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気になることば 第28集   バックナンバー   進行中の「気になることば」へ    
19971007
■37歳

 げっ。37歳になっちまったよ。真剣にうろたえてしまう。

 「そんなに生きてきた覚えはない」。これが正直な感想である。
 何を残してきたというのか。何をなしとげたというのか。まだ何もないじゃないか。
 仰ぎ見るべき先学には事欠かないが、それらの人とくらべて、自分はどうか。

 世間様との懸隔もちょっとは気になる。 いい年して、WWW上でこんなことをしているが、どう思われていることか。

 嫁さんがいない。失踪したのではなくて、まだもらってないという意味です。
 ひところは、「浩宮さまもまだですから‥‥‥」で済ましていたが、彼も結婚してしまった。 ま、世間の風潮からいって、また、近辺にも同胞が少なくないので、一応安心しておこう。

 そういえば、二年前だったか、NHKで『35歳』という番組をやっていた。 偶然とはいえ、私も35歳だった。オープニングではかならず「希望にあふれた未来と、つちかってきた実績がある世代」 (取意)などと言っていた。

 ううぅぅん、「希望にあふれた未来」マイナス2年‥‥‥ まだ残高はあるかな。
 ことば関係のことも一つ。 夏期集中セミナ「きしめん」考というページがあります。 全部読むのはかなり大変ですが、ことばには関心のある方はたくさんいらっしゃることが如実に知れます。
 こういうページを集めてリンクして、『深版国語辞典』というのを作ってみようかなどと思っていますが、 まだほかには一つだけしか見つけてません。何かお気づきのことがありましたら、御教示ください。
 それにしても、こんなことしてる時間はないはずなのだが‥‥‥
19971008
■「腑に落ちる」

 K先生からお手紙がついた。せんだてお送りした「気になることば」のバックナンバーへの感想だ。 そのなかで、私がつかった「腑に落ちる」という言い方が気になっておられた。

 実は、わたしもこの言い方には違和感をもっていた。20年くらい前か。 ただ、何度か目にするうちに使うようになった。いや、それは勘違いで私だけの用法なのかもしれない。 と、手元のテキストなどを検索してみた。
……もう私は耳をふさいで居ります。 あなたから伺った所がどうせこう年を取りますと腑に落ちる気遣いは御座いません。
 ほっ。すでに有島武郎『或る女』にでている。 しかし、「気遣いはございません」と打ち消しの文脈にでてくるあたりは、「腑に落ちない」から抜け出てないとも考えられる。
 「李朝実録」など朝鮮側史料を含む多くの史料によって描かれたこの“ドラマ”は、おもしろく、かつ腑に落ちる(とりわけ(1)において)。
 カーテンコールの後にも拍手は鳴り止まないだろう。(紀)
『毎日新聞』(1993・2・15 朝刊 「新刊」)

○腹に落ちる  納得する。合点がいく。腑に落ちる。
『広辞苑』第4版 CDROM版
 よかった。やっぱり私だけではなかった。
林望の全貌を一望できるサイト、やっぱりあった。http://www.rymbow.com/
19971009
■ら抜き言葉撲滅委員会準備会

 というサイトが旗揚げしたとのお知らせを、岡島さん(福井大)からいただいた。 前にも記したことがあるけれど、現在進行中の言語変化に対しては傍観することにしている。 したがって、このような企画ができても、エールを送るつもりはないし、送っちゃ行けないとも思っている。

 もうすこし言うと、この種の活動が、功を奏するものかどうかには関心がある。 つまり、そうした動きを、幼虫がサナギ・成虫となるのを観察するように見てみようということ。 それはそれで、言語現象の、あるいは言語現象をめぐる人間の動きという、興味をそそらずにはおかない事例になるから。

 冷たい、と見る人もいるだろうが、研究者のとるべき立場の一つとして、ありうべきスタンスではある。 というか、言語現象に対して、さらに人為的な何かをするのは、研究者としては不遜・傲慢だと思えるからである。
 産科の医者が、一人の人間の出生に対して、人為的な操作をするのは犯罪的である。 核現象の研究者が、ストレートな実験結果でなく、「安全ですよ」と印象づけるような操作をしていたら、 人類の存亡にかかわる。
 話が大きくなったが、そういうものと同じ理屈で私は傍観するのである。 そして、多くの言語研究者もそうであろうと思う。

