『トリストラム・シャンディ』と直線
内田 勝
英語研究室
(1992年10月14日受理)
Tristram Shandy and the Straight Line
Masaru UCHIDA
. . . to define--is to distrust.
(Tristram Shandy III.xxxi)
序
Laurence Sterne の Tristram Shandy (発表年1759-67) を読むことの快楽の一つに、その細部にまで徹底したパラドクシカルな構造が生み出す意味のどんでん返しを楽しむことが——あるいは意味の戯れに身をまかせる興奮が——挙げられる。(1) 本論ではこの作品の第6巻第40章に挿入された、語りの進行を示す線、とりわけ直線の意味をめぐって、こうした効果が生まれる過程を記述してみたい。
I
『トリストラム・シャンディ』が、単一の主題について出来事の生起した時間的順序に沿って語る「直線的な」語りを嫌悪し、複雑に入り組んだ曲線で表される「脱線」——思えばこの日本語は英語の "digression" 〈=反れて+歩く〉以上に明確に「語りの線」のイメージを含んだ単語だが——の価値をこそ主張する本であることは、今さら言うまでもない。(2) もちろん最も表層的なレベルでは、直線的に進むことこそは語り手トリストラムが自らの半生について語るにあたって掲げた目標であり、彼の脱線賛美は多くの場合、心ならずもついつい脱線の罪を犯してしまった場合の言い訳として現れる。一例として、叔父のトウビー・シャンディ(Toby Shandy)の性格を描く途中ではなはだしく本筋を離れてしまったトリストラムの弁解を引いてみる。
Digressions, incontestably, are the sunshine;--they are the life, the soul of reading; take them out of this book for instance,--you might as well take the book along with them;--one cold eternal winter would reign in every page of it; restore them to the writer;--he steps forth like a bridegroom,--bids All hail; brings in variety, and forbids the appetite to fail. (I.xxii; 81)(3)
ただし作品の後の方にはあからさまに直線的な語りを批判している箇所がある。本筋とは関係のないフランス旅行記のために第7巻全体を割いてしまったトリストラムは、南仏のプロヴァンス地方を通ってある都市にたどり着いたところで、これ以上の脱線を避けるためにわざわざ真っ直ぐな罫線付きの紙( "a paper of black lines")を使って第8巻を書き始めるのだが——たちまち挫折してとうとう直線批判を始めるのだ。
I defy, notwithstanding all that has been said upon straight lines in sundry pages of my book--I defy the best cabbage planter that ever existed . . . to go on coolly, critically, and canonically, planting his cabbages one by one, in straight lines, and stoical distances . . . without ever and anon straddling out, or sidling into some bastardly digression--In Freeze-land, Fog-land and some other lands I wot of--it may be done-- . . . . (VIII.i; 655)
氷の国、霧の国でなら冷静に、直線的に進むこともできようが、陽光降り注ぐここ南仏ではとてもそうは行かない、というわけである。ここでよりによって「キャベツの栽培家」(cabbage planters)を引き合いに出しているのには理由がある。従うべき規範としての直線をはっきりと目に見えるように提示してみせた、問題の第6巻第40章の中に、彼らへの言及があるのだ。
II
第6巻の最終章にあたる第40章は、トリストラムによる脱線撤廃宣言である。
I am now beginning to get fairly into my work; and by the help of a vegitable diet, with a few of the cold seeds, I make no doubt but I shall be able to go on with my uncle Toby's story, and my own, in a tolerable straight line. (570)
語るべき主題は、叔父トウビーの恋物語——"They are the choicest morsel of my whole story!" ( IV.xxxii; 401)——および彼自身の半生なのであって、今自分は血を冷やして情欲を抑えるキュウリ、カボチャなどの種(cold seeds)の力を借りて、ようやくかなり直線的にそれらの話を進めることができるようになった——そう語るトリストラムは次に、第1巻から第4巻で自分の語りがたどった脱線だらけの軌跡("the four lines I moved in")を、表面上は反省をこめて——そのじつ誇らしげに——読者の前に示してみせる。
こうして脱線まみれの過去を振り返った後には、これから進むべき道である直線が示される。
If I mend at this rate, it is not impossible--by the good leave of his grace of Benevento's devils--but I may arrive hereafter at the excellency of going on even thus;
which is a line drawn as straight as I could draw it, by a writing-master's ruler, (borrowed for that purpose) turning neither to the right hand or to the left. (571-72)
この引用の直線は、トリストラムが習字の教師から借りた定規を使ってできる限り真っ直ぐに引いたものだという。J・ヒリス・ミラー(J. Hillis Miller)は定規(ruler)の意味を持つラテン語が "norma" である点を指摘し、この直線の規範(norm)的性質を強調している。(4) 次にトリストラムは直線をことさらに賛美し始める。
This right line,--the path-way for Christians to walk in! say divines--
--The emblem of moral rectitude! says Cicero--
--The best line! say cabbage-planters--is the shortest line, says Archimedes, which can be drawn from one given point to another.-- (572)
新訳聖書「ヘブライ人への手紙」への言及("And make straight paths for your feet, lest that which is lame be turned out of the way." [12:13])、キケロの格言、アルキメデス『球と円柱について』第1の要請(「同じ端点をもつすべての線のうちで直線は最短である」)、(5) といった錚々たる引用句の中で、異彩を放っているのが「キャベツの栽培家」たちだ。直線に沿って規則正しくキャペツを植えていく厳めしい農夫のイメージが浮かびはするものの、第6巻の終りまでトリストラムの語りにつき合ってきた読者の脳裏をよぎるのは、ひょっとしてこれはいつもの "double entendre" ではないか、という疑念である。
III
