初出:『岐阜大学地域科学部研究報告』第32号(2013)pp. 1–18. この論文のPDF版はこちら(岐阜大学機関リポジトリ)。
*本文で言及したウェブサイトにはリンクを張りました。また、本文で言及した作品のうち、インターネット上で閲覧が可能なもののいくつかにはリンクを張りました。
*小説『ジョン・バンクル伝』については、The University of Oxford Text Archive (OTA) で第1巻初版(1756; ESTC #: T108506)および第2巻初版(1766; ESTC #: T128392)のHTML版を読むことができます。また Google Books では、第1巻第2版および第2巻初版(ともに 1766; ESTC #: T128392)のPDF版を閲覧することができます。そのため本文中で何箇所か、この Google Books 版の該当ページへのリンクを張ってあります。本文に記載されたページ番号は現代の校訂版のものであるため、リンク先の Google Books 版のページとは一致しないので、ご注意ください。
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「査読済論文」
絶景と美女と過剰な脱線——トマス・エイモリー『ジョン・バンクル伝』について
内 田 勝
(2012年12月19日受理)
Sublime Sceneries, Beautiful Ladies, and Eccentric Digressions: On Thomas Amory's The Life of John Buncle, Esq.
Masaru UCHIDA
1.『ジョン・バンクル伝』の概要
アイルランド系イギリス人作家トマス・エイモリー(Thomas Amory, 1691?–1788)が匿名で発表した自伝体小説『ジョン・バンクル伝』(The Life of John Buncle, Esq., 1756, 1766)は、イギリス文学史上の古典という扱いは受けていないものの、飛び切りの奇書として一部の好事家に珍重されてきた。1756年に第一巻、十年後の1766年に続編となる第二巻が出版されたこの小説の構成は、本稿のタイトルとした「絶景と美女と過剰な脱線」という言葉でほぼ要約できてしまう。この小説の中では、旅する主人公が、アイルランドやイングランド北部の山や渓谷で絶景を眺めて感慨にふけるとともに、旅の途中で道に迷ってはその都度どこかの謎めいた邸宅に迷い込み、それらの邸宅でなぜか必ず出会う才色兼備の若い女性たちを相手に、神学や哲学から言語学、数学、博物学といった広範な学問分野に及ぶ、衒学的で長い長い会話を、物語の進行をそっちのけにしてひたすら繰り広げているのだ。
作者のトマス・エイモリーについては、信頼できる伝記的情報がほとんど残っていない。エイモリー作品初の校訂版となる『ジョン・バンクル伝』第一巻の校訂版(2011)を編纂した、アイルランド文学研究者のモイラ・ハスレット(Moyra Haslett)によれば、エイモリーの祖父はイングランド海軍の食料調達業者として、アイルランド西部で働いていた。エイモリーの父は1681年にダブリンのトリニティ・カレッジを卒業しており、ウィリアム三世の治世(1689–1702)にアイルランドから剥奪・没収された田舎の地所を手に入れ、ダブリンにも屋敷を持っていた。その息子のエイモリーは、アイルランドで生まれたわけではないが、若いころ長期にわたってアイルランドで暮らしている。ただし、『ジョン・バンクル伝』に登場するトリニティ・カレッジの教育課程は実際と異なっており、エイモリー自身がこの大学に通った可能性は低い(Amory, Buncle vol. 1: 17–19)。エイモリー作品の主要登場人物はほとんどすべて、イギリス国教会とは違って父と子と聖霊の三位一体の教義を認めないユニテリアン派の信徒(Unitarian)であり、エイモリー自身が非国教徒のユニテリアンであったことは、ほぼ間違いないだろう。
エイモリーは著作をすべて匿名で発表した。最初の著作である自伝体小説『英国淑女列伝を含む回想録』(Memoirs: Containing the Lives of Several Ladies of Great Britain)は、主に非国教徒の宗教書を出版していたロンドンの書籍商ジョン・ヌーン(John Noon)によって、1755年に出版された。この小説の語り手が自らの半生をさらに詳しく語るという設定で書かれたのが、翌1756年にやはりジョン・ヌーンが出版した『ジョン・バンクル伝』である。正式なタイトルは『郷士ジョン・バンクル伝。世界各地で行われた様々な観察や考察、および多くの非凡な物語を含む』(The Life of John Buncle, Esq; Containing Various Observations and Reflections, Made in Several Parts of the World; and Many Extraordinary Relations)という。八つ折り判(octavo, 一頁がおよそ横12.7cm×縦19.1cm)で500ページを超す厚い本で、値段も六シリングと高めであった。一般的な小説本は、ほぼ日本の新書サイズにあたる小型八つ折り判(small octavo)または十二折り判(duodecimo)で、一巻の長さが150〜300ページ程度、値段は一巻あたり二〜三シリング程度である。
1763年にヌーンが死去すると、ヌーンの在庫を買い取った書籍商ジョウゼフ・ジョンソン(Joseph Johnson)が、売れ残りの『ジョン・バンクル伝』に、出版者名と出版年を書き換えた新しいタイトルページを付けて売り出した。このジョンソンが1766年に『ジョン・バンクル伝』の第二版と続編(第二巻)を出版することで、この小説は完結した(Amory, Buncle vol. 1: 39, 271)。
二十世紀初頭にジョン・ファイヴィ(John Fyvie)が書いた『奇人作家列伝』(Some Literary Eccentrics, 1906)には、エイモリーを扱った章があり、そこに『ジョン・バンクル伝』の梗概がまとめられている(Fyvie 4–30)。二十七ページに及ぶこの長大な梗概も参考にしながら、『ジョン・バンクル伝』のあらすじを紹介してみたい。『ジョン・バンクル伝』の本文は章立てされておらず、そのままでは構成を把握しにくいため、ここでは便宜的に本文の内容をエピソードごとに分割し、以下に各エピソードのあらすじを紹介する。(1)まず、第一巻(1756)のあらすじはこのようなものだ。
[発端]この小説は、アイルランド出身の郷士(esquire)であり、父と子と聖霊の三位一体の教義を認めないユニテリアン派の信徒(Unitarian)でもある、ジョン・バンクル(John Buncle)という五十歳を過ぎた男の自伝という形式で語られる。バンクルはロンドンで生まれたが、幼いころにアイルランド西部のゴールウェイ州に引っ越し、父が所有する広大な屋敷で育つ。本好きの少年だった彼は、神学書から古いロマンスまで、ありとあらゆる書物を読み漁る。1720年に十六歳でダブリンの大学(すなわちトリニティ・カレッジ)に進んだ彼は、幅広い学科目を学んだが、中でもジョン・ロック(John Locke, 1632–1704)の『人間知性論』(An Essay Concerning Human Understanding, 1690)に感銘を受ける一方、代数学にも熱中した。趣味は散歩と音楽の演奏だった。熱心なユニテリアンとなったのも大学時代である。
[ノエル嬢との婚約]卒業間近のある日、彼は夜明け前に銃と猟犬を伴って出発し、丘陵や谷間を散策するが、途中で道に迷ってしまい、見知らぬ屋敷にたどり着く。屋敷には、ハリオット・ノエル(Harriot Noel)という美しく若い娘とその父の老人が暮らしていた。バンクルはこの親子の歓待を受けてしばらく屋敷に滞在し、ノエル嬢と知的な会話を楽しむ。やがてバンクルは彼女に求婚し、二人は婚約するが、ノエル嬢は結婚式の二週間前に天然痘(small-pox)にかかって、あっけなく死んでしまう。
[メルモス嬢との出会い]ノエル嬢を失ったバンクルは、失意のうちに大学を去り、父の屋敷に戻る。しかし大学時代にユニテリアンになっていたせいで、国教徒の父と対立し、勘当されて家を追われる。財産相続の見込みがなくなったバンクルは、一旗揚げようとイングランドに渡るが、その船上でシャーロット・メルモス(Charlotte Melmoth)という知的な女性と知り合い、恋に落ちる。再会を約束してメルモス嬢といったん別れたバンクルは、イングランド北部のどこかに住んでいるはずの裕福な学友、チャールズ・ターナー(Charles Turner)を頼ることにする。バンクルは彼の屋敷を探すため、ヨークシャーからウェストモーランド、カンバーランドにかけて広がる、渓谷地方・湖水地方に向かう。