 だから、「美しい日本語を守ろう」などと日本語熱をあおる言語研究者(と見せかけている人)は、ちょっとどうか、と思う。 「美しい」の基準になっているのは何なのか? なぜ日本語は美しいのか? 外国語は汚いのか?‥‥‥  そういった疑問のすべてに、学術的な回答を準備しているのだろうか。
 多分、できまい。先集でもみたように、そこには相当高い確率で「引き寄せ効果の反作用」が生じているといいうるからである。 ひとことでいってしまえば、自分の言葉と違うから劣っている、美しくない、とする論法である。 これだったら、自分の肌の色と違うから劣った人種だ、自分のようには自由に歩けないから身障者は軽蔑に値する、 などという差別の感覚と根はまったく同じである。 行き過ぎた国粋主義・中華思想もこれに加えられるだろう。
このような社会的な現象としての差別につながることを悟ってもらうためにも、 「引き寄せ効果」とその反作用について、大学では講義しています。 そしてまた、このページでも言ってみているわけです。
 実は、話がそれてしまった。軌道修正しよう。
 ラ抜き言葉がなくなる確率は、けっして0だとは思わない。

「一生懸命」ではなく、本来の語源にたちもどった「一所懸命」の表記も最近目にするようになった。 「気の置けない」も本来の「気安い。変に気を使ってはいけない」の意味で使うようにもなってきた。
 このような回帰現象の契機として、一時期、誤用の方を随分と指弾する声があったように記憶している。 やいのやいの言われると、「正しい」方にもどってしまうらしい。 もう少し踏み込んでいえば、「正しい」方を使わないことには教養のなさをひけらかすことになりかねない、 という雰囲気を醸成できたのだとみたい。

 そこまで運動を盛り上げられれば、ラ抜きのなくなる可能性は随分大きくなる。 しかし、それはけっこう大変だろうと思う。 なぜなら‥‥
 と、これ以上書くと、結局は、戦略の一つを教示してしまうことになりそうなので、この辺でおわり。
19971010
■「に比較して」(接続句)
 恐らく時間がなくて強引な結末にしてしまったに違いない。夢野久作にはこの手の作品がたくさんある。それが目立つのは五十枚前後の短編だ。に比較して二十枚以内のショートストーリーには佳品が揃っている。
高橋克彦「偉大なる未完成」(『またふたたびの玉子魔神』中公文庫)
 ちょっとどきっとした。たぶん初めて見た例だ。
 「に」を先頭にした接続句は類例がないではない。思い浮かぶのは「にもかかわらず」「にしても」。 手元のテキストを検索したら次のような例もでてきた。
 マーガレット・ミッチェル(1949年8月16日没)『風と共に去りぬ』のデビューは華々しかった。(中略)しかし彼女は「あらゆる経験と能力をあの1作に注ぎ込んだ」と以後も平凡な主婦であり続け、他に短文すら書かなかった。に比べ我ら雑文書きの節操のなさよ。
『朝日新聞』91.8.15 夕刊
 「に比較して」とほぼ同義のものである。多分、文体差しか違いはないだろう。
 「に比べ」はあと2例ある。いずれも『朝日新聞』のものだ。 で、これ以外にはでてこなかった。ただ、このニ語をにらんでいたら、「に比して」もいけそうな気がしてきた。
 ありとあらゆる資料を漁ったわけではないので確かなことは言えないが、偶然にしてはできすぎているように思う。

 つまり、比較を意味する動詞句は、接続句化する可能性が高いのではないかということ。 ただ、これにはちょっと注釈が必要だろう。

 一つは、比較を意味する動詞句すべてが、接続句化する因子をもともと備えている、という場合。 もう一つは、比較を意味する動詞句のうち、どれかが先行して接続句化したのを契機に、 他の比較系動詞句も同様の性格を帯びるようになったという場合。
 どちらが優位に働いて現状にいたったか、追跡するのもおもしろそうだ。

 このつづきはまた明日。
11時55分補

 2年と4か月使ってきたキーボードがこわれてしまった。
 はじめ、右親指シフトキー(親指シフトキーボードです!)が反応しなくなった。 ゴミでもつまったかと、キーのすきまに息を強く吹き込んでみた。 それが悪かったのか、押して離すと、物理的にはもどるが、電気的にはONのままになってしまった。
 6年使っているオアシス30のは、ひっくりかえしてブルブル震わせても何ともないのに。 同じメーカーの製品とは思えない。 NECに勤めてるいとこの旦那が、DOSVは安上がりにできている、と言っていたのが思い出される。
 いまのところ、普通のキーボードで、「親指ひゅんQ」(疑似親指シフト化ソフト)を介して使っている。自宅のノートはすでにその環境だが、いつまでたってもミスタッチがある。 パソコンに向かうのがちょっと憂鬱になりそうだ。

