初出:『岐阜大学地域科学部研究報告』第1号(1997)pp. 201-16. この論文のPDF版はこちら(岐阜大学機関リポジトリ)。

 

『トリストラム・シャンディ』はハイパーテキスト小説か

内田勝

岐阜大学地域科学部地域文化講座

(1997年1月6日原稿提出)

Is Tristram Shandy a Hypertext Novel?

Masaru UCHIDA

 

 

 もちろん答えはノーである。18世紀のイングランドで、英国国教会牧師ローレンス・スターン(Laurence Sterne)によって書かれた滑稽小説『紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見』(The Life and Opinions of Tristram Shandy, Gent., 1759-67)が、テキストの電子化とコンピュータのディスプレイ装置上での鑑賞を前提とするハイパーテキスト小説であるはずはない。しかしこの作品はしばしば、ハイパーテキストの提唱者・研究者たちによって、ハイパーテキストの先駆と見なされてきた。「ハイパーテキスト」という言葉を作ったとされるテッド・ネルソン(Ted Nelson )(1) は、1974年の著書Computer Lib / Dream Machinesの中でこう言っている。

 

Couldn't Have Hypertext Novels, You Say?

 

Consider the hypertext character of--

Tristram Shandy, by Sterne.

Spoon River Anthology, by Masters.

Hopscotch, by Cortazar.

Pale Fire, by Nabokov.

Remembrance of Things Past, by Proust. (2)

 

 ネルソンはまだ現実のハイパーテキストが存在していなかった時代に、「ハイパーテキスト的特徴」を持った文学作品を列挙することでハイパーテキスト小説の可能性をほのめかしているのだが、プルーストの『失われた時を求めて』(1913-27)、マスターズの『スプーン・リバー詞華集』(1915)、ナボコフの『青白い炎』(1962)、コルタサルの『石蹴り遊び』(1963)といった20世紀の実験小説・実験詩の中にあって、『トリストラム・シャンディ』の存在は異彩を放っている。そこで本論では、果たして『トリストラム・シャンディ』のどういった点がハイパーテキスト的であるのかを、いくつかの角度から再検討してみたい。

 

I

 

 そもそもテッド・ネルソンにとってハイパーテキストとはどういうものなのか。彼の発想の根源には、本の形で出版される既存の印刷テキストへの不満がある。はっきりとした始まりと終わりを持ち、1ページから最終ページまで順番に直線的に読み進めることを読者に要求するテキストでは、人間の思考を自由に表現することができないというのだ。「テキストの連続性は、言語の連続性と印刷および製本の連続性を土台に成立する。このふたつの単純であたり前の事実によって、私たちはテキストは本来ひとつながりのものだと考えるようになった。これが、表現は本来連続したものであるべきだという誤った議論を導いたのである」(3)と彼は言っている。それに対して人間の実際の思考はどうか。「〈アイデアの構造〉は、決して順序のあるものではない。実際、私たちが考えるプロセスもあまり順序立っているとは言えない。確かに、一度にはほんのひと握りの考えしか心のなかにある画面を横切っていかない。しかし、あなたがひとつの事柄を考えるということは、最初はこれ次はあれというようにして、いくつもの考えがこの画面のなかを縦横無尽にかけめぐることだ」(『リテラリーマシン』78)そこでこの〈アイデアの構造〉を正確に再現するために、新しい形のテキストが必要になる。それがハイパーテキストなのだ。

 ネルソン自身はハイパーテキストをこう定義している。「私の言う『ハイパーテキスト』とは、順序通りに書かなくてもよい文章、つまりひとつの文章がいくつかに分かれていて、対話的な画面上で読者が読みたいところを自由に選択できるようなものである」(『リテラリーマシン』42)。また、ハイパーテキスト文学研究者のジョージ・P・ランドウ(George P. Landow)の定義はこうである。"Hypertext . . . denotes text composed of blocks of text . . . and the electronic links that join them." (4)これらの言葉から、ハイパーテキストの基本的特徴を次のようにまとめることができる。

 

(1)文章がいくつもの断片(ノード node)に分かれていること、

(2)断片どうしが[電子的な]リンクでつながれていること、

(3)読者はそれらのリンクをたどりながら、自分の読みたい断片を自由に選択できること。(5)

 

こうしたハイパーテキストはテキストの読み方を変える。「読み手にとっては、道筋を自由に選ぶことで、自分の興味や考えの赴くままに読み方を変えることも可能になる。/こんな読み方は、かつては不可能だった。」(『リテラリーマシン』43)読み手は与えられたテキストを受動的に読み解くだけではなく、読みたい箇所を選んで進むことで、いわばテキストの内容を自ら決定していく。そこにはある種の双方向性が生じているのだ。

 ネルソンはさらに進んで、全世界にハイパーテキスト図書館を作り、それらをネットワークで結んで個人の端末から利用できるようにすることを思い描いた。ザナドゥ(Xanadu)構想である。(6)彼は言う。"Basically, . . . the Xanadu system is just one thing: a new form of interconnection for computer files -- CORRESPONDING TO THE TRUE INTERCONNECTION OF IDEAS -- which can be refined and elaborated into a shared network." ("Dream Machines" 143). その具体的なイメージは次のようなものだ。

 

Now the idea is this:

To give you a screen in your home from which you can see into the world's hypertext libraries.