[女だけの村]旅の途中で彼は、男たちが熱病で死に絶えたために、女たちだけでコミュニティが作られている村にたどり着き、歓迎を受ける。バンクルは女たちのリーダーであるアゾーラ・バーコット(Azora Burcot)と知的な会話を楽しむ。
[ジョン・オートンの骸骨]さらに旅を続けたバンクルは、森の中の隠居屋敷で、寝椅子に横たわった骸骨を発見する。死んでから蟻に食われてきれいに白骨化したその人物は、遺された書き置きから、ジョン・オートン(John Orton)という男であることが判明する。かつて放蕩の限りを尽くしたオートンは、隠居後は庭仕事と聖書の研究に没頭して生を終えたのだった。オートンが遺した財産を手にしたバンクルは、この隠居屋敷オートン・ロッジ(Orton Lodge)で暮らすことにするが、やがて再び学友チャールズ・ターナーを探す旅に出る。
[ハーコート嬢との出会い]ヨークシャーの山中で旅を続けるバンクルは、裕福な独身男性哲学者たちのグループが暮らす邸宅や、知的な若い娘ハリオット・ユーゼビア・ハーコート(Harriot Eusebia Harcourt)とその父が暮らす邸宅に迷い込み、それぞれ歓待を受ける。ハーコート嬢とバンクルはその後も文通を続けたことが紹介され、彼女が父の死後、独身のまま家督を継いでハーコート女史(Mrs. Harcourt)となり、父が遺した邸宅でプロテスタントの女子修道院を開いたことが報告される。なおハーコート女史の修道院は、エイモリーの前作『英国淑女列伝を含む回想録』(1755)にも登場するが、そこでの記載によれば彼女たちの宗派は、ユニテリアン派と同じく三位一体の教義を否定するソッツィーニ派(Socinian)である(Amory, Memoirs 343)。
[ターナー嬢との出会い]ハーコート嬢の邸宅を去った後、山中で穴に落ちたバンクルは、そのまま洞窟をたどって外に出ると、そこにチャールズ・ターナーの屋敷があった。チャールズは外国に行っていて不在だったが、バンクルは彼の美しい妹ターナー嬢に歓迎される。ターナー嬢に好意を持たれていることを感じるバンクルだったが、名誉を重んじる紳士として、兄の留守中に求婚することはせずに彼女と別れ、かつて再会を約束したシャーロット・メルモスを訪ねることにする。
[メルモス嬢との再会と結婚]ヨークシャーにあるシャーロット・メルモスの屋敷に着いたバンクルは、母の死によって全財産を相続したシャーロットが、屋敷を売り払って立ち去ったことを知らされる。必死で彼女を探したバンクルは、ようやく彼女に再会して求婚し、めでたくオートン・ロッジで一緒に暮らすことになる。1725年のことだった。
ここで第一巻(1756)は終わる。その十年後に出版された第二巻(1766)のあらすじは次のようなものだ。
[ヘンリー嬢との出会いと第二の結婚]結婚してからわずか二年後、妻のシャーロットは熱病にかかって死んでしまう。失意のバンクルは、裕福な女との新たな出会いを求めて旅に出る。たちまち彼は美しい庭園を備えた屋敷にたどり着き、白髪の老人とその孫娘ステイシャ・ヘンリー(Statia Henley)に出会って歓迎される。ステイシャの父の骸骨は、メメント・モリとして、読書室の机に向かって腰掛けた状態で飾られている。骸骨の父にあたる白髪の老人の死後、バンクルはステイシャに求婚するが、独身生活を好む彼女にいったん断られる。しかしバンクルは、良きキリスト教徒にとって子を成すことがどれほど重要であるかを雄弁に語り、ステイシャを結婚に同意させる。二人はオートン・ロッジで暮らすが、二年後にステイシャは天然痘に感染して死ぬ。
[クランマー嬢との出会いと第三の結婚]再び旅に出たバンクルは、ハロゲット(Harrogate, ヨークシャーの鉱泉保養地)に向かう途中で道に迷い、ストウ(Stowe House, イングランド南部に実在する邸宅)を思わせる美しい庭園にたどり着く。屋敷の主人は美しく裕福な独身女性アントニア・クランマー(Antonia Cranmer)であった。やがてバンクルは彼女に求婚し、二人はオートン・ロッジで暮らす。またしても二年後に、アントニアは天然痘にかかって死ぬ。なおここで読者には初めて、バンクルが過去の妻たちとの間に何人も子どもをもうけていることが明かされる。
[旧友たちとの再会]失意のバンクルは再びハロゲットの保養地を訪れ、そこでダブリン時代に仲が良かったアイルランド人の紳士六人と再会し、旧交を温める。友人たちはそれぞれ個性的であったが、なかでもガラスピー(Gallaspy)という屈強な男は、過去に決闘で二人の男を殺したことがあり、パイプは常に二本くわえて吸い、酒は片手にグラス七個を握って飲むという剛の者であった。
[スペンス嬢との出会いと第四の結婚]バンクルはハロゲットで、マリア・スペンス(Maria Spence)という才色兼備の女性とダンスをして恋に落ちる。バンクルは求婚に先立ち、先妻が死んですぐに結婚することを繰り返す主人公に対する書評者たち(critical reviewers)の非難をかわすため、これほど何度も結婚することに関する自己弁護を行なう。その主な論点は、キリスト教徒たるもの可能な限り子孫を残すべきであるという点と、親の財力を当てにできない自分は、生活費を得るために裕福な女性を探して結婚せざるをえないという点である。
スペンス嬢に求婚したバンクルは、彼女の返事を待つ間に、悪い後見人に監禁された二人の若く美しい女相続人を救い出し、オートン・ロッジに住まわせる。その後、スペンス嬢とバンクルはロンドンまで一緒に旅をして、そこで結婚する。しかし六ヶ月後、彼女は熱病で死んでしまう。
[ターナー嬢との再会と第五の結婚]その三ヶ月後、バンクルは偶然立ち寄った宿で、学友チャールズ・ターナーの妹であり、かつてバンクルに好意を寄せていたスィージア・ターナー(Caesia Turner)と再会する。チャールズがすでに亡くなったことを知ったバンクルは、その場でターナー嬢に求婚する。晴れて夫婦となった二人だったが、一緒にロンドンへ向かう途中で馬車が転覆し、ターナー嬢は死んでしまう。
[悪徳書籍商エドマンド・カール]妻を失い一人でロンドンに到着したバンクルは、書籍商エドマンド・カール(Edmund Curll, 1675–1747)の家に間借りすることになる。エドマンド・カールは実在の書籍商で、詩人アレグザンダー・ポープ(Alexander Pope, 1688–1744)の諷刺詩『愚物列伝』(The Dunciad, 1728–42)で揶揄された人物である。『ジョン・バンクル伝』でも、カールは悪徳書籍商として描かれる。「彼は骨の髄まで放蕩者で、社会に害を成す人間だった。翻訳書を出す時には、本文にくだらない注釈や偽造した手紙やろくでもない図版を山ほど付け足すことで、四シリングの本の値段を十シリングに釣り上げていたのだ」(Amory, Buncle vol. 2: 383)。(2)
[ダンク嬢との駆け落ち]バンクルはカールの家で出会ったアイルランド人の賭博師たちに、有り金すべてを巻き上げられる。責任を感じたカールは、裕福な老守銭奴ダンク氏の財産を相続する一人娘のアグネス・ダンク(Agnes Dunk)と、バンクルが駆け落ちできるよう取り計らう。首尾よく駆け落ちした二人は、カンバーランド(イングランド北西部)にある小さな家で暮らすことにするが、結婚式を目前にしてアグネスは熱病にかかり、死んでしまう。悲しみにくれるバンクルは、彼女を自ら棺に納めて埋葬する。
[ダンク嬢との再会]その六ヶ月後の冬、ウェストモーランドの山岳地帯の景色を見に行こうとしたバンクルは、途中で嵐に遭遇し、風雨を避けるために、スタンヴィル医師(Dr. Stanvil)という人物の屋敷を訪ねる。バンクルは、スタンヴィル医師の妻が、彼が自ら埋葬したはずのアグネス・ダンク嬢に他ならないことに気付いて仰天する。アグネスは過去の記憶を失い、バンクルが誰だか分からないようだった。スタンヴィル医師はしばしば研究のための解剖用に、墓を暴いて掘り出した死体を入手していたのだが、ある時解剖を始めようとすると、死んだはずの女が蘇生したので、医師はその美しい女と結婚することにした。それがアグネス・ダンク嬢だったのだ。
[フィッツギボンズ嬢との出会いと第六の結婚]その後バンクルはイングランド北部で、フィッツギボンズ医師(Dr. Fitzgibbons)という人物と知り合い、医術を学ぶために彼の家に住むことを許される。二年後、バンクルは医師の美しい娘ジュリア(Julia)と結婚する。その直後に医師は亡くなり、バンクルが屋敷と家業を継ぐことになる。しかし十ヶ月後、ジュリアは庭園の脇を流れる川に落ちて溺れ死んでしまう。