19971011
■「に比較して」続

 で、こんどは逆に未来を予想してみようと思う。

 比較系動詞句が、過去に通ってきた、あるいは現在も進行中である接続詞化への動きが、 昨日分にしめした二つの可能性のどちらなのかを検討するのは、それはそれでおもしろい。 が、一方では、進行中であることを重視する立場もありうる。 過去の誘因はともかく、接続詞化が進んでいるのは動かしがたいからだ。 となれば、将来、どう展開するかを予想するのも一興というものだろう。

 その際、手掛かりになるのは「比較」の意味だということ。 もう一つの手掛かりは「に比較して」「に比べ」「に比して」に共通し、かつ源流となったであろう、「これ」あるいは「それ」がかぶさった形が現在使われているかどうか、だ。
 「に比較して」で、語感上の落ち着かないと感じた人も「これに比較して」ならまったく問題なく使える形と認められるだろう。 そのような安定・定着した形式から生まれたのが動詞句由来の接続詞だろう。 あるいは、そのような形式が存在するからこそ、省略形ともいえる動詞句由来の接続詞がありえたと思う。(後述)

 そこで、上の条件にあうものをあげれば、「に対して」「に照らして」「に準じて」あたりがあがる。ついで、「によそえて」「に擬して」「にかんがみて」あたりがくる。 あとの三つは、現在使われる場が限られているということで次点になった。

 が、じっくりみると、まえの三つも等しく最有力とは言い切れない。 私の印象だと、「に対して」の原型「これに対して」がもっともよく目にする形だ。 母体がたくさん使われていれば、脱落形が使われても、もとの形を想起しやすく、正しく意味をとることができる。
 あるいは、こう言いかえてもいい。 「これに対して」が、文の最初という固定した位置に現れれば現れるほど、「これ」がなくても、「に対して」の部分だけで用が済んでしまう、ということである。
 毎週見ているドラマのオープニングが、わずらわしいと思ったことはないだろうか。 どうせ毎回同じなんだから分かっている、はやく、今週の分をやらないかな、と気持ちがはやったことはないだろうか。 ビデオの録画でもオープニングを飛ばして、中身のはじまる時間にセットしている人もいるだろう。大事なのは先週と同じオープニングではなく、「違う」今週の中身なのだ。
 というわけで、「これに対して」は、「これ」が脱落しやすい条件も備えていることになる。その点、「に照らして」「に準じて」はおくれをとるだろう。

 そこで、「に対して」という接続詞が将来あらわれるだろうと予想がついた。 さぁて、いつ、お目にかかれるかな。それまでは長生きしたい気がする。
 ただ、すでに「対して」というのが使われることがあるので、 いまさら「に対して」は生まれる必要がないかもしれない。 が、筋は通っているから、生まれるかもしれないし、第二候補以下については有効かと思う。
 寝付きは相かわらず悪い。せめて、来月は早起きしたい。 7時とか6時とか、ケチなことは言わない。いきなり4時起きをめざす。 「月がかわって4時起きよ」ということだ。 (似非「補陀落通信」)
19971012
■駄洒落の出来・不出来
 『風の又三郎』のロードショーを江美ちゃんと三人で見て、その後銀座に出て来た。(中略)
「神奈川、鎌倉、鳩サブレー」
「何よ」
「だからさ、正ちゃん。──《風の鳩サブレー》」(中略)
「うーん、悪くはないんだけどなあ。でも、どこがどうっていえないけど、キミってやっぱり無器用だね」
北村薫『夏の蝉』(創元推理文庫)
 駄洒落はおもしろい。というか、愉快である。

 言語は一つの(複雑な)情報をつたえるのに、時間がたつのに沿って、音声やら文字やらを並べる、という方法をとる。このような性格を「線状性」という。 なんだか、しぼり袋からクリームを押し出すみたいだ。
 人間の能力にはかぎりがあるから、情報を一瞬にして伝えたり、読み取ったりはできない。 しかたがないので、少しずつ情報化(言語化)するのでこうなる。 その代わり、時間さえ自由になれば、どんな複雑な情報でもつたえられるようになっている。 理科でならった輪軸(ドアのノブなど)みたいだね、と学生には話している。

