岐阜大学地域科学部 2007年度前期 地域研究入門 第9回 担当:内田勝[地域文化学科](2007.6.15)
デパートの起源から文化の大衆化を考える
当日の授業で配付した資料(PDFファイル)はここ:[配付資料1][配付資料2]。
*配付資料1の空所に入る語句は次の通り。PDF版はここ。
1. 趣味 2. アイデンティティ 3. 欲望 4. 多種多様 5. 値札 6. バーゲン 7. 直線的 8. 個性 9. 鉄道網 10. ゾラ 11. ボン・マルシェ 12. 衝動買い 13. 安売り 14. 万引き 15. 吹き抜け 16. 娯楽 17. 商品陳列 18. 植民地 19. 博覧会 20. 江戸時代 21. 文化資本 22. 研究 23. カルチャーショック 24. 芸術 25. 文化的 26. ポスター 27. カタログ 28. 流行 29. 大衆 30. 宣伝 31. マスメディア 32. ブランド 33. 個性 34. デパート 35. 地域 36. ドラマ 37. 消費社会 38. 不毛 39. 魅力 40. 向上
引用資料(完全版)
文中の「……」は省略箇所、[ ]内は原文のルビ、【 】内は私の補足である。
- われ買い物す、ゆえにわれあり。(I shop, therefore I am.)
【アメリカ合衆国の美術家バーバラ・クルーガー(1945-)の言葉。かつてユニクロTシャツのロゴにも採用された。】
【みなさんは普段、どんな店でどんな物を買っているのだろうか。服であれ化粧品であれ音楽であれ車であれ、財布と相談しながら、自分に似合う物、自分の趣味に合う物を選んで買っているはずだ。言いかえれば、あなたは自分の自己イメージというか、自分のアイデンティティを補強する物を選んで買っているわけである。ということは、あなたが日々買っている物が、あなたのアイデンティティを作り上げているとも言える。】
- 消費社会において、「趣味」は「自分らしさ」を演出する有力な手段であると同時に、他人との差異化のための記号であり続けてきた。「自分らしい」とはすなわち、「こうありたい自分」に他ならない。消費社会とは、その「なりたい自分」を“もの”の消費を通じて獲得できる場であって、そこでは様々なメディアの中で、「自分らしい」ライフ・スタイルのモデルがカタログ的に展示されている。(神野『趣味の誕生』pp.3-4)
【買い物の集積があなたを作る。】
【思えばこうした買い方ができるのは恵まれたことで、生きていくためにぎりぎり必要なものしか買う余裕がなければ、自分の自己イメージに合うも合わないもなく、とりあえず手に入るものを買うしか選択肢がない。そして人類の歴史の中で、ごく一部の富裕層を除けば、買い物はそういうものであったはずだ。】
【フランス文学者の鹿島茂氏は、】
- なぜか、昔からデパートが大好きなのである。とにかく、何の用事がなくとも無料で中に入れて、好き勝手に商品を見てまわれるところが素晴らしい。(鹿島『デパートを発明した夫婦』p.7)
- あのバーゲン・セールというものほど、不思議なものはない。バーゲン・セールにいくと、何の購買欲もなかった人でも、ただ、安いというだけで、眠っていた欲望をかきたてられ、両手で持ちきれないほど買い込んでくるはめになるからだ。(同書、p.9)
- だが、ここで冷静になって考えてみると、デパートのこうしたさまざまな驚異を驚異として感じているのは、もしかすると日本で私だけなのではないかという気がしてくる。すなわち、大部分の日本人は、デパートとはこういうものだと初めから決めてかかっているので、ことさら感動するわけはないのである。(同書、p.9)
- しかし、日本で当たり前と思っていることも、いったん外国に出て、異邦人の目で眺めてみると、決して当たり前ではないことがわかってくる。(同書、p.10)