[女相続人たちの失踪]バンクルは、かつて彼が監禁状態から救出した二人の女相続人のいずれかと結婚することを考え、彼女たちを住まわせているオートン・ロッジに帰還する。ところが彼女たちは、かつて自分たちを監禁した悪い後見人が死んだことを知り、晴れて自由の身となったため、オートン・ロッジを出ていずこかへ立ち去っていたのだった。
[ダンク嬢との再会と第七の結婚]もう一度アグネス・ダンク嬢に会いたいと思ったバンクルは、再びスタンヴィル医師の家を訪ねる。医師はバンクルと話している最中に椅子から転げ落ちて死ぬ。遺体を解剖したバンクルは、死因が「胃の破裂」であったことを確認する。医師の妻となっていたアグネスは、過去の記憶とバンクルへの愛を取り戻す。その数ヶ月後、二人は結婚する。
[父との和解]父が危篤であることを知ったバンクルは、妻となったアグネスとともにアイルランドに行き、故郷の屋敷を訪ねる。1735年のことである。久しぶりに再会した父は、なんと息子と同じく熱心なユニテリアン派の信徒になっていた。バンクルと和解した直後に父は死ぬが、すでに財産は別の縁者が相続することが決まっており、父がバンクルに遺してくれたのは、わずかな金銭と毎年百ポンドの年金、そして一隻の帆船のみだった。
[結末]バンクル夫妻はこの帆船でイングランド北部に戻り、スタンヴィル医師が遺した屋敷で暮らすが、一年後にアグネスは天然痘にかかって死んでしまう。再び独身となったバンクルは、帆船で世界周航の旅に出て、そのまま船で九年を過ごす。その後イングランドに戻ったバンクルは、ロンドンの近くに隠居屋敷を買って、その後は結婚もせず幸せな余生を送っているのだった。
2.細部への過剰なこだわり
以上、駆け足で『ジョン・バンクル伝』のあらすじを紹介した。こうしてあらすじだけを抜き出すと、バンクルは(本人は認めていないにせよ)自分の妻やその縁者を殺害し続ける連続殺人犯のようにしか思えない。十九世紀イギリスの随筆家リー・ハント(Leigh Hunt, 1784–1859)は、『ジョン・バンクル伝』を紹介したエッセイの中で、バンクルのことを「青ひげ」(Blue Beard)と呼び、「彼は抑えられぬ色情と変化を好む欲望のみに駆られて、七人の妻を次々に殺していく」と評している(Hunt 151)。次のハントの言葉は、ある意味でこの作品の本質を突いていると言える。
ジョン・バンクルの言うことを真面目に受け取るのはとても無理だ。彼は郷士であり、宴会好きのお調子者であり、ユニテリアン派の信徒であり、青ひげである。もし仮に彼の言葉を真に受けるなら、われわれは彼を、単なるお調子者ではなく、非常に身勝手な種類の人間と断ぜざるをえない。体があまりに健康すぎて懲りることもなく、並外れた虚栄心を持ち、感情をまったく持たない。不幸な人々や、自分の気まぐれに従わないものすべてに対して、侮蔑的な態度を取るのも鼻につく。(151)
つまりジョン・バンクルの言うことは、真に受けるべきではないということだ。アイルランド文学研究者のイアン・キャンベル・ロス(Ian Campbell Ross)は、『ジョン・バンクル伝』がアイルランドの伝統的な口承文芸「シャナハス」(seanchas)の形式に則って書かれていると言う。「語られるのは日常生活とかけ離れた出来事なので、シュケール[scéal, 物語]が虚構であることは語り手にも聴衆にも認識されている。しかしシャナハスで語られる出来事は、語り手によってあくまで真実だと主張され、聴衆は出来事が真実であることを受け入れる」(Ross, "Thomas" 76)。
『ジョン・バンクル伝』は、筋の展開や登場人物たちの行為にリアリティを求めて読まれるべき作品ではないのである。ほら話と知りつつ敢えて話に乗ることで楽しめるような種類の小説なのだ。なにしろ次々に入れ替わるバンクルの妻たちにしても、設定は違うがいずれも才色兼備のユニテリアン信徒で、性格はほぼ同じである。まるで同じ女性が何度も役柄を取り替えて、繰り返しバンクルの前に現れているようなのだ。死ぬたびにすぐ別のキャラクターとして蘇生する彼女たちの死を、真面目に悲しんでもあまり意味がなさそうである。
バンクルによる長大なほら話の構成は、本稿の冒頭でも述べたように「絶景と美女と過剰な脱線」の繰り返しである。この点については、アイルランド文学研究者のキャサリン・スキーン(Catherine Skeen)がうまくまとめてくれている。
プロット自体は反復的だ。まずバンクルが旅に出る。たいていはイングランド北部の人里離れた山岳地帯だ。途中で彼は山荘や邸宅に立ち寄り、歓待を受ける。彼はあり得ないほど美しく、魅力的で、博学な女性と結婚する。その女性は彼と同じくユニテリアン派の信徒だ。彼らは新居に落ち着く。妻は死ぬ。彼はまた旅に出る。このように何度もループするプロットを背景として、バンクルはさまざまな話題へと脱線を繰り広げる。金属の特性、タルムード、微分学、医学、アイルランド史、気象学、そして彼のお気に入りの話題であるユニテリアン派の教義。それらの脱線が物語の構成を膨らませ、物語の奇抜さと魅力を高めていく。(Skeen 354)
バンクルによる語りの典型的な例として、ループするプロットの最初の周期となる「ノエル嬢との婚約」のエピソードを取り上げてみよう。まずは山と渓谷を旅するバンクルが、豊かな自然の美しさを眺めて感慨にふける場面である。
荘厳な八月の第一日、まだ獣たちがねぐらから起き出し、鳥たちが空に舞い上がって朝の合唱を始めるよりも前、山や森は灰褐色の闇に覆われ、夜明けの光がまだ眠たげな灰色の東の空をまだらに照らし出すころ、つまり太陽が昇り、そのめでたい存在が輩下の自然を活気づけ始めるより前に、私は自分の部屋を出て、銃と猟犬とを伴に連れ、喜ばしい田舎の山野をさまよい歩くために出発した。暁光が羊毛のように柔らかな輪を描いて広がっていく中、さまざまな景観、さまざまな視野が目の前に広がるのも素晴らしい。そして朝の光がどっとあふれる時、美しく飾られた早朝の光景を眺めるのは申し分のない楽しさだった。この日の朝の美しさに喜び勇んで、私は次々に山を登り、渓谷を抜けて歩いた。獲物は豊富で、私は五時間もの間旅を続けた。どこに向かっているかも気にせず、学寮に戻ることもまったく考えずに。(Amory, Buncle vol. 1: 66–67)
案の定、バンクルは道に迷ってしまい、空腹を抱えて山中をさまようことになる。遠くに邸宅のようなものを見つけた彼は、邸宅を目指してまっしぐらに進む。その途中で絶壁を降りようとして滑り落ち、死にそうな目に遭うが、なんとか無事に邸宅にたどり着く。そこで彼が目にしたのは、夢のように美しい庭園だった。
その邸宅は実り豊かな渓谷のほとりの、なだらかな上り坂になった開けた土地に建てられていた。邸宅を取り囲む庭園は、憂いに沈む彷徨いびとを招き入れ、喜びに満ちた隠れ家やめざましい美しさの散歩道を、歩いて回ることを許してくれる。この素晴らしい場所の四辺には、低木の生垣がびっしりと植えられていたが、それらは低く保たれているので、遥か彼方の喜ばしい眺望をいささかも遮りはしないのだ。
庭園への扉の一つが開いたままになっていたので、私は直ちに中に入り、焼け付くような陽射しを避けて、木陰に覆われた散歩道を歩いた。道に沿って進むと、輪のような円形の広場にある大きな泉に出た。さらに木々の陰になったなだらかな上り坂を歩くと、常緑樹に囲まれた円形劇場のような広場に出た。素晴らしい眺めだ。そこにはいくつか座席が備えてあり、一休みしたり、飲食したり、ひそやかに過ごすことができるのだった。広場の両端にはそれぞれ、イオニア神殿風の丸屋根の建物(ロトンダ)が建っていた。一方の神殿は人工洞窟(グロッタ)すなわち貝殻館(シェルハウス)になっており、洗練された綺想によって自然と人工の最高の美を混ぜ合わせてあるのだった。もう一方の神殿は書斎だった。見事な書物で満たされ、ありとあらゆる計測器具が置かれている。私はそこにノエル嬢が座っているのを見た。熱心に書き物をしているので、窓辺に立っている私には気がついていない。私は目の前の光景に唖然としていた。特に彼女の顔の驚嘆すべき美しさと、その瞳の輝きに。彼女は書き物をしている紙からときおり瞳を上げて、傍らの小さな机に広げてあるヘブライ語の聖書を覗き込む。その光景はあまりに珍しく、驚くべきものだったので、私はしばらく魔法の国に迷い込んだかと思い、目にしているものが現実であることを疑いそうになった。その時ノエル嬢が、偶然私の方をまともに見た。そして開いた窓のほうへ来て言った。どなたかお探しですか。(68)
バンクルはノエル嬢とその父の老人に歓迎され、おいしい紅茶とたっぷりのクリーム、そしてバターを塗ったパンを振る舞われる。朝食を終えたバンクルは、ノエル嬢と二人きりになると、早くも愛の告白をしてしまうのだった。