(The fact that the world doesn't have any hypertext libraries -- yet -- is a minor point.)

To give you a screen system that will offer high-performance computer graphics and text services at a price anyone can afford. . . .

To make you a part of a new electronic literature and art, where you can get all your questions answered and nobody will put you down. ("Dream Machines" 144)

 

 ネルソンが提唱したハイパーテキストは、その後のコンピュータ技術の進歩によってある程度現実のものとなった。そして現在では、ザナドゥ構想に比べれば極めて初歩的なものでしかないとはいえ、ハイパーテキストのネットワークが、インターネット上のWorld Wide Web(以下Webと略す)という形で次第にわれわれの生活の中で身近な存在になりつつある。(7)

 

II

 

 全9巻から成る『トリストラム・シャンディ』は、1759年から67年にかけて、5回に分けて毎回2巻ずつ(ただし最後の第9巻は単独で)出版された。近代小説の勃興期にあたる18世紀半ばに書かれたこの滑稽小説の特徴は、物語を語る方法におけるさまざまな実験的試みである。

 語り手の田舎紳士トリストラム・シャンディは自伝を執筆しようとしている。彼の生命の最初の瞬間から筆を起こそうと、両親の寝床で自分が受胎される瞬間から語り始めたのはいいが、饒舌な彼の語りはついつい本筋から脇にそれてしまい、第3巻に入ってもまだ彼が生まれていないという事態を引き起こす。結局この作品の最後まで来ても、自伝の中のトリストラムは5歳の子供でしかない。

 しかしそうした脱線の連鎖の中で、語り手トリストラム自身やその家族の趣味や嗜好が次第に明らかになっていく。トリストラムの父ウォルター・シャンディ(Walter Shandy)は饒舌な理論家で、「一族が繁栄するためには、家長の鼻が大きくなければならない」といった奇妙な仮説を次々に立ててはその研究に没頭する人間である。叔父のトウビー・シャンディ(Toby Shandy)は温厚な性格をした退役軍人だが、屋敷のボーリング用芝生に巨大なミニチュア戦場を作り、部下のトリム伍長(Corporal Trim)とともに日々大真面目で戦争ごっこに興じている。

 そうしたエピソードが断片的に少しずつ、時間的に前後しながら、かつ途中で他のエピソードへと脱線しながら語られていく。内容が気まぐれな順序で語られる断片的エピソードの集積という実験的なものであることに加え、書物としての体裁の面でも、なぜか第3巻の途中に突如出現する序文、「ゴチャゴチャしたこの作品の象徴」として挿入される極彩色墨流し模様のページ、意図的に一章分欠落しているページ番号、何も書かれていない空白だけの章、脱線だらけの語りの進行状況を説明するために挿入されたジグザグの曲線など、通常の印刷本の形態からできる限り逸脱しようとする実験的な試みがなされている。この小説は全9巻を通じてさんざんふざけ回ったあげく、叔父トウビーの恋愛をめぐるドタバタ騒ぎの最中に、登場人物の一人の口を借りて自らを「最高にできのいいでたらめ話」と定義すると、突然終わってしまうのだ。

 

III

 

 ジョージ・P・ランドウは、ハイパーテキスト小説がアリストテレスの『詩学』以来の古典的なプロットの概念を打ち破るものだとして、その特徴を次のようにまとめている。"Hypertext . . . calls into question (1) fixed sequence, (2) definite beginning and ending, (3) a story's "certain definite magnitude," and (4) the conception of unity or wholeness associated with all these other concepts." (Hypertext 102) ハイパーテキスト小説においては、どこからどんな順番に読むかが定められておらず、はっきりした始まりも終わりもない。物語にはアリストテレスの主張するような「ある明確な大きさ」が存在せず、全体の統一感にも欠けている。

 そうしたハイパーテキストの特徴を十分に活かし、コンピュータの画面上で読まれることを前提として書かれた、正真正銘のハイパーテキスト小説として高い評価を受けている作品には、たとえば1987年に発表されたマイケル・ジョイス(Michael Joyce)の『午後』("afternoon, a story")がある。(8)詩人でありかつコンピュータ・ソフトウェア会社に勤務する主人公と、彼の雇い主夫妻や女性の同僚との関係を描いたこの小説は、一連の短い断片から成り、読者が自ら複数のリンクから一つを選びながら先を読み進めることで、主要な登場人物たちの人物像が徐々に明らかになっていく。リンクをたどる過程で同じ断片に何度もたどり着くことがあるが、同じ場面もその前に読んだことによって細部の意味が変わってくる。小説の中で起こる事件はあいまいに語られ、読み方によって起こったとも起こらなかったとも解釈できる。主人公の別れた妻と息子が交通事故に遭って死んだらしいことがほのめかされるが、その事故さえ読み方によっては起こっていないとも解釈できるのだ。小説にははっきりした終わりがなく、読者は首尾一貫した物語を求めて断片的な語りの迷宮をいつまでもさまよい歩くことになる。この小説が終わるのは、テキスト自体の言葉によれば、"When the story no longer progresses, or when it cycles, or when you tire of the paths, the experience of reading it ends."というわけだ。

