初出:『岐阜大学地域科学部研究報告』第34号(2014)pp. 1–12. この論文のPDF版はこちら(岐阜大学機関リポジトリ)。
*本文で言及したウェブサイトにはリンクを張りました。また、本文で言及した作品のうち、インターネット上で閲覧が可能なもののいくつかにはリンクを張りました。
「査読済論文」
1751年の「紙の戦争」とモノ語りの増殖——クリストファー・スマートとジョン・ヒルの確執について
内 田 勝
(2013年12月12日受理)
The "Paper War" of 1751 and the Proliferation of It-Narratives: On the Feud between Christopher Smart and John Hill
Masaru UCHIDA
1.「紙の戦争」とは何か
本稿で「モノ語り」(it-narratives)と呼ぶのは、18世紀後半のイギリスで流行した、人間以外の物や金銭や動物を主人公または語り手とする一連の小説群である。英語文献では it-narratives と呼ばれるが、本稿では「人間ではないモノが語る物語」という意味で「モノ語り」という訳語を用いることにする。
初期のモノ語りとしては、硬貨を主人公とするチャールズ・ギルドン(Charles Gildon, 1665–1724)の『黄金の密偵』(The Golden Spy, 1709)などが18世紀初頭に出現している。しかしモノ語りがイギリスで本格的に流行するのは1750年代以降である。
2012年にイギリスのモノ語り選集を編んだマーク・ブラックウェル(Mark Blackwell)は、イギリスで出版されたモノ語りのほとんどが1750年代以降の作品である理由について、1740年代にクロード・クレビヨン(Claude-Prosper Jolyot de Crébillon, 1707–77)の『ソファー』(Le sopha, 1742)やドニ・ディドロ(Denis Diderot, 1713–84)の『お喋りな宝石』(Les bijoux indiscrets, 1748)といった、フランスのモノ語りが翻訳紹介されたことが影響した可能性があると指摘している。それとともに彼は、1750年代初頭の「紙の戦争」(Paper Wars)において、論敵を諷刺するモノ語りが続々と刊行されたり雑誌に掲載されたりしたことが、モノ語り流行のきっかけになったことを示唆している(Blackwell, General xi–xii)。本稿では「紙の戦争」に関わった作品をいくつか取り上げ、当時の文士たちによるモノ語りを通じた諷刺の連鎖が、具体的にどのようなものであったかを検証してみたい。
1750年代初頭のイギリスにおける「紙の戦争」とは、新聞・雑誌といった定期刊行物や安価なパンフレットを舞台として、有名・無名の文士たちが繰り広げたさまざまな論争のことである。論争とは言っても、「紙の戦争」では建設的な議論が行われるわけではない。ほとんどの場合それらは、相手への敵意に基づく執拗な個人攻撃であり、揚げ足取りの応酬に終始する低次元な喧嘩と言っていいものである。新聞が読者の気を引いて売り上げを伸ばすために、競合紙と組んで八百長の戦争を仕掛けることもあったが、相手を攻撃しすぎて本物の喧嘩になってしまうこともあった。
「紙の戦争」の中でもっとも有名なものは、1752年から53年にかけて、作家のヘンリー・フィールディング(Henry Fielding, 1707–54)と文筆家で植物学者のジョン・ヒル(John Hill, 1714?–75)との対立に端を発し、他の作家や出版者たちを巻き込んでいった、「1752–53年の紙の戦争」(The Paper War of 1752–53)であろう。このときフィールディング陣営の急先鋒としてジョン・ヒルと激しい応酬を繰り広げたのが、詩人のクリストファー・スマート(Christopher Smart, 1722–71)であった。モノ語り増殖のきっかけとなった1751年の「紙の戦争」は言わばその前哨戦とも呼ぶべきもので、クリストファー・スマートとその友人たちが、すでに文士の間で嫌われ者であったジョン・ヒルを諷刺するという性格のものである。
本題である1751年の抗争を語る前に、典型的な「紙の戦争」がどのようなものであったかを確認するため、以下に1752–53年の紙の戦争の概要を記しておく。
2.1752–53年の紙の戦争
1750年2月、ヘンリー・フィールディングは、異母弟ジョン(John)とともに「百般登録事務所」(The Universal Register-Office)を開設した。これは英文学研究者の圓月優子によれば以下のような場所だった。「百般登録事務所とは各種の売買や契約などの仲介を仕事とするいわばベンチャー・ビジネスである。例えば職を求める人や人材を求める人、モノを売却したい人や購入したい人などが、少額の登録料を支払ってこの事務所に自分の条件を登録しておく。ここでその情報が公開されることによって、条件に合致した相手がみつかりやすくなるという仕組みだ。事務所としては斡旋をおこなう情報の登録料を利益として得ることになる」(圓月 639–40)。
競合他社との競争が激化する中、フィールディングは「百般登録事務所」の宣伝を主要な目的の一つとする新聞『コヴェントガーデン・ジャーナル』(The Covent-Garden Journal)を創刊することにした。当時の定期刊行物に掲載されたエッセイでは、筆者が実名ではなく架空のキャラクターを設定し、そのキャラクターが語るという形で文章を発表することが多い。フィールディングの場合も、『コヴェントガーデン・ジャーナル』紙上では、「サー・アレグザンダー・ドローカンサー」(Sir Alexander Drawcansir)という架空のキャラクターの姿を借りて語ることになる。