[…]彼女の父親が去り、二人で庭園の書斎に歩いて行く途中で、私はノエル嬢に、私の気持ちを率直にこう伝えた。私は自分の魂の状態に確信が持てず、この気持があなたへの恋なのかどうか、よく分からないのです。このように激しい気持ちにとらわれるのは初めてで、女性に憧れるとはどういうことかも知らない身ですから。今朝までずっと、女性にはまるで無関心だったのです。しかし今、不思議な感情が私の内にほとばしっています。あなたの傍を離れてしまったら、私はきっと激しく苦しい不安に襲われるでしょう。どうか私が、こんなふうに心情を吐露することをお許しください。そして私が、何千もの行為によって示すことをお許しください。私はあなたをお慕いしています。うまく言葉にできないほどに。今後はあなたと一緒でなければ、どんな幸福も想像できません。
あなたと私は(唯一無二の女性が答えた)、初めてお会いしたばかりです。知り合ってからほんの数時間で、そのように激しいお気持ちを口にされるのは、私の愚かさを試そうとなさっているのに違いありません。あるいは若い娘が殿方と二人きりで話すときには、そのような話題しか楽しむことができないとお考えなのでしょう。どうかこれ以上、そのようなことはおっしゃらないでください。あなたはもっと理性的な話題について、いろいろお話しいただける方のはずです。ですから一つお願いがあるのですが、この部屋のテーブルにこうして開いて置いてあるヘブライ語聖書について、いくつかあなたのご意見をお聞かせ願えないでしょうか。(69)
ノエル嬢がバンクルの意見を求めたのは、ヘブライ語聖書の言語が、アダムとイヴが楽園で話していた太古の言語と同じかどうかという問題である。ノエル嬢が水を向けた途端、さっきまでの恋愛小説モードはどこへやら、バンクルはヘブライ語について熱っぽく語りだし、たちまち二人は議論に熱中する。バンクルが自説を述べている箇所から引いてみよう。なお、引用中の(2)は、バビロン捕囚について説明する原注が付けられている箇所である。
あなたのご質問に対する私の意見を述べますと、聖書ヘブライ語は楽園の言語であり、モーセが五書を書いた時代になっても、さらにそのずっと後まで、すべての人に話され続けていたと思います。アブラハムはカルデアで育ったにもかかわらず、エジプト人やソドムの住民、ゲラルの王とも自由に会話することができました。その息子のイサクが近隣諸国と交渉するにあたって、言葉の壁が邪魔をしたという記載はありません。ヤコブが旅をする上で、言葉の違いが障害になったわけでもありません。イスラエルの民は、(エジプトで数百年を過ごした後で)アラビアの砂漠を通り抜ける旅をしましたが、それまで雑多な人々と交際し、さまざまな異民族に出会ってきたにもかかわらず、自分たちの言語を堕落させてはおらず、容易に言葉を理解してもらえました。なぜなら彼らの言語は、その当時の普遍言語だったからです。ヘブライ語は単純明瞭であったために、その純粋さを非常に長い間、普遍的に保っていました。自然な知識が失われるまでは、堕落することがなかったのです。なぜならヘブライ語の単語はわずか二字か三字でできており、実用的な力強い観念を伝えるのに最適だったからです。しかし七十年に及んだバビロン捕囚(2)の間に、ユダヤ人は無知な勝利者に盲従し、自らの言語を使うことを怠っていました。その結果として、律法学者やその他の学者のほかには、誰もモーセの五書を理解できなくなってしまったのです。
確かにそれは(とノエル嬢は言った)、聖書ヘブライ語の原初性および卓越性に関するもっともらしいご説明です。しかし私は、そのご説明が必ずしも事実と認められるわけではないと思います。聖書ヘブライ語が楽園の言語である可能性は、あまり高くありません。1800年の経過は、太古の言語を大いに変化させたに違いないからです。単語も増加したでしょうし、既存の単語も新たな語形変化を遂げたり、別の意味に転用されたり、新しい語義解釈が加えられるようになったはずです。地球の最初のわずかな住民たちは、数少ない仕事にしか従事していませんでしたから、幅広い分野の単語は必要ありませんでした。しかし彼らの子孫が技術を革新し、科学を発達させると、新語や専門用語を作らざるをえません。また、新しい事物を指し示すために、単語の意味を拡大させたり、別の意味に転用したり、比喩的に用いたりすることになり、すでに使われていた単語の意味も増殖していったはずです。ヘブライ語は確かにこうして徐々に改良され、しかもすべての時代が改良を加えたでしょう。すべての生きた言語は、こうした変化を免れません。ですから私の結論としては、アダムとイヴが使っていた言語は、後の世代には通じないものだったと思います。(70–71)
二人の議論はこの先も続き、議論が一段落したところで、二人はノエル嬢のグロッタ(人工洞窟)に展示してある、貝殻のコレクションを見に行くことになる。ここでバンクルは読者に約束をする。「この見事な部屋については、私の能力の及ぶ限り精密な描写を読者にお届けしよう」(72)。以下に引用するのは、数ページにわたって続く部屋の描写のごく一部である。
ついさきほど述べたように、緑の木々で円形劇場のように囲まれた広場には丸屋根の神殿があり、一方の神殿の内部には、光り輝く部屋が作られていた。ノエル嬢の手は、私がこれまで目にした中でもっとも美しいモザイク画で部屋の床を覆い、アーチ状の屋根の内側を豊かな化石宝石で一面に飾っていた。床のモザイク画では、色のついた小さな岩や小石、そして角のある形に切ったガラスのかけらが、手本にした絵の筆致や色彩を真似るために、計算に基づいた絶妙のバランスで組み合わされていた。この淑女がそこに巧みに描いたのは、ウォルセヌスが夢で見たものを書き残したという「平安の神殿」である。[…]。
彼女の才能の豊かさを同じくらい明らかに示していたのは、部屋中の壁に散りばめられた、極めて美しい貝殻やその他の珍品の、印象的なコレクションだった。彼女の父は娘のためには金に糸目をつけず、世界中の海や川が生み出した最高の貝殻や、珍しさの点でも価格の点でも一流の宝石や鉱石を買い与えたのだ。それらの展示のされかたは、部屋に輝かしい光を与えるばかりでなく、この若い淑女が自然界に関する深い知識を持っていることを示していた。(72–73)
オーストリア・ドイツ文学研究者の原研二によるグロッタ論『グロテスクの部屋』には、十六〜十七世紀ヨーロッパの庭園に作られた「本物の貝殻を壁一面に埋め込んだ人工洞窟館」がいくつも紹介されている(原 56–71)。ノエル嬢のグロッタでも、一つ一つの貝殻は、おそらくモザイク状に壁に直接埋め込まれているはずだ。原によれば、貝殻はグロッタそのものの象徴であり、洞窟への入り口(ファッサード)が貝殻を意識した装飾になっているグロッタも見うけられるという(原 64–65)。グロッタ自体が一つの大きな貝殻と意識されていたのであれば、数ページ前に引用した庭園の描写で、バンクルが「一方の神殿は人工洞窟(グロッタ)すなわち貝殻館(シェルハウス)になっており」といった言い方をしていたのもうなずける。
なおノエル嬢の庭園において、円形建築のグロッタと対称的な位置に建てられている、もう一方の円形建築が、書斎であるのは興味深い。原の議論に従えば、ルネサンス期のヨーロッパにおいては、書斎を含む「『個室』をはなから洞窟と感じる感性」(原 163)が存在したらしいのだ。十四世紀初期に出現した書斎(ストゥディオロ)は、人工洞窟(グロッタ)の一種として意識されており、「グロッタの隠密性が、『個室』という新しい時代の要請によって、ストゥディオロと重なってきた」のだという(原 158)。
話を『ジョン・バンクル伝』に戻そう。ノエル嬢のグロッタの概要を紹介したバンクルは、さらに続けて、ノエル嬢の貝殻コレクションに視点を移し、コレクションの中の一つ一つのアイテムを入念に描写していく。
一、海喇叭貝(シー・トランペット)、完全な状態。殻高は九インチ、殻口すなわち不規則に開いた開口部の直径は一インチ半。細い側の先端の開口部はおよそ半インチ。表面は美しい茶色で、見事な白い斑点が散りばめられている。管状部には十四箇所に、わずかに盛り上がった環状の隆起がある。隆起の色は美しい紫。
二、提督貝(アドミラル)、美麗な状態。殻高二インチ半のボルタ巻貝。肩の部分の殻径は一インチで、そこから鈍角の殻頂に向けて円錐状に細くなっている。地の色は極めて明るく豪華な黄色で、シエナの大理石より立派なほどだが、殻はさまざまな明るい色の縞で彩られているので、地の色は三分の一強ほどしか見えない。この上なく多彩で魅力的な幅広い帯状の縞が、いくつも表面を覆っており、殻頂は色・鮮やかさ・不規則さの点でまさに絶品である。黄色の縞の中央には、さまざまに色が変化する筋が通っており、えも言われず愛らしい。この美しい東インド産の貝殻は、高価で取引される。
三、帝冠貝(クラウン・インペリアル)、やはり極めて美麗。このボルタ巻貝は殻高が四インチ、殻径が二インチで、肩の周囲が先の尖った一連の突起で飾られているのが魅力的である。地の色はくっきりした白で、肩や殻頂に近いところをめぐって、二本のたいへん美しい縞がある。縞は鮮明な黄色だが、そこに濃淡の紫が加わり、なんとも優美な変化が与えられている。東インド産。(Amory, Buncle vol. 1: 74)