『トリストラム・シャンディ』に限らずスターンの文体の最大の特色の一つである "double entendre" とは、日常的なありふれた言葉でありながら、本来の意味に重ねて下品な、卑猥な意味を持ち、「二重の理解」を許すものである。『トリストラム』におけるその典型的な例は、男根の意味を合わせ持つ「鼻」(nose)という単語であろう。もちろん、あくまでも無邪気を装うトリストラムは、読者が変な想像をしないように、あらかじめ彼が頻繁に用いる言葉「鼻」を定義しておくことを忘れない。 " I define a nose, as follows. . . . [B]y the word Nose, throughout all this long chapter of noses, and in every other part of my work, where the word Nose occurs,--I declare, by that word I mean a Nose, and nothing more, or less" (III.xxxi; 258). この定義では double entendre の力がいっこうに衰えないわけである。さらに第5巻冒頭の脱線においては、日常的な単語が double entendre と化す過程を描いてみせる。ナヴァール王女マルグリット・ド・ヴァロアの宮廷で、女官の思わせぶりな一言が、たちまちのうちに比較的無害な単語であった "whiskers" (当時の意味は「口髭」)を強力な double entendre(6) に変えてしまうエピソードを語るトリストラムは、ナヴァールのある副牧師がこうした好ましからぬ観念の結合を嘆いたという書物からの引用でこの脱線を締めくくる。
Does not all the world know, said the curate d'Estella at the conclusion of his work, that Noses ran the same fate some centuries ago in most parts of Europe, which Whiskers have now done in the kingdom of Navarre--The evil indeed spread no further then,--but have not beds and bolsters, and night-caps and chamber-pots stood upon the brink of destruction ever since? Are not trouse, and placket-holes, and pump-handles--and spigots and faucets, in danger still, from the same association? (V.i; 414)
ここで副牧師が挙げた「破滅の淵にある」単語はそっくりそのまま代表的なdouble entendre のリストでもあり、トリストラムは御丁寧にも "[the world] may decree that [the curate's book] bawdy also" とコメントを付けている。
かくもこの作品に深く浸透している double entendre をどう扱うか、つまり第二の意味をどの程度まで説明すればよいのかは、注釈者の悩みの種である。現段階での最も詳細な『トリストラム』注釈書の編者の一人であるメルヴィン・ニュー(Melvyn New)は以下のような見解を取っている。
When, for example, the dignitaries of Strasbourg gather to consider a case of "butter'd buns," a note calling attention to a past sexual association seems obviously called for. . . . But a few pages later, when in Diego's song Sterne writes "Her hand alone can touch the part," do we call attention to "part"; or do we assume a reader competent to realize the innuendo? We have, almost always, chosen the latter course, with the loss perhaps of some wit, but with the reader's concupiscent inclinations left, we hope, intact.(7)
このような事情で、特に英語を母語としない読者にとって、『トリストラム』全体に夥しく散りばめられた double entendre が、この作品を充分に読み解くための障害になっていることが多いのである。(8)
IV
"Planting" is a low colloquialism for inserting the male member, or, more generally, for sexual intercourse. "Cabbage" is extant at least in nineteenth-century sources as an epithet for the female pudendum, and the context here invites the inference that the meaning was current in Sterne's time as well.(9)
ロバート・オールター(Robert Alter)のこの文章は、いくつかの double entendre についてその第二の意味を解説してくれる、数少ない資料の一つである。"cabbage" が「女陰」の意味であり "planting" が「男根を挿入すること」であるとすれば、先ほど引用したトリストラムの直線賛美における "cabbage-planters" にとっての "The best line!" とは——「勃起した男根」を表す直線であるはずだ。(10) 直線に沿って規則正しく厳粛にキャベツを植えていく実直な農夫のイメージは、一瞬のうちに崩れ去る。それと同時に意味の汚染は周辺にも拡大し、アルキメデスの「二点を結ぶ最短距離」がまず怪しくなる。さらにはキケロはおろか聖書への言及までもがいかがわしさを帯びてくる。しかもこの箇所の後に続く文は——"I wish your ladyships would lay this matter to heart in your next birth-day suits!" (572) なのだ。 "birth-day suit" とは OED によれば "a dress worn on the king's birthday" であるのだが、メルヴィン・ニューらによる注釈はここに「裸体」の意味も込められていることを示唆している。(11)
"cabbage-planters" の第二の意味は、第8巻冒頭の直線批判の文章によって揺らぐどころかさらに確固としたものになる。先に部分的省略を加えて引用した箇所を再び完全な形で引用してみよう。
I defy, notwithstanding all that has been said upon straight lines in sundry pages of my book--I defy the best cabbage planter that ever existed, whether he plants backwards or forwards, it makes little difference in the account (except that he will have more to answer for in the one case than in the other)--I defy him to go on cooly, critically, and canonically, planting his cabbages one by one, in straight lines, and stoical distances, especially if slits in petticoats are unsew'd up--without ever and anon straddling out, or sidling into some bastardly digression--. . . . (VIII.i; 655, 下線は筆者)
