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気になることば 第2集   バックナンバー   最新
19960916

■はじめの人のこころをしぞ……



 岐阜大学に来て初めてこの花を見た。そのときの感動はいまも忘れられない。

 キャンパスには5月ともなると、歩道に沿って植えられたヒラドツツジが、大きなショッキング・ピンクの花をつける。桜が散って寂しくなったころなので、うきうきした気分にはなる。が、これ見よがしに沢山咲くので、すぐに鼻につく。

 それを過ぎた7月。この花が咲いてくれる。花が米粒ほどなのもつつましい。それが螺旋状に上へ延びている姿は、まさに造化の妙である。世の中に、こんなにも可憐で美しい花があったものかと、我が目を疑ったものである。

 そこで、その名を調べてみた。最近では引きやすい植物図鑑が手に入りやすく、すぐに知れた。ネジバナ……

 がっかりした。

 正直言って、感動は吹き飛んだ。そのまんまじゃないか。どうしてもっと感興をもよおす名でないのか。私にはどうにも合点がいかなかった。

 ただ、モジズリ(文字摺)というゆかしげな別名がある。古歌にも「しのぶもぢずり誰ゆゑに」とある。少し気をとりなおしたが、果して「もぢずり」とモジズリは同じものだろうか。

 「しのぶもじずり」はシダ類のシノブグサを布にすりつけたもの。やはり別である。では無関係かというとそうでもないらしい。

 『伊勢物語』の「みちのくのしのぶもぢずりたれゆゑに乱れそめにしわれならなくに」などに名のみえる忍捩摺(しのぶもじず)り(忍摺り)にちなみ、忍捩摺りのかすれた細かいもじり模様が、ネジバナのねじれて連なる状態に似ていることからつけられた。(『日本大百科全書』電子ブック版)
 こうなれば溜飲も下がろうというもの。「もじる」が「ねじる」の古形であることや、どれほど確証のあることなのかがが気になるが、よくぞちなんてくれたと思う。

 が、やはり別称は別称。だれが最初にモジズリをしりぞけてネジバナを通称にしたのか。初めの人の心が知りたくもある。


 とりあえずこの辺で。やりはじめると、「文字(モジ)摺」と「捩(モヂ)る」の不整合をはじめ、歌論書から本草書まで読むことになりそうなので。


■長い単語



 昨日のネジバナの続きではないが、やはり、ゆかしげな名というものは、出会っただけでワクワクする。たとえば、リュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシ(竜宮の乙姫の元結の切り外し)という植物がある。夢のような名前。聞いただけでゾクゾクする。通称アマモ(甘藻)、別称モシオグサ(藻塩草)とくれば「藻塩焼く…」などの古歌が浮かぶ人もいることだろう。

 このリュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシだが、和語(大和言葉)としては、一番長い単語だという。たしか、金田一春彦氏だったか、紹介していたように思う。最も長い英単語は知っていても(あれ、辞書を引いても出てこないぞ)、これを知らない人は多いのでは。

 漢語の場合は、どんなにで長くできそうだ。が、実見したものでは次のようなものがあるが、

 東京大学文学部国語研究室所蔵鈴鹿河内守隆啓旧蔵江戸時代初期鈔『和名類聚抄中』は、(梅谷文夫『狩谷■(=木+夜)斎』吉川弘文館)  
 訓読みがところどころ入っているので、単に漢字だけで書かれた長い語ということになる。

 人名なら「寿限無……」だが、落語集は手元にない。が、『広辞苑』(第4版。CD−ROM版)が目についた。

 じゅげむ【寿限無】落語の一。生れた男の子に檀那寺の住職から「寿限無寿限無、五劫のすり切れ(ず)、海砂利水魚の水行末、雲行末、風来末、食う寝る所に住む所、やぶら小路ぶら小路(藪柑子とも)、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助」という長い名をつけてもらい、何かのたびにそれを繰り返すおかしみが狙いの前座ばなし。
 載ってる……