 ハイパーテキスト文学研究者のジェイ・デイヴィッド・ボルター(Jay David Bolter)はこの作品をこう評している。

 

There is no single story of which each reading is a version, because each reading determines the story as it goes. We could say that there is no story at all; there are only readings. Or if we say that the story of "Afternoon" is the sum of all its readings, then we must understand the story as a structure that can embrace contradictory outcomes. (9)

 

読者の読み進め方が物語を決定する以上、この小説の読者は受動的に与えられたテクストを読んでいるだけではなく、作品の内容を作り出す作者としての役割を合わせ持つことになる。ハイパーテキスト小説が持つ重要な可能性の一つに、こうした双方向性があることは重要である。

 

IV

 

 日本語によるハイパーテキスト小説の試みとしては、井上夢人の『99人の最終電車』がよく知られている。本稿執筆時(1996年12月)にはまだWeb上のオンライン・マガジンで連載中のこの小説は、地下鉄銀座線の最終電車に乗り合わせた乗客一人一人の内面を覗くことで、それぞれの人物が巻き込まれている物語を徐々に浮かび上がらせていく。ここではさまざまな実験的試みが、前衛的な気取りもなく、エンターテインメント小説の枠内で軽々と行われているのが見事である。作者は序文にあたる文章で、ハイパーテキスト小説の特質をわかりやすく語っている。

 

 最初のページ、最後のページ、というものが登場したのは、小説が〈本〉という形を獲得したときでした。

 その時から、小説には、始まりがあって、終わりがある、という基本的なルールができあがったのです。古今東西の小説家たちは、小説の魅力的な「プロローグ」や「エピローグ」を様々に模索し、そしてそれは数多くの技法や定型を生み出すことになりました。

 そして、小説は、ふつう、読み進む順番というものが定められています。

 これも、当たり前のことです。

 まれに、小説のラストを最初に読むという人もいるようですが、この読み方は〈邪道〉です。小説家もそのような読み方を期待してはいません。

 最初のページを読んだら、次のページに進み、そしてまた次のページ……そうやって最後のページまで読み進む。これが小説の「まっとうな」読み方です。

 この読み方のルールも、小説が〈本〉という形を獲得したときにできあがりました。

 小説は〈本〉というメディアに載せられることによって、その基本的な構造を決定されることになったのです。

 この基本的なルールを小説から剥奪してみたら、どんなことが起こるんだろう?

 私が『99人の最終電車』を書こうと考えたのは、そんな興味からでした。(10)

 

 この作品にはランドウが述べていたようなハイパーテキスト小説の特徴すべてがそろっている。読者は地下鉄銀座線のどの駅、どの時刻、どの人物から読み始めてもいい。したがってそこには明確な始まりも終わりもない。おそらく小説全体の核となるのは児童誘拐事件であり、誘拐された子供の親、犯人、共犯者、刑事といった人物が登場しているが、その事件とはまったく無関係の人物も多く、そうした人々が巻き込まれているさまざまな事件が同時に進行している。途中で地下鉄を降りて去っていく人々の物語はそこで終わってしまう。普通の小説が持っているような統一感はそこにはない。

 ここで行われている実験の中でも特に重要なのは、「視点の複数化」の手法である。同じ場所で同じ事件を経験する複数の人間の内面を別々に描くことによって、同じセリフや行動に違った含みを持たせることができるのだ。ボルターの言葉を引こう。

 

There is . . . the possibility of narrating the same events from different points of view, a technique familiar from Faulkner's The Sound and the Fury and Durrell's Alexandria Quartet. In the electronic medium the reader can be given more degrees of freedom than is possible in print: he or she may be allowed to flip back and forth among episodes, comparing one narrator's version against the others'. (128)

 

『99人の最終電車』ではまさにこの手法がふんだんに用いられている。互いに相手の腹をさぐりながら会話をしている人間それぞれの内面を覗くことで、同じセリフの意味も変化する。どちらの人物を先に読むかは読者次第である。場合によってはWebブラウザのウィンドウを複数開いて比較しながら読み進めることすら可能だ。