"whether he plants backwards or forwards" とは最も卑猥な意味でそうなのであり、「一方の場合は他方の場合より大きな責任を負わねばならない」とは、一方の場合は相手を妊娠させてしまう可能性があるからであろう。(12)
再び第6巻の直線賛美の文章に戻ってこの章の最後の段落を見てみよう。
Pray can you tell me,--that is, without anger, before I write my chapter upon straight lines--by what mistake--who told them so--or how it has come to pass, that your men of wit and genius have all along confounded this line, with the line of gravitation? (572)
なぜこの直線が「垂直線=重力の線」(the line of gravitation)と混同されてはならないのか。垂直ではなく水平だから、という当り前の理由に加えて、 「重力」でない方の意味の "gravitation" あるいは "gravity" こそは『トリストラム』最大の敵役、諷刺の対象であって、語り手トリストラムともう一人の主要な登場人物ヨリック(Yorick)牧師が常に忌み嫌うものである、という、これも『トリストラム』の読者にとってはお馴染みの理由があるのだ。
V
『トリストラム・シャンディ』という作品を動かしている原理の一つに「グラヴィティ」(gravity)と「反グラヴィティ」という対立の構図があると言える。「グラヴィティ」がどういう性質のものであるかは、ヨリックがそれをいかに嫌っているかを語るトリストラムの言葉に如実に表されている。
For, to speak the truth, Yorick had an invincible dislike and opposition in his nature to gravity;--not to gravity as such;--for where gravity was wanted, he would be the most grave or serious of mortal men for days and weeks together;--but he was an enemy to the affectation of it, and declared open war against it, only as it appeared a cloak for ignorance, or for folly; and then, whenever it fell in his way, however sheltered and protected, he seldom gave it much quarter. (I.xi; 28)
「グラヴィティ」とは表面だけの深刻そうな重々しさの陰に、本来の無知や愚かさを隠してしまうことであり、ヨリックはそうした欺瞞に出会うと、表面の偽装をはぎ取って中身の愚かさを暴露せずにはいられないのである。トリストラムはさらにロシェフーコー(Rochefoucauld)の箴言を借りて「グラヴィティ」を定義する。
[I]t was no better, but often worse, than what a French wit had long ago defined it,--viz. A mysterious carriage of the body to cover the defects of the mind,--which definition of gravity, Yorick, with great imprudence, would say, deserved to be wrote in letters of gold. (28-29)
こうして「グラヴィティ」の陰に愚かさ、馬鹿馬鹿しさを隠した人々が、次々と諷刺の槍玉に挙げられることになる。産科医スロップ(Slop)をはじめとして、法律家ディディウス(Didius)等の端役、あるいは古典註解者たち、批評家たち、ソルボンヌ大学の神学者たちやストラスブールの様々な分野の学者たちといった人々が、重厚な、威厳のある仮面をはぎ取られ、代わりに言わばトリストラムの鈴のついた道化帽を被らされるのだ("I will give you my cap and bell along with it. . . ." [II.ii; 99])。トリストラムの父ウォルター・シャンディ(Walter Shandy)も時には格好の諷刺の的となる。
この作品の中に存在する「不機嫌(spleen)/陽気(mirth)」「拘束/自由」「抑制/横溢」「規範/逸脱」「区別すること/結び付けること」「思慮分別(judgment)/機智(wit)」「機械的なもの/人間的なもの」「人工/自然」「直線/曲線」といった様々な二項対立は、「グラヴィティ」対「反グラヴィティ」という大きな対立の図式の下に置くことができるように思われる。また二項対立の後者の項を拾っていけば、『トリストラム・シャンディ』がいかなる価値観を伝えようとしているかがはっきりしてくるはずだ。
第6巻第40章の場合、規範としての直線自体が、「グラヴィティ」の象徴と言ってもいいものである。トリストラムは表向きは直線を賛美するかのように振舞いながら、実は double entendre の力によって直線賛美の引用句や直線自身から規範としての威厳を奪ってしまい、猥談のレベルに貶め、道化の世界に引きずり込んでしまう。つまりここでトリストラムが直線に対して行っていることは、たとえばかつて第1巻第20章で彼がソルボンヌの博士たちに対して行ったことの繰り返しであると言ってもよいのだ。
しかし、直線自体が「グラヴィティ」の象徴として使われているだけなら、なぜトリストラムは、あれほど執拗に彼の描いた水平の直線と垂直線との混同を禁じているのか。二つの直線の決定的な違いを直線=男根説の立場から指摘しているのがフランク・ブレイディ(Frank Brady)である。
Sexually, . . . the straight line is the emblem of virility. . . . It is the opposite of straight things that hang down. . . . And, especially, it is not to be confused with the "line of gravitation." Sterne's attack on affected gravity leads into this pun: gravitation is attraction, but attraction operating vertically and not horizontically, or impotence.(13)
垂直線は、重力=グラヴィティのなすがままになる、萎えて垂れ下がった男根ということになり、ひいてはその男根の持主の性的不能を意味するというわけだ。そしてブレイディが "Most of parallels between sexuality and writing in Tristram, however, are too well known to need discussion." (46) と言って、性的不能と作家としての不能を結び付けるとき、さらに話はややこしくなる。従うべき規範の座から引きずり下ろされたはずの(水平の)直線は、まだ別の意味でその規範性を保っているかもしれないのだ。
VI
メルヴィン・ニューの "Sterne, Warburton, and the Burden of Exuberant Wit" は、スターンを「過去の重荷」を背負い「影響の不安」に怯える芸術家として描いている。(14) 具体的にスターンに「影響の不安」を与えていたのは、ニューによれば翻訳・創作取り混ぜた17世紀イギリスの散文である。
What this particular age created was not only works of native genius like Burton's Anatomy of Melancholy (1621) and Swift's Tale of a Tub (1696-97), but masterly translations of three other prose masterpieces--Rabelais in the Urquhart-Motteux translation (1653-1694), Cotton's rendition of Montaigne (1685), and Motteux's translation of Don Quixote (1700). (266)