フィールディングは創刊に先立って, 1751年12月28日、『ロンドン・デイリー・アドヴァタイザー』(The London Daily Advertiser)紙で人気コラム「インスペクター」(The Inspector)を担当していたジョン・ヒルに会い、売り上げを伸ばすための八百長の戦争を持ちかけた(Bertelsen 137)。二人が執筆に用いるキャラクターの「ドローカンサー」と「インスペクター」が、互いに相手をからかい合うことで、読者の興味を二つの新聞に引き付けようとしたのである。
しかしヒルは、このような計画を持ちかけるにはあまりに危険な相手であった。ヒルがどのような人物であったかは、澤田孝史によるフィールディングの伝記の中で、見事に要約されている。
ヒルは何についてでも本を書け、詩や小説や劇やオペラも書くことができた多作で多芸な人物であった。出身は低く、薬屋や売れない役者をやった後、お金を貯め、コーヒー・ハウスで批評家として有名になり、世の趣味に大きな影響を持つようになった。彼が世間の注目を浴びたのは一七四六年から始めた定期刊行物の出版に関してであった。この年[1751年]の三月には『ロンドン・デイリー・アドヴァタイザー』から週二ギニーで論説を書くようにという申し出を受けた。この論説はロンドンで大評判となり、彼は大衆を引きつける術を身につけた。そして、数年間週に六日同紙で論説を書き、虚栄や知ったかぶりを嘲笑って大人気となったが、その内容は下品で横柄であった。彼の新聞やパンフレットが大変に売れて年収千五百ポンドという大金を稼ぐようになった。激しい論争があるとその中に参加し、論争に勝とうが負けようが気にせず、名が売れれば満足という人物であった。多才で有能であったことは確かだが、誠意と道徳観念がなく、偽善家で嘘つきで虚栄心に満ちた異常者とも言える人物であった。(澤田 357, 角括弧内は内田による補足)
1752年1月4日に『コヴェントガーデン・ジャーナル』が創刊されると、フィールディングのキャラクターである「ドローカンサー」は、予定どおり軍勢を率いて三文文士の軍勢との対決を宣言し、1月7日の第2号では、「インスペクター」およびヒル本人が拠点にしている、コヴェントガーデンのベッドフォード・コーヒーハウス(The Bedford Coffee House)を攻撃する(Fielding 25–26)。フィールディングはこの架空の戦争を、自らが率いる「機智」(Wit)の軍勢とヒルが率いる「愚鈍」(Dullness)の軍勢との戦いとして描いていた(Rizzo, "Notes" 340)。両者の応酬は初めは陽気なものであったが、1月9日の「インスペクター」で、事態はフィールディングが想定していなかったであろう展開を遂げる。「インスペクター」というキャラクターを演じているはずのヒルが、フィールディングと自分との間に交わされた密約を、以下のように真面目な口調で読者に暴露してしまうのだ。
『アミーリア』[Amelia]の作者[フィールディング]には、私は一度会ったきりだが、偶然会ったその時彼が私に言うには、彼は今の文士たちを心底軽蔑しており、ドローカンサー[Drawcansir]の姿を借りて、彼らを情け容赦無くぶっ叩くつもりだという。なんとも有難いことに、彼は私を酷評の対象からいつも除外してきてくれたそうだ。ここには繰り返さないが、彼は私が望んでもいなければ値するわけでもない賛辞を述べた後、今後も良い関係を保っていこうと言った。続けて彼は、われわれのどちらにも役立つ計画とやらを打ち明けた。八百長の戦いを仕組んで、われわれの読者を楽しませようというのだ。痛くない殴り合いをやり、黙って利益を分かち合おうというわけだ。
私は公衆を尊敬しており、このように不誠実なやり方で公衆を軽んじるわけにはいかない。私は常に公衆に対する義務感を失いたくないとも思っている。かくも無礼な偽装によって公衆に報いるなど、まっぴら御免だ。(qtd. in Jensen 42–43)(1)
これ以降、遊びのはずの喧嘩は本物の喧嘩に変わってしまう。その後のヒルは、治安判事としてのフィールディングが暴行事件の被害者を名乗る女性に騙されているかどうかが問題になった1753年のエリザベス・カニング(Elizabeth Canning)事件をはじめ、事あるごとにフィールディングの言動を激しく非難する側に回るようになる。
ヒルは1752年8月に、『インパーティナント』(The Impertinent)という、第1号のみに終わった新聞を匿名で刊行した。「これはフィールディングとヒルと、スマートというフィールディングの友人を攻撃していた。この匿名の書き手はヒル自身であったが、彼は自分が被害者の振りをして八月下旬に反撃をした。これは人々の注目を得るためのヒルのお気に入りのやり方であった」(澤田 385)。ヒルがこの新聞でフィールディングとクリストファー・スマートに加えた攻撃は、以下のようなものだ。
機智があるから物を書く者がいる。空腹だから物を書く者もいる。現代の文士には、それら両方の理由を常に抱えた者もいる[…]。第一の文士の例はフィールディングだ。同様に、スマートは第二の文士の顕著な例である。第三の文士の入り混じった花輪は、ヒルのものだ[…]。
第一の階層に属する者は、あらゆる動物のうちでもっとも気まぐれで、もっとも怠け者の猿である。天才の猿は、その悪ふざけ好きが生来の怠け癖に打ち勝つ時ですら、めったに本気を出さない。第二の階層の性格を表す驢馬も、同じくらい怠惰で愚鈍であり、根気がいいわりに中身は空っぽだ[…]。見かけが馬鹿げていて滑稽なので、遠くから眺める人は彼を見て微笑む。彼は食べねばならぬから口を開くが、その唇にはアザミのとげが刺さってしまう。そんな彼の鈍感さと強情さを、世の人はしばしば、かの哲学者とともに笑うのだ。(qtd. in Smart, Hilliad 3)
