初出:『岐阜大学地域科学部研究報告』第18号(2006)pp. 59-71. この論文のPDF版はこちら(岐阜大学機関リポジトリ)。

読書の伝道者,ジェイムズ・ラッキントン


内 田  勝

(2005年11月28日受理)

James Lackington as Missionary of Reading

Masaru UCHIDA



1.本が読みたい,でもどんな本を?
 
 1768年に故郷の村を離れてブリストルの町にやって来た渡りの靴職人,ジェイムズ・ラッキントン(James Lackington)は,やがて下宿先の息子でやはり靴職人のジョン・ジョーンズ(John Jones)と親友になった。すでにメソジストの信仰を通じて字を読む喜びを覚え,書物に興味があったラッキントンは,親友のジョーンズにも読書を勧め,ともに知識を深めようとする。しかし二人の若者の前に強大な障壁が立ちはだかった。本を読むと言っても,いったい何を読めばいいのか分からなかったのである。

我々はそうしたこと[本を買うこと]についてあまりに無知だったので,二人とも自分たちが読むのに適した本は何なのかが分からず,店でどの本をくれと言えばいいのかも分かりませんでした。なぜならそれまで,本のタイトルページなんて,ほとんど見たことも聞いたこともなかったのですから。いくつかの宗教書なら別ですが,その時は宗教書を読む気などなかったのです。だから我々は,知識の蓄えであるわずかな蔵書を,どうやって増やしていけばいいのか途方に暮れてしまいました。ここで考えずにいられないのは,もしもあの時,運命の女神が適切な本を投げ与えてくれていれば,我々はやがて書物についてのまっとうな鑑識眼を身に付け,少しはまともな進歩を遂げることができたはずだということです。しかし我々はあまりに無知蒙昧で,そこから脱却するのはほとんど不可能なことでした。
(Lackington 1791: 83-4, 以下,原文から日本語への翻訳は,邦訳文献からの引用を除いてすべて私[内田]によるものであり,引用文の角括弧内は私による補足である)

 「何を頼めばいいかが分からないので,恥ずかしくて書店に足を踏み入れることができませんでした」(Lackington 1791: 84)という彼らは,ちゃんとした書店を訪れる代わりに,年に一度の市が立った日に露店で売られている古本を買うことにした。しかし彼らは,ホメロスが有名な詩人だというあいまいな知識だけを頼りに,定評のあるポウプ訳ではなくホッブズ訳のホメロスを買ってしまった。流麗なポウプ訳のホメロスを楽しむ代わりに,生硬で難解なホッブズの翻訳に苦しめられた彼らは,先達のいない悲しさを味わう羽目になる。
 それから20年余りが経ち,若かったころの自分を振り返ってラッキントンは語っている。「今もイングランドの何千もの人々が,当時の我々と同じ状況に置かれているのです。実に多くの人が私の店にやって来ますが,彼らは知識を得たいと望む気持ちを持ちながら,何を頼めばいいのか分からずまったく途方に暮れています。導いてくれる友がいないからです」(84)。「私の店」とは,ラッキントンが開いていた書店のことである。今やラッキントンは,ロンドンの有力書籍商の一人になっていた。それもこの文章を書いた2年後の1793年には,ロンドン最大の書店「ミューズの神殿」(The Temple of the Muses)を開店させるほどの大書籍商に。


2.ジェイムズ・ラッキントンと『回想録』
 
ラッキントン(James Lackington, 1746-1815) 
イギリスの書籍商。サマーセット州の貧しい靴職人の家に生まれ,自らも靴職人であったが,メソジストとなって宗教書を読み出したのがきっかけで読書に目覚め,渡り職人として働く一方でさまざまな分野の書物を読み漁った。やがてロンドンに出て書店を開業すると,売れ残り本の値下げ販売・薄利多売・現金取引のみという画期的な方針を貫くことで,他店に真似のできない徹底した安売りを行なって店を急成長させ,ついには当時ロンドン最大の書店「ミューズの神殿」を開店するに至った。自伝『ラッキントン回想録』(1791)がある。