スターンにとって特に重荷になったのは、それらの散文作品にそれこそ溢れんばかりに詰まっている「横溢する機智」(exuberant wit)であった。 "[F]or Sterne, these models created an immediate burden of imitating their exuberant, fertile wit within the boundaries set by his own time, his own talent, his own clerical profession . . ." (254). その結果、スターンは常に書けなくなる不安を抱えていなければならなかった。
By eighteenth-century standards, Tristram Shandy is not a large book, especially when we consider it was eight years in the writing. Particularly after volumes V and VI (1762), we sense Sterne's growing concern that he would not prove fertile enough, that the vein of humor was running dry, that the knowledge required to keep up the display of learned wit would simply not be there. (268)
ニューは引用していないが、『トリストラム』の第8巻に、書けなくなってきたことの不安を如実に表している文章がある。叔父トウビーの脚をめぐって、いつになく面白味に欠ける話をしていたトリストラムは、唐突に話を投げ出し、作家として途方に暮れてしまっていることを告白するとともに、我が身の不幸を嘆き始めるのだ。
I declare, I do not recollect any one opinion or passage of my life, where my understanding was more at a loss to make ends meet, and torture the chapter I had been writing, to the service of the chapter following it, than in the present case: one would think I took a pleasure in running into difficulties of this kind, merely to make a fresh experiments of getting out of 'em--Inconsiderate soul that thou art! What! are not the unavoidable distress with which, as an author and a man, thou art hemm'd in on every side of thee--are they, Tristram, not sufficient, but thou must entangle thyself still more? (VIII.vi; 662-63)
『トリストラム』全編を見渡してみても、ここほど深刻な口調でトリストラムが語ることはなく、それだけに一層悲痛な印象を与える箇所である。
さて、もしもスターンが「書くことについての不能」の恐怖におびえ続けていたとするなら、そしてまた、フランク・ブレイディの "Sterne exploits the pen-penis equation throughout."(15) という言葉に信を置くとすれば、いまや「勃起した男根」として旺盛な性的能力の象徴となるに至った我々の直線は、同時に旺盛な文人としての能力——「横溢する機智」(exuberant wit)をも表していると言えるのではなかろうか。そしてそれゆえに、スターンにとって真の意味での規範性を持っているとは言えないだろうか。トリストラムは "a writing-master's ruler" を使ってあの直線を引いたと言っていた。 "writing-master" とは「習字の先生」ではなく、彼に取って「書くことについての教師」である先輩作家たちなのかもしれない。"[H]e was . . . most in dread of those inner limitations that became apparent to him every time he measured his energy against that of his masters, Burton or Swift, Rabelais or Cervantes" (268).
しかしその一方で、「横溢する機智」を表しているのはむしろ曲線の方だとも言える。因襲的規範である直線からはみ出して自由に動き回るそれらの線は、英訳ラブレーについてのニューの記述が伝えている自由奔放さそのものだ。
Rabelais would fight any restraint upon his vision or his language, while his translators rejected as well the accepted restraints a text would usually impose upon them; and we may compound this yet further by suggesting that Ozell's annotations exhibit the same inexhaustible fertility, oftentimes tied neither to Rabelais nor to the translation, but rather set loose in the fertile fields of digressive inquiry. (267)
ここで思い出されるのは、ヒリス・ミラーの「語りの線」についての文章である。
Tracing, the making of a track, or retracing, the following of a track already made--the ambiguity of a first which is already second, of an event which has always already happened, of a pathbreaking which is always also a path-following, is always present in all versions of the narrative line as a production, a performance, a happening.(16)
トリストラムがわざわざ "Inv. T.S./ Scul. T.S."(17) と自分の名前を刻んで、ことさらにその作者性を主張しているあの曲線は、作者スターンが反復しているに過ぎなかった、あるいは反復しなければならなかった、「横溢する機智」(exuberant wit)の曲線でもあったのだ。
ニューはこれに近い見方をしている。"[Sterne was not] tracing in his diagrams at the end of Volume VI the progressive 'improvement' of his work, but just the opposite: the progressive failure of his wit to keep the work going in the style of those masters" (268). ニューにとっては直線はむしろ機智の欠如の象徴であり、直線に近付くことは進歩どころか機智の衰えを示すのである。"Thus does Sterne project as a desirable goal his greatest fear--that the fertile exuberance of his forebears would become the straight line of infertile gravity" (269).