 ところが、洒落は、ひとつらなりの音韻で、二つ(以上)のことがらを情報化するのが命。 うまくいけば拍手喝采ということになるが、これは、無意識のうちに、言語の線状性の限界を見せられての驚き、でもあるのだろう。
 駄洒落もその末裔。おもしろくないはずが、愉快でないはずがない。

 駄洒落作法の最低条件は、可能なかぎり母音をそろえることだろう。
月にかわってお仕置きよ!  tukinikawatte osiokiyo
月がかわって四時起きよ!  tukigakawatteyoziokiyo
 一か所だけ母音があわないが、まぁ、見事な部類ですね(自画自賛)。 これくらいはあわないと「無器用」(あ、北村は「無」派なのね)になってしまうのだろう。
 もちろん、子音もあっていた方がいい。

 母音を合わせるだけなら「五時起き」でもいいはずだが、ぽんと「四時起き」がでてきた。 子音のない部分に注1子音をあてなければならないとき、やっぱり、聴覚上の印象がうすいものの方がいいようだ。 そこで、衝撃の強い破裂音gではなく注2、摩擦音y[j]をあてたのだろう。 摩擦音といってもその摩擦は、他の摩擦音(サハ行子音)より耳に障らないようにもおもう。 ワ行子音とともに半子音とも呼ばれるだけのことはある。
注1 形態素のはじめの母音には、発音の始まりのときに声門の破裂があるが (場合によっては表記する)、そういう細かいことはここでは無視しておいていいだろう。
注2 発話のなかでは摩擦音化することもあるが、この例ではその可能性は少ないだろう。

 しかし、こんなことばかりしていると、来月あたり、クビになるかもしれない。 路頭に迷ってしまう。ホームレス生活か…… 「月がかわって路地起きよ」ということか。(似非「補陀落通信」2)
19971013
■r音の性格

 先回末尾の「路地(露地)起きよ」のロの子音(r)は、純然たる子音ではないか、という人もいるかもしれない。 たしかに、音声学の教科書のどれをとっても半子音などには分類してない。 しかしですね、ラ行子音(破裂音・摩擦音と同じレベルの術語でいえば「はじき音」)というのも 子音らしくない面があるんです。

 子音というと、肺からでる息(呼気)をせきとめてから一気に出したり(破裂音)、 雑音が聞こえるほどにせばめたり(摩擦音)などして、 素直に呼気を体外へださないという特徴があります。
 このような障害物の有無という点からみると、子音にはそれがあり、母音にはそれがない、 といっておいてよいでしょう。

 ところが、こういう分類というものは、えてして、截然とはいかずに、 中間種をみとめざるをえないことがあります。 それが、ヤ・ワ行子音のような半子音とか半母音とか言われるものたち。 子音と呼ばれるほど、狭めるわけではないが、かといって母音とも言い切れないわけです。

 そういう点からみると、日本語では、ラ行子音もその仲間に近いことになります。
 実験してみましょう。「ラ」を発音する寸前、下の先っちょは、 上歯の裏からそれにつづく歯茎にあります。 その状態のまま、息を出してみましょう。低く「ウ〜」のような音が聞こえますね。 けれども変なこすれるような音はでないはずです。すなわち、呼気はスムーズに流れている。 つまり、障害は大きくないわけで、その意味で「r」は子音らしからぬ子音ということになります。
 ね、半子音・半母音的でしょ。
 英語の[l]のある種のもの(darkl)は、上で「ウ〜」と出した音に近い。 そして母音であるかのような振る舞いもする。たとえば、おなじみの litte (小さい)は lit・tle と音節がきれる。のちの音節の主音は母音ではなく、[l]がになっている。
 ううむ。子音もなかなかやりますね。欧米系の音声学の教科書には、かならず記述されていることですけれど。
 というわけで、わたしは「月にかわってお仕置きよ!」の駄洒落として
  月がかわって四時起きよ!
  月がかわって露地起きよ!
 の二つは、ほぼおなじ完成度にある、と思っているのです。
 本家『補陀落通信』を紹介しておかないと礼を失しますね。 最新号はこちらです。 私なりのベストは「第143回 神は死んだか仏はまだかいな」です。
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