この調子で、貝殻コレクションの描写は数ページにわたって続くのだ。バンクルがノエル嬢のグロッタについて、何かに取り憑かれたように詳細な描写を続ける間、彼らの恋愛がどう進展するのかといった、通常の小説の読者ならもっとも関心を持つはずの問題は、まったく棚上げにされてしまう。
バンクルの語りは、全篇を通してこのような形で進んでいく。まず自然の崇高な風景の描写、次に彼がたどり着いた邸宅の描写、そしてそこに暮らす人々との知的な会話、あるいは彼らのコレクションの描写。そのうちもっとも多くページ数が割かれるのは、会話の詳しい内容やコレクションの描写といった、物語の本筋から言えば「脱線」にあたる部分である。
読者としては、バンクルの途方もない脱線によって、予想もつかないあらぬ方向へぐいぐい引っ張られていく快感を味わうことになる。次々に枝分かれする洞窟の奥へ奥へと入り込む快感と言ってもいい。『ジョン・バンクル伝』においては、物語の本筋と脱線の重要度が逆転しており、女性たちとの出会いや結婚、死別といった、本来の物語の進展は、次なる脱線を引き出すためのきっかけにすぎないとも言える。このような過剰な脱線こそが、『ジョン・バンクル伝』の最大の特色であり魅力なのだ。
こうした脱線を繰り返す『ジョン・バンクル伝』の内容は、おのずから百科全書的になっていく。十八世紀ヨーロッパの裕福な紳士階級の人々が興味を持ちそうなことは、あらかたバンクルが繰り広げる脱線の中に登場することになる。
絵のような絶景を眺めるために山野を旅することも、その一つだ。バンクルが従者とともに、手に入れたばかりの隠居屋敷オートン・ロッジ(Orton Lodge)の近くの山野を散策している場面を引いてみたい。
左右どちらも半マイルほどにわたって、山々はこの素晴らしい水辺の間近に迫り、喜ばしい田舎の光景を現出させていた。目を上げると、川は遥か彼方から、荒々しい岩肌を見せる険しい断崖の間を抜け、転がるように勢いよく流れてくるのだった。峡谷の終点には、威圧するような巨大な山々の間に、広々とした明るい湖が作られていた。山麓の森や草原の風情とも相まって、それらすべては実に魅力的な眺めを形作っている。私はこれでオートン・ロッジがますます好きになった。(187)
オートン・ロッジの近くに洞窟を見つけたバンクルは、その洞窟が、ウェルギリウス(Virgil)の『アエネイス』(The Aeneid)で英雄アエネアスが嵐を避けてこもったという、チュニスの近くのボン岬の洞窟より素晴らしいと思う(187)。バンクルはそこで脚注を付け、ショー(Thomas Shaw, 1694–1751)という人物の旅行記に、この洞窟を訪ねてウェルギリウスに思いを馳せている場面があることを指摘する(187n25)。脚注の中で彼の連想はさらに広がり、『アエネイス』第一巻から、岬の情景を描いた詩句をまずラテン語で、次に英訳で引用している。英訳にはさまざまな訳者の訳を混ぜて使っているが、以下の箇所はクリストファー・ピット(Christopher Pitt)による訳だ。
On either side, sublime in air, arise
Two tow'ring rocks, whose summits brave the skies;
Low at their feet the sleeping ocean lies:
Crown'd with a gloomy shade of waving woods,
Their awful brows hang nodding o'er the floods.
(Amory, Buncle vol. 1: 188n; Pitt 16)
(両側で、空中に崇高にそびえ立つのは
二つの峨々たる岩山だ。その頂きは大空に挑み、
その足元には眠れる海原が横たわる。
二つの岩は、波打つ木々の暗い陰を冠として、
恐ろしげな額を下に向け、大海を見おろす。)
上の引用句の中では、突兀たる絶壁を形容するために「崇高」(sublime)という語が使われているが、この場面に限らず、『ジョン・バンクル伝』における荒々しさを好む風景描写には、十八世紀後半のイギリスで流行した、サブライム(崇高)美学(the sublime aesthetic)の萌芽が見て取れる。サブライム美学について、建築史研究者の中川理の説明を引こう。
この崇高の価値観を理論的に提示したのが、イギリスの思想家エドマンド・バーク[Edmund Burke, 1729–97]の『崇高と美の観念の起源』(一七五七年)である[…]。ここで崇高(サブライム; Sublime)とは、均整調和に基づく古典的な「美」と対比させて、危険を望見しつつ身の安全を確信できるところに生じる歓喜と規定された。そこには、新しく風景として発見された自然環境の険しさに由来する、恐怖や苦しみがある。つまり、暗い森、断崖、奔流など、それまで恐怖として拒絶の対象に感じられていた感覚が、「美」として新たな価値を与えられることになるのである。この崇高(サブライム)の概念こそ、一八世紀後半以降に、イギリスにおいて展開された風景画の流れを導いたものなのである。(中川 23,[ ]内は私の補足)
さらにバンクルは、旅の途中で出会う、ごつごつした不規則な形の岩山や峡谷を、いちいち愛おしむように細部まで丹念に描写する。そこにはやはり十八世紀後半のイギリスを席巻した、ピクチャレスク美学(the picturesque aesthetic)の影響を感じずにはいられない。こちらについては、英文学研究者のアリソン・バイアリー(Alison Byerly)の言葉を引いておこう。
十八世紀終わり頃、ピクチャレスクという語は絵画に関してよく使われた語であり、絵画の制作に特有の様式となっていた。ピクチャレスクのイギリスでの流行は、一七一三年ユトレヒト条約締結の後、イタリアに押し寄せた旅行者達によってイギリスに持ち帰られたサルバトール・ローザ[Salvator Rosa, 1615-73]とクロード・ロラン[Claude Lorrain, 1600-82]らの風景画にその源を辿ることができる。イタリアとアルプス山脈を訪れた旅行者達はイギリスでその思い出を追体験したがり、その結果突如、湖水地方やワイ峡谷や西部地方、それにスコットランドの一部は流行の旅行先となった。そのような旅行者達はガイドブックや風景詩が描写するピクチャレスクな景色を探すことを目的としていた。(バイアリー 175,[ ]内は私の補足)
注目すべきは、『ジョン・バンクル伝』の刊行年が1756年であることだ。サブライム美学の理論を提示したバークの『崇高と美の観念の起源』(A Philosophical Enquiry into the Origin of Our Ideas of the Sublime and Beautiful, 1757)より一年早い。ピクチャレスク美学の代表的な提唱者、ウィリアム・ギルピン(William Gilpin, 1724–1804)の一連の著書が刊行されるのは、さらにその後の1760年代以降である。もちろんどちらの美学も、一人の提唱者によって突然出現したわけではない。英文学研究者のマルコム・アンドルーズ(Malcolm Andrews)が編纂した、初期のピクチャレスク論・サブライム論のアンソロジーが示しているように、それらは十八世紀の初頭から、さまざまな著者たちによって徐々に形成されていったものである(Andrews)。『ジョン・バンクル伝』には、そうした時代の雰囲気が色濃く反映されているのだ。
当時の紳士たちが眺めて楽しんだのは、風景だけではない。顕微鏡による観察もまた、当時の紳士階級の娯楽の一つであった。バンクルが旅の途中で出会った、独身男性哲学者たちのコミュニティで、暗箱(camera obscura)につないだ太陽顕微鏡(solar microscope)を見せてもらう場面を引用してみよう。このタイプの顕微鏡は、レンズを通した映像を、幻燈のように壁に投影することができた。拡大され投影された迫力ある映像でバンクルが楽しむことになったのは、なんと、ノミとシラミの決闘である。なお引用文中の(28)は原注が付けられた箇所だが、その原注では、太陽顕微鏡がいかに素晴らしい娯楽手段であるかが縷々語られている。