彼はさらにこの問題に、スターンとウォーバートン主教との関係を絡ませていく。グロスター主教ウィリアム・ウォーバートン(William Warburton)は、シェイクスピアの作品の「史上最悪の校訂者」として、あるいはどんな問題であろうと相手が誰であろうと論争を挑んだことでその名を知られている人だが、彼は18世紀中盤から後半にかけてのイギリス文壇の大御所の一人であった。ウォーバートンは最初のうちは『トリストラム』が気に入り、新人作家であったスターンは彼の庇護を受けていたのだが、スターンがウォーバートンをトリストラムの家庭教師として『トリストラム・シャンディ』に登場させる、という噂が広まったことから、二人の関係は悪化してゆく。ウォーバートンは聖職者としての自重を促す説教めいた助言でスターンの機智を拘束しようとし、スターンはそこから逃れようと、『トリストラム』の中で暗にウォーバートンへの諷刺を行うようになる。ウォーバートンは「グラヴィティ」の権化として扱われ、それを諷刺するために登場させられたのが「ベネヴェント大司教ジョン・デッラ・カーサ」(John de la Casse)なるキャラクターであった。
ジョヴァンニ・デッラ・カーサ(Giovanni della Casa, 1503-56)は実在したイタリアの聖職者で、ベネヴェント(Benevento)の大司教を務め、西欧の礼儀作法の典拠として重視された小著『ガラテーオ』(Galateo)の著者である。しかし『トリストラム』の中のジョン(ジョヴァンニの英語形)・デッラ・カーサは、聖職者として物を書くためには悪魔の誘惑を完全に払いのけねばならないと、日々誘惑との戦いに明け暮れ、その結果、『ガラテーオ』のような薄い本を一冊書くのに40年近く費やしてしまった人物だ。
John de la Casse was a genius of fine parts and fertile fancy; and yet with all these great advantages of nature, which should have pricked him forwards with his Galatea, he lay under an impuissance at the same time of advancing above a line and an half in the compass of a whole summer's day . . . . (V.xvi; 446-47)
この引用自体に含まれる double entendre ("parts," "prick," "impuissance") が明らかにしているように、デッラ・カーサは作家としての不能を(性的不能とのパラレルな関係をにおわせつつ)体現している。彼は「グラヴィティ」に縛られて悪魔の誘惑を過度に恐れるあまり、立派な才能=性器を持っていながらそれを使うことができないのだ。
ここで再び第6巻第40章、トリストラムが直線を引く直前の文章を引用してみよう。
If I mend at this rate, it is not impossible--by the good leave of his grace of Benevento's devils--but I may arrive hereafter at the excellency of going on even thus. . . . (下線は筆者)
「ベネヴェント大司教猊下」とはもちろんデッラ・カーサのことである。
彼の悪魔たちの誘惑を乗り越えたうえで直線的に書くということは、作家として限りなく不能に近いほどに機智を抑制して書くということである。その意味でこの直線は「横溢する機智」の対極に位置する、"the absolutely straight line of Warburtonian gravity" (268) なのだ。
ところがさらに問題を複雑化してしまうのは、スターンにとってウォーバートンは単なる「グラヴィティ」の体現者ではなかったことである。
[A]lthough he preached caution and prudence, his own writings were marked by encyclopedic, energetic abundance; precisely the fertility and variety Sterne most desired, Warburton clearly possessed. For Sterne, then, Warburton was both a model and an antagonist. . . . (263)
ウォーバートンはスターンなど足元にも及ばないほどの該博な百科全書的知識を有し、彼の書く物はそれこそスターンが自分の物にしたくてたまらなかった「横溢する機智」に満ちていたと言うのである。そうなると「ウォーバートンの線」である我々の直線は、再び「横溢する機智」の線としての意味を帯び始めるのだ。
VII
ヒリス・ミラーのエッセイ "Narrative Middles: A Preliminary Outline"(18) は、物語のプロットを線によってグラフ化することが結局は不可能であることを示すために、ホガース(Hogarth)→スターン→フリードリッヒ・シュレーゲル(Friedrich Schlegel)の三人を取り上げ、彼らの生み出した線が、明確な〈始め〉〈中間〉〈終り〉を持った「語りの線」(the narrative line)の力を次第に弱らせ、ついにはシュレーゲルの「イロニー」が木っ端微塵にそれを粉砕する過程をたどっている。
ホガースの「美の曲線」(the line of beauty)はヴィーナス=女性の完璧な肉体美を表す「頂点を欠いた円錐」に巻きついているS字状の螺旋曲線である。螺旋曲線は回転しながら頂点に向かって限りなく近付いていくが、決してそこに到達することはない。
スターンが『トリストラム』で行ったのはホガースの「美の曲線」を「語りの線」として反復することであった。ミラーは本論でも問題にしている第6巻第40章を、省略なしでまるごと引用している。スターンはここで、語りを直線で表すことの馬鹿馬鹿しさに注意を向ける。
He reminds the reader that a narrative is in fact nothing like a straight line drawn with a ruler, or that if it were it would be without interest. The interest of a narrative lies in its digressions, in episodes that might be diagrammed as loops, knots, interruptions, or detours making a visible figure. (380)(19)
しかしスターンの曲線はまだ線であった。フリードリッヒ・シュレーゲルの「イロニーは永遠のパレクバーゼ Parekbase (英) parabasis である」という言葉は「語りの線」を全く粉砕してしまう。
Parabasis is the stepping forward of the chorus or an actor in a play to break the dramatic illusion and to speak directly to the audience, sometimes in the name of the author. If irony is parabasis, it is the one master trope which cannot be graphed as a line. Irony is the confounding, the point by point deconstruction, of any narrative order or determinable meaning. (386)