 プルーマーの『印刷業者・書籍商人名辞典』の記載(Plomer et al. 1932: 149)などを参考にして,ラッキントンの人生を百科事典の項目風にまとめるなら,上のようなことになるだろう。田舎の貧しい職人から身を起こし,首都ロンドンで最大の書店経営者という華やかな地位にまで上り詰めた,まさに立志伝中の人物である。
 実際,彼の自伝『ジェイムズ・ラッキントン四十五年の半生の回想録』(Memoirs of the First Forty-Five Years of the Life of James Lackington, 以下『回想録』と記す)は,19世紀にはサミュエル・スマイルズの『自助論(西国立志編)』(Self-Help, 1859)と同種の立志伝として読まれたらしい。歴史学者のジェイムズ・レイヴンは,19世紀に出された版の『回想録』に当時の編者が寄せた序文を引用しながらこう述べている。「1827年に出た新版『回想録』[の序文]は,『自助論』より60年以上前の,前世紀に書かれたこの書物を,そうした[立志伝という]寓話として捉えている。『この幸運な書籍商による散漫な回想録は,もっぱら著者自身の偉大さをひけらかすような種類の書物に属するが,それでも生来の聡明さと勤勉と倹約が,蓄財と独立独歩につながる過程を記録したものとして,興味深いものがなくはない』」(Raven 1994: 16)。
 ラッキントンの『回想録』初版は,ロンドンのチズウェル・ストリートにあった彼自身の書店から,1791年に出版された。彼の存命中にイギリス国内で出版されたその他の版としては,加筆された「新版」("new edition")が1792年,さらに加筆された「新版」(実質上の第3版)およびその再版である第7〜9版が1794年,第10版が1795年に出版され,さらにラッキントンが書籍商を引退した後,彼の書店の後継者たちによる「新版」が1803年,第13版が1813年に出ている。第3版の後がいきなり第7版になったりするのは,実際以上に版を重ねた人気のある書物のように見せかけるための,出版者側の小細工だと考えられる(Landon 1976: 388-9)。本論執筆にあたって私が入手できたのは初版と第9版だが,ここでは主として初版を扱い,必要に応じて,加筆された第9版にも言及することにする。
 『回想録』初版の表紙を開くと,まず巻頭にはラッキントンの肖像画が掲げられ,肖像画の上にはラテン語で "Sutor Ultra Crepidam Feliciter ausus"(身分を弁えぬ靴屋が危険を冒して幸運をつかむ)と書かれている。さらに肖像画の下には英語で "J. LACKINGTON, Who a few years since began Business with five Pounds; now sells one Hundred Thousand Volumes Annually."(J・ラッキントン,数年前に5ポンドを元手に商売を始め,今では年間10万冊の本を売る男)と書かれている。これらの言葉は,この本に書かれた限りでの彼の半生を見事に要約していると言える。
 書名と発行元・発売元を記したタイトルページに続いて,「三部構成の献辞」("A Triple Dedication")という奇妙な献辞が現れる。最初の「一般の方々へ」で読者を,次の「有徳の書籍商の方々へ」で味方の同業者を持ち上げた著者ラッキントンは,最後の「下劣にして邪悪なる書籍商の方々へ」では,「私が一般の方々や同業者からこれほどの信頼を勝ち取って成功を収めることができたのも,皆様が精を出して私の悪口を言ってくれたおかげです」と,彼に敵対する同業者たちを皮肉っている。
 次の「序文」("Preface")では出版の経緯が語られる。著者によれば,彼を故意に貶めようとする者たちが,彼の伝記的事実に関して「落ち目の定期刊行物」(Lackington 1791: xiii)などにデタラメを書き立てるおそれがあるという。そのため「私はある友人や,他の人たちから,お前が自分で伝記を書かないと奴ら[敵たち]が書くぞと繰り返し脅かされていたのですが,やがてこの友人は私に(決着をつけるのに最も適切なやり方として)ときどき暇な時間を割いて,私の人生の中で最も重要な出来事のいくつかを書き記し,手紙の形で彼に送るように言いました」(Lackington 1791: xiv)ということになり,手紙を読んだその友人が,なかなか面白い文章なので広く一般の人々にも読んでもらえるよう出版を薦めた,というのが本書の刊行の動機だというのだ。
 「序文」で語られた成立事情が事実であるかどうかはともかく,この自伝の本文は,著者ラッキントンがある友人に宛てた手紙(初版では41通,加筆された第9版では48通)という形式を取って書かれている。自伝の「あらすじ」を初版の41通の手紙に従ってざっとまとめると,次のようになる。
 イングランド南西部,サマーセット州の村ウェリントンに,貧しい靴職人の息子として1746年に生まれたジェイムズ・ラッキントンは,さまざまな悪戯や冒険の果てに,故郷にほど近い村トーントンの靴屋に14歳で弟子入りし,年季奉公を始める(手紙1-5)。彼は靴屋の親方の息子に感化されて16歳ごろにメソジストとなるが,やがて恋愛のトラブルが元でトーントンを離れ,1768年にブリストルの町に移る(手紙6-10)。
 地方都市ブリストルで親友ジョン・ジョーンズと出会った彼は,宗教書以外の本を知り,観劇の楽しみに触れ,猛烈に読書に励む(手紙11-13)。トーントン時代にメソジストの会合で知り合い恋仲になっていた酪農場で働く娘と,1770年にブリストルで結婚するが,病弱な妻との暮らしに困窮した彼は,賃金のいいロンドンへ移ることに決め,74年にはわずか2シリング半の所持金を持ち,単身ロンドンに出る(手紙14-17)。
 ロンドンで靴職人となった彼は,妻を呼び寄せ,メソジストとしても精力的に活動する。やがて書籍商になることを決意した彼は,メソジスト会の基金から借りた5ポンドを元手にして,1774年(初版では「1775年」だが後の版で訂正)に本と革製品の店を開業,半年後にはチズウェル・ストリートに店を移して書籍販売に専念するが,75年の秋,夫婦ともに熱病に倒れ,妻に先立たれる(手紙18-19)。メソジストの仲間たちに助けられ,病から回復した彼は,1776年には読書好きの女性と二度目の結婚をする(手紙20-21)。
 同じ年,トーマス・エイモリー(Thomas Amory)の衒学的な自伝体小説『ジョン・バンクル伝』(The Life of John Buncle, 1756-66)を読んで感激したのがきっかけで,宗教について理性的に考えるようになったラッキントンは,メソジストの信仰に疑いを持つようになる(手紙22)。まもなくメソジスト会を脱退したために,かつての仲間たちから非難を浴びたことを語る現在のラッキントンは,一部のメソジストたちの偽善的な態度を辛辣に批判するが,そうした批判を書いている最中(1791年)にメソジスト会の創始者ジョン・ウェスレー(John Wesley)の死の報せを受け,ウェスレーを追悼する(手紙23-26)。
 ラッキントン自身の話に戻って,チズウェル・ストリートの店で次々と画期的な販売戦略を展開し,大成功を収めたことを語る(手紙27-35)。最後に,イングランド北部,スコットランド,さらに故郷であるイングランド西部への旅行記をしたため,自伝を終える(手紙36-41)。


