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    気になることば  70集  一覧  分類

    *「ことばとがめ」に見えるものもあるかもしれませんが、背後にある、
    「人間が言語にどうかかわっているか」に力点を置いているつもりです。
    積み上げ式に変更。新しい記事が上にきます。

    20000517
    ■「眼罰子」

     14日、公開講座で4コマほど、つたない話をしました。そのとき、言語地理学の話もしたのですが、教材に「ものもらい(麦粒腫)」をとりあげました。全国図をキレイに塗り分けていくと、ABCBA分布になりますし、東日本ではさらに深い層(時代)を見ることができますので、よく使ってます。

     休み時間に、受講生の方から、面白い話をうかがいました。「曾祖父が大阪の出で、メバチコという語形を使うのですが、ものもらいができた子を歌でからかったんだそうです。『目に罰もらった子』とかなんとか……。だとすると、メバツコという形ができるのも納得できるんです」と。

     ん〜、面白い! なんか、わくわくしますね。

     第一印象としては、メバチコ=眼罰子は、民間語源(使用者語源)ではないか、ということになります。メバチコと言っているけど、なんだかよく分からない。そこで、語源を作って「分かる」ことばにしてみようという営みです。したがって、本来の語源ではないかもしれない。

     しかし、どうなんでしょう。この第一印象にしたがってしまっていいのでしょうか。

     この講座では、美濃地方の「蟷螂」の地図も紹介しました。蟷螂を表す語形として「オガマナトーサン」と「オガンダラ」というのがあります。この二つは深い関係にありそうです。なにしろ、「拝まな通さん」なら「拝んだら」通すわけですから。う〜ん、これは、『通りゃんせ』みたいですね。大げさな言い方かもしれませんが、一つの物語りになっている。ここまでくると、蟷螂を題材とした童歌があって、そこから「オガマナトーサン/オガンダラ」が生まれたと考えた方が自然かもしれません。

     メバチコが、からかいの遊び歌から生まれた可能性がまったくないとはいえないようです。

     『日本言語地図』や『方言の読本』(小学館)で分布をみると、メバチコは大阪湾岸を中心に分布し、その周囲には、目疣が語源であろうメイボ・メンボ・メボなどが分布します。言語地理学的にいえば、古くは、大阪湾岸でもメイボ系の語が使われていたと考えられます。さて、このメイボからメバチコが生まれるには、それなりの衝撃が必要だと思うのです。メイボは十分によく分かる語形ですから、それを捨ててまで別の語形を生み出し、使うようになるには、相応の理由なり力なりが必要だと感じるからです。

     その衝撃として、からかいの遊び歌は、十分なインパクトがあるような気がするのですが、いかがでしょうか。

    20000516
    ■「二+二」
     左の画像は、さきごろ購入した『頭書増補節用集大全』の刊年表示。一瞬、乱視が悪化したかとうたがいました。「三」ではなく「二」が二つ重なっています(以下、「二+二」と表記します)。意味としては「四」。古い時代の書体で、籀文とも、大篆ともいうものの一つだそうです。

     面白いですね。1が「一」、2が「二」、3が「三」、4は「二+二」。理にかなっている。10が「十」なら、20が「廿」、30が「卅」…… というのともパラレルですし。

     そういえば、昔々のアニメで、広告に「三割引き」とあるのを、縦棒二本足して「五割引き」にするというのを見たことがあります。登場人物の一人が「三に二つ足すから五になるんだね」と言っていたの思い出しました。

     ところで、節用集の刊年表示において、なぜ、数字の部分だけ、大篆の字体が現れるのか。これはこれで面白い。「元禄」の「禄」がちょっと変わっているといえば変わっていますが、まぁ、異体字として認められる範囲でしょう。やはり、「二+二」だけ変です。

     実は少々やっかいな問題もあります。私なりの言い方をすれば、書体をモードと取るか、コードと取るかの差、となるでしょうか。「二+二」はコードとしての大篆にはありますが、楷書にはないものです。が、この節用集の「二+二」は楷書で書かれています。モードとしては楷書なわけです。その辺のまぜこぜがあるわけです。ただ、こうしたモード/コードの差という構図が、どこまで漢字に適用できるかという問題もあるかもしれません。とりあえず、ここでは、「二+二」が一般的な漢字ではないことを重視すればよいと思います。