- ブラチスラヴァ【スロバキアの首都。鹿島氏が訪れた1980年代の初めには、共産主義体制だったチェコスロバキアの第二の都市】のデパートでは、客を引き寄せるための工夫やディスプレイは一切なく、ただただどんなものでも何か商品を置いておけば、あっというまに行列ができて売れてしまうのだから、集客戦術などは想像だに及ばぬものなのだ。もちろん、バーゲン・セールなどは言うも愚かである。(同書、pp.10-1)
- 絶対的にもののない社会では、高かろうが悪かろうが、ないよりはましということで買うのであって、争うように買うという現象は同じでも、その意味するところはまったく異なっているのだ。(同書、p.10)
- デパートとは純粋に資本主義的な制度であるばかりか、その究極の発現である……。なぜなら、必要によってではなく、欲望によってものを買うという資本主義固有のプロセスは、まさにデパートによって発動されたものだったからである。(同書、p.11)
【生活必需品だけを買う社会から、気に入った物を衝動買いする社会へ。】
【それでは、19世紀半ばのパリに】
【ここで話はデパートの起源、十九世紀半ばのパリに飛びます。】
- 十九世紀前半までのフランスの商店では、入店自由の原則がなかったばかりか、出店自由の原則もなかった。つまり、いったん商店の敷居を跨いだら最後、何も商品を買わずに出てくるということは許されなかったのである。おまけに、商品には値段がついていなかったから、客は、できるかぎり高く売りつけようとする商人と渡りあって、値段の交渉までしなければならなかった。(鹿島『デパートを発明した夫婦』p.15)
- その頃はパリ市内でも、交通が不便だったうえに、歩道も整備されていなかったから、高価な自家用馬車を有する上流階級以外は、買い物といっても、歩いていける区域にかぎられ、近所に一軒だけしかない店で必要最小限のものを揃えるほかはなかった……。そのため、商店同士の競争というものはほとんどないに等しく、当然、店には客を呼び込むためのディスプレイや顧客サービスも存在していなかった。(同書、pp.16-7)
【そんな状況から、われわれにとって当たり前の「デパート」はどうやって生まれてきたのだろうか。】
- 一八四〇年には「マガザン・ド・ヌヴォテ(最新流行雑貨店)」が誕生する。シルクやウールで製造した服、ランジェリー、グラブなどをあつかう総合商店だが、ここから……低価格大量販売をめざす新しい経営者が生まれてきた。店内の見物は自由、そして定価販売、さらに重要なのは「満足しなかったら返せる」ことが、大きな革新となった。これは、しかし生産の変化とも関連している。産業革命によりギルドとは異なる量産工場がつくられるからだ。大量買い付けにより仕入れ値を安くする経営戦略の結果でもあった。(荒俣『奇想の20世紀』p.206)
【世界初のデパート〈ボン・マルシェ〉の登場】
- 一八五〇年代の初めにブーシコーという人物が出てきます。これはフランス十九世紀のデパート王なんですが、いまで言うデパートメント・ストアを【世界で初めて】一八五二年につくる。本格的デパート、ボン・マルシェにこれが発展していったのが、正式にいうと一八六九年です。最初、大きな衣料メーカーができて、衣料品だけのデパートメントだったのが、六九年くらいから本式にいろいろな雑貨を入れ始めて、いまのデパートメント・ストアになってくる。(高山『パラダイム・ヒストリー』p.145)
- デパートは大変いろいろな近代的な革命の結集した地点なのです。(同書、p.150)
- まず、フランス革命の影響が出た大変政治的な空間だと思います。……。誰でもが、お金持ちだろうが何だろうが、自由にお入りください、ということをやったわけですから、これはものすごく当たった。つまり、フランス革命の理念【自由と平等!】を実際にやってくれる非常に身近な空間ということで、これが流行る。(同書、p.150)