本論の筆者の興味はヒリス・ミラーのエッセイを短縮して反復することにあるのではない。ミラーがシュレーゲルのイロニーについて語っていることを、既にトリストラムの直線が体現していることを言いたいだけである。トリストラムによる直線賛美の引用句の列挙について、ミラーは以下のようなコメントをつけている。
With admirably subversive wit, yoking heterogeneities violently together, this passage gathers together many of the figures of the narrative line. It gathers them not to twine them into a unified chain or rope, but to play one figure against the others in a running, constantly interrupted series undercutting the possibility of an innocently solemn use of any one of the figures. (380)
直線についての比喩は互いに干渉し合い、どれか一つに特権的な地位を与えることを拒む。増して本論で今まで述べてきたことを踏まえれば、トリストラムの直線をめぐって "the point by point deconstruction, of any . . . determinable meaning" (386) が生じているのは明らかだ。ミラーのイロニー論を続けて引用してみよう。
Irony is the basic trope of narrative fiction, for example in the perpetual discrepancy between author and narrator, or between narrator and character in "indirect discourse." All irony in narrative is one form or another of that doubling in the story-telling which makes its meaning undecidable, indecipherable, unreadable, unreadable even as the "allegory of unreadability." All narrative is therefore the linear demonstration of the impossibility of linear coherence. (386)
物語に含まれるイロニーが、その物語を「読めないことのアレゴリーとしてすら読めなく」してしまう、とミラーが言うとき、「読む」とは「一つの意味に決めて読む」ことを——あるいは「意味を定義する」ことを指している、と定義できるだろう。『トリストラム』の第2巻にある「割れ目」(crevice)という言葉——ついでながらこれは日本語訳でほぼ完全にニュアンスを伝えられるたぐいまれな double entendre である——の意味をめぐっての読者からの批判に、トリストラムは後から出版された第3巻でこう答えている。
--Here are two senses, cried Eugenius, as we walk'd along, pointing with the fore finger of his right hand to the word Crevice, in the fifty-second page of the second volume of this book of books,--here are two senses,--quoth he.--And here are two roads, replied I, turning short upon him,--a dirty and a clean one,--which shall we take?--The clean,--by all means, replied Eugenius. Eugenius, said I, stepping before him, and laying my hand upon his breast,--to define--is to distrust. (III.xxxi; 258)
「きれいな道」と「汚れた道」のどちらか一方を必ず選ばなければならない、とする読み方を「直線的な」読みと呼ぶことができるとすれば、 "[T]o define--is to distrust." と言うトリストラムが読者に要求する読み方は、「きれいな道」と「汚れた道」の両方を同時に歩む読み方であるか、あるいはきれいな方向と汚れた方向の間をくねくねと蛇行しながら進む「曲線的な」読み方だと言えよう。その場合、トリストラムの直線は文字通りの意味でミラーの言う "the linear demonstration of the impossibility of linear coherence." になっているのである。
第3巻第36章の後に挿入され、トリストラムが「これこそ私の作品のゴチャゴチャな象徴」("motly emblem of my work!")と呼ぶ、極彩色の墨流し模様のページは、こうした文脈においても確かに『トリストラム』の象徴たりえている。墨流し模様そのものが元来一つの明確な形を持つことを拒むものであるだけでなく、初版のそれは、一冊一冊について別々に作られ、一つとして同じ模様がないように仕組まれていたのである。(20)
VIII
"All fiction is in one way or another or in several ways at once a repetitive structure. Repetition is something occurring along the line which disintegrates the continuity of the line." (386) とミラーが語るとき、彼の想定しているのは、たとえば表面上は線状に進行する物語の中で反復されるある要素が、互いに意味を干渉させ合い、ついにはその物語から一つの意味に定義できるような(「粗筋」——思えばこの日本語も「語りの線」の抽象性を見事に表している単語だが——に還元できるような)単純な読みの可能性を奪ってしまうといった状況だろう。
一方トリストラムの直線はその場で反復を繰り返し、そこに読者を釘付けにしてしまう。〈始め〉から〈終り〉へ向けて淀みなく流れる〈中間〉を表すはずの直線が、語りの進行を一時停止させ、そこから怒濤の如く噴出する互いに干渉し合う意味の洪水に読者を巻き込んでしまうのだ。
それは伝統的な規範であると同時にその規範の愚かしさを表す。また別の、真の意味での規範であると同時に、規範を達成できない無力さをも表す。道徳的正しさと同時に好色の象徴である。ウォーバートン主教に対する作者スターンのアンビヴァレントな感情を反映し、横溢する機智およびその枯渇を表す。それは萎えて垂れ下がると同時にそそり立つ男根である。(21) このような意味の洪水を、パラドクスの無窮動と捉えるのもよいだろうし、「言葉の両義性・多義性を活用して、そこに意味のポリフォニーを現出した」(22)と表現してもよい。それをイロニーの効果と考えてもいいし、『トリストラム』のことを「自らを脱構築し続けるテクスト」と呼んでみてもいい。いずれにせよ、そういう状況に置かれることに興奮してしまうあまのじゃくな読者たちに、『トリストラム・シャンディ』は尽きない楽しみを与えてくれるのである。