3.『回想録』はどう読まれてきたか

 ラッキントンの『回想録』は,19世紀の読者に立志伝として読まれたあと,20世紀以降の書物史研究者たちによって,18世紀末におけるイギリス書籍販売業界の状況を知るための資料として用いられてきた。書物史研究者たちから最も注目されたのは,ラッキントンがチズウェル・ストリートの店での販売戦略を語った箇所(手紙27-35)である。
 ラッキントンがチズウェル・ストリートの書店,さらに1793年にフィンズベリー・スクエアに開いた巨大書店「ミューズの神殿」で取った画期的な販売戦略の特徴とは,主に(1)ゾッキ本(売れ残り本)の値下げ販売,(2)薄利多売,(3)現金取引のみ,という3点であり,さまざまな研究者がこうした彼の販売戦略を紹介するために『回想録』を使ってきた。
 たとえば1928年にコリンズ(A. S. Collins)は,1803年版『回想録』から,初版では「手紙30」にあたる箇所(Lackington 1791: 224)を引用しつつ,ラッキントンのゾッキ本販売を語っている。「……ラッキントンはゾッキ本を売るという新しい販売方法によって,読者の数を増大させたと主張しているが,確かにそれは正当な意見であろう。彼が書籍商として立った頃には,売れ残り本の半分ないし四分の三を処分し,さらに残ったものを出版価格で売りさばくのが普通であった。しかし,彼は『残す価値のある本を処分せず,出版価格の半値ないし四分の一の価格で売ることを決意した』」(コリンズ 1999: 68-9)。
 書物史研究者のフェザー(John Feather)は,初版の「手紙30」(Lackington 1791: 223-8)および「手紙31」(229-34)にあたる箇所に基づいて,ラッキントンの薄利多売戦略を語っている。「……彼は当然,薄利多売の方が,厚利少売より,長期的に見て利益が多いことを知っていたのである。売れ足のおそい本を始末するために出版者の開くせり市に参加する権利を手に入れたラッキントンは,そこで大量仕入したものを,大幅値引して大衆に売ることを開始した。どんなに値引しても一冊売る度に何がしかの利益が残る値段で売ったのである」(フェザー 1991: 220)。
 また英文学者の清水一嘉は,初版の「手紙28」にあたる文章(Lackington 1791: 212-3)を引用して,ラッキントンが現金取引のみの取引を始めた経緯を紹介している。「一七八〇年,私は今後いっさい掛け売りをしないことにきめた。そうきめたのにはわけがある。掛け売りをすれば,半年以内の支払いは期待できず,多くは一年,ときには二年以上待たねばならない。最悪のばあいは未払いのままで終わる。長期にわたる掛け売りがまねく不利益,未払いによる損害,商売用の現金不足からくる不都合,帳簿をつけ集金する時間のロス,これらを解消するにはどうしたらよいか。それには現金取り引きがいちばんよい」(清水 1999: 8)。
 さらに『回想録』は,イギリス書籍販売史におけるラッキントン自身の功績を示すためだけでなく,同時代のイギリス書籍業界がどんな状況であったかを示す資料としても使われてきた。「彼[ラッキントン]の二冊の自伝,『回想録』(1791)および『告白録』(1804)は,彼の人生のみならず18世紀後半の書籍業界全体を知るための一次資料である」(Feather 1986: 155)と書くフェザーは,地方都市の書店の品揃えが非常に限られていた証拠として,『回想録』初版の「手紙36」にある文章(Lackington 1791: 278)を使っている。「ラッキントンの主張するところでは,1787年の時点ではまだ,[地方の書店には]『くだらない本』や『印刷機から出るゴミ』のようなものしか置かれていなかった。『確かに,ヨークやリーズにはわずかながら(ほんのわずかですが)良い本がありました。しかしロンドンとエジンバラの間にある他のどの町を見ても,クズみたいな本しか置いてありません』」(Feather 1985: 69)。
 歴史家のポーター(Roy Porter)は,1792年版『回想録』から,初版では「手紙33」に当たる箇所(Lackington 1791: 254-5)を引用している。「[書籍の売れ行きは]この二十年間に驚異的に伸びた。私がこれまでになしえた最善の見積りによれば,今は二十年前の四倍を超える書籍が売れているように思う。二十年前には魔女や幽霊やお化けの話をして夜を過ごしていた比較的貧しい農場主が,そして田舎の貧しい人々一般が,今は息子たち娘たちが読む物語やら小説やらを聞きながら過ごす長い冬の夜を短く感じるようになったし,彼らの家に入ってみれば『トム・ジョウンズ』『ロデリック・ランダム』[ともにこの時代に流行した小説]その他の愉しい本がベーコンを置く棚に積まれているのがご覧になれるでありましょう」(ポーター 1996: 344)。
 ポーターはまた,貸本屋(circulating library, 会員制貸出し図書館)の流行が女性読者の拡大をもたらしたことを示すため,『回想録』に後から加筆された次の文章(Lackington 1794: 248-51)を引用している。「会員制貸出し図書館は女性の娯楽と教養に大きく貢献してきており,断然大多数の女性が今や書物を好むようになっている……今や女性一般が読むのは小説ばかりではない。もっとも,その手の作品は多くが大量に製造され,心と頭の両方を磨く傾向にあることは否めないが。女性たちは,また,英語で書かれた最善の書物をも読み,他国語で書かれた最善の作家の作品を読むこともありうる。そして,私の店には数千人の女性が足繁く通い,その女性たちは,王国のいかなるジェントルマンにも負けず劣らず,小説を読むといって冷笑されようとも,どういう本を選べばよいかを弁え,高尚な作品や天才の作品に通暁しているのである」(ポーター 1996: 343)。
 ただし書物史研究者のレイヴンは,『回想録』の記述を歴史資料として手放しで信頼することの危険性を指摘している。「『回想録』の文章はつねに,真に受けるのが難しい——わざとそのように書かれているのだ。これは一人の精力的で野心に満ちた人物の前半生を,低い階級の読者にも,より洗練された読者にも,同時に訴えるような文体で物語る書物である」(Raven 1994: 2)。「書籍業界の歴史としては,この回想記には欠陥がある。著者が娯楽性と自己賛美を追求しているからだ。たとえば何かが自分の独創だというラッキントンの主張が,いつも正しいとは限らない」(11)。ラッキントン書店が発行していたカタログをはじめ,同時代の資料を豊富に用いて『回想録』が事実を誇張していることを指摘するレイヴンによれば,「安価で仕入れた本を破棄せずに売ったのがラッキントンだけというわけでもない。フォールダー[Faulder],ガードナー[Gardner],キング[King]といったロンドンの書籍商は,ある程度同じような売り方をしていた。中でもビングリー[Bingley]はライバルだった……」(11)。「彼の成功の秘訣は,彼自身も認めているように,市場における新しい可能性を真っ先に見いだし,いったんライバルたちを出し抜いて市場の独占状態を作り上げたがために,誰も彼の優位を覆すことができなかったというところにある」(12)。
 このように『回想録』の記述には誇張が多く,ここに書かれた内容すべてを,18世紀末の書籍販売の状況を正確に写したものとして鵜呑みにするわけにはいかないだろう。むしろ書物史的にも文学史的にも重要なのは,『回想録』に描かれた個々の事実以上に,このような自伝を書いて自ら出版したラッキントンという人物が,この時代に出現したという事実である。『回想録』を研究した文化史研究者のマスカッチ(Michael Mascuch)はこう述べている。「自伝的物語によって表象される『人生』は,たとえ文字通りでなくても比喩的には,物語の語り手,すなわち書く主体を表象している。この点を非常に簡潔に語っているのが文芸批評家のジャン・スタロバンスキーだ。彼はルソーを例に取ってこう述べている。『語られている事実がどれほど疑わしいものであっても,そのテクストは少なくとも「ペンを握った」人物の「真正の」イメージを示すことになるのだ』」(Mascuch 1997: 23)。
 『回想録』のテクストが描き出す著者=主人公であるラッキントンのイメージは,貧しい境遇から身を起こして,何度も窮地に陥ってはそれらを克服し,画期的な販売戦略を次々に繰り出して商売を成功させ,あっぱれ立身出世を遂げる,という,あまりに典型的なサクセス・ストーリーの主人公だ。さらにこの主人公は,自分の一代記を自己宣伝のために出版し,大いに売りまくる。「明らかにラッキントンは,『回想録』が売れれば,自分の名声を,同業者たちの間でも後世に対しても高めることができると大いに期待していた」(Mascuch 1997: 6)。マスカッチは,自分の実人生をまるで小説のように起承転結を備えた物語として描いてみせ,著者自らによって出版・販売された『回想録』を,イギリスで初めての近代個人主義的な自伝と捉えている。「もし[イアン・]ワットが述べているように,個人主義の持つさまざまな要素をフィクションの物語として初めて表現したのが『ロビンソン・クルーソー』だとすれば,それらの要素をノンフィクションの物語として初めて表現したのは,ラッキントンの『回想録』だ」(26)。
 しかしそもそも,ラッキントンはなぜ自らこのような人物像を演じることになったのだろうか? ラッキントンはなぜ書籍商となり,なぜ自分が書籍商として成功していく物語を自伝として出版したのだろうか? その答を『回想録』そのものの中に探ってみよう。