ここで猿に例えられたフィールディングとともにヒルの標的にされ、愚鈍な驢馬に例えられたスマートは、その後はさまざまな刊行物を舞台にヒルへの反撃を行うことになる。その集大成が、彼が1753年2月に刊行した諷刺詩『ヒリアッド』(The Hilliad, ESTC #: T36212)である。(2)
『ヒリアッド』という題名はホメロスの叙事詩『イーリアス』の英語名『イリアッド』(The Iliad)のもじりであるが、それと同時に、アレグザンダー・ポープ(Alexander Pope, 1688–1744)が当時の文士たちを痛烈に諷刺した『愚物列伝』(The Dunciad, 1728–43)にも基いている。
『ヒリアッド』ではまず詩に先立って、スマートが友人と交換した手紙の引用という形で、スマートとヒルとの抗争の経緯が語られている(Smart, Hilliad iii–ix)。続いて、各種の刊行物において双方が相手を評した文章が、褒めたものとこき下ろしたものとに分類されて几帳面に集められ、延々と引用されていく(3–18)。その偏執狂的な執拗さからは、スマートがヒルに対して抱いていた恨みの深さが伝わってきて、薄気味悪くなるほどだ。
その後にようやく始まる詩においては、あらかじめ本文を上回る分量の膨大な注釈が付けられ、そこでもヒルへの当てこすりが行われている。この注釈はスマート自身と友人のアーサー・マーフィー(Arthur Murphy, 1727–1805)によるものだというのが通説だが、英文学研究者のベティ・リゾ(Betty Rizzo)は、フィールディングが注釈の執筆に加わった可能性を指摘している(Rizzo, "Notes" 347–52)。詩の最後では、「名声」の女神がこう宣告する。"So long in flat stupidity’s extreme, / Shall H---ll th’ ARCH-DUNCE remain o’er every dunce supreme."「とこしえに愚の骨頂の極みに座して、/ 至高の大阿呆ヒルはすべての阿呆に君臨するだろう」(Smart, Hilliad 45)。
3.モノ語りに描かれたジョン・ヒル
1752–53年の「紙の戦争」は、以上のように熾烈かつ不毛なものであった。それを踏まえたうえで、いよいよ本題である、1751年のクリストファー・スマートとジョン・ヒルとの抗争、およびモノ語りがそこにどう関わったかに話を移そう。
1751年の「紙の戦争」に関わったモノ語りの最初の作品は、スマートが自ら主幹を務める月刊誌『ミッドワイフ』(The Midwife)の第2巻第1号(1751年4月号)に発表した「極めて不運な弁髪鬘[べんぱつがつら]による本物の回想と真に驚嘆すべき冒険」("The Genuine Memoirs and Most Surprising Adventures of a Very Unfortunate Tye-Wig")である。本名を使わず架空のキャラクターを通して語るのが一般的だった18世紀イギリスのエッセイストの例にもれず、スマートもこの雑誌では常に、老いた産婆のミッドナイト夫人(Mrs. Midnight)というキャラクターを借りて語っていた。この物語ではそのミッドナイト夫人が、街角の靴磨きが靴の汚れを落とすのに古い鬘[かつら]を使っているのに気づくと、その鬘が彼女に向かって自分の波瀾万丈の生涯を語り始めるのだった。新品の高級な鬘が、偽医者・法律家・劇場の衣装係・軍人・文士・農夫・物乞いと次々に持ち主を変えながら、最後はゴミ同然の存在に落ちぶれるまでを自ら物語るこの作品について、私はすでに別稿で詳述している(内田 20–22)。しかし今回は、ジョン・ヒルとの関わりでこの作品を見てみよう。ヒルと思われる文士が登場するのは、以下の場面である。
今度の持ち主は「テンプル・エクスチェンジ・コーヒーハウス」の常連客で、彼の職業はきわめて珍しい性質のものだった。彼の仕事は、新聞記者が休暇中の時や、めぼしい事件が起こっていない時に、記者の手伝いをするというものだ。彼は一瞬でコンスタンティノープルに疫病をはやらせることもできたし、半クラウンの報酬と引き換えに、トルコ皇帝を退位させることも、百人のタタール人を抹殺することもできた。ハーグに集まった外務大臣たち全員の私的な会話の内容を知ることなんて、たぶん彼にしかできないだろう。『デイリー・アドヴァタイザー』紙に手紙を掲載して、その中で、キリスト教国のあらゆる王の閣議室のドアの鍵をこじ開けてしまうことだってできる。(Smart, "Genuine" 5)
上の引用に登場する「テンプル・エクスチェンジ・コーヒーハウス」(Temple Exchange Coffee House)や『デイリー・アドヴァタイザー』(The Daily Advertiser)はどちらも当時実在したが、おそらくここではそれぞれ、「テンプル・コーヒーハウス」(Temple Coffee House)と『ロンドン・デイリー・アドヴァタイザー』(The London Daily Advertiser)をほのめかすために使われている。『ロンドン・デイリー・アドヴァタイザー』はヒルがコラムを書いていた新聞だし、「テンプル・コーヒーハウス」は当時の博物学者が集う場所だった。高名な植物学者でもあったヒルは、しばしばこの店に顔を出していたはずである。ヒルが実際に偽の海外ニュースをでっち上げていたかはどうかは定かでないが、ジャーナリストとしての良心のかけらもない登場人物にヒルを思わせる特徴を与えることで、スマートはすでにヒルへの嫌悪感を表明していたと言えるだろう。
