます」みたいな入り方をした(たぶんした)。今思い出したが、このときワタクシの晴れ舞台を見せるべく岐阜から有志学生数名を連れて来ていたのだった。いやはや。
東北の震災(2011)の際には東京エリアは計画停電下にあり、自由に実験できる状況ではなかったが、鈴木さんは発電機を購入して停電時も次世代シークエンサーをガンガン回していた。震災が来ようがパンデミック(コロナウイルス , 2020-3)が来ようが関係なしである。
2024.2.23
Achim Trebst(2004, ボーフム大)
(再録です)
Trebst博士といえば泣く子も黙る光合成阻害剤研究の大御所である。除草剤を用いて光合成の研究をするという時代を作った人であり、彼が1980年に書いた光合成阻害剤の作用機作に関するレビュー(Methods Enzymol)は光合成研究者には必読だった。
さて、2004年に初めてドイツを訪問した際、最初の予定がボーフム大学でのセミナーだった。当時の研究テーマは植物の光ストレス応答だったのでその紹介。今考えて見ると当時は38歳でもう若手とは言えないようなトシになっていたはずなのだが、初ヨーロッパの単独行ということもありそれなりに緊張していた。持参したパソコンはIBM大和製ThinkPad s30という名機(なつかしい)。
さて、紹介したデータのなかにDCMUとDBMIB(いずれも光合成阻害剤)を用いたものがあった。データは光ストレス応答とステートトランジションが同じような特徴を持つことを示唆していた(つまりはちょっとしっくりこないデータであった)。
セミナー後の質問タイムで聴衆の一人がDBMIB処理で光ストレス応答が活性化されるのはどういうことか、カロテノイド合成阻害剤と同じ効果を与えているようだが、という質問をした。私の答えは「DBMIBは光合成のこれこれのところの反応を止めるので、DCMUの結果と合わせて型どおりの解釈をするならばこれこれということになる。ちょっと腑に落ちないのですけどね。カロテノイドについては、、、」とフランクなものであった(いつもこんなんです)。
質問タイムが終わると先ほどの質問者の6~70代くらいの小柄な人がつかつかと私のところへやってきて、ちょっと自分の研究室へ来るといい、と言うのである。すたすたと先導する老人について大学内をしばらく歩くと彼は立ち止まって、「ここが私の部屋だ」と部屋の入り口のネームプレートを指さした。指の先には何と"Prof. Dr. Achim Trebst"と書いてあるではないか!私は知らなかったがTrebst先生はまだ現役だったのである。突然の大先生の出現に私は少々動揺してしまった。 そういえばセミナー室を出る際周りの先生方が何故かにやにやしていたような。
つまり、、、Trebst先生は客の驚く顔が見たくてそれまで自己紹介もせずに学内を連れ回してきたのである。そして、仰々しく自分の名前を指し示したのである。口頭で自分の名前を言うより活字を見せた方がビッグサプライズであると見当をつけていたのだ。とても初犯とは思えない手際のよさなのであった。
そのあと親切にいろいろとお話しして頂いたので、バツの悪さは薄らぎはしたものの、、、、、、ま、Trebst大先生にDBMIBの作用機作を説明したのは世界広しといえども私くらいのものだと思う。世に言うように「無知は力なり」である。
ドイツ訪問の後半でコンスタンツ大に行ったとき、Trebst先生に師事したことがあるというIwona Adamska先生とお会いした。上記のエピソードは格好の酒の肴になったので、個人的には「モトは取った」と思うことにしている。
注)2017年に亡くなられたようで長いobituaryがPhotosynth Resにだされている <link>。
2006頃
ーーーー以下執筆予定ーーーー
近藤孝男(1997, 名大理)記念マグから近藤トロン
名大遺伝子実験施設 迷宮の理学部F館、地下室の住人
辻英夫(1987 京大理) 資料の山 辻イラズ、干杏事件 N88 Basic vs. アセンブラ
佐藤公行(1987, 岡山大理) 河道屋
日高敏隆(1987 京大理)明太バター
村田源(1986 京大理) うるしおが屑事件
京大理植物学教室 Natureの記事 加藤哲也 中山卓也
小保方潤一(1988, 北大遺伝子)シークエンシングは猟師の皮剥ぎ TATA-lessプロモーター
高木信夫(1989, 北大遺伝子)
北大遺伝子実験施設 焼酎のウーロン茶割り
Xing-Wang Deng (1994, イェール大) お祝い受取拒否 50歳誕生パーティー
William Martin(デュッセルドルフ大)ウミウシ
百町満朗(2009, 岐阜大) 実は栽培は嫌い?
瞬間接触編
井上頼直(理研) 秘書二人 舞台袖のADのよう
間接接触編
Hans Mohr(フライブルグ大) Ralf Oelmüller (イエナ大), Gerhard Link (ボーフム大), Albrecht von Arnim (テネシー大)
James D Watson(CSHL) 家見た!
MJ Schleiden(イエナ大) 銅像触った!!
JWv Goethe(イエナ大) Wikipediaには記載ないがイエナ大で植物学と鉱物学を研究