- それから、産業革命が人口の都市流入という現象を起こして、これもデパートにとっては都合がいい。また産業革命は商品を出してくれるから、これはデパートにとってはなくてはならない。それから余暇というもの、レジャーというものを生み出してくれました。(同書、p.154)
- それからフランス革命後、ブルジョアが出てきます。お金を持って、買ってくれる購買層というのが出てきたわけです。それから大衆という観念がやはりフランス革命で出てきました。とくにご婦人ですね。しかも余暇が出てくる。これはさっき言ったように、産業革命のほうから出てくるわけです。大衆が出て、ブルジョアが出て、婦人が出て、余暇ができるというと、もうこれはデパートが出てこざるをえないわけです。(同書、p.152)
- 無人の地に一から都市を造る(京都、ブラジリア)のでもなく、大火や大地震による破壊を利用する(大火後のロンドン、シカゴ、関東大震災後の東京)のでもなく、かといって自然発生的な経済原理による(バブル後の東京)のでもなく、一人の為政者が、ただ自分の頭の中の考えから出発して、都市計画を完全にやりとげてしまった例として、ナポレオン三世【ナポレオン・ボナパルトの甥、1808-73】のパリの大改造は、ほとんど空前絶後の例といっていい。つまり、パリ大改造は、たった一人の人間の意志から生まれたきわめて稀な産物なのである。(鹿島『怪帝ナポレオンIII世』p.250)
- この時代【十九世紀半ば】にパリが決定的に変わる。【セーヌ県知事だった】オスマン男爵【1809-91】によって、パリを大改造する計画が進められたのである。放射状のまっすぐな広い通りが作られ、それまでの曲がりくねった細い通りが整備される。(海野『百貨店の博物史』p.21)
- われわれが現在パリで目にする壮麗な大通りのほとんどは、オスマンが造り、また計画した通りといっても過言ではなく、オスマンという強力な執行者がいなかったら、果たして、今日のような「花の都」パリが存在していたかどうかは疑わしいところである。(鹿島『怪帝ナポレオンIII世』p.252)
- 1853年にはじまるパリ大改造の要点は、大きく次の三つである。【太字は私(内田)の強調】
(1)疫病[えきびょう]や犯罪の温床[おんしょう]となる非衛生的なスラムを除去して風通しと採光のよい住宅を建設すること。
(2)交通整備のため、鉄道駅や大きな広場を結ぶ幅広い大通りを機能的に通すこと。
(3)軍隊の移動と大砲の使用を前提とした治安上の目的。民衆蜂起[ほうき]でバリケード戦をしやすかった狭い路地を下層市民ごと排除。投石を防ぐため、石畳をアスファルトに変える(1848年の【二月革命における】市街戦は第二帝政【ナポレオン三世による帝政、1852-70】にとって衝撃的なものであった)。(川北ほか『最新世界史図説』p.185)
- ボードレールは『悪の華』の「白鳥」という詩の中で、この【パリ大改造で】消失したバラックの群れ【=貧民街】のことを歌っている。
それが突然、私の豊かな記憶を孕ませたのだ、
今日、新しいカルーゼル広場を横切ろうとしたときに。
古いパリはもうなくなった(都市の形の変化の早さは、ああ! 人の心のそれにまさる)。
もはや心に描くばかりだ、あの建てこんだバラックの群れ、
さらには、窓ごしにきらめく、雑然としたがらくたなどは(安藤元雄訳)
(鹿島『怪帝ナポレオンIII世』p.273)
- 当時から世間を騒がせ、議論の的になっていたオースマンの大事業は、ウィーンからバルセロナまで、またベルリンからローマに至るまで、各地でオースマン式都市開発を引き起こしただけでなく、近年50年以上にもわたって、絶えず関心が寄せられ、話題になっている。(サールマン『パリ大改造』p.44)
- 【オスマン男爵のパリ大改造がデパートを生み出す。太字は私の強調。】