同じ1751年4月の末に、作者不詳のパンフレット『極めて不運な鵞ペンによる本物の回想と真に驚嘆すべき冒険』(The Genuine and Most Surprizing Adventures of a Very Unfortunate Goose-Quill, ESTC #: N18192)が刊行される。スマートの「弁髪鬘の冒険」とタイトルが酷似しているだけでなく、作品全体が、不運な鵞ペンが不運な弁髪鬘に書き送った手紙という設定になっている。
ベティ・リゾはスマートがこの作品の作者、あるいは複数の作者の一人であろうと主張している(Rizzo, "Notes" 343)。一方、2012年のモノ語り選集でこの作品を解説したマーク・ブラックウェル(Mark Blackwell)はより慎重で、スマートの敵陣営の誰かが書いた可能性も検討している。彼はスマートが主幹を務める雑誌の競合誌を作っていたウィリアム・ケンリック(William Kenrick, 1730?–79)の名前を挙げ、さらにこの作品で主に諷刺の対象にされているジョン・ヒル本人が書いた可能性すら指摘している(Genuine 2–4)。ヒルは売名行為の一環として、敢えて自らを笑い者にすることも厭わない人物なのだ。敵が自分を傷付ける文章を発表したかのように偽装して世間の同情をあおるという手口は、先述したようにヒルが翌年の匿名新聞『インパーティナント』でも用いたものである。『不運な鵞ペン』をヒルまたはその仲間の誰かが書いた可能性は否定できないだろう。
『不運な鵞ペン』では、鵞鳥の翼からむしられて鵞ペンとなった主人公が、さまざまな持ち主の間を転々とすることになるが、ヒルとの関連で重要なのは、「よたよた歩き」を意味する名前を持つワドル医師(Dr. Waddle)である。ヒルのよたよた歩きは、しばしばからかいの的にされていたという(Rizzo, "Notes" 343)。ワドルは貴婦人に取り入るために、彼女のペットの猿のために薬を調合し、主人公の鵞ペンで処方箋を書く(Genuine 15–16)。ヒルがもともと薬種商(apothecary)であったことを思えば、出世のために猿を診察するいんちき医者の挿話は、名声と地位を手に入れるために見境なく仕事を引き受けるヒルを諷刺したものとも取れる。
のちに鵞ペンは、治安判事でもあったフィールディングを思わせる、ある治安判事の持ち物となる。鵞ペンは治安判事の書記とともに外出し、ある聖職者に出会う。これは神聖さより陽気さを極めたいと思っている男だったが、この日の彼は一座を退屈させる。なぜなら彼は、ベッドフォード・コーヒーハウスで「薬種商のように話す」ペスル氏(Mr. Pestle)から酷評されたために、意気消沈しているのだった(Genuine 20)。
すでに言及したように、ベッドフォード・コーヒーハウスはヒルが活動拠点とした店である。「乳棒」(乳鉢に入れた薬種を擦り潰す棒)を意味する名を持つペスル氏(Mr. Pestle)は、ほぼ確実にヒルを指している。一方、ペスル氏に酷評される聖職者というのは、おそらくスマートへの当てこすりである。スマートを「聖職者」とは呼べないかもしれないが、ケンブリッジ大学に学んでフェロー(特別研究員)の地位を得ていた彼は、ケンブリッジ市長の前で説教をしたこともあった(Mounsey 58)。
落ち込んでいた聖職者は一念発起し、語り手である鵞ペンを引っつかむと、復讐のためにペスル氏を辛辣に諷刺した詩を書き上げる。詩の中では、ペスル氏の患者の半数が毒にあたり、残りの半数も逃げ去ってしまう。しばらくは仕事もなく、乳鉢にもたれてしょげていた乳棒(ペスル)氏だったが、やがて彼は文士の道を志す。"My Neighbours may fancy they’re safe from my Skill, / But I’ll vomit them yet with my Writings."「近所の奴らはわしの技から逃れられると思っているが、/ わしの文章で奴らに反吐を吐かせてやろう」(Genuine 21)。詩の最後では、薬種商として大量の阿片を所持しているペスル氏が、敵である詩人(すなわちこの詩を書いている聖職者)に阿片を差し出す。
He offer’d the Opium to me t’other Day,
And sneeringly said, ’Tis because I’m your Friend;
Bad me write no more Stuff, nor come in his Way,
And hence I have written; so here let it end. --
(Genuine 22)
(この前、奴は俺に阿片を差し出して、
あざ笑いながら言った、「私は味方だからね」。
そして命じた、もう何も書くな、私に近寄ってくれるなと。
だからこうして書いてやったんだ。さあ、このあたりで終わりにしよう。)
もし『不運な鵞ペン』がスマートによるものだとすれば、これは『弁髪鬘の冒険』とは比べ物にならないほど露骨なヒルへの敵意の表明ということになる。だが妙なのは、この作品ではスマートを指すとおぼしき聖職者も、あまり利口に見えないことだ。作品を酷評された仕返しに、感情的すぎて笑えない諷刺詩を書きなぐるこの聖職者は、諷刺作品の作者が自らの作品に書き込んだ自画像としては、いささか愚かすぎるのだ。
校訂者のブラックウェルは、ヒルこそが作者であるという説の根拠として、この作品が「インスペクター」で二度にわたって取り上げられている点を指摘している(Genuine 3)。確かにその取り上げ方は、さして評判を読んだわけでもないパンフレット『不運な鵞ペン』に、わざわざ読者の注意を誘導しているかのように思えるのだ。