 また、ハイパーテキスト小説の重要な要素の一つである双方向性についても、さまざまな実験が行われている。読者からこの小説のWebサイトに寄せられる電子メールは、オンライン・マガジン編集者のコメントつきでサイト内に掲載されることもあるし、作者自ら返事を掲載することもある。また『99人の最終電車』のWebサイトからは数人の読者のWebサイトにリンクが張られていて、そこでは小説の新たなエピソードが発表されるごとに読者がコメントをつけていたりする。ここで重要なのは、もはやどこまでが『99人の最終電車』という作品なのかがあいまいになっていることだ。読者からのメールや読者が作るホームページまでを作品の一部と考えた場合、小説家井上夢人氏だけではなく、編集者や読者たちをも作者に含めるべきであり、この作品の作者が誰であるのかもあいまいになってくるのだ。まさにこうした状況は、ランドウが引用している小説家ロバート・クーヴァーの言葉に示されている。

 

Robert Coover claims that with hypertext "the linearity of the reading experience" does not disappear entirely, "but narrative bytes no longer follow one another in an ineluctable page-turning chain. Hypertextual story space is now multidimensional and theoretically infinite, with an equally infinite set of possible network linkages, either programmed, fixed or variable, or random, or both." . . . Coover adds that readers can become reader-authors not only by choosing their paths through the text but also by reading more actively, by which he means they "may even interfere with the story, introduce new elements, new narrative strategies, open new paths, interact with characters, even with the author. Or authors." (Hypertext 104-5)

 

『99人の最終電車』では新たな登場人物を読者から募り、審査の結果当選した読者の書いた原稿はそのまま作品内部に組み込まれている。この小説の読者は、文字通りの意味でランドウの言う"reader-author"になっているのだ。ランドウはこうも言っている。"Hypertext has no authors in the conventional sense. Just as hypertext as an educational medium transforms the teacher from a leader into a kind of coach or companion, hypertext as a writng medium metamorphoses the author into an editor or developer." (Hypertext 100) 読者は作者に近づき、作者は編集者に近づいていく。そうした意味でも『99人の最終電車』はハイパーテキスト小説の典型と呼べる作品である。

 

V

 

 さて、これまで見てきたような実際のハイパーテキスト小説と『トリストラム・シャンディ』を比べるとき、いったい『トリストラム・シャンディ』の読者には何ができるだろうか?

 ジェイ・デイヴィッド・ボルターは『トリストラム・シャンディ』のハイパーテキスト的性質を論じるために、語り手トリストラムが「執筆とは読者との会話にほかならない」と語る次の一節を引用している。

 

Writing, when properly managed, (as you may be sure I think mine is) is but a different name for conversation: As no one, who knows what he is about in good company, would venture to talk all; -- so no author, who understands the just boundaries of decorum and good-breeding, would presume to think all: The truest respect which you can pay to a reader's understanding, is to halve this matter amicably, and leave him something to imagine, in his turn, as well as yourself.

For my own part, I am eternally paying him compliments of this kind, and do all that lies in my power to keep his imagination as busy as my own. (II. xi; 125-26) (11)

 

ボルターのコメントはこうだ。"As narrator, then, Tristram pays readers the compliment of expecting them to help construct the novel as they read. The more the narrator digresses and distances us from the story, the closer we feel to the narrator himself, as if we were conversing and not simply reading." (Writing Space 133) 執筆が読者との会話であるように、読書もまた作者との会話だというのだ。

 確かに語り手トリストラムは一貫して読者に語りかけ、呼びかけながら話を進めていく。ときには読者に前の章の読み直しを命じることもある。(I. xx; 64-65) しかし読者の側は、トリストラムの呼びかけに応えて、どこまで小説の進行に双方向的な影響を与えることができるだろうか? 

 5回に分けて出版された以上、先に出た巻に対する読者の反応が後に出た巻に影響するということはあった。第6巻に挿入された感傷主義的な「ル・フィーヴァーの物語」(VI. vi-x; 499-513)は、最初の数巻が牧師の著作としてはあまりに猥褻で不謹慎であるという読者の批判に応えたものである。

 だがランドウらが指摘する特徴をそなえた典型的なハイパーテキスト小説とは異なり、断片的なエピソードを読む順番は読者に委ねられていない。そもそも『トリストラム・シャンディ』の読者には、『石蹴り遊び』の読者やゲームブックの読者のように、本のページを前後に繰りながら断片的なエピソードを読み継ぐことが許されていない。この作品はあくまで1ページ目から順番に読まれなければならないのだ。

 『トリストラム・シャンディ』のテキストを電子化して、ハイパーテキスト化することを考えてみるとよい。(ちなみに私の知る限り『トリストラム・シャンディ』のハイパーテキスト版はまだ存在していない。)断片的なエピソードは関連された内容を持つ別の断片にリンクされ、網の目を形成する。たとえば「叔父トウビーの恋物語」に関するエピソードは次々にリンクされ、読者はトリストラムの脱線に悩まされることなく、トリストラム自身が "the choicest morsel of my whole story!" (IV. xxxii; 401) と呼んでいるこの恋物語を読むことができるだろう。細かい例を挙げれば、この恋物語のクライマックスとも言うべき、トウビーがトリム伍長を連れて恋の相手であるウォドマン未亡人の屋敷に乗り込む場面は、第9巻第18〜19章(770-71)で語られるはずなのだが、これらの章を開いてみても真っ白な空白のページがあるだけで、実際に何が起こったかが語られるのは第25章の後の数ページ(786-94)のことである。これもハイパーテキスト上では第17章から一気に第25章の後にジャンプすることができるのだ。確かにその方が楽に筋を追えるが、しかしそれでは、わざわざ読者をじらすために挿入した空白のページの効果が消えてしまう。トリストラムが愛してやまない脱線の生み出す効果が、まったく消えてしまうのだ。トリストラムの脱線賛美については次の引用を見ていただきたい。