4.ラッキントンの理想と使命

 『回想録』は何よりもまず,ラッキントンの読書歴を記録した書物である。彼は若いころの自分について,「記憶力が非常に良かったので,私は読んだものすべてを自分のものにしました」(Lackington 1791: 70)と書いているが,マスカッチはむしろその言葉の主客を逆転させるべきだと言う。「存在論的・認識論的な観点から見て,ラッキントンがより正確に語ろうとするなら,『私は読んだものすべてを自分のものにしました』と書く代わりに,『私が読んだものすべてが私の「自己」を作りました』と語るべきだったのだ。ビッグズのチラシ[ある男が自分の改宗を物語った印刷物]から『トリストラム・シャンディ』[当時の実験的な自伝体小説]まであらゆるものを織り合わせた彼の自伝的な語りは,明らかに前者ではなく後者の見解を実証している」(Mascuch 1997: 52)。
 確かに『回想録』の文章には,おびただしい量の詩句が引用され,おびただしい量の書名が溢れている。まるでジェイムズ・ラッキントンという人物自体が,数あまたの書物からの引用の織物であるかのようだ。「私が読んだものすべてが私の『自己』を作りました」という言葉は,まさに『回想録』の主人公にふさわしい。しかしそんな彼も,幼いころから本が読めたわけではなかった。10代の半ばまでは文字を読むことすらおぼつかなかったのだ。
 貧しい靴職人の息子であったラッキントンが学校教育を受けたのは,近所の「おばさん学校」(dame school)で過ごした数年間だけである。「私は2〜3年の間,ある老女が経営している平日学校に入れられました。私が新約聖書の章節をいくつか暗唱してみせると,何人かのお婆さんが両手を上げて目を丸くし,こんなことができるとは神童に違いないと言ってくれたので,大得意だったのを覚えています」(Lackington 1791: 14)。しかし家がさらに貧しくなったため授業料が払えず学校をやめたラッキントンは,せっかく学んだこともすっかり忘れてしまう。
 ラッキントンが本を読んでみたいと思うようになるのは,徒弟奉公に出た先の靴屋で,親方の息子を通じて触れたメソジストの信仰がきっかけである。ジョン・ウェスレーらのメソジスト運動は,当時はまだ国教会内部の改革運動であったが,野外説教などの斬新な布教手段が功を奏して,労働者階級の人々を中心に急速に信徒を広げつつあった。「……ルターやカルヴァンの宗教改革とメソジスト運動とを比較してみると,彼らを取り囲んでいる人々の階層の相違に私たちは気づく。ルターを取りまいていた人々は大学の教授たちや学生たち,また,貴族階級の人々であったし,カルヴァンの周囲にはジュネーヴの指導的市民たちがいた。ところがウェスレーの場合には,ごく少数の親しいインテリの友人たちを除いて,下層階級の人々であった。ウェスレー兄弟とともにメソジスト運動を推進していった説教者たち,また,地域ごとに分けられ,ある地域のメソジスト会の会員が集まって作る組会の指導者たちも,ほとんどが炭鉱労働者,金属工,木綿・亜麻・麻の織工,自由農民,小農の出であった。つまり,メソジスト運動は,プロテスタント主義の歴史の中で,大教会を形成する原動力となった,今日までのところ最初にして最後の下層階級の信仰運動であった,と言える」(野呂 1991: 177)。
 ラッキントンの親方は再洗礼派であったため,やはり再洗礼派の妻と,メソジストに改宗した息子とが,宗教上の考え方の違いからしばしば言い争っていた。「このことが私の中に知識欲を植え付けました。誰が正しくて,誰が間違っているかを知りたくなったのです。しかしなんとも悲しいことに,私は文章が読めませんでした。たいていの文字は知っていたし,易しい単語なら少しは知っていましたから,私はさっそく猛勉強を始めたのです」(Lackington 1791: 98)。結局,親方の息子に感化されてメソジストとなった彼は,聖書やウェスレーの讃美歌集を読むために空いた時間のすべてを費やすことになる。
 渡り職人として地方都市ブリストルに移ってからも,ラッキントンは親友ジョーンズとともに読書に没頭する。冒頭に引用した文章は,読書の楽しみを覚えたばかりの彼らが,膨大な本の中から何を選んで読めばいいのか分からずに困惑している場面であった。そんな彼らも,試行錯誤を重ねながら次第に蔵書を拡大させていく。「私たち,特にジョーンズ君と私は,懸命に働いて書物を買うお金を稼ぎました。数か月の間,使えるお金をすべて古本屋や露店につぎ込んだので,たちまち私たちの蔵書は,自分たちとしては非常に充実したと思えるほどに増えました」(91)。
 こうして築いた宗教書中心の蔵書を,ラッキントンと仲間たちは猛烈な勢いで読み始める。「私たちは本をたくさん読みたくて仕方がなかったので,24時間のうち3時間しか眠らないことに決めました。数ヶ月の間ずっと,みんなが同時にベッドに入ることは(日曜の晩を除いて)一度もなかったのです。自分が起きる順番になった時に寝過ごさないよう,誰か一人が他の人の起床時間まで起きて仕事をするようにしました。全員が起きている時は,わが友ジョンと,あなたのしもべである私とが交代で朗読し,他の人は仕事をしながらそれを聞いていたのです」(93-4)。この時期のラッキントンの読書には,一種異様なほどの熱狂的な情熱がこもっていた。ある時,古代ギリシアの哲学者エピクロスの思想を詩にした本を読んで感激した彼は,極端な禁欲生活を始める。「その時以来私は,パンとお茶だけの食事をする生活を始めました。……なぜこのように禁欲的な暮らしをしたかと言えば,本を買うお金を貯めるためであり,飲み食いのように卑しい快楽から自らを引き離し,己の精神を清めて,知的な快楽をよりよく享受できるようにするためだったのです」(99)。