最初に箱の闘技場に入れられたのはノミだった。彼は自分がどれほど活発かを見せつけようとして、やおら飛び上がると異様な速度で跳ねはじめた。その跳躍運動の速度は驚異的だった。彼は時々、ふざけたように宙返りまでしてみせたのだ。しかしシラミが登場するやいなや、彼はぴたりと動きを止めて緊張し、目をギラギラさせて敵をにらんだ。勇敢なシラミは顔をしかめてしばらく相手をじっと見つめていたが、やがてうずくまると、そっと相手に近づいていった。その時ノミは敵に向かって跳びかかり、その危険な尻尾と噛む力の強い口を使って、猛烈な攻撃を仕掛けてきた。しかしシラミは間もなく、そのカギ爪と鋭い口吻でノミを傷つけ、支配権を奪い取った。この時ノミは箱の反対側に跳ねのいた。両者は距離を保ったまま、互いへの敵意をむき出しにして一分近くにらみ合った。どちらも何度か前進しようとする動きを見せたが、ついにシラミが突進し、ノミが相手に跳びかかった。二匹の野獣は最高に恐ろしい闘いを繰り広げたのだ。彼らの体のあらゆる部分が猛烈な勢いで動いていた。ときにはノミが優位に立つこともあったが、もっぱら支配権を握っていたのはシラミだった。彼らは荒れ狂ったように互いを噛み、突き、爪で引っ掻いた。恐るべき戦闘の結果、ノミは息絶えた。シラミは箱の中の勝者として生き残ったが、深手を負って歩くことさえままならないのだった。私にとってこの闘いは非常な驚きだった。彼らはどちらも二フィートの大きさに拡大されていたからである。しかし彼らがいかに小さな生き物であるかを考えると、これら二つの小さな物たちが死闘を繰り広げながら見せた、驚嘆すべきメカニズムを目の当たりにして、仰天せざるをえない。さらに珍しい見ものだったのは、これほど小さな生き物たちが互いに対して示した敵意、彼らの小さな胸の奥でうごめく激しい感情、そして彼らが互いを倒そうとして見せた判断力だ。まことに驚くべき体験である。シラミの体がすっかり透けて見えるのにも感心した。心臓の血が勢いよく循環するのが見えるのだ。まるでガラス管をつないだものに、赤い液体をポンプで送り込んで循環させる実験をしているようにくっきりと。死んだノミは解剖された。暗箱(カメラ・オブスクラ)すなわち太陽顕微鏡のおかげで、(それはノミのような小さな物の映像を八フィートにまで拡大するのだが)(28)、ノミの腸がなんとも見事な具合に配置されているのを見ることができた。そのノミは卵をいっぱい抱えており、それぞれの卵にはできかけのノミの子がたくさん詰まっていた。(196–97)
ノミの性別にすら無頓着な、この荒唐無稽な決闘シーンは、バンクルの語りが基本的にでたらめなほら話であることを如実に露呈している。作者のエイモリーは、実際にノミやシラミを顕微鏡で観察したことなどなく、おそらくロバート・フック(Robert Hooke, 1635–1703)の『ミクログラフィア』(Micrographia, 1665)に掲載されたノミやシラミの図版に基づく何らかの図版だけを参考にして、この場面を描いているのだろう。顕微鏡の仕組みや貝殻の外観なら、書物に書いてあるから、それらの記述を書き写して正確に語ることができる。しかし顕微鏡を通して生きたノミやシラミを見た時に、それらがどう振る舞うかといったことは、作者エイモリーが入手できた本には書いてなかったのだろう。ここに博識な語り手ジョン・バンクルの最大の弱点がある。彼は過去の書物に書いてあることしか正確に語れないのだ。ピクチャレスクな風景の描写にしても、必ずしも現実の自然を取材して書かれているとは限らない。たとえば、バンクルによる風光明媚な峡谷の描写の一つ(Amory, Buncle vol. 1: 234)は、同時代の人物によるノルウェイ旅行記からの引き写しであることが、注釈者ハスレットによって暴露されている(Amory, Buncle vol. 1: 324)。バンクルが旅する風景や邸宅やそこで出会う人々、そこで彼が体験する物事は、ほとんどすべて、過去の書物を元にバンクルが(と言うより作者エイモリーが)作り上げた、悪く言えば妄想の産物、良く言えば理想郷なのである。
3.『ジョン・バンクル伝』への評価
さて、こうした『ジョン・バンクル伝』は、十八世紀から現在に至る読者や批評家から、どのような評価を受けてきたのだろうか。
同時代の代表的書評誌二誌は、この作品に対照的な反応を示した。『クリティカル・レヴュー』(The Critical Review)1756年10月号は、『ジョン・バンクル伝』第一巻を以下のように酷評している。「この本はやたらにぶ厚い八つ折り判で、511ページもある(哀れな書評子としてはうんざりだ)。中身は細々した、くだらない事実の羅列であり、その多くは現実味に欠ける。それらを語る著者の意図は単に、(これが本書を出版した主な動機なのだろうが)宗教上のいくつかの論点について、中途半端で粗雑な概念を提示することでしかない」(vol. 2: 219)。一方同じ年の『マンスリー・レヴュー』(The Monthly Review)は、11月・12月の二号にわたって本作を詳しく紹介し、最後には語り手バンクルにこのような高い評価を与えている。「彼はあらゆる点で真に独創的であり、いくつかの点では並ぶ者がなく、卑劣な点はまったくない。それゆえ彼の欠点さえも、偏奇の大天才による一時的な逸脱にすぎないように思われる」(vol. 15: 604)。 十年後の第二巻については、『クリティカル・レヴュー』の1766年6月号が、「本作は書評に値しない。一読してみて、その馬鹿げた内容が耐えがたいからだ」(vol. 21: 470)と一言で切り捨てたのに対し、同年の『マンスリー・レヴュー』は、7月・8月の二号にわたって内容を詳しく紹介したあと、高い評価で締めくくっている。「彼の自伝には、一冊の本の中にまとめることなどとても無理だと思えるほどの、思慮分別、学識、ナンセンス、そして娯楽が詰まっている。要するに、彼の作品を読むのはいつも楽しい。それらの作品の美点は欠点を埋め合わせて余りあるものだし、差し引きすれば、素直に面白がる陽気な読者のほうが、ずっと得をするはずだ」(vol. 35: 123)。
十九世紀初頭のロマン派時代の批評家たちには、『ジョン・バンクル伝』を偏愛する者が多かった。すでに言及したリー・ハントのほかにも、チャールズ・ラム(Charles Lamb, 1775–1834)は随筆や書簡で何度かこの作品に言及しており、ウィリアム・ハズリット(William Hazlitt, 1778–1830)に至っては、「ジョン・バンクルはイギリスのラブレーだ」とまで書いている(Hazlitt 151)。しかしそれ以降、『ジョン・バンクル伝』はイギリス小説の古典とはならず、好事家向きの奇書としてひっそりと伝わっていく。そんな中、十九世紀末から二十世紀初頭に活動した批評家ジョージ・セインツベリ(George Saintsbury, 1845–1933)が、エイモリー作品を非常に高く買っているのは注目に値する。「誰にせよ、『ジョン・バンクル伝』を全部読み通したことがあるのでなければ、そして(こちらはやや条件を甘くするが)、『英国淑女列伝』の少なくともおおまかな内容を知っているのでなければ、その人物が十八世紀の真の姿やあり得た姿を、本当に理解していると言えるかどうかは疑わしい」(Saintsbury 151)。
再び『ジョン・バンクル伝』が脚光を浴び始めるのは、二十世紀末のことである。アイルランド文学の研究者たちが、アイルランド文学のうち英語で書かれた作品の歴史をたどる中で、十八世紀アイルランド小説を代表する作品の一つとして『ジョン・バンクル伝』に注目したのだ。すでに述べたように、アイルランド文学研究者のイアン・キャンベル・ロスは、この小説がアイルランドの伝統的な口承文芸、「シャナハス」(seanchas)の形式に則って書かれていると主張する論文を発表した(Ross, "Thomas")。1983年のことだ。1991年に編纂された、アイルランド文学の古典を集めたアンソロジーでは、十八世紀の作品を収録した巻に『ジョン・バンクル伝』の重要な場面がたっぷりと再録され、ロスによる解説では、この作品が持つアイルランド的な特徴が強調された(Ross, "Fiction" 683-84)。2011年には、エイモリー作品初の校訂版として、アイルランド文学研究者モイラ・ハスレットの編纂による『ジョン・バンクル伝』第一巻がダブリンの出版社から刊行されている(Amory, Buncle vol. 1)。
アイルランド文学の文脈で『ジョン・バンクル伝』を扱った研究の中では、すでに引用したキャサリン・スキーン(Catherine Skeen)の論文が興味深いので、以下に少し詳しく紹介してみたい。十八世紀アイルランド小説の代表作を、当時のイギリス系アイルランド人が熱中していたアイルランド改革運動である、さまざまな「提案」(project)との関連で論じたものだ。スキーンによれば、「十七世紀末から十八世紀中葉にかけて、ダブリンは片面刷りチラシ(ブロードサイド)やパンフレット、小冊子(トラクト)といった印刷物の渦に巻き込まれていた。いずれもアイルランドの経済状況の問題点を論じ、その改善計画を提案するものだ。それらはもっぱら、アイルランドで影響力を持っていた『中流階級』(ミドル・ランク)である、英国国教徒の地主や聖職者によって書かれ、同じ階層の読者に読まれていた」(Skeen 331)。こうした時代背景の中で、アイルランドでは直接間接に「提案」をテーマとする英語小説が生み出されていく。
ジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift, 1667–1745)の『ガリヴァー旅行記』(Gulliver's Travels, 1726)では、改革提案のモチーフが全篇に散りばめられているだけでなく、語り手ガリヴァーの執筆意図自体も、汚らわしいヤフー(Yahoo)としての人類を改革する提案(project)を行なうことである。この作品には、ガリヴァー自身を含む傲慢な提案者(projector)たちの愚かさを嗤うことで、イギリス系住民がアイルランドに押し付ける改革案の不条理さを諷刺するという側面がある。
ウィリアム・チェノー(あるいはシェニュ? William Chaigneau, 1709–81)のピカレスク小説『ジャック・コナー伝』(The History of Jack Connor, 1752)は、言わば主人公が自らの人生に次々に「改革提案」を行ない、それを実行することで成功する物語である。プロットの展開にも社会改革への提案が含まれており、この小説は一種の啓蒙書として読者に「提案」を行なっていると言える。
エイモリーの『ジョン・バンクル伝』には、以上二作のように明確な「提案」とのつながりはない。この物語では誰も成長しないし、何も改革されない。しかしそもそも改革の提案とは、「いま・ここ」にはない理想像を構築して提示することにほかならない。自分の頭の中にしか存在しない理想を文章の中に「投影する」(project)ことで、理想の世界を構築し、それを広く読者に示すことが「提案」(project)の本質なのだ。そうした意味では、現実の「いま・ここ」には存在しない理想郷を次々に構築して文章に投影し、読者に提示していく『ジョン・バンクル伝』は、「提案/投影すること」(projecting)を隠れたテーマにしているとも言える。
スキーンは、故国アイルランドの実家を追われてイングランドにやって来たバンクルが旅をするのが、イングランド的な都市でも田舎でもなく、もっぱらどことも知れぬ山の中であることに着目する。それは実は、バンクルが育った現実のアイルランドでさえなければ「どこでもいい場所」なのであり、バンクルはそこに頭の中の理想を投影することで、理想郷を構築していくのである。「バンクルが旅をする空間は『イングランド』というより、アイルランドではない空間、アイルランドから遠く離れていることに意義がある空間なのだ」(356)。しかしバンクルが提示する理想郷は、実際の「提案」の筆者たちが提示するような、「農産物の収穫量が倍増したアイルランド」とか「より経済的に豊かなアイルランド」といった、明確で実用的な目標を掲げることがない。バンクルの提案は、言わば目的のない提案である。
バンクルの作る世界は、提案/投影されたアイルランド[Projected Ireland]に似て、善意にあふれ、序列化され、「改善」に満ちている。しかしそこに欠けているのは、「提案」そのものだ。労働、効率的な作業過程、方法論、説得のための戦略といったものへの執着――要するに、特定の目的/結末[end]に到達する(であろう)手段への執着が、ここには見られないのだ。(356)
バンクルの理想郷が「改善」に満ちているといっても、それは実用的な目的を持たない「改善」である。何の役にも立たない、しかし「いま・ここ」よりはるかに居心地のいい世界。しかもそこは、初めからすっかり「改善」されているがゆえに、もはや改革のための「提案」を必要としない世界、よそ者による押し付けの改革にわずらわされなくてもよい世界である。
もはや「提案」が必要なくなるというファンタジーを、冒険に満ちた「提案/投影」を好む精神を具現化する主人公、しかも故郷のアイルランドから亡命するという観念に取り憑かれている主人公を通して語ることで、『ジョン・バンクル伝』は、過去半世紀の「提案」の歴史をアンビヴァレントに反映しているのだ。(358)
スキーンの力業は、現実逃避による荒唐無稽な妄想の産物としか思えない『ジョン・バンクル伝』を、当時のアイルランドの現実へと見事に接続してしまう。同時に彼女の議論は、この作品が持つ普遍的な魅力の源泉が、何であるかを示唆してくれる。「改革」に追いまくられる現実から隔絶された、何の役にも立たない、しかし「いま・ここ」よりはるかに居心地のいい理想郷。バンクルが語る「絶景と美女と過剰な脱線」の物語は、そういう世界へ読者を導いてくれるのだ。
4.『トリストラム・シャンディ』との関連
現在のイギリス文学・アイルランド文学研究において『ジョン・バンクル伝』がもっとも頻繁に取り上げられるのは、十八世紀英文学の古典の一つとされる、ローレンス・スターン(Laurence Sterne, 1713–68)の滑稽小説『トリストラム・シャンディ』(The Life and Opinions of Tristram Shandy, Gentleman, 1759–67)と関連づけられる場合である。アイルランドで生まれて幼少期を過ごしたスターンは、作家としての活動を行った場所が常にイングランドであったにもかかわらず、アイルランド文学の作家として扱われることも多い。しかし『トリストラム・シャンディ』と『ジョン・バンクル伝』が比較されるのは、単にどちらも十八世紀アイルランド小説の代表作と見なされているからだけではない。両者はともに、脱線が本筋を凌駕する構成、本文に長々と挿入される他のジャンルの文書、たびたび読者に直接呼びかける饒舌な作者といった、小説の語り方としてはエキセントリックな、実験的な要素をいくつも共有しているのだ。英文学研究者クリストファー・フリント(Christopher Flint)の言葉を引こう。
『トリストラム・シャンディ』は長い間、「類例のない作品」[sui generis]と考えられていた。しかし、スターンの本を有名にすることになる実験的なテクストの効果は、他のいくつもの虚構作品によって、すでに探求され始めていたのだ。『トリストラム・シャンディ』ほど有名ではない虚構作品、たとえばトマス・エイモリーが1756年に発表した『ジョン・バンクル伝』は、作者とテクストとの間にはたらく機能に関して、スターン作品と同じくらいエキセントリックなアプローチを取っている。(Flint 106)
アイルランド文学研究者のアイリーン・ダグラス(Aileen Douglas)も、両者の類似性を認めている。しかし彼女は『ジョン・バンクル伝』が、その三年後に出版された『トリストラム・シャンディ』に直接的な影響を与えたかどうかには、慎重な態度を取っている。
エイモリーが見せるエキセントリックな博識や、読者との微妙な関係の保ち方は、どうしても彼以上に有名なある小説家を思い起こさせる。やはり濃密なテクスト性を、『適切に書かれた文章とは会話の別名にほかならない』という信念と組み合わせた人物だ。しかし残念なことに、ローレンス・スターン(1713–68)が実際にエイモリーを読んだという証拠は何もない。(スターンが同時代のフィクションをどの程度読んでいたかは、ほとんど何も分からないのだ。)(Douglas 31)
スターンがどんな本を読んだかについては、まったく何も分かっていないわけではない。英文学研究者のトマス・キーマー(Thomas Keymer)は、スターンの死後に売り出された蔵書のカタログを参照することで、スターンが「新しい小説の熱烈な読者」であったと主張している(Keymer 59)。スターンの蔵書カタログには同時代の小説も多く含まれているが、その中に『ジョン・バンクル伝』は入っていない。しかし書評誌『マンスリー・レヴュー』が異例の長さで原文を引用しながら紹介した『ジョン・バンクル伝』については、当時の読書好きであれば、評判くらいは聞いていた可能性がある。
スターンがエイモリーの直接的な影響を受けていたかどうかは明言できないが、エイモリーがスターンの影響を受けたことは、内容的にはともかく、出版事情の点では明らかである。1759年の年末にヨークで出版が開始された『トリストラム・シャンディ』は、翌60年にロンドンで大ブームを巻き起こす。版元をロンドンの書籍商に変更し、その後もほぼ毎年二冊ずつのペースで分冊出版された『シャンディ』の続巻が売れ続ける中、63年には『ジョン・バンクル伝』第一巻の売れ残りが再発売され、66年には続編(第二巻)が刊行される。もともと『ジョン・バンクル伝』第一巻の巻末では、続編の刊行がほのめかされていた。長年棚上げにされていた続編が、第一巻刊行の十年後にようやく出版されるのは、その間に起こった『トリストラム・シャンディ』のブームを受けて、スターン風の脱線物語は売れると踏んだ、書籍商の判断が働いたと考えるのが自然だろう。こうした事情を踏まえて、キーマーはこう述べている。