 

Digressions, incontestably, are the sunshine;--they are the life, the soul of reading; take them out of this book for instance,--you might as well take the book along with them;--one cold eternal winter would reign in every page of it; restore them to the writer;--he steps forth like a bridegroom,--bids All hail; brings in variety, and forbids the appetite to fail. (I.xxii; 81)

 

 ハイパーテキストにおける断片どうしのリンクは、本来読者による自由な脱線を促すものであるはずだ。それが『トリストラム・シャンディ』の場合は、ハイパーテキスト化することによって脱線のない"one cold eternal winter" と化してしまうのは皮肉なことである。作者による脱線は、読者が作者の指定した順序通りに読んでくれるからこそ可能なのだ。トリストラムがさまざまなエピソードを語る順序にどれほどこだわっているかを示す場面を引用してみよう。トリストラムの誕生に立ち会った産科医は誤って赤ん坊の鼻を潰してしまい、あわてて綿と鯨骨で鼻柱(bridge)を作って潰れた鼻を高くしようとするのだが、その事件の報告を聞いたトウビーが、"bridge"という単語を自分のミニチュア戦場に取り付けるための跳ね橋のことと誤解する、という場面である。

 

[I]n order to conceive the probability of this error in my uncle Toby aright, I must give you some account of an adventure of Trim's, though much against my will. I say much against my will, only because the story, in one sense, is certainly out of its place here; for by right it should come in either amongst the anecdotes of my uncle Toby's amours with widow Wadman, in which Corporal Trim was no mean actor,--or else in the middle of his and my uncle Toby's campaigns on the bowling green,--for it will do very well in either place; --but then if I reserve it for either of those parts of my story,--I ruin the story I'm upon,--and if I tell it here, --I anticipate matters, and ruin it there. --what would your worships have me to do in this case? (III. xxiii; 243-44)

 

トリストラムは読者の意見を尋ねてはいるが、もちろん決定を下すのは彼自身である。結局トリムと跳ね橋のエピソードは、トウビー叔父の恋物語や戦争ごっこのエピソードとは切り離して、この引用箇所の直後に語られることになる。

 この引用箇所が興味深いのは、ここに描かれているのが、複数のリンクから一つを選択するという作業にほかならない点である。ハイパーテキスト小説の読者が行うべき作業を、ここでは語り手が(つまりはその背後にいる作者が)行っているのだ。作品全体を通じて、トリストラムはハイパーテキストの読者のように振る舞っている。それはまるで彼が手元に『原トリストラム・シャンディ』とも呼ぶべきハイパーテキストを持っていて、気の向くままにリンクをたどりながら断片から断片へと渡り歩いているような感じだ。われわれ読者は、トリストラムにハイパーテキスト的読書のデモンストレーションを見せられているような印象を受ける。ときにはトリストラムがあるノードにリンクだけ張って実際には読まない(書かない)ということもある。第1巻第13章(40)で約束されるシャンディ屋敷周辺の地図が実際に挿入されることはなく、第3巻第10章(198)で約束される「大叔父ハモンド・シャンディの非業の死」について詳細が語られることはない。 しかしそれらのリンクは、トリストラムが持っているハイパーテキスト『原トリストラム・シャンディ』が、本の形で出版された『トリストラム・シャンディ』よりずっと情報量の多いものであることを示唆している。

 『トリストラム・シャンディ』をハイパーテキスト小説と呼ぶことはできないが、その小説内世界は多分にハイパーテキスト的なものである。語り手トリストラムは自分の頭の中にあるハイパーテキスト状の記憶をたどって、その結果をそのまま読者に読まれるべきテキストとして提出する。もちろん、ハイパーテキストがそもそも人間の思考の網目を忠実に再現して物事を書く=読むためのメディアを目指している以上(注5を参照)、トリストラムのそうした行為を描くことは「書く」という行為を前景化しているにほかならないのだが。いずれにせよ、この作品を統括する作者の特権的な地位には揺るぎがない。読者は作者の定めた通りに頭から順番にページを繰ることで、トリストラムが行うスリリングな〈読み=書き〉体験を追体験するのみである。

 

VI

 