 ロンドンで最初の妻と暮らし始めたころ,二人の暮らしは貧しく,クリスマスの御馳走を買う金は半クラウン(2シリング6ペンス)しか残っていなかった。彼は妻に頼まれて市場に御馳走を買いに行く。「……しかし途中で古本屋を見かけて,立ち寄らずにいられませんでした。半クラウンの中から,ほんの6ペンスか9ペンスだけ使わせてもらおうと思ったのです。ところがヤングの『夜想』[当時人気があった宗教的な瞑想詩]にばったり出会ってしまい——私の半クラウンは消えました——思わぬ掘り出し物が嬉しくて,私は急いで家に帰りました」(134)。肉の代わりに本を買ってきたラッキントンに妻は呆れるが,ラッキントンは妻を説き伏せようとする。「『……もしも御馳走を買っていたら,明日には食べてしまって,楽しみはすぐに終わりだ。ところが今後我々が50年生きるとしても,「夜想」という御馳走はずっと楽しむことができるのだ』。妻は納得しました。私は腰を下ろして,その本を,あの善良な医者[ヤング]が書いたときと同じくらいの情熱を込めて読み始めました。私はあまりに感動し,あまりに真剣に読んだので,この本の大部分を暗記してしまったほどです」(135-6)。
 こうしてラッキントンは,血のにじむような努力の果てに,ほとんど独学によって,読書の集大成としての自己を築き上げる。それではなぜ彼は書籍商となって,本を一般の人々に広める側の職業を選んだのだろうか。もちろん一番の理由は,苦労して身に付けた書物に関する膨大な知識を職業に直結させることができるのは,靴屋ではなく書籍商であったことだろう。ラッキントン自身の語るところでは「私は本が大好きで,もしも書籍商になれれば,読む本がいっぱい手に入る——それが本屋になることを目指した最も強い動機だったと思います」(Lackington 1791: 137)というわけで,本好きが高じて本屋になった,という単純な事情のようだ。しかしその後の彼が,単に本を読みたい人に本を売るだけではなく,それまで本を読まなかった人に読書の喜びを教え,あらゆる階層の人々に本を広めることに執拗なまでにこだわるようになるのは,実はメソジストの信仰によるところが大きかったのではないかと私は思う。
 『回想録』執筆時のラッキントンはメソジスト会を脱退していたが,それはウェスレーの説くメソジストの教義が信じられなくなったからというより,一部のメソジストたちの偽善的な態度に幻滅していたからであった。「私は,メソジストの大部分は誠実で,正直で,友愛にあふれた人々だと信じています。しかしここで述べておかねばならないことがあります。多くの狡猾で,陰険で,腹黒い人々が,メソジストたちの性格や縁故に目を付けました。彼らは,宗教家というものは一般に正直で良心的なはずだと思われているのを知っているので,メソジスト会に入り込んできて,ことさらに神聖さを装うことで,彼らの偽善に満ちた企みに対して無防備な人たちを,易々と騙し欺いてきたのです」(Lackington 1791: 179-80)。
 『回想録』執筆中にウェスレーの死を知ったラッキントンは,この自伝にウェスレーを追悼する文章を書き込んでいる。「私はメソジストの父であるジョン・ウェスレー氏のことを,これまでこの世に生を受けた中で最も尊敬すべき熱狂的宗教家の一人だと思わざるをえません。彼は自分が他人に教えたことのすべてを,疑いようもなく信じていました。そして彼がつねづね信徒たちに説いている通りの,真に敬虔で模範的な人生を送ったのです」(Lackington 1791: 189)。
 さらにラッキントンは書籍商を引退した後に,再びメソジストに改宗し,もう一冊の自伝『J・ラッキントン告白録』(The Confessions of J. Lackington, 1804)を出すことになる。『告白録』は『回想録』のメソジスト批判を全否定する書物であった。「あなたは私が今でも,私の『回想録』の中にある,ウェスレー氏と彼を信じる人々をひどく手荒に扱った文章に,満足しているかと問われるのですか? 答は否です」(Lackington 1804: 137)。「『回想録』を読むとき,私は自分が何をやってしまったかを見て恐れおののきます。神の福音という最も厳粛で貴重な真実を,私は悪意を持って取り扱い,もてあそんだのです」(185)。晩年のラッキントンはメソジストの説教者となり,引退後に住んだ村や故郷の村にメソジストの教会を建てている(Landon 1976: 394)。
 ラッキントンがそのような人物である以上,メソジストに批判的な態度を取っていた『回想録』執筆時ですら,幾分かはメソジストの思想の影響下にあったと考えるのが自然だろう。とは言っても,メソジスト会が直接的に幅広い分野の読書を奨励しているわけではなかった。「この会[メソジスト会]の中には,聖書とウェスレー氏が出した本以外はまったく本を読もうとしない人が何千人もいます」(Lackington 1791: 69)。むしろラッキントンの行動に決定的な影響を与えていると私が思うのは,ウェスレーが説いた「できる限り稼ぎ,できる限り蓄え,できる限り与えよ」という,蓄財と慈善に対する考え方である。
 ウェスレーは,説教50「金銭の使い方」("The Use of Money")において,次のように語っている。「まずできる限り稼いだ後に,できる限り蓄え,そしてできる限り与えるのです」(ウェスレー 1997: 430)。メソジストたちには,勤勉に働いて蓄財したうえで,慈善のために他者に金銭を与えることが求められるのだ。野呂芳男の言うように,「……できる限り利得せよ,とウェスレーが説教しても,メソジストの徒は同時に,『できる限り与えよ』(ウェスレー)とも聞かされたのであり,ウェスレーが説いた現世利益は,すべての人々がこの地上で,真に幸福であり得る道を探り求めるようなものであったのである」(野呂 1991: 195)。ウェスレーは自らこの教えを実践した。1791年に死んだとき「ウェスレーはその書物の出版などで多額の収入があったにもかかわらず,すべてを伝道のために,また,貧しい人々のために与えたので,机の引き出しと,彼の洋服の中にわずかな小銭が残っていただけであった」(野呂 1991: 209)。
 説教「金銭の使い方」から,その主張を簡潔に要約していると思われる箇所を引用してみよう。

