『伊勢物語』の「みちのくのしのぶもぢずりたれゆゑに乱れそめにしわれならなくに」などに名のみえる忍捩摺(しのぶもじず)り(忍摺り)にちなみ、忍捩摺りのかすれた細かいもじり模様が、ネジバナのねじれて連なる状態に似ていることからつけられた。(『日本大百科全書』電子ブック版)こうなれば溜飲も下がろうというもの。「もじる」が「ねじる」の古形であることや、どれほど確証のあることなのかがが気になるが、よくぞちなんてくれたと思う。
東京大学文学部国語研究室所蔵鈴鹿河内守隆啓旧蔵江戸時代初期鈔『和名類聚抄中』は、(梅谷文夫『狩谷■(=木+夜)斎』吉川弘文館)訓読みがところどころ入っているので、単に漢字だけで書かれた長い語ということになる。
じゅげむ【寿限無】落語の一。生れた男の子に檀那寺の住職から「寿限無寿限無、五劫のすり切れ(ず)、海砂利水魚の水行末、雲行末、風来末、食う寝る所に住む所、やぶら小路ぶら小路(藪柑子とも)、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助」という長い名をつけてもらい、何かのたびにそれを繰り返すおかしみが狙いの前座ばなし。載ってる……
ア・ヤ・ワ三行の歴史を、許容された母音連続と許容されなかった母音連続という仮説によって論じ、シラビーム言語からモーラ言語への転換の原因と、拗音の成立とに論及する(柳田征司氏。愛媛大学教育学部紀要人文社会科学16 1984)何だかつらくなってきた。今日はここまで。
そんなお調子者が、どうして人前に立つのを、尻ごむようになったのか。(森田誠吾「帰郷」)私なら「尻ごみする」というところだ。「引っ越す/引っ越しする」など、他にもいろいろ例があろう。今後も、連用形名詞にしてからスルをつけて動詞化することが、どんどん進むだろう。その流れのなかに自分も身を置いていることを確認させたのが「尻ごむ」なのである。もちろん、長いスパンで過去にも目を配れば、いくらでも類例はあろうから、他にこれといった感慨があるわけではない。
あの眼の群を感じて以来、多くの人の視線を浴びることは禁物と、人前に立つのを尻ごむようになったのである。(同)
丁度本稿執筆中、(四月十八日)南逓信大臣の「国語国字の統一について」と題する放送がAKからあつたが、その中で逓相も文字横書の乱脈さを指摘せられ嘆かれたことである。(中略)不統一ぶりとともに、統一が施されたという事実も面白い。昭和8年ころに、右書きへ戻そうとする機運が起こったのだろうか。知りたいところである。
私は四年ほど前、日本の大玄関ともいふべき東京駅頭に、その壮観さを誇る丸ビルの各階窓文字を見て驚いたのである。(中略)然もその横書きに至つては実に見難いものであつた。右書左書、私は実際淋しくなつて了つたのである。(中略)
最近本稿を起すに当つて、記念の為にこれを写して置かうと思ひ、筆紙を用意して出かけて行つて見た。ところが、何時訂正されたものか、皆一様に右書きになつてゐる。私は一応はガツカりしたのであるが少なからず嬉しくなつた。
私は一日も早く、この書式の一定されんことを希求してやまないものである。而して出来得べくんぱ(pa!−−佐藤注)従来通り右書にしたいと思ふものである。ともあるので、「右書き」とは「右から左へ書くこと」のようである。
○開(!−−佐藤注)札口(向つて左端)の先まちまちな横書きを示すその表記法がまちまちなのも好もしい(うーん。同じ全角空白なのに行頭が揃わない)。序文は、なるほどというかよくもというか松下大三郎である。古本屋で見かけたらお買い求めになるといいでしょう。多分、あまり高くはないと思います(4年くらい前か、銀座松屋の古本市で1000円。出展、五十嵐書店)。
フイチン‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥\
>縦書
ライオン歯磨‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥/
〇地下道
クラブ美身(!−−佐藤注)クリーム‥‥\
>右書
ヒゲタ醤油‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥/
ポリタミン‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥\
>左書
ビオフエルミン‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥/
クラブ石鹸‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥右書
クラブ白粉‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥右書
「あ、10円ダラ貸してくれる?」このダラは英語のdollarで硬貨のこと。私の母親(青森県東津軽郡三厩村出身)も使っていたという。『日本国語大辞典』(小学館)にも載っていた。一時は、広く使われた言い方らしく、ダラーの項では小説の例が載っている。
「えっ、10円ダラって何です?」
「ああ、10円玉のことよ」
「へえ、その言い方面白いなぁ。じゃ、お年玉はお年ダラって言うんですか」
「いえ、それはお年玉といいます‥‥‥」
このあとマッコの話なんてできると思う? (マッコ=お年玉)
清潔感なんていらない。清潔であればいい。というのがあって、なるほどと思った。「相手に清潔感を与える」などと使われるが、これは、好感を持たせるための手段として、男女交際とか会社面接などの手引きに出てくる。相手の気を引こうというあたり、ものほしげで、不潔不純ですらあるともいえる。そんな背景が、この「家訓」の背後にあるような気がするのだが、考えすぎだろうか。
金田一春彦「不変化助動詞の本質」助動詞ってのは活用変化があるから助動詞のはず。「不変化助動詞」とは如何。「春雨」のように子音の挿入は概説書にも必ず書いてあるのに、「語頭子音の脱落」とは何だろう‥‥‥ この、読まずにはおかせない不思議さは、まるで白坂道子さん(懐カシー)の朗読で「神無月のころ、栗栖野というところを過ぎて‥‥」などとやられたのと同じくらい、こちらの興味・興趣をかきたてられるのである。
山口佳紀「古代日本語における語頭子音の脱落」
日本語にける「日本人の日本人に対する断り」と「日本人のアメリカ人に対する断り」の比較−−社会言語学のレベルのフォリナートーク著者名と雑誌名は掲げないでおこう。
清音濁音の史的対応(5編所収)/音韻現象と掛詞修辞(3編)/音節構造と文字表記(4編)/読癖注記と史的解釈(4編)/読癖注記と表記体系(4編)さらにそれぞれの章の論文名も「4字名詞+1字助詞(ト・ノ)+4字名詞」で統一されている。唯一の例外も「中間音的な発音注記」と4・1・4構成だ。やっぱり自分にはできないんじゃないかと思う。