オスマンが古いパリを交通の流れのよい新しいパリに変えると同時に、小売業においても、それ相応の変化が始まる。一八五二年、アルスティード・ブシコがパリ最初の百貨店ボン・マルシェを創設する。この同時性は偶然ではない。小売業の新形式としての百貨店は、発達した市内の交通体制を前提にしている。「これに続く十年間の乗合馬車の発達と、一八五〇年から一八六〇年にかけての最初の鉄道馬車の出現と共に、初めて大型の小売店の発展の可能性が生じた」。オスマンの交通の大動脈が、鉄道駅を経由して鉄道網に接続し、こうして全交通と接続したように、新しい百貨店も、新しい市内の交通の大動脈と、従って全交通と接続していた。十九世紀の前半に生まれた百貨店は、大通り沿いに集中し、大通りから商品と客の流れとを迎え入れた。(シベルブシュ『鉄道旅行の歴史』p.234)
- オスマンは、【セーヌ左岸の古くから貴族の屋敷町であった地区を両端から破壊しつつ、】サン・ジェルマン大通りを両側から少しずつのばしていった。つながったのは一八七六年になってからである。この大通りの建設は、古い建物を破壊し、静かな屋敷町を変化させた。そこにボン・マルシェが建てられたのである。……。サン・ジェルマン大通りとともに、商業地区が開け、ボン・マルシェも、大通りが路地を飲みこんだように、まわりの小さな店を買い取って、巨大な鉄とガラスの館を作り上げたのである。(海野『百貨店の博物史』p.22)
- エミール・ゾラは一八八三年に、『女性の天国』【『ボヌール・デ・ダム百貨店』のこと。「女性の天国」は原題 Au Bonheur des Dames の直訳】を書いた。デパートを舞台とした小説として、これに勝る作品は今に至るまで出ていないのではないだろうか。一九世紀後半、いわゆる第二帝政時代といわれる頃のパリのデパートの姿がくわしく描写されている。
この小説は一九九二年になって、新しく英訳された。高度消費社会という現代をとらえるために、ゾラの小説の先駆的な意味が再評価されたのであった。(海野『百貨店の博物史』p.200)
- 【ボヌール・デ・ダム百貨店のムーレ社長が経営方針を語っている。太字は私の強調。】
「とても簡単なことですが、これまでそれを見つけた人はいませんでした。私たちは巨大な資本を運転する必要はありません。唯一の努力は、買った商品をできるだけ早く売りさばき、新しい商品に換えることであり、その回数だけ、資本には利益が付くのです。こんなふうにすれば、私たちは少ない利益で満足することができます」(ゾラ『ボヌール・デ・ダム百貨店』p.116)
- 各商店が競って奪い合っているのは女性である。ショーウィンドーの前で女性を陶然とさせ、それから次々とお買い得品の罠にかける。女性の肉体の中に新しい欲望を呼び覚ましておいて、途方もない誘惑を仕掛ける。女性の方はその誘惑に否応なく屈してしまい、最初は良き主婦の【=お買い得の】買い物に身をゆだね、それからおしゃれ心に負け、ついには身も心も食い尽くされてしまうのだ。販売を十倍にし、贅沢を民主化することで、商店は恐るべき消費の扇動者となり、家庭を荒廃させ、つねに高価になるモードの狂気の沙汰に加担する。(ゾラ『ボヌール・デ・ダム百貨店』p.120)
- 【社長のムーレは、生地売場や婦人用雑貨売場など人気のある売場を、関連商品の売場からわざと離してばらばらに配置することで、店に入った客が道に迷うように仕向けるのだが、その販売促進効果についてムーレが語る。(ゾラはこのあたりの文章を、ボン・マルシェ百貨店での取材メモに基づいて書いた。)太字は私の強調。】