 論文の題目では、

 ア・ヤ・ワ三行の歴史を、許容された母音連続と許容されなかった母音連続という仮説によって論じ、シラビーム言語からモーラ言語への転換の原因と、拗音の成立とに論及する(柳田征司氏。愛媛大学教育学部紀要人文社会科学16 1984)
 何だかつらくなってきた。今日はここまで。

19960918

■いろは引きのこと



 岡島さんの【いろは順】を見て思い出した本がある。大町桂月編『模範音引いろは引大辞典』(日々堂書店)である。大正13年9月発行とだけあるので初版なのだろう。片仮名書きした直下に漢字と簡単な注釈を掲げるもので、現在なら用字集と呼ばれるものだろうが、時代からみて節用集の末裔と考えたいものである。

 さて、この本の面白いところは、『模範音引いろは引大辞典』の書名が、箱の背にも右側面にも、本の背にも扉にも書かれてあるのだが、「例言」に「本書は、五十音の発音の順序に従って夫々、辞句を排列せり。」とある点である。これで本文がイロハ引きだとなお面白いのだが、いろは索引がつくだけ。

 それにしても、なぜこんなことになったのだろうか。岡島流に言えば、五十音引きの辞書を作ってしまったが、まだ庶民のあいだに五十音引きが浸透していなかったため、書名だけ「いろは引」を歌ったということか。

 しかし、中をみれば一発でばれてしまう。中を見ないで本を買うということは、現在ではあまりないことだが(店頭に出ることが少ない研究書ではそうもいかないことがあって泣きをみることがないではない)、 あるいは、通信販売専用品という可能性も考えられるか。当時、そのような販売方法が一般的だったかどうかわからないが。

 もちろん、そうだとしても詐欺である。大町桂月も名を貸すはずはなかろう。名だけではない。序も寄せている。序も贋作なのかもしれないが、そこまで疑ってもあとが知れないので、今は置く。

 その序の末に「大正八年冬」とあって発行よりも五年早い。となると、桂月の序のころには、名実ともなった『模範音引いろは引大辞典』があったのかもしれない。

 となると、なぜ五十音引きにしたのかが気になる。書名でも歌っているように、仮名遣いによらない発音引き辞書である。この先進性のため、旧来のイロハ引きを廃したことが考えられる。

 大正をはさんだ前後10数年、少々気になりだしてきた。
19960919

■再動詞化



 『中くらいの妻』('93年版ベストエッセイ集。文春文庫)を読んでいてはっとした。

 そんなお調子者が、どうして人前に立つのを、尻ごむようになったのか。(森田誠吾「帰郷」)

 あの眼の群を感じて以来、多くの人の視線を浴びることは禁物と、人前に立つのを尻ごむようになったのである。(同)
 私なら「尻ごみする」というところだ。「引っ越す/引っ越しする」など、他にもいろいろ例があろう。今後も、連用形名詞にしてからスルをつけて動詞化することが、どんどん進むだろう。その流れのなかに自分も身を置いていることを確認させたのが「尻ごむ」なのである。もちろん、長いスパンで過去にも目を配れば、いくらでも類例はあろうから、他にこれといった感慨があるわけではない。



 かつて、大野晋『日本語の文法を考える』(岩波新書)で、北関東の「来(き)ない」などの用法から東京でもカ変が一段化し、「論ずる」などの漢語サ変動詞が一段的に使われることなどから、五段・上一・下一の三つの活用に簡単化すると予測した。

 たしかに北関東の「来る」はそうなのだが、現在では共通語化の方が勢力が強いようで、当分、一段化することはないだろう。一方、サ変の方の流れは押し止められそうにない。が、これも一字漢語ザ(?)変に限られるようである。そのうえ、再動詞化という単純化を引き起こすだけの力を備えた「する」である。動作性名詞なら漢語だろうが外来語だろうが動詞化することもできる。いや、動作性名詞に限らないか。さほどに愛用されているのだから、活用の認知も確固としていて、そう簡単には一段化しないのではないかと思う。