「インスペクター」第24号によれば、ヒルは作家のトバイアス・ジョージ・スモレット(Tobias George Smollett, 1721–71)の友人から激しい抗議を受けたという。『不運な鵞ペン』に挿入された詩はなかなか出来がいいが、この詩の作者だとヒルが触れ回っている人物は、真の作者ではないというのだ。ヒルによれば自分がそんなことを触れ回っているというのは誤解であり、「インスペクター」としての自分が諷刺されているその詩のことを、彼はそれまでまったく知らなかったという。さらにヒルは、抗議をしてきた人物は、スモレットこそが真の作者だと主張していることも紹介している(Hill 103)。これではまるで読者に『不運な鵞ペン』をぜひ読んでみろと言っているようなものである。校訂者ブラックウェルによれば、「スモレットの友人」なる人物が実在したかどうかも怪しいという(Genuine 4)。
仮に『不運な鵞ペン』がヒルまたはその陣営の誰かの作品だとして、スマートがこのパンフレットを読んだ時の気持ちを想像してみよう。スマートとおぼしき人物がヒルとしか思えない人物を攻撃する、あまりに感情的かつ露悪的なこの諷刺パンフレットを、世間はスマートが書いたと思うだろう。スマートはヒルに貶されて逆上し、腹いせに露骨で品のない諷刺文を発表して反撃した――世間にそう思われてしまうことは、文士としての彼の自尊心を著しく傷つけるのではないだろうか。もしそうであるのなら、『不運な鵞ペン』はヒル陣営が書いてこそ、悪口としての効果的な破壊力を発揮すると言える。私としては、ヒルこそが真の作者だという説に一票を投じたくなるのである。
『不運な鵞ペン』の出版を受け、スマートが編集に関わっていたとされる月刊誌『ステューデント』(The Student)の第2巻第8号(1751年5月号)には「鵞ペンの冒険」("The Adventures of a Goose-Quill")という匿名の小品が掲載された。筆者はスマートの友人であったジョージ・ラッセル(George Russel, 1728–67)とされている(Genuine 2)。語り手の鵞ペンは冒頭でこう述べる。「私の生意気な同類が、愚にもつかぬ退屈な回想を発表して世間をわずらわせている以上、私もしゃべることを許されるだろうと思うのです」("Adventures" 296)。スマート側の人間が書いた「鵞ペンの冒険」におけるこうした言及のされ方を見ても、『不運な鵞ペン』のほうは、スマートの敵の誰かが書いたと考えるのが妥当ではないだろうか。なお「鵞ペンの冒険」には『不運な鵞ペン』のような露骨さはなく、ヒルを攻撃するような描写も特にない。聖職者が他人の説教を引き写して自分の説教として発表する挿話など、この時代の諷刺としてはよくある内容を並べた凡庸な作品である。
『不運な鵞ペン』が出たのと同じ1751年4月、スマート陣営は、全2巻の匿名パンフレット『刺繍胴着の回想と興味深い冒険』(The Memoirs and Interesting Adventures of an Embroidered Waistcoat, ESTC #: N11136, N11137)も刊行している。作者はスマートの友人リチャード・ロルト(Richard Rolt, 1724–70)ではないかとされている(Memoirs 7)。モノ語りとしては面白い作品だが、ヒルを攻撃した場面はあまりない。はっきりヒルへの当てこすりと分かるのは、刺繍胴着が貧しい三文文士ストラット(Strutt)の持ち物となった場面である。ストラットはエドワード・ムア(Edward Moore, 1712–57)の劇『ジル・ブラース』(Gil Blas, 1751)の初日を見に行き、丸暗記した批評用語を駆使して「この劇には動き(business)が足りない」「プロットが難解だ」「セリフが大仰すぎる」「登場人物に個性がない」といった批評を繰り広げる。一介の貧しい文士にすぎない己の分際を忘れ、まるで文学作品の生命が自分の評価にかかっているかのような気になっているのだ(Memoirs 17–18)。皮肉なことに、ここでストラットが用いている批評の言葉は、ジョン・ヒルが同じエドワード・ムアの作品『拾い子』(The Foundling, 1748)を評した言葉(qtd. in Amberg 61–63)と酷似している。
ところで、モノ語りではないが、この時期のスマートはヒルに対する攻撃をもう一つ仕掛けている。ヒルが主幹を務める雑誌『ミッドワイフ』の第2巻第2号(1751年5月号)に、「医者と猿」("The Physician and the Monkey")というエピグラム(警句的な短い諷刺詩)が掲載されたのだ。このエピグラムでは、『不運な鵞ペン』で用いられた「貴婦人に取り入るためにペットの猿を診察するいんちき医者」というテーマが繰り返されている。短い詩なので、全文を引用してみよう。
A Lady sent lately to one Doctor Drug,
To come in an Instant and clyster poor Pug-----
As the Fair one commanded, he came at the Word,
And did the Grand-Office in Tie-Wig and Sword:
The Affair being ended, so sweet and so nice!
He held out his Hand with----"You know Ma’m my Price."
Your Price! says the Lady----Why, Sir, he’s a Brother,
And Doctors must never take Fees of each other.
(Smart, "Physician" 69)
(医者のドラッグが、先日貴婦人に呼ばれた。
哀れな猿のパグに、直ちに浣腸を施すためだ。
医者は美女の命に応じ、すぐさま駆けつけると、
弁髪鬘と剣を付け、厳かに施術に取りかかる。
事は終わった。なんと甘美で見事な手際だ!