 ところで「ハイパーテキスト」という単語にもう一つの、まったく異なった意味を与えているのが、フランスの批評家ジェラール・ジュネット(Gérard Genette)である。「ハイパーテキスト」(hypertext)をフランス語化すれば「イペルテクスト」(hypertexte)となるが、彼にとって「イペルテクスト」とはテッド・ネルソン的なハイパーテキストとは無縁の概念である。ジュネットは言う。「先行するあるテクストから、単純な変形(以後はこれを単に、変形とのみ呼ぶことにする)によって、あるいは間接的な変形──これを模倣と言うことにしよう──によって派生したあらゆるテクストを、イペルテクストと呼ぶことにする」。(12)イペルテクストとは、イポテクスト(先行するテクスト)から派生するテクストのことを指し、非常に意味の広い言葉である。ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』はホメロスの『オデュッセイア』のイペルテクストである、といった使い方もできれば、「執筆のあらゆる状態は、その前の状態に対してイペルテクストとして機能し、その後の状態に対してイポテクストとして機能する」(650)といった使い方もできる用語だ。そのためジュネットの大著『パランプセスト』は、さまざまなタイプのイペルテクスト性を細かく分類し、それぞれの特徴を仔細に検討している。

 しかしハイパーテキストとの絡みで重要なのはそうした細かい分類ではない。重要なのは、あるテキストが何か他のテキストのイポテクストであったりイペルテクストであったりすることを指摘する、すなわち二つのテキストの間にイペルテクスト性を見出すのは、いわばそれらのテキストの間に見えないリンクを張るようなものだということだ。そうしたリンクは読者の記憶や知識に依存し、読者の意識の中にだけ存在するもので、その段階ではコンピュータ画面上に表示したりマウスでクリックしたりできるものではない。しかし『ユリシーズ』の彼方に『オデュッセイア』を見通すことができたり『トリストラム・シャンディ』の向こうに『パンタグリュエル物語』『ドン・キホーテ』『憂鬱の解剖』といったテキストが透けて見えれば、読書体験の楽しみは何倍にも広がるはずだ。

 

テクスト的関係の次元におけるこういう対象の二重性は、パランプセストの古いイメージによって表すことができる──つまり、同じ羊皮紙上で、あるテクストが別のテクストの上に重なっているのだが、といってそれは下のテクストを完全に隠すには至っておらず、下のテクストは透けてみえている。(中略)イペルテクスト性はわれわれを関係性の読書へと誘い、その味わいは──倒錯的と言いたければ言ってもよい、──、パランプセスト的読書 lecture palimpsestueuse というフィリップ・ルジューヌが最近つくった前代未聞のこの形容詞に、十分に凝縮されている。(655)

 

 そして『トリストラム・シャンディ』は、読者をこうした「パランプセスト的読書」へと執拗に誘いかけるかのように、自らのイペルテクスト性を主張するのだ。トリストラムはギリシャ・ローマの古典から中世、ルネサンス、17世紀、さらに同時代のさまざまなテキストに言及し、ときにはそれらをそっくり剽窃しながら彼の自伝を書き進める。それはまさに過去のテキストに向けて張られたリンクの宝庫である。自らを「諸芸術・諸科学の百科全書」"this cyclopaedia of arts and sciences" (II. xvii; 141) と呼んでいるこのテキストは、まるでテッド・ネルソンのザナドゥが全世界図書館として世界中のハイパーテキスト図書館にリンクを張り巡らせるように、当時のヨーロッパ人に入手できる限りのあらゆる古典テキストとの間にイペルテクスト性のネットワークを築こうとしている。いや、正確には、そうしたネットワークの幻想を作り出そうとしていると言うべきである。『トリストラム・シャンディ』には表面的なリンクしかないからだ。そのリンクをたどるたどらないは読者次第なのだ。この意味で『トリストラム・シャンディ』全体のミニチュア版と呼ぶべきものが、第3巻の終わりから第4巻の最初にかけて紹介されている。ハーフェン・スラウケンベルギウス(Hafen Slawkenbergius)なる17世紀の人物が書いた、鼻に関する究極の百科全書である。

 

[H]e has taken in, Sir, the whole subject,--examined every part of it, dialectically,--then brought it into full day; dilucidating it with all the light which either the collision of his own natural parts could strike,--or the profoundest knowledge of the sciences had impowered him to cast upon it,--collating, collecting, and compiling,--begging, borrowing, and stealing, as he went along, all that had been wrote or wrangled thereupon in the schools and porticos of the learned: so that Slawkenbergius his book may properly be considered, not only as a model, --but as a thorough-stitch'd DIGEST and regular institute of noses; comprehending in it all that is or can be needful to be known about them. (III. xxxviii; 274)

 

トリストラムは「鼻に関して知るべきことはすべて書かれている」というこの書物の原文を、ラテン語・英語対訳形式で引用までしてみせるのだが、面白いのはこれが(当然ながら)架空の書物であることだ。断片を紹介することで、全体の幻想を生み出す。作者スターンが「鼻の百科全書」に対して用いた方法は、そのまま『トリストラム・シャンディ』全体にもあてはまるはずだ。この作品全体もまた長大な「諸芸術・諸科学の百科全書」の断片なのだ。それはボルヘスが短編集『八岐の園』のために書いたプロローグを思わせる。