 ただ、岐阜では再動詞化の例を平均より多く目にし耳にするように思う。毎月配布してくれる生協の簡単なパンフレットなどからは、簡単に2〜3例は引ける。一方、岐阜市を含む岐阜県南部では、「下書きしずに、色を塗る」という言い方がかなり行われている。サ変再動詞化が(おそらくは)盛んなところで、サ変の一段化傾向が普通に見られるのだ。

 これはどう考えたらよいのか。

 再活用化と活用語尾の変化。そのうえ、共通語と美濃方言という別な言語体系での話。それぞれに別のこととかたづけるのが普通なのかもしれないが、何やら関係があるようにも思うけれど。


19960920

■右からの横書き



 前々日の大町桂月編『模範音引いろは引大辞典』(大正13年9月刊)だが、ケース側面の題名は左から右への横書きになっている。今の目でみれば何でもないが、戦前であることを考えると、右から左(もちろん「1行1字詰めの縦書き」というのが正確なのだろうが)で書かれてもよいはず。で、他のものも見ると、岡山の中国民報社編『新聞語辞典』(昭和8年刊)や青森の東奥日報社編『東奥日用語辞典及び青森県方言集』(昭和7年刊)も表紙の題名は左から右への横書きだった。辞典類は戦前からそうなっていたのただろうか。

 そこで浅野信『巷間の言語省察』(昭和8年、中文館書店)をみると、やはり当時でも、議論のやかましかったことが知れる。

 丁度本稿執筆中、(四月十八日)南逓信大臣の「国語国字の統一について」と題する放送がAKからあつたが、その中で逓相も文字横書の乱脈さを指摘せられ嘆かれたことである。(中略)

 私は四年ほど前、日本の大玄関ともいふべき東京駅頭に、その壮観さを誇る丸ビルの各階窓文字を見て驚いたのである。(中略)然もその横書きに至つては実に見難いものであつた。右書左書、私は実際淋しくなつて了つたのである。(中略)

 最近本稿を起すに当つて、記念の為にこれを写して置かうと思ひ、筆紙を用意して出かけて行つて見た。ところが、何時訂正されたものか、皆一様に右書きになつてゐる。私は一応はガツカりしたのであるが少なからず嬉しくなつた。
 不統一ぶりとともに、統一が施されたという事実も面白い。昭和8年ころに、右書きへ戻そうとする機運が起こったのだろうか。知りたいところである。

 実は私は、「右書き/左書き」とだけ言われるとどっちが何なのか分からなくなる方である。この章の末に、

 私は一日も早く、この書式の一定されんことを希求してやまないものである。而して出来得べくんぱ(pa!−−佐藤注)従来通り右書にしたいと思ふものである。
ともあるので、「右書き」とは「右から左へ書くこと」のようである。



 この本、ワードウォッチングの昭和初期のものとして、結構面白い。流行語などを集めたり解説したりするものは少なくないが、これはもっと地味なところにも注目している。たとえば、横書きについては東京駅地下道の「ネオンライト」の例が一々に挙げられていたりする。

  ○開(!−−佐藤注)札口(向つて左端)の先

 フイチン‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥\

                           >縦書

   ライオン歯磨‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥/

  〇地下道

 クラブ美身(!−−佐藤注)クリーム‥‥\

                           >右書

   ヒゲタ醤油‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥/

 ポリタミン‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥\

                           >左書

   ビオフエルミン‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥/

 クラブ石鹸‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥右書

 クラブ白粉‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥右書
 まちまちな横書きを示すその表記法がまちまちなのも好もしい(うーん。同じ全角空白なのに行頭が揃わない)。序文は、なるほどというかよくもというか松下大三郎である。古本屋で見かけたらお買い求めになるといいでしょう。多分、あまり高くはないと思います(4年くらい前か、銀座松屋の古本市で1000円。出展、五十嵐書店)。 
19960921

■十円玉(ダラ)