医者は手を差し出し、「代金はお分かりですな」。
代金ですって! 貴婦人が言った――この子はあなたの兄弟でしょう。
医者は仲間から金を取ってはなりません。)
この詩は翌1752年6月に出版されたスマートの詩集『折々の詩』(Poems on Several Occasions, ESTC #: T42626)に収録されたので、作者がスマートであることは明確である。ベティ・リゾによれば、ヒルはこのエピグラムを読んで激怒し、その後の「インスペクター」では『不運な鵞ペン』に出てくるいんちき医者のモデルとして自分以外の人物を指摘したものの、この詩が本当にスマートの筆によるものであるのかどうかは、どうやらこの詩がスマートの詩集に収められるまで分からなかったらしい(Rizzo, "Notes" 343)。
リゾはこの詩が『不運な鵞ペン』と同一のテーマを扱っていることを、『不運な鵞ペン』がスマートの作であることを裏付ける理由としているが、果たしてそう言えるのだろうか。もし逆に『不運な鵞ペン』がヒルの作だったとすれば、スマートはヒル自身が使った「出世のために猿を診察するいんちき医者」というテーマを敢えてそのまま使うことで、ヒルに対する意趣返しを目論んだとも考えられる。同じ悪口でも、自分が自分に言うのと人から言われるのでは、受けるダメージがまったく違う。だからこそヒルは、この詩を読んで激怒したのではないだろうか。
ヒルは「医者と猿」が載ったスマートの詩集を1752年8月の書評でこき下ろし、同じ月にスマートを酷評した『インパーティナント』を刊行している(Rousseau 157)。その後に泥沼化したスマートとヒルの確執については、先述したとおりである。こうして見ると、ヒルがスマートに対して本当に腹を立てたのは、「医者と猿」がきっかけだったかもしれないのだ。
4.語る羽根ペンの系譜
本稿の主題からはやや脱線するが、モノ語りの流行の過程を考える上では重要な話題を、ここで取り上げておきたい。前項で取り上げた『不運な鵞ペン』および「鵞ペンの冒険」で匿名作者が使った「語る羽根ペン」という設定に影響を与えたかもしれない作品が、台所女中でもあった詩人として知られるメアリー・リーパー(Mary Leapor, 1722–46)の、没後に刊行された詩集『折々の詩』(Poems upon Several Occasions, 1748, ESTC #: T127827)に収録されているのだ。その詩「魂を持つ羽根ペン」("The Inspir’d Quill")では、カラスの羽根で作られたペンが、自分の新たな持ち主となった女流詩人に、ピタゴラス(Pythagoras)の輪廻説を引き合いに出しつつ、自らが経験した輪廻転生を物語る。元は富裕な地主であった男が、軽薄な伊達男、愛玩犬、法律家へと生まれ変わり、最後はカラスに生まれ変わったあげく、殺されて羽根をペンにされたのだ。彼が愛玩犬に生まれ変わった場面を引用してみよう。
Almeria’s Lap-dog next I grew,
And wore a Coat of glossy Hue,
Caress’d and courted ev’ry Day,
At Ev’ning by her Side I lay:
Her Smiles were always bent on me
(The happiest Days that e’er I see)
But, Oh, as by a River-side,
I walk’d along with short-liv’d Pride,
A cruel Foot-boy threw me in,
And laugh’d as tho’ it was no Sin.
(Leapor 114–15)
(次にはアルメリーアの愛玩犬になり、
つやつやの毛皮を身にまとった。
毎日なでられ、愛でられて、
晩には彼女に添い寝した。
その微笑みはつねに私に向けられ
[私のもっとも幸福な日々だった。]
だが何ということ、私が川辺を、
はかない気取りを見せて歩いていたら、
残酷な従僕の少年が私を投げ入れ、
笑ったのだ、まるで罪がないかのように。)
文学的才能に自信のない彼は、自分を手放すよう詩人に嘆願する。
To some Attorney let me go,
For there my Talents suit (you know)
Heroicks I shall write but ill;
But I’m a Doctor at a Bill,
(Leapor 118)
(事務弁護士のもとへ行かせておくれ、
私の才能が活きるのは[もちろん]そこだ。
英雄詩なんてうまく書けないけれど、
証書の作成ならお手のもの。)
ジョン・ヒルはこの詩集の予約購読者リストに名前を連ねている(Leapor 10)。スマートもこの詩を読んでいた可能性が高い。彼は1750年またはその前年に、作家のサミュエル・リチャードソン(Samuel Richardson, 1689–1761)からこのリーパーの詩集を読むように勧められ、主幹を務める月刊誌『ミッドワイフ』の第1巻第2号(1750年11月号)にこの詩集から1篇の詩を転載している(Rizzo, "Christopher" 25–26)。なおこの際リチャードソンはスマートに、リーパーの墓碑銘(epitaph)を書くことを依頼しているのだが、リーパーの詩集の第2巻(1751)に掲載された匿名筆者による墓碑銘が、実際にスマートの筆によるものであるかどうかは定かでないという(Rizzo, "Christopher" 31)。
1751年の春に『不運な鵞ペン』を書いたのがスマートであれヒルであれ、リーパーの詩は作者の発想に影響を与えていたのではないだろうか。
5.紙の戦争のその後
「紙の戦争」を扱ったモノ語りとして最後の作品は、『ヒリアッド』が出たのと同じ1753年に出版された、作者不詳の『フランス駅馬車の旅行記』(The Travels of Mons. le Post-Chaise. Written by Himself, ESTC #: T59719)である。校訂者のクリスティーナ・ラプトン(Christina Lupton)によれば、この作品ではヒルとフィールディングやスマートとがまとめて同じように諷刺されており、また出版者はどちらの陣営の関係者でもないという(Travels 27)。どうやらこれは、抗争に直接関わった文士の作品ではなさそうである。