 

長大な作品を物するのは、数分間で語りつくせる着想を五百ページにわたって展開するのは、労のみ多くて功少ない狂気の沙汰である。よりましな方法は、それらの書物がすでに存在するとみせかけて、要約や注釈を差しだすことだ。(13)

 

 現代のわれわれが『トリストラム・シャンディ』を読むとなると、イペルテクスト性のネットワークは、作者スターンが意図したものよりもさらに広がっていく。なにしろそこには、この作品に影響を受けたと思われるあらゆる文学作品、演劇、映画、漫画、作者ローレンス・スターンの書簡や伝記、この作品について書かれたあらゆる論文や雑文がすべて加わってくるのだ。(14)こうしたイペルテクスト性(超テクスト性)のネットワークの中での「パランプセスト的読書」の理想状態を、ジュネットは次のような言葉で表現している。「このようにして成就するのが、絶えざる輸血状態にある──つまり超テクスト的注入状態にある──《文学》のボルヘス的ユートピアであり、この《文学》はその全体のうちに、そして《全体》として常にそれ自身に現前しているのであって、またその書物はすべて一冊の巨大な《書物》、ただ一冊の無限の《書物》にほかならない」(657)

 

VII

 

 『トリストラム・シャンディ』のハイパーテキスト的特徴のなかでも重要な要素である「断片化したテキスト」については、さらに別の見方もできる。断片や廃墟といった未完成な状態(non finito)への嗜好は、文学のみならず美術・音楽に至るまで、18世紀後半のヨーロッパの芸術全般に見られる現象だったのである。(15) 18世紀文学研究者のエリザベス・ワニング・ハリーズ(Elizabeth Wanning Harries)が1994年に出版したThe Unfinished Manner: Essays on the Fragment in the Later Eighteenth Centuryは、「断片詩、廃墟画、そして『トリストラム・シャンディ』がかすめとった『意識の流れ』の先駆的実験などがつくりあげる断片への趣味をおそらく初めて総括した」(16)名著だが、ハリーズによれば、こと『トリストラム・シャンディ』における断片へのこだわりに関しては、時代の雰囲気としての断片志向だけでは片づけられない、特殊な事情があったはずだという。

 作者ローレンス・スターンは、英国国教会の牧師であったことを思い出していただきたい。ハリーズは、当時の聖職者にとって、断片(fragment)という言葉は、新約聖書の次の箇所を思い出させたはずだという。"Gather up the fragments that remain, that nothing be lost" (John 6:13)。日本語版の共同訳聖書では次のように訳されている。「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」(ヨハネによる福音書 6:12)。これはイエスが行った奇跡の一つを描いた箇所である。イエスが五千人の群衆に大麦のパン5つと魚2匹を分け与えたところ、全員が満腹し、なお残ったパン屑を拾い集めると、12の籠がいっぱいになったという逸話だ。そこから「断片」のイメージは、「豊饒」や「神の恩寵」のイメージにつながる。聖書に親しんだ人々にとって「断片」とは、一見下らない物でありながら、実はより完全な、至高の存在を指し示すものだったのだ。そしてハリーズによれば、スターンはそういう意味での断片を、パン屑を集めた使徒たちのように、ひたすら集めていたことになる。彼の小説はそうした断片収集の結果なのだ。

 

They [Sterne's novels] are rather like the disciples' baskets, baskets in which he "gathered up the fragments'" of learning and of the quotidian that came his way. By emphasizing the bric-a-brac of scholarship and the "little serpentine tracks" of the daily, he indicates their comic insignificance--but also their ultimate meaning in a larger and more flexible context. (17)

 

 『トリストラム・シャンディ』における断片の集積がハイパーテキスト的であり、さらにその断片性が広大な知のネットワークの幻想を生み出しているのは事実だが、『トリストラム・シャンディ』の断片志向の背後には、神の恩寵としての人生の断片と人類の知の遺産を集めて後世に伝えるという、宗教的な意味が潜んでいたかもしれないのだ。そうした意味で、ハリーズも引用しているデニス・ドノヒュー(Denis Donoghue)の言葉は重要である。"He [Sterne] is a man of his time, though he complicates our sense of that time."(18)

 

 

(1)  「ハイパーテキスト」(hypertext)という言葉は、ネルソンの次の論文で最初に使われたとされている。

Theodor H. Nelson, "A File Structure for the Complex, the Changing, and the Indeterminate," Proceedings of the ACM Twentieth National Conference (1965).

(2)  Theodor H. Nelson, "Dream Machines," Computer Lib / Dream Machines (Redmond, WA: Tempus Books of Microsoft Press, 1974, Revised Edition 1987) 30.

(3)  テッド・ネルソン著、竹内郁雄・斎藤康己訳『リテラリーマシン──ハイパーテキスト原論』(アスキー出版局、1994)76ページ。なお今回は原書を入手できなかったので邦訳を使用したが、原書の書誌情報は次の通りである。

Theodor H. Nelson, Literary Machines. (Swarthmore, PA: Self-published, 1981).