できる限り稼ぎなさい——自分自身と隣人とのたましいと体とを傷つけることなく,不断の勤勉さをもって,神があなたに与えられたすべての理解力を用いて,できる限り稼ぎなさい。できる限り蓄えなさい——愚かな欲望,すなわち肉の欲,目の欲,暮らし向きの自慢を満足させることにすぎない支出をすべて削り,生きるにしても死ぬにしても,罪のためにも愚かなことのためにも,自分のためにも子どもたちのためにも,何事にも無駄遣いをやめることで,できる限り蓄えなさい。そしてできる限り与えなさい。換言すれば,持てるすべてのものを神に捧げなさい。……。やがてあなたがたが[神の財産の]管理人としての責任を終え,良き収支報告を提出できるように,自分のためにも,家族のためにも,信仰の家族のためにも,全人類のためにも,財を用いなさい。(ウェスレー 1997: 433,傍点を省略した)

 ラッキントンがその半生で成し遂げたことは,ウェスレーのこの言葉に従っていただろうか。業界のタブーを破って売れ残り本の安売りを行い,同業者を押しのけてロンドンの有力書籍商の地位にのし上がるラッキントンは,業界内に多数の敵を作り,まさに「隣人のたましいを傷つけて」金を稼いでいたことになる。ウェスレー自身のようにほとんどすべての財産を慈善に投げ打つといったことも,ラッキントンはしていない。実際の金銭に関する限り,ラッキントンの人生はウェスレーの教えとはほど遠いところにあったと言えそうだ。
 しかしウェスレーの説教にある「金銭」を,実際の金銭ではなく,社会学者ピエール・ブルデューのいう「文化資本」(人々が所有する文化的な財や能力を,蓄積,投資,増殖,相続の可能な一つの資本として分析するための概念)と考えれば,ラッキントンの行動はまさしくウェスレーの説くところに従っている。ラッキントンはまさに,成り上がるための教養=文化資本を「できる限り稼ぎ,できる限り蓄え,できる限り与える」ために生涯を費やしたと言えるのだ。
 ラッキントンが両親から相続した,成り上がりの手段としての文化資本は微々たるものだった。「私は,自分が初期教育を受ける恩恵を奪われていたために,不利な状況に置かれて苦労しなければならなかったことを悔やまずにいられません。これはいかなる場合でも,ほとんど取り返しのつかない損失だからです」(Lackington 1791: 243)。学校教育によって文化資本を獲得する機会を持たない彼は,読書を通じて自分の文化資本を増殖させることに精魂を傾ける。しかし,彼が十分な文化資産を蓄財するまでの道のりは決して平坦ではなかった。「私が人や本を通じて身に付けた教養は,しばしばイバラの中に撒かれた種のようでした。浮世の苦労をなめているうちに窒息してしまったのです」(244)。
 苦労の末にかなりの文化資本を蓄財したラッキントンは,自分の教養が表面的なものに過ぎないことを隠さないが,その教養を物差しにして自ら物事の価値判断ができるようになったことを誇らしげに語っている。「私は多くの分野の書き物について多少の知識がありますが,はっきり言って,結局私の知識は,うわべだけの薄っぺらなものでしかありません——改めて申すまでもないことですが。しかし,たとえ薄っぺらでも,私の知識は私に尽きることのない喜びを与えてくれるばかりか,商売にもたいそう役立っております。何千冊もの書物に値段を付けるとき,いちいちそれぞれの本の価格の相場を調べなくても,私は自分で値踏みができるのです」(244)。
 もちろん教養=文化資本は価値判断の物差しとして役立つばかりではない。ラッキントンは読書を通じて蓄財した文化資本を活用して,階級の壁を乗り越え,成り上がることに見事成功するのだ。「私は前半生において,いわゆる『下層』の生活をさんざん眺めてきました。さまざまな都会や町や村で,社会の中で労働者階級に属する人々の慣習,風習,気質,偏見その他に触れてきたのです。一方最近数年間の私は,富裕で上品な階級に属する商人の方々とともに余暇を過ごさせていただくこともあります。さらに高貴な階級の方々からも,完全に閉め出されているわけではありません」(249-50)。
 よきメソジストであれば,ここまで蓄積した資本をどのように使うだろうか。もちろんその人は,増やした資本を自分ほど恵まれない他の人々に「できる限り与える」ことを始めるはずだ。ラッキントンは,自分が蓄積した文化資本を他の人々に分け与えるための活動に精力的に携わるようになる。書籍商となったラッキントンの販売戦略は,売れ残り本の安売りにせよ,地方の客を相手にしたカタログ販売にせよ,金儲けの手段であると同時に,一人でも多くの人に読書の楽しみを与えるための方策にもなっている。自己宣伝に満ちた『回想録』の出版さえ,著者である自分の書店にさらに客を呼び込んで儲けるための手段である一方で,文化資産を蓄積すれば社会的な成功が得られることを自らの人生によって実証し,読書の実際的な効用を示すことで,本を読んでみようと思う人々を増やすための手段であるとも言えるのだ。書籍商ラッキントンは,あたかも読書の伝道者として,できる限り広く読書の趣味を普及させるために全勢力を注いでいるように見える。『回想録』という書物は,宗教書や哲学書から詩や小説まで,当時の教養人が読んでおくべき本のタイトルが満載されたブックガイドとして用いることもできる。ラッキントンは,かつての自分のように,本を読んでみたくなったが何を読めばいいか分からない人々に,読むべき本を教えているのだ。自分と同じように,読書の喜びに目覚め,文化資本を蓄積して成り上がり,自分の後に続くような者たちを大量に育てることこそ,ラッキントンの夢なのだ。