 岡島さんのアポロのように、方言にだけ外来語が残るというのも面白い現象だと思う。

伊奈かっぺい(10年くらい前が全盛期。タレント。青森県弘前市出身。連続テレビ小説『チョッちゃん』『かっぺい・アッコのおかしな二人』(だったかしら)『俺は田舎のプレスリー』などに出演。現在、津軽弁を主にしたライブ(歌はほとんどない)を中心に活動。年内にはライブ版のLP・CDが20種に及ぶ予定。青森市内の観光物産館アスパムなどで彼のキャラクター・グッズを見ることができる)の著書『大都会への逆襲・津軽だぺッ』(ワニブックス 1987)に次のような、伊奈と東京人某との会話が載っている(家に忘れてきたので細部は自信なし)。

 「あ、10円ダラ貸してくれる?」

 「えっ、10円ダラって何です?」

 「ああ、10円玉のことよ」

 「へえ、その言い方面白いなぁ。じゃ、お年玉はお年ダラって言うんですか」

 「いえ、それはお年玉といいます‥‥‥」

 このあとマッコの話なんてできると思う?          (マッコ=お年玉)

 このダラは英語のdollarで硬貨のこと。私の母親(青森県東津軽郡三厩村出身)も使っていたという。『日本国語大辞典』(小学館)にも載っていた。一時は、広く使われた言い方らしく、ダラーの項では小説の例が載っている。

 さて、この伊奈かっぺい氏、言葉と言葉遊びを中心としたライブをやっているせいか、なかなか言語感覚が鋭い。たとえば、「わが家の家訓」シリーズでは、

 清潔感なんていらない。清潔であればいい。
というのがあって、なるほどと思った。「相手に清潔感を与える」などと使われるが、これは、好感を持たせるための手段として、男女交際とか会社面接などの手引きに出てくる。相手の気を引こうというあたり、ものほしげで、不潔不純ですらあるともいえる。そんな背景が、この「家訓」の背後にあるような気がするのだが、考えすぎだろうか。


19960922

■面食い的勉強法



 私の出身大学(埼玉大学)の日本文化研究室には、国語学関係の書籍がほとんどなかった。なぜか、『国語学』や『国語と国文学』などの製本されたものがあっただけだった。そんな環境でよくもやっていたものと思う。

 さて、そんななかでの気ままな勉強法として、題名で気になった論文から読んでいく、などということをやっていた。たとえば、次のような不思議な題名の論文から読むのである。

 金田一春彦「不変化助動詞の本質」

 山口佳紀「古代日本語における語頭子音の脱落」

 助動詞ってのは活用変化があるから助動詞のはず。「不変化助動詞」とは如何。「春雨」のように子音の挿入は概説書にも必ず書いてあるのに、「語頭子音の脱落」とは何だろう‥‥‥ この、読まずにはおかせない不思議さは、まるで白坂道子さん(懐カシー)の朗読で「神無月のころ、栗栖野というところを過ぎて‥‥」などとやられたのと同じくらい、こちらの興味・興趣をかきたてられるのである。

 この癖がいまでもときおり顔を出す。次のようなものに出会うと頭が痛くなる。

 日本語にける「日本人の日本人に対する断り」と「日本人のアメリカ人に対する断り」の比較−−社会言語学のレベルのフォリナートーク
 著者名と雑誌名は掲げないでおこう。

 簡潔で美しいという題名にもあこがれる。自分には到底できそうにないから。たとえば遠藤邦基氏の『国語表現と音韻現象』では、つぎのように「4字名詞+1字助詞(ト・ノ)+4字名詞」という章で構成されている。

 清音濁音の史的対応(5編所収)/音韻現象と掛詞修辞(3編)/音節構造と文字表記(4編)/読癖注記と史的解釈(4編)/読癖注記と表記体系(4編)
 さらにそれぞれの章の論文名も「4字名詞+1字助詞(ト・ノ)+4字名詞」で統一されている。唯一の例外も「中間音的な発音注記」と4・1・4構成だ。やっぱり自分にはできないんじゃないかと思う。


 昨日から風邪をひいております。今日はもっと悪くなったようです。これから医者に行きます。