     現代でも、「一・二・三」の代わりに「壱・弐・参」などの字を用いることがあります。書きたして変更されないようにとの配慮です。が、楷書なら「四」ですから変更のおそれはありません。この線ではないようです。

     とすると、単なるペダントリィでしょうか。江戸時代には、何度かシノワズリ(中国趣味)の流行があったそうですし、江戸時代を通じて、範とする思想・文化の多くが中国産でした。そのような趣味で、中国の古い時代の字体が現れたのかもしれません。「正月」とも「初春」ともせず、「孟春」にしたのも分かるような気がします(とはいえ、「孟春」もさして珍しくはないようですが)。

     そこでちょっと裏技を…… と思ったのですが、あまり意味がないことに気付きました。かぶせ彫り・埋め木の線ですが、またにしましょう。


    20000515
    ■地名語源の傍証

     えー、いたって無責任かつ危険な話です。

     旧国名の「武蔵」「相模」。この二語の語源説として、真偽はともかく、有名なものにムサの国を設定するものがあります。相接する武蔵・相模ですが、もとはムサの国といっており、それを上下で細分した。それから出てきたのがムサシ・サガミだ、という説です。分かりやすくしめすと、

         ┌─→ ムサカミ → ムサガミ → 相模
      ムサ─┤
         └─→ ムサシモ → ムサシモ → 武蔵

     う〜ん、美しい。が、しかし、ちょっとうますぎる。で、敬遠してしまいます。もちろん、類例が示されれば、可能性として考えておいてよい、ということにはなります。

     で、類例ですが、長野県の妻籠と馬籠。馬籠峠をはさんで南北に隣り合った中山道の宿場です。もともとこの一帯をツマゴメと言っていたのではないか。で、徐々に言い方が南北で分かれていった……

           ┌─→ ツマゴメ → ツマゴ → 妻籠
      ツマゴメ─┤
           └─→ ツマゴメ → マゴメ → 馬籠

     ツマゴメという言葉もありますので(大辞林 第二版)、信憑性も高いかも? 妻籠も馬籠も漢字表記では共通する部分があるし、妻籠はそのままツマゴメですし……

     それでもやはり、いや、逆に傍証があがるからこそ、うますぎる?


     他の人が以前似たようなことを書いていて、それを読んだのでこんな話を作ったのかもしれませんね。「読んだ」という記憶は(風化して?)ないのですが。そう思うほど、やはりうますぎる。


    20000512
    ■敬語ぎらい

    A「先生、行き先が〈生協〉になってますよ」
    私「わっ。ノックぐらいしなさい」
    A「したんですけど……」
    私「聞こえるようにしてね。で、どんな用事?」
    A「遊びにきました」
    B「違うって。新歓コンパの変更をお伝えにきました」
    私「おっ、約束の変更だね。それは労力のかかることであって、音声連続と意味との契約関係が社会性を有するために、いかに更新されにくいかの……(いかん!) ああ、ありがとう」
    A「(パソコンの画面をのぞきつつ)あ、新しいメールが来てる」
    私「こらこら、タメグチはいかんね。ちゃんと敬語を使いなさい」
    A「でも先生、敬語は嫌いなんでしょ」
    私「え? あはははは(^^;)。使ってくれる分には大歓迎。ははは、は(^^;;;;)」

     そういえば、講義で、そんなことを言ってしまった気もする。でも、ちゃんと教えたよね〜。「里長が声」「佐多が衣」をはじめとして「自敬表現」「親疎関係」「対面す・御覧ず」などなどなど。

     そうはいえど、苦手意識はある。いや、苦手とはちょっと違う。なんだか、こう、興味が向かないというか。いやいや、敬語をめぐるいろいろな現象は、見ていて面白いと思う。だから、興味の問題ではないのかもしれない。