5.ラッキントンの夢はかなったか

 書籍商としてのラッキントンはビジネスを大成功させ,『回想録』を出版した2年後には,ロンドン最大の書店「ミューズの神殿」を開店させた。書籍商の息子だったチャールズ・ナイト(Charles Knight)は,1801年,10歳の時に父とロンドンを訪れて「ミューズの神殿」に入った驚きを,後年エッセイに綴っている。その文章はあたかも『回想録』のエピローグであるかのようだ。そこにはまるで人生ゲームの幸運なゴールのように,成功の頂点にあるラッキントンの店が鮮やかに描写されている。

フィンズベリー・スクウェアは1789年に建設されたのだが,その一角に,ある巨大な店舗あるいは倉庫のために用いられている一群の建物が偉容を誇っていた。中央にはドームがそびえ,その上に旗がはためいている。こうした壮麗な外観は(今では郊外の宿屋でもお馴染みの様式だが),この建物がただの商店ではないことを物語っている。玄関の上には「世界一安い書店」という言葉が刻まれている。ここは有名なラッキントン=アレン社の店だ。店頭には「つねに50万冊以上の書物が並べられて」いるという。私たちは巨大な店内に入る。その広さは,6頭立ての馬車が走り回れるほどだと言われている。売り場の中央には大きな円形のカウンターがあり,その内側にいるのが知識の分配者たる店員だ。彼の客はたとえば,鬘の上にショベル帽をかぶった田舎牧師,羽根飾り付きの帽子と裳裾の長いドレスを着た淑女たち,あるいは汚れた鞄を持った,よその書店の集金係。本を値切ろうとする客がいると,店員は店内の一角に記された文字を指さす。「すべての本には最も安い価格が表示されております。それ以上の値引きは一切いたしません」。幅の広い階段を昇ると,いくつかの「休憩室」,そして何層も積み上げられた円形の回廊の最下部に出る。ドームの天窓からもれる光が何層もの回廊と一階の店舗を照らし,何百冊,何千冊もの本が,壁に沿って並んだ書棚に陳列されている。回廊を上の層へと昇るにつれて,置いてある本は俗っぽくなり,装丁も安っぽくなるが,それでもつねに同じ秩序が保たれている。すべての本には,印刷されたカタログに従って番号が振られているのだ。そのカタログは他のどんな店より規模が大きく,毎年一度発行される。これほどの店を作り上げるには,並外れた組織力と,莫大な資金が必要なはずだ。私は矢継ぎ早に質問をして,さぞ父をうるさがらせたことだろう。こんなにすごいラッキントンさんってどんな人? どのくらいお金持ちで,どのくらい学があるの? 父は私の質問に,ごくありふれた宣伝ビラを見せて答えたかもしれない。そこにはこう記されていた。「J・ラッキントン,数年前に5ポンドを元手に書店を開き,今では年に10万冊の本を売る男。あるいは,かつて靴屋だった本屋」。(Knight 1865: 282-4)

 ラッキントンはこうして立身出世の夢を存分にかなえることができた。それでは,ラッキントンが自らの使命とした,下層階級への読書の普及という夢はかなったのだろうか? 少なくとも,ラッキントン自身が作り上げた『回想録』という物語の中では,彼の夢はかなっている。

お分かりのように,このやり方[売れ残り本の安売り]で私が得た利益とは関係なく,私にもっとも充実した満足感を与えてくれるのは,恵まれない,零落した暮らしを余儀なくされている数あまたの人々が,生まれながらに持っている知識欲をこうして気軽に満たすことができるようになった結果,多大な恩恵を受けているのを思う時です。不遜を省みずに申せば,一般の人々に読書への欲求を広めたという点で,私の功績は非常に大きいと思います。今では社会の下層に属する人々にまで読書が広まっております。読書が万人を等しく教化してくれるわけではないにせよ,読書をすれば,彼らが自分の暇と金とを,悪事にとは言わないまでも,あまり理性的とはいえない物事につぎ込まなくなることは確かです。
 もし私が若いころ,今では文字の読める人なら誰にでも与えられているような,安い値段で本を買える機会を与えられていれば,どれほど自分の身の上を幸運に思ったことでしょう! もしもそうなっていたら,以前の手紙でご紹介した若き日の私の蔵書は,もっと立派なものになっていたはずです。クリスマス・ディナーとしてヤングの『夜想』を買ったときも,ひょっとしたら同時に大きめの肉を買って,精神の御馳走と肉体の御馳走をともに楽しみ,妻を喜ばせることができたのかもしれません(まともな夫なら誰だってそうするはずだ,とご婦人方がおっしゃるのは言うまでもないことです)。(Lackington 1791: 227-8)