注
(1) 『トリストラム・シャンディ』の持つパラドクス性は本論の筆者による修士論文 "Tristram Shandy as a Work of Paradoxy" (東京外国語大学大学院、1988) の主題であり、そこでの「パラドクス」の概念は、 Rosalie L. Colie, Paradoxia Epidemica: The Renaissance Tradition of Paradox, (New Jersey: Princeton UP, 1966) に基づくものであった。
(2) 『トリストラム』の背景にある「反直線の美学」については高山宏「肉体性の積分記号」『アリス狩り』(青土社、1981)を参照。本論は高山氏がその短いエッセイに詰め込んだ膨大な情報のうちのごく一部を拡大して不器用に反復する試みの産物であることを、あらかじめ白状しておく。
(3) Laurence Sterne, Tristram Shandy: The Text (The Florida Edition of the Works of Laurence Sterne vol. I-II), eds. Melvyn New and Joan New. (Gainesville: UP of Florida, 1978) . 以下『トリストラム・シャンディ』からの引用はすべてこの版による。なお本文中では大文字のローマ数字によって巻番号、小文字のローマ数字によって章番号を示し、さらにアラビア数字でこの版のページを示すことにする。
(4) J. Hillis Miller, "Narrative Middles: A Preliminary Outline," Genre 11 (1978): 380.
(5) トリストラムがこの引用句を選んでいることからも、また、後で登場するヒリス・ミラーの「語りの線」が〈始まり〉〈中間〉〈終り〉を含む概念であることからも明らかなように、本論の主題である「直線」(straight line)とは、原則として無限の長さを持ったものではなく、両端を備えた有限の直線を指している。
(6) この double entendre は具体的に何を指しているかが曖昧なだけに一層効果を増している。Frank Brady は、"Tristram Shandy: Sexuality, Morality, and Sensibility," Eighteenth-Century Studies 4 (1970): 41-56. の中で "It is amusing to watch editors and critics dodge 'whiskers.' All are confident that nose equals penis, all recognize that 'whiskers' has a dirty meaning, but no one seems to want to say exactly what it is." (44) と述べ、さらに "whiskers must signify testicles." と結論づけているが、それこそ定義するだけ野暮というものだろう。
(7) Melvyn New, introduction, Tristram Shandy: The Notes (The Florida Edition of the Works of Laurence Sterne vol. III), eds. Melvyn New, Richard A. Davis, and W. G. Day (Gainesville: UP of Florida, 1984) 11-12.
(8) 『トリストラム』が外国語に翻訳される際に double entendre の効果がどの程度伝えられたか、またそれが英語圏以外でのスターンの評価にいかなる影響を(良くも悪くも)与えたかは、非常に興味深い問題であり、今後の研究がまたれる。取りあえず、名訳の定評のある朱牟田夏雄の日本語訳(筑摩書房、1966)に関して言えば、英語圏の注釈者のそれと同程度の節度が守られ、『トリストラム』のテクストが持つラディカルな卑猥さ、読者のよこしまな連想によって限りなくエスカレートしていくように仕掛けられた卑猥さを再現し切っているとは言えない——もっともそれを完全に再現する翻訳が可能だとは考えにくいのだが。
(9) Robert Alter, "Tristram Shandy and the Game of Love," American Scholar 37 (1968): 319-20. なおメルヴィン・ニューらの注釈書もこの解釈を紹介している(Tristram Shandy: The Notes 442)。確かに、代表的な歴史的スラング辞典である Eric Partridge, A Dictionary of Slang and Unconventional English, ed. Paul Beale, 8th ed. (London: Routledge, 1984) で "cabbage" の項を引いてみると、"The female pudend: C.19-20, ob." とあり、スターンの時代である18世紀後半にこの意味で使われていたとは書かれていないが、そもそも歴史的スラングの使用年代がそれほど厳密に確定できるものではないことは、その版の編者ポール・ビールの次の文章からも窺える。
Much of E[ric] P[artridge]'s dating was based on his extensive reading of his sources, and further afield; and upon intelligent 'guesstimation' . . . . But the words and phrases that are dealt with in this Dictionary are by their very nature unlikely to be found in print until, in many instances, long after their introduction into the (usually lower strata of the) spoken language. Datings must therefore be treated with caution, and with careful regard to the sources given. ("Dating," A Dictionary of Slang and Unconventional English, xxi)
(10) Robert Gorham Davis の次の言葉は示唆的である。
Sterne . . . is as insistent as the most orthodox Freudian on the fact that for some imaginations at some times every straight object, every stick, candle wick, nose can stand for the male genital, and every hole, slit, crevice and curve, for the female. ("Sterne and the Delineation of the Modern Novel," The Winged Skull: Papers from the Laurence Sterne Bicentenary Conference [Kent, Ohio: Kent State UP, 1971] 35)
(11) Tristram Shandy: The Notes 443.