     とすると、どんなことによるのだろう。敬語を敬遠しがちなのは。


     ところで、「佐多が衣」は話自体が長いうえに、いろいろ予備知識を分かってもらわないと面白みが分かってもらえず、毎回苦労しますね。

     新歓コンパは、風邪のため、欠席しました。ゴメン。


    20000510
    ■「マンリン小路」

     愛知県足助町は、紅葉の香嵐渓と、古い町並みが有名です。その町並みの一番風情のある場所として「マンリン小路」があります。

     ところでこの「マンリン」ですが、私、長いこと「マリリン」だと思っていました。シャレて付けたのかな? くらいの関心はあったのですが、なぜか、それから先に進まない悪いクセがあって、そのままにして、長らく誤読してました(汗)。

     あるいは、岐阜県明智町が大正ロマンをかかげ、レトロ調町並みをアピールしているのと混線し、納得してしまったのかもしれませんね。

     さて「マンリン」。小路の入り口に本屋さんがあるのですが、もとは「万林呉服店」だったとか。「万林」の語源は、その店主が代々「万屋林右衛門」を名乗ったからだそうです。片仮名で書くようになった理由は分かりませんが、漢字で書くよりは親しみがもてそうです。それにつられて路地の方もマンリン小路となったのでしょう。が、それが私にとっては不幸のはじまりだった、というわけです。

     それにしても「マンリン」を「マリリン」と読むとは…… まず片仮名だと認識したのでしょうね。漢字のように一字に複数の読みがあることは(とりあえず)考えなくていい──つまり簡単に読める、と判断したのでしょう。一字一字読めばいいのですが、《一気に読んでしまえ!》。そして、自分の頭のなかの語彙と対象したのでしょう。なぜなら、片仮名は読みに対応した記号ですが、その最終的な目的は情報(=意味)の伝達です。まずは、自前の知識(この場合は単語)にあるかないかを確認することになります。知識になければ「分からない」、つまりは、まったく新しい情報ということになり、意味をさがしあてる回路につながるのでしょうね。が、不幸にして、「書くときにマではじまって(リ)ンで終わる四文字の語」を見つけてしまいました。「マリリン」です。そこで誤読が成立したのでしょう。さらに、「マンリン」と「マリリン」では、ンとリが異なるだけですが、一見したところ、字の形が似ていないこともありませんし。

     また、「マンリン小路」を初めてみたときの状況というのも考慮すべきかもしれません。おそらく、町並み関係の本でみたのでしょう。ここのページのように標題を独立してぽんと掲げるタイプなら、ちゃんと読めたかもしれません。が、解説文のなかに「マンリン小路」とある場合はどうでしょうか。上から下に、あるいは左から右に、読んでいきます。そういうとき、音を拾いつつ読むことはしませんね。意味を読み取ることに集中します。知っている言葉があればどんどんスピードをあげていく…… そういうなかでの誤読だったのではないか、と思います。


     注意書き発見。ここの一番下です。私と同じように見誤る人が多いのでしょうか。


    20000508
    ■ふたつの「にせ」

     いろいろな言葉をみていると、どうしてなんだろう、と不思議に思うことがたくさんでてきます。その最たるものが、姿形は同じなのに、別の意味を持つようになるものです。

     たとえば「にせ」という言い方。「にせ」だけでも一つの単語を作りますが、ほかの要素とくっついて新たな単語を作ることもありますね。

     その例として「老舗」という表記を獲得した「しにせ」があります。語源としては、動詞スル(為・仕)と動詞ニス(ニセル。似)がくっついたものです。「老舗」という表記ですから、すぐには「為似」という語源にだどりつけないかもしれませんね。代々、仕来りや作法を先代から学びならってきたもの、というのが元の意味です。(参照)

     もう一つ、気になるのが「贋物・偽物」。これも漢字表記のため、語源が分かりにくくなっていますが、「似せ」て作った「物」です(参照)。

     こうみてくると、「しにせ」と「にせもの」は、兄弟のような関係にある言葉だということになります。しかし、その性格は正反対ですね。「しにせ」は伝統・由緒を感じさせる好ましいニュアンス・意味をもった言葉ですが、「にせもの」は本物ではない、いかがわしいニュアンスのある言葉となっています。どうしてこんな違いが出てくるのでしょうか。