 ラッキントンは,まるで自分が書店を開業してからの十数年間に労働者階級の隅々にまで読書が普及したかのような語り方をしているが,しかしもちろん現実はそこまで甘くなかった。先に引用した,貧しい農夫の家で「『トム・ジョウンズ』『ロデリック・ランダム』その他の愉しい本がベーコンを置く棚に積まれている」(Lackington 1791: 255; ポーター 1996: 344)ような状況が訪れるのは,まだずっと先のことである。そもそもラッキントンの安売り戦略に反感を抱いていたのは,直接の商売敵である他の書籍商だけではなかった。「ジェイムズ・レイヴンらが主張するように,分冊出版,貸本,安価なゾッキ本販売といった,大衆向けの商慣習を通じて新たな読者層が台頭したことは,広範囲にわたって人々に恐怖を巻き起こした。節操のない読書は,使用人,女性,田舎者,その他世間知らずで無学な『下層階級』の読者の気を散らし,のみならず堕落させるのではないかという恐怖だ」(Jacobs 1999: 57)。
 たとえばレイヴンは,ラッキントンとほぼ同時代を生きた出版者ジョン・トラスラー(John Trusler, 1735-1820)の未刊行の回想録を引用しながらこう書いている。「トラスラーは万人の教育者になどなるつもりがなかった。彼が必死になって主張するところによれば,万人に対して無差別に教育を施すのは罪深いことだという。印刷機からは『世界が経験したあらゆる邪悪なものが立ち上ってきた』と彼は言う。彼は一七九〇年代に印刷物の普及が『フランスでの騒動』の元凶となったのを見て取った。イングランドでも,歯止めの利かない出版物の増加が政治的大惨事を引き起こすおそれがあった。『私は敢えて言うが,人類のうちの労働者階級に属する人々は,より無学であればあるほど,より謙虚になり,慎み深く善良な使用人になるのだ』」(Raven 1996: 192-3)。
 レイヴンによれば,ラッキントンが主張するような読書の普及の度合には,かなり誇張があるという。「ラッキントンは『もっとも貧しい農夫たちや,田舎の人々一般の間でさえ』幅広い分野の本が読まれていたとほのめかすのだが,彼の自伝や[ラッキントン書店の]カタログに含まれる豊富な証拠から分かるのは,実際には[学校などの]団体からの需要のほうがはるかに大きかったことであり,個人による需要が,幅広い分野の新しい読み物ではなく,もっぱら数点の必要不可欠な宗教書に集中していたということだ。もしそうでないなら,なぜラッキントンはあれほど多くの教科書を仕入れ,ある時にはワッツ[Isaac Watts, 1674-1748]の『聖歌集』[Psalms]と『讃美歌集』[Hymns]それぞれ一万冊を仕入れる必要があったというのか」(Raven 1994: 16)。レイヴンはラッキントンを含めた18世紀イギリス書籍商たちの自伝を研究したが,それらの自伝から確実に言えるのは次のことだという。「本の売上げが増えたことが意味しているのは,以前から本を買っていた社会階層が,さらに多くの本を欲し,実際に買えるようになったということであって,[安い古本の]露店をよく訪れるような人々の数が大幅に増えたということではない」(Raven 1994: 16)。
 一般大衆にまで読書の習慣が普及したことを得意気に語るラッキントンの感慨は,この時点ではあまりに楽観的で時期尚早な見方であったようだ。ラッキントンが夢見たような,あらゆる階層の人々に本を読む楽しみが与えられる社会が,その後のイギリスにどのように築かれていったかは,英文学者オールティック(Richard D. Altick)の名著『イギリスの一般読者』で語られている。そこでは「[イギリスに]読書する大衆が形成される歴史は,実のところ,新しい観点から見たイギリス民主主義の歴史なのだ」(Altick 1998: 3)と序章に述べられているように,19世紀の労働者運動や民衆教育運動といった,より民主主義的な社会を求めるさまざまな運動に絡めて,活版印刷文化が一般の民衆にまで徐々に浸透していく過程が物語られる。
 その物語に登場する人物たちが——家具職人からチャーティスト運動の指導者となり,教育を受ける権利を人間の自然権として要求したラヴェット(William Lovett),「有用知識普及協会」(Society for the Diffusion of Useful Knowledge)を設立して実用的な知識を伝える格安の出版物を刊行し,一般大衆への知識の普及を図った政治家ブルーム(Henry Peter Brougham),さらに「有用知識普及協会」などにみられる,一般大衆に実用的な知識を植え付けることだけを重視する風潮を『ハード・タイムズ』などの小説で諷刺したディケンズ(Charles Dickens)といった人々が——ラッキントンの影響を直接受けているとは考えがたい。しかし,自らを読書の伝道者として位置づけ,読書を通じて階級差を乗り越え人生の成功者となった自分自身をことさらに宣伝したラッキントンの情熱は,『回想録』やロンドン最大の書店「ミューズの神殿」の存在を通じて19世紀初頭の人々にある程度浸透したはずだ。その情熱は,19世紀を通じて間接的にさまざまな人々の心に少しずつ根を広げ,やがては彼の夢を数十年遅れでかなえることになったと言えるのではないだろうか。
 最後はいかにもラッキントンらしい無邪気で楽観的な読書礼賛の言葉で,本論を締めくくることにしよう。「自分が世の中にこれほど多くの本を普及させ,これほど他人の楽しみに役立ったことを思って,私がどんなに嬉しい気分を味わっているか,あなたには想像もつかないでしょう。それらの本によって多くの人々が啓蒙され,考えることを教わり,ただの獣から理性を備えた存在になったのです。本があれば,貧しい男は労働の合間に辛い運命をひととき忘れ,楽しみにすがって辛さに耐えることができます。知的な楽しみに関する限り,彼は王たちと張り合うこともできるのですから。本は苦しみに苛まれる人々に楽しみを与え,囚われの人々に慰めを与えます。本は我々を決して飽きさせることのない,最も誠実で信頼できる伴侶であり友人なのです」(Lackington 1794: 270)。


参考文献

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Lackington, James. Memoirs of the First Forty-Five Years of the Life of James Lackington. London: James Lackington, 1791. Bristol: Thoemmes, 1996.
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Landon, Richard G. "Small Profits Do Great Things: James Lackington and Eighteenth-Century Bookselling." Studies in Eighteenth-Century Culture, 5 (1976): 387-99.
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ジョン・ウェスレー著,勝間田充夫,河村従彦,藤本満訳『ジョン・ウェスレー説教53 下巻』(イムマヌエル綜合伝道団教学局,1997).
A・S・コリンズ著,青木健・榎本洋訳『文筆業の文化史——イギリス・ロマン派と出版』(彩流社,1999).
清水一嘉『イギリス近代出版の諸相——コーヒー・ハウスから書評まで』(世界思想社,1999).
ジョン・フェザー著,箕輪成男訳『イギリス出版史』(玉川大学出版部,1991).
ロイ・ポーター著,目羅公和訳『イングランド18世紀の社会』(法政大学出版局,1996).
野呂芳男『ウェスレー 人と思想95』(清水書院,1991).

(付記)本稿は平成16-17年度日本学術振興会科学研究費補助金(基盤研究C)による研究の一部である。

内田勝「読書の伝道者,ジェイムズ・ラッキントン」(2006)〈https://www1.gifu-u.ac.jp/~masaru/uchida/lackington06.html〉
(c) Masaru Uchida 2006
ファイル公開日: 2006-3-14
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