(12) とは言え "cabbage planter" が全く卑猥な意味だけを背負っているのではないことは、ニューらの注釈の次の記載を参照。ここで使われているモンテーニュの英訳は Michel de Montaigne, Essays, trans. Charles Cotton, 5th ed., 3 vols. (1738) である。
[C]f. Montaigne, "To study Philosophy, is to learn to die," I. 19. 85: "I would always have a Man to be doing, and as much as in him lies, to extend and spin out the Offices of Life; and then let Death take me planting Cabbages, but without any careful Thought of him, and much less of my Garden's not being finished." (Tristram Shandy: The Notes 498, 下線は筆者)
かくて "cabbage planter" の威厳はどうにか保たれる。それとも意味の汚染はここにまで及ぶのだろうか?
(13) "Tristram Shandy: Sexuality, Morality, and Sensibility" 46.
(14) Melvyn New, "Sterne, Warburton, and the Burden of Exuberant Wit," Eighteenth-Century Studies 15 (1982): 245-74. 以下、ページ数をカッコに入れて示す。ニューのこうしたスターン像は Walter Jackson Bate, The Burden of the Past and the English Poet (Cambridge, Mass.: Harvard UP, 1970) 及び Harold Bloom, The Anxiety of Influence (Oxford UP, 1973) に基づくものである。
(15) "Tristram Shandy: Sexuality, Morality, and Sensibility" 46.
(16) J. Hillis Miller, "Narrative Middles: A Preliminary Outline," 377.
(17) "Inv. (=invenit) T.S." は「トリストラム・シャンディこれを描く」 "Scul. (=sculpsit) T.S." は「トリストラム・シャンディこれを彫る」の意味。
(18) 書誌的情報については注4を参照。ここから先、ページ数をカッコに入れて示す。
(19) しかしここで注意すべきは、トリストラムはその脱線賛美の中で巧妙に形式の問題を内容の問題にすり替えていることである。トリストラムの曲線は、単一の主題について時間的順序に従って語ることからのずれを示しているだけであって、内容的な起伏を表しているわけではない。トリストラムが "[T]ake them [digressions] out of this book for instance,--you might as well take the book along with them. . . ."(I.xxii; 81) と言うとき、彼は「この本」の話をしているのであって、一般化を行っているのではないのだ。彼は決して、内容的に起伏に富んだ話を時間的順序に沿って「直線的に」語ることを否定してはいないのである。ヒリス・ミラーがトリストラムの誘いに乗って、線の曲り具合を内容の起伏の度合として解釈したまま次のように話を進めるとき、そこにはどこか滑稽なものが紛れ込んで来ざるを得ない。
The straighter the line, the more Archimedean it is, the less significance it has as a representation of anything human. . . . On the other hand, the more information the line carries, the more curved, knotted, hieroglyphic it is , the less it can any longer be called a line, and the closer it approaches the totally overdetermined state of a tangled ball of broken bits of yarn or of a cloud of dust in Brownian movement, impossible to graph by any line. (382)
ここではヒリス・ミラーがトリストラムにまんまと担がれた格好になっている。『トリストラム・シャンディ』には、批評家を担いで鈴のついた道化帽を被らせてしまう恐るべきテクスト、という側面があるのだ。『トリストラム』をめぐる批評家たちの大真面目な言説を、巨大な鼻の実在をめぐるストラスブールの学者たちの大真面目な言説(IV."Slawkenbergius's Tale" 参照)が反復するのである。
(20) W. G. Day, "Tristram Shandy: The Marbled Leaf," The Library: A Quarterly Journal of Bibliography; fifth series 27 (1972): 143-45. 参照。
(21) 今回、結果的にこのようなあまりに男根崇拝的な読みを作り上げてしまった主体を、後悔しつつも引き受けざるを得ない本論の筆者もまた、トリストラムにまんまと担がれて道化帽を被らされていることを薄々感じてはいるのだ。
(22) 高山宏『アリス狩り』 183-4。