     両者で「にせ」は共通するので、共通しない部分が鍵なのでしょうか。違いは、「し(為)」か「もの(物)」かですが、どうも、この二つの要素が、なにかニュアンスを加えるような働きがあるとは、とても思えません。

     「し(為)」(する)は、何らかの行為を実行するというほどの意味しかなく、「何らかの行為」(実質的な意味)は補う必要があります。「スケッチ」でも「マラソン」でも「早退」でも、あるいは「早弁を」や「恋愛を」でもいいのですが。「もの」もこれに似ています。何らかの物体であることは分かりますが、どんな物体なのかは補ってやらないといけない。「赤い」でも「走る」でも「きれいな」でも「昨日、古本屋で、私が、お金がなくて買いそびれた」でもけっこうです。したがって、「し(為)」にしろ「もの」にしろ、意味のうえでは非常にニュートラルな存在だということになります。

     「しにせ」「にせもの」のニュアンスの差が、外形から迫れないとなると、この二語と人間の営みの経緯をたどるほかないことになります。ただ、それを実行するとなると、想像しただけでも相当骨の折れることだと思います。


     「しにせ」も「にせもの」も、現代の意味のようには固定しないで、自由に使われていた時期があったことでしょう。現代からすると意外ですが、こんな風に使われていたかもしれませんね……
    「この酒は滅法うまいねぇ。のどごしがなんとも言えねぇ」
    「ったりめーよォ。名代の『白鷺』代々のにせものとくらぁ」
    「それにひきかえ、この『青蛙』。ちょっと似てるが、どうにもこうにも」
    「だめだめ。そりゃぁ、ただのしにせだぜ」


    20000507
    ■「コーヒーを立てる」

     「カーテンを引く」(=閉じる)を考えていたとき、「コーヒーを立てる」という言い方を思い出しました。似てるところと違うところがあるなぁ、と思いました。

     あ、この表現、初めてという人もいますか。あるんですよ。たとえばこちらの下の方とか。gooでも検索できました。「コーヒーを立て」「コーヒーを立てる」。私は、学生のころに聞きました。おもしろい言い方だなぁと思ったことです。ただ、まだ「市民権」を得るほどには使われていないかもしれせまんね。私も、インスタントであろうとレギュラーであろうと「コーヒーをいれる」としか言いませんし。

    「コーヒーを立てる」をまず面白いと思うのは、「お茶を立てる」から来ていることでしょうね。

     茶道の流儀にのっとっておこなう場合「お茶を立てる」というわけですが、普通の「お茶をいれる」を使わない点で、何やら特別な趣きが感じられます。それがまた、実際の所作の、素人目には謎めいて見える儀式にも相応じているかのようです。その儀式めいたいれかたもコーヒーにありますね。私はドリッパーしか使いませんが、サイフォンだと、原理を知らないうちは実に不思議に見えたものでした。「きりしたん、ばてれんの魔法」といった趣きです。さじのようなものでかきまわしたりもしますし。それなら「コーヒーを立てる」というのも、ふさわしいように感じます。

     となると、「コーヒーを立てる」はサイフォンなど特別なやり方でいれる場合で、「コーヒーをいれる」は簡便なドリッパーなどを使う場合だ、となることが予想されます。が、まだ確認はできてません。「立てる」お店に行って聞いてみるのもいいかなと思いますけれど。ちょっと、「うずく」ものがありますね。

     仮にそういう使い分けがあるとすれば、(ごく少数の人立ちでしょうが)「お茶を立てる/いれる」を、そのままコーヒーにも流用したことになります。これはこれで面白いですね。


     「金沢娘」。なるほど。「コーヒーを立てる」を使ってみようかな。




    *必ずしもことばだけが話題の中心になっているとはかぎりません。
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    ・金川欣二さん(富山商船高専)の「言語学のお散歩」
    ・齋藤希史さん(奈良女大)の「このごろ」  漢文学者の日常。コンピュータにお強い。
    ことばにも関心がおあり。