作品後半のある場面では、部分的にフィールディングとヒルを思わせる人物がそれぞれ複数登場し、ときには双方の役割を入れ替わって演じている。匿名作者はおそらく、フィールディングやヒルと確実に同定できる特定の人物を描いた場合に想定されるトラブルを避けるため、彼らの特徴を複数の人物にばらまく工夫をしたのだろう。しかし現代の読者から見ると、まるで夢が現実を変形して再構成するように、「紙の戦争」という事件の特徴を再構成して描いているように見え、非常に興味深い場面になっている。
語り手であるフランス生まれの駅馬車は、イギリスに渡ってさまざまな持ち主の間を転々とした後、フェイス氏(Mr. Face)という人物の自家用馬車となる(Travels 50)。校訂者によれば、ほぼ確実にフィールディングをモデルにした人物である。フェイス氏は、あらゆる人間が秘めている歪んだ醜さ(deformity)を暴き出す変形の術を身に付けており、伊達男を卑しい虫けらに、当世風の美しい貴婦人を皺だらけの中年女に変身させることができた。交際好きなフェイス氏に仕える馬車は、コヴェントガーデンのコーヒーハウスを中心に日々走り回り、愚者も賢者も引っくるめて多くの人を乗せることになる。ある日彼はフェイス氏を乗せ、フェイス氏の友人ダパー氏(Mr. Dapper)を迎えにコーヒーハウスへ向かう。ダパー氏は「ヨーロッパ最大の博物学者として広く知られていた」(51)人物であり、植物学者としても有名だったヒルを思わせる。
ダパー氏は馬車に乗ろうとコーヒーハウスを出るが、ドアのところで医者とおぼしき風体の紳士に話しかけられる。話題は(ヒルの人気コラムである)「インスペクター」だった。喜びを隠せない紳士は顔じゅうの筋肉を動かして大げさな表情を作りながら、このコラムを熱っぽく褒めちぎる。「インスペクター」こそは叡智の泉、詩の世界に関わろうという人には、最良の導き手だ……。ダパー氏は、議論を盛り上げるためにわざと紳士に反論する。しかもその際、相手の紳士の声や表情や身振りを、そのままそっくりに真似ていくのだ。あまりに似ているので、傍で眺めている馬車には、衣服と体型の違いがなければ同一人物に見えるほどだった。
フェイス氏は馬車からダパー氏に呼びかけ、隠語を使って「そいつをからかうのはそのくらいにしておけ」という趣旨を伝える。紳士には意味が分からなかったが、意味の分かったダパー氏は直ちに自分の顔に戻り、議論を切り上げて馬車に乗り込む。紳士は最後まで、からかわれていることに気が付かなかった。フェイス氏とダパー氏は大笑いする。
二人が向った先はある貴婦人の屋敷で、そこには十人ほどの紳士淑女が集っていた。ちょうど座が白けていたところだったので、話上手なダパー氏は女性たちから熱烈な歓迎を受ける(52)。馬車は窓のすぐ脇に駐車されたので、中の話し声をはっきり聞き取ることができた。その直後、ヒリアード医師(Dr. Hilliard)の馬車が到着したが、訪問客の中に勲爵士のサー・クラウズリー・ドローカンカー(Sir Cloudsley Drawcanker)がいるのを聞くと、医師はいかにも彼らしい独特の口調で、自分は高名な患者をたくさん抱えて忙しいのだと言い残して去っていく。実はこの医師は最近、勲爵士に下剤を飲ませて強制的に排便させるきつい治療を行い、彼の機嫌を損ねていたのだ。
ヒリアード医師(Dr. Hilliard)が『ヒリアッド』(The Hilliad)のもじりであり、薬種商のヒルを指すのは言うまでもない。サー・クラウズリー・ドローカンカー(Sir Cloudsley Drawcanker)のほうは、フィールディングが『コヴェントガーデン・ジャーナル』で語るために用いたキャラクターの名、サー・アレグザンダー・ドローカンサー(Sir Alexander Drawcansir)に基いているのが明白だ。医師が去った後の室内の様子を、馬車は以下のように報告する。
勲爵士は、医師が去ったのをいいことに、軽蔑の笑みを浮かべて言いました。「奴がわしから逃げるのもまったく当然だ。なにしろ、わしを怒らせたらどうなるかを目の当たりにしたのだからな。それにこの前発表した文章では、奴の存在を見る影もなくしてやった」。そう言うと彼は、征服者の威厳をたたえて椅子から立ち上がり、大威張りで部屋を何度も歩き回るのです。これには一座の間で笑いがもれました。どうやらこの二人の紳士の間では、長い間「紙の戦争」[a Paper War]が続いていたようです。どちらも燦然と輝く業績によって自らの才能を世間に示したので、勝者の冠がどちらのものかは誰にも決めかねたのでした。(Travels 52)
以上の描写が示唆しているのは何だろうか。ダパー氏が女性たちに歓迎されたように、沈滞した読書界にとって「紙の戦争」の辛辣なやり取りは当初は歓迎すべき刺激だったのかもしれない。ダパー氏が議論の相手の表情や身振りをそっくり真似るように、ヒルは論敵の文章の特徴をそっくりに真似て読者を楽しませることができたのだろう。しかしいつまでも長々と続く抗争に、やがて読者は辟易し、決着のつかない不毛な喧嘩を延々と続ける両方の陣営に失笑を与えざるをえなくなっていた――たとえばそういうことなのだろうか。
この作品は書評誌で酷評されたが、そうした批評にどこか疲労感が漂うのは、モノが語る物語という設定に飽きたからというより、文士がいつまでも互いに口論や諷刺合戦を続ける状況に読者が飽き飽きしていたからではないかというのが、校訂者ラプトンの見立てである(Travels 27)。
文士どうしが洒落のつもりで始めた喧嘩が、いつの間にか本気の喧嘩になって後々まで禍根を残してしまう「紙の戦争」には、公刊される文章において語る主体とは誰かという問題が絡んでいる。本来なら、文章の中だけに存在する虚構の人物「ドローカンサー」が同じく虚構の人物「インスペクター」をどう扱おうが、現実に存在する生身の人間が怒る筋合いはないはずだ。ところが実際には、虚構と現実との分離は、そううまく行くものではない。読者がどうしても虚構の語り手に現実の筆者を重ねてしまうというのが、架空のキャラクターを通して書かれた文章の厄介な特徴である。