「第一に、婦人客のこの絶え間ない往来は、彼女たちをあちこちにばらまき、その数を増やし、彼女たちの分別を失わせる。第二に、もし客がたとえばドレスを買ったあとで、裏地がほしいと思えば、店の端から端まで案内する必要があるから、こうしてあらゆる方向に歩き回ることで、彼女たちにとっては店の大きさが三倍にも感じられる。第三に、彼女たちは、そうでなければ足を踏み入れることのないような売場をも横切らねばならず、通りがかりにお買い得品につられてそこに引っかかり、誘惑に負けることになる」(ゾラ『ボヌール・デ・ダム百貨店』pp.355-6)
- 【デパートがバーゲンや値下げを行う理由。太字は私の強調。】
ムーレは、女性は広告に対して無力であり、否応なしに評判につられてしまうと公言していた。しかも彼はますます巧妙な罠を仕掛け、偉大なモラリストとして女性を分析した。たとえば、女性は安さには抵抗できず、有利な取引ができると思えば、必要がなくても買うことを発見した。そしてこの観察に基づいて、値下げのシステムを作り、売れ残った商品の値段を徐々に下げていった。商品の急速な回転の原則にのっとって、損をしてでも売る方を選んだからである。(ゾラ『ボヌール・デ・ダム百貨店』pp.352-3)
- 【デパートが返品を認める理由。】
それから彼は、女心のさらに奥へと入り込み、「返品制」という老獪な誘惑の手管[てくだ]を考え出したところだった。「奥様、どうぞいつでも商品をお持ち帰り下さい。もしお気に召さなくなったなら、どうぞご返品下さい」。抵抗していた女性も、衝動買いを取り消すことができると知って、買い物をする最後の口実を見つけ、心安らかに買うことができた。今では返品制と値下げは、新しい商業の基本的な仕組みに組み込まれている。(ゾラ『ボヌール・デ・ダム百貨店』p.353)
- 【デパートが小さな子供に風船を配る理由。】
彼【ムーレ社長】の極めつきのアイデアは、おしゃれに関心のない女性に対しては、子供を通して母親を征服するということだった。彼は少しも力を抜くことなく、あらゆる感情を推し量った。小さな男の子や女の子の売場を作り、赤ん坊に絵や風船をくばって、通りすがりの母親たちを引き留めた。買い物客の女性ひとりひとりに風船をプレゼントするというのは、天才的な思いつきだった。薄いゴムでできた赤い風船には、大きな文字で店の名前が書かれており、糸に結びつけられて空中をただよい、あちこちの街路を、生きた広告となって歩き回った。(ゾラ『ボヌール・デ・ダム百貨店』p.352)
- 【デパートの女性客の一人、ド・ボーヴ伯爵夫人は、万引きをしている現場を警備員に取り押さえられる。】
一年前からド・ボーヴ夫人はこんなふうに、猛烈で抗いがたい欲求にさいなまれて、万引きを重ねていた。この病気の発作は悪化の一途をたどり、ついには彼女の生存に必要不可欠な悦楽となるにいたっていた。それはあらゆる慎重な分別を奪い去り、群衆の面前で、自分の名前と誇りと夫の高い身分とを危険にさらしているだけに、ますます強烈な喜びとなって満足を与えていた。今では夫は彼女に自由にお金を使わせていたので、彼女はポケットにお金をいっぱい持ちながら、万引きをしていた。人がただ愛するために愛するように、欲望にむち打たれて、盗むために盗んでいたのだ。それは、かつてのかなえられない贅沢への欲求が、デパートの巨大で手荒な誘惑を通じて、彼女の中で成長させた神経の病気だった。(ゾラ『ボヌール・デ・ダム百貨店』p.619)
- 【買い物依存症のマルティ夫人は、デパートで買った数々の高価な服飾品を女友達に見せびらかしている最中に、夫のマルティ氏に出くわす。】
この瞬間、彼女が目をあげると、目の前に恐怖におののいた夫【学校教師のマルティ氏】の姿があった。夫は前よりもさらに青ざめており、その身体全体が、あれほど苦労して稼いだ給料がとめどなく氷解するのに立ち会っている哀れな男の、あきらめきった苦悶を表していた。新しいレースの切れ端のひとつひとつが、彼にとっては厄災であり、教師職の苦い日々はそこに呑み込まれ、屈辱的な家庭教師の苦労も食いつぶされてしまうのであり、