(4)  George P. Landow, Hypertext: The Convergence of Contemporary Critical Theory and Technology (Baltimore: Johns Hopkins UP, 1992) 4. なお本稿執筆中に邦訳(ジョージ・P・ランドウ著、若島正他訳『ハイパーテクスト──活字とコンピュータが出会うとき』[ジャストシステム、1996])が出版された。

(5)  ただし現在ネルソン自身が思い描いている「ハイパーテキスト」はこのように単純なものではなく、人間の頭の中にある、たくさんの「単語」や「意味」の原子が互いに縦横に結び合った網の目を忠実に再現し、一連の概念の構成要素が時が経つにつれ書き換えられ、入れ替わっていく様をも記述・管理することのできる、いわば脳の中身をそっくり写し取ったようなメディアである。詳しくは村田利文「札幌ハイパーラボ・プロジェクトの意義」(1995年11月)URL: http://p75004.visionj.co.jp/Staffj/murata/OnHyperLab.html(URLは1996年12月20日現在)を参照。

(6)  テッド・ネルソンのハイパーテキスト観およびザナドゥ構想については、津野海太郎『本とコンピューター』(晶文社、1993)所収の「もうひとつの編集術」および「ユートピアとしての全地球図書館」を参照のこと。また、ザナドゥ構想の現状については、仲俣暁生「コンピュータ・カウボーイの伝説」『ワイアード』第1巻第3号(同朋舎出版、1995)およびWebサイト"Project Xanadu"(URL: http://www.xanadu.net/the.project[1996年12月20日現在])を参照。

(7)  インターネット上で世界中の知識を体系化し、Webに全地球図書館としての役割を果たさせることを目指している人々の活動については、スティーヴ・G・スタインバーグ著、内田勝訳「求めよ、さらば与えられん(たぶん)」『ワイアード』第2巻第9号(DDPデジタルパブリッシング、1996)を参照。

(8)  Michael Joyce, "afternoon, a story," computer software, Macintosh or Windows (Watertown, MA: Eastgate Systems, 1987) .

(9)  Jay David Bolter, Writing Space: The Computer, Hypertext, and the History of Writing (Hillsdale, NJ: Laurence Erlbaum Associates, 1991) 124.

(10) 井上夢人『99人の最終電車』より「ハイパーテキスト小説を書くにあたって」(1996年4月)URL: http://www.justnet.or.jp/naminori/99/reader/mes.htm#t1(URLは1996年12月20日現在)。

(11) Laurence Sterne, Tristram Shandy: The Text (The Florida Edition of the Works of Laurence Sterne vol. I-II), eds. Melvyn New and Joan New. (Gainesville: UP of Florida, 1978) . 以下『トリストラム・シャンディ』からの引用はすべてこの版による。なお本文中では大文字のローマ数字によって巻番号、小文字のローマ数字によって章番号を示し、さらにアラビア数字でこの版のページを示すことにする。

(12) ジュラール・ジュネット著、和泉涼一訳『パランプセスト』(水声社、1995 [原著1982])25ページ。

(13) ホイヘ・ルイス・ボルヘス著、鼓直訳『伝奇集』(岩波文庫、1993[原著1944 ])12ページ。

(14) そうした意味で、伊藤誓『スターン文学のコンテクスト』(法政大学出版局、1995)は、『トリストラム・シャンディ』のイポテクストたるジョン・ロックや〈メニッポス的諷刺〉の作品群から、『トリストラム・シャンディ』のイペルテクストである同時代の贋作およびディドロ、ニーチェ、漱石に至るまで、スターンの文学作品をイペルテクスト性のネットワーク(伊藤氏の言葉では「コンテクスト」)の中でとらえた名著である。

(15) たとえば『トリストラム・シャンディ』とほぼ同時代から19世紀初頭にかけて流行した怪奇小説、いわゆる「ゴシック小説」におけるテキストの断片の用いられ方については、ジャン・B・ゴードン著、志村正雄訳「廃墟としてのテキスト」(『城と眩暈』[国書刊行会、1982]所収)を参照。

(16) 高山宏『カステロフィリア──記憶・建築・ピラネージ』(作品社、1996)158ページ。

(17) Elizabeth Wanning Harries, The Unfinished Manner: Essays on the Fragment in the Later Eighteenth Century, (Charlottesville and London: UP of Virginia, 1994) 51.

(18) Denis Donoghue, "Sterne, Our Contemporary." The Winged Skull: Papers from the Laurence Sterne Bicentenary Conference, eds. A. H. Cash and John M. Stedmond (Kent: Kent State UP, 1971) 58.


内田勝「『トリストラム・シャンディ』はハイパーテキスト小説か」(1997)〈https://www1.gifu-u.ac.jp/~masaru/uchida/hypershandy.html〉
(c) Masaru Uchida 1997
ファイル公開日: 2004-10-01
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