英文学研究者のマヌシャグ・N・パウエル(Manushag N. Powell)は、18世紀イギリスの定期刊行物でエッセイストが用いた個性豊かなキャラクターたちを、「幻影・幽霊・偶像」を意味するギリシャ語である「エイドーロン」(eidōlon)という言葉で呼んでいる。フィールディングの「ドローカンサー」、ヒルの「インスペクター」、スマートの「ミッドナイト夫人」はみな、それぞれの文士のエイドーロン(幻影・幽霊・偶像)なのだ。
パウエルは、新聞・雑誌といった定期刊行物が続々と発行され、そこから生まれた数々のエイドーロンが人気者となった18世紀ロンドンの状況を、インターネット上のブログやツイッター等における匿名・偽名によるコミュニケーションが人気者を作っていく現代の状況に重ね合わせ、以下のように述べている。
18世紀のロンドンにおける定期刊行物の文化が持っていた新奇な物珍しさとその人気の高さは、われわれが今日直面しているのと似ていなくもない問題を生み出した。なぜなら定期刊行物のエッセイは、どこの誰とも知れぬ匿名の人物を、人気作家、時には一流の作家に変えてしまう能力を持っているからだ。さらに定期刊行物は、さまざまな男女が自分の書いたものを、それが優れた内容の散文であれ、敵意に満ちた下品な悪口であれ、この新たなメディアのために自ら創作した架空のペルソナ(ここではそれを「エイドーロン」と呼ぼう)を通して広めることを可能にした。そのことで一般の人々は、「公」と「私」の関係とはいったい何なのかを、改めて問い直さざるを得なくなった。もっとも公と私がどういう関係にあるのかが明らかになることなど、それまで一度もなかったのだが。(Powell 3)
エイドーロンは、筆者の思想を色濃く反映した発言を公の場で行ないながらも、表向きはあくまで筆者とは別の人格である。だからこそ、筆者の信念に基づく発言をすることもあれば、筆者自身の意見とは正反対の内容を平気で語ることもある。首尾一貫した性格を持たず、成り行きにまかせてその場の空気に合わせた顔を演じ続けるという点で、エイドーロンは時代錯誤的にポストモダンな存在である。「もしもポストモダンな自己が、一定不変の核心ではなく、ばらばらな要素から構成された主体、イデオロギーの結合体にすぎないなら、定期刊行物のエイドーロンこそは、その読者との関係を見ても、筆者(時には複数の筆者たち)との関係を見ても、遠い昔のポストモダンな自己という逆説的な存在の、最上にしてもっとも生産的な例なのだ」(Powell 6)。
しかし当然ながら、いくら語り手が「公」の人格であるエイドーロンと「私」の人格である生身の筆者とは別物だと言い張ってみても、読み手の側でいつもそんな都合のいい解釈をしてくれるとは限らない。読み手によって語り手の公私が混同され、虚構のつもりの悪口が現実の悪口と受け取られることも多々あるだろう。筆者たちの中にも、エイドーロンを笑われただけなのに、自分自身が嘲笑されたと受け取って怒る者はいるはずだ。
パウエルは「紙の戦争」についてもかなりの紙幅を割いて論じているが、彼女は「紙の戦争」の主要人物とそのエイドーロンとの関係を、次のようにまとめている。「ヒルはあまりに自らのエイドーロンと一体化しすぎていた。一方『紙の戦争』に参加した他の主な文士であるフィールディング、ソーントン[Bonnell Thornton, 1725–68]、そしてスマートはみな、どれだけうまく行ったかはそれぞれ違うにせよ、自ら創作したエイドーロンの人徳を積極的にアピールするのと同時に、そのエイドーロンと自分自身との間に距離を置こうとしていた」(Powell 91)。実際、「フィールディングの視点からすれば、ドローカンサーは物笑いの種としてしか想像できない男である」(Powell 102)。
文士のエイドーロンは決して文士本人ではない。それゆえに自分の名前では決してできない強気の発言もできる。だからと言って、読者がいつもエイドーロンを文士とは別人と思ってくれるとは限らない。エイドーロンが行なった発言の責任を、生身の文士が取らされることもある――「紙の戦争」における論敵への個人攻撃が次第にエスカレートしていく事態の本質は、そのあたりにありそうだ。
「紙の戦争」は、モノ語りという小説のサブジャンルにとっては流行のきっかけになっためでたい事件だったが、一連の抗争に関わった主要な作家たちは、それぞれ精神的に深い痛手を負うことになった。ベティ・リゾがその「紙の戦争」論の末尾に記した言葉を引用して、私のこの論考を終えることにしたい。「それ[紙の戦争]は二・三年後にスマートが精神に異常をきたす何らかの原因を作ったのかもしれない。またそれは、翌年[1754年]のフィールディングの死の一因となった。栄華を誇ったヒルが経済的困窮に陥る原因となったのも、まさにこの論争であった。このようにたいていの戦争と同じく、どちらの側も得をしたとは言えないのだ」(Rizzo, "Notes" 353)。
注
(1) 「参考資料」として日本語の訳書を挙げた文献を除き、英語文献からの引用はすべて私(内田)が翻訳したものであり、引用文の角括弧内は私による補足である。
(2) 本文中で "ESTC #" と記したのは、The English Short Title Catalogue Citation Number のことである。本稿執筆時(2013年11月)においては、The English Short Title Catalogue (ESTC) ウェブサイトのURL <http://estc.bl.uk/> にこの Citation Number を付加することで、その版の詳細な書誌情報を得ることができる。たとえば『ヒリアッド』(ESTC #: T36212)の書誌情報を得るためのURLは <http://estc.bl.uk/T36212> である。
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〈https://www1.gifu-u.ac.jp/~masaru/uchida/goosequill14.html〉
(c) Masaru Uchida 2014
ファイル公開日: 2014-2-5
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