おのれの半生を書き綴るはずが、挫折して無秩序な話になってしまうという設定で語られる、自伝的もしくは擬似自伝的な虚構作品といったものは、もちろん1750年代の発明品ではない。ただしそれらは、この時代の好みに特にぴったり合っていたようだ。『ジョン・バンクル伝』と『トリストラム・シャンディ』の間には、双方向的な影響関係があったと思われる。(1766年に『ジョン・バンクル伝』の続編が出たのは、スターンの成功によるところが大きい。)しかし同時に、両者の遠い先祖にあたるものとして、王政復古期のランブル・フィクション[ramble fiction]が考えられるかもしれない。(Keymer 64)
ここでキーマーが、『トリストラム・シャンディ』と『ジョン・バンクル伝』相互の影響関係を指摘するだけでなく、両者の先祖として、十七世紀末の「ランブル・フィクション」を挙げているのは興味深い。キーマーは、語り手が自分の半生を語ると称して面白おかしい無駄話を長々と繰り広げる「ランブル・フィクション」の例として、ジョン・ダントン(John Dunton, 1659–1733)の『世界周航記』(A Voyage round the World, 1691)や、フランシス・カークマン(Francis Kirkman, 1632–83)の『不運な市民』(The Unlucky Citizen, 1673)といった作品を挙げている。
ところで「ランブル・フィクション」(ramble fiction)あるいは「ランブル・ノヴェル」(ramble novel)という名で呼ばれるこのサブジャンルは、エイモリーやスターンが活動した十八世紀半ばにも、引き続き新作を生み出していた。英文学研究者のサイモン・ディッキー(Simon Dickie)は、これらの下品な笑いに満ちた小説群について、こう述べている。「それらの作品はしばしば『ランブル・ノヴェル』と呼ばれた。物語の主人公の名が多くの場合『ランブル』(Ramble)であることと、彼らが世の中をふらふら(ramble)しながら渡っていくことにちなんだ命名だ」(Dickie 252)。ランブル・ノヴェルの特徴は、「陽気な回想録ふうの小説であり、すかすかのプロットと薄っぺらい主人公を使って、下品で滑稽な一連の出来事をつなぎ合わせている」ことである(252)。ディッキーによれば、スターンの蔵書にはランブル・ノヴェルが何冊か見受けられるという。「ローレンス・スターンは『デイヴィッド・レインジャー』[David Ranger, 1756]、『従者の冒険』[The Adventures of a Valet, 1752]、そしてクレランド[John Cleland,1709–89]の『伊達男の回想』[Memoirs of a Coxcomb, 1751]を所有していた」(274、[ ]内は私の補足)。それまで一介の読者であったスターンは、中年になってから作家を志し、1759年に初めて長い小説を書いた。物語を構想するにあたって、主人公が脱線しながら無駄話を続ける形式が当時の読者に受けていることを、彼はおそらく意識していただろう。
語り手が自分の半生を語りながらあちこちに脱線していく小説は、決して『トリストラム・シャンディ』や『ジョン・バンクル伝』だけではなかったのだ。同じような形式で語られたあまたの小説のうち、ほとんどは時間の経過とともに誰にも読まれなくなり、完全に忘れ去られた。その中で、好事家向きの奇書としてかろうじて生き残ったのが『ジョン・バンクル伝』で、さらに古典の扱いまで受けるようになったのが『トリストラム・シャンディ』だということになる。ディッキーの次の言葉は、十八世紀イギリスの小説がどういうものであったかを知る上で重要である。
ランブル・ノヴェルの大半は、今となってはゴミのようにくだらないと思われるかもしれない。しかし当時は書籍業界も書評者も読者も、今では立派な文学と見なされている小説と、ランブル・ノヴェルとを、まったく区別していなかったのだ。それらはすべて、現在では古典となった小説と同じように、十二折り判で出版され、一冊三シリングの同じ値段で売られていた。(251)
1750年代のイギリス小説はすべて、流行に乗って消費される使い捨ての商品だったのだ。移り気な流行に左右される市場では、つねに新奇なもの、目新しいもの、これまで誰も見たことのない変わったものこそが求められる。校訂版『ジョン・バンクル伝』の編纂者でもあるモイラ・ハスレットは、この時代のイギリスで「エキセントリック」(eccentric)という単語が、「中心を外れている」という数学的・天文学的な意味に加えて、「常軌を逸した、風変わりな」という現代的な意味でも使われ始めることを指摘し、そんな時代に次々に出版された小説が、その語り口にこぞって新奇な、エキセントリックな仕掛けを施していたことを論じている。一見矛盾に思えるハスレットの言葉は示唆的だ。「エキセントリックな語りのスタイルは――あるいは新しい種類のテクストの戯れは――1750年代の小説にとっては確実に、ありきたりの常套手段だったのだ」(Haslett 180)。
変わっているのが当たり前。その中でより斬新なエキセントリックさを演出して人目を引き、本を売らねばならない。そんな中で『ジョン・バンクル伝』が打ち出した新機軸は、本筋からの脱線を、他の作者が決してやらないくらい過剰に長引かせ、そこに百科全書的な、当時の人々の知的活動の全範囲を覆ってしまうほど膨大な情報をぶち込むことだった。ハスレットは『ジョン・バンクル伝』が持つそうした包括性を、『トリストラム・シャンディ』に登場する、鼻についてのあらゆる情報を百科全書的に網羅した書物に関して使われた用語である、「余蘊なく完全な」(thorough-stitch'd)という言葉で表現する。
『ジョン・バンクル伝』が持つ「余蘊なく完全な」性質(『トリストラム・シャンディ』第三巻第三十八章)を回復させることは、『トリストラム・シャンディ』をどのように読み、どのように位置づけるかに関する批評上の議論に、新たな次元を付け加えるだろう。なぜならエイモリーの小説は、『トリストラム・シャンディ』の最初の分冊が刊行される三年前に出版されていながらすでに、広範囲に及ぶ博識、先人の著作からの借用、借用元に対するふざけた扱いといったものが、新奇な=小説的な[novelistic]手段になりうることを示唆しているからだし、さらにスターンのいわゆる「ルネサンス的」な機智の正体についても、1750年代の小説に見られるエキセントリックな可能性全体の文脈の中で、もう一度考え直す必要があることを示しているからだ。(Haslett 181)
過剰な脱線によって百科全書的な知の全体性の幻想を作り出す『ジョン・バンクル伝』の斬新さを再発見することは、『トリストラム・シャンディ』および1750年代イギリス小説全般に対するこれまでの見方を、一変させる可能性を秘めている。ハスレットがほのめかしている主張が正しければ、世界文学史に名だたる奇書としての『トリストラム・シャンディ』は、決して同時代の他の小説と隔絶して生じてきたものではないことになるし、翻って1750年代のイギリスおよびアイルランドの小説には、今では忘れ去られた作品の中にさえ、『トリストラム・シャンディ』に迫るエキセントリックな面白さを開花させている作品が、いくらでも存在していることになるのだ。
注
(1) 厳密に言うと、『ジョン・バンクル伝』では章立てを行なう代わりに、細かいエピソードごとに通し番号を振って本文を区切っている。しかし目次では個々のエピソードだけでなく、本文中の脚注にまで独立した通し番号を振って記載しているため、目次中のエピソード番号と本文中のエピソード番号がずれてしまい、目次中のエピソード番号からは本文にたどり着くことができなくなっている(Amory, Buncle vol. 1: 273)。混乱を避けるため、本稿ではエピソード番号には言及しない。
(2) 「参考資料」として日本語の訳書を挙げた文献を除き、英語文献からの引用はすべて私(内田)が翻訳したものであり、引用文の角括弧内は私による補足である。
参考資料
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(付記)本稿は平成22-24年度日本学術振興会科学研究費補助金(基盤研究C:課題番号22520234)による研究の一部である。
内田勝「絶景と美女と過剰な脱線——トマス・エイモリー『ジョン・バンクル伝』について」(2013)
〈https://www1.gifu-u.ac.jp/~masaru/uchida/buncle13.html〉
(c) Masaru Uchida 2013
ファイル公開日: 2013-2-7
ファイル更新日: 2013-2-13(画像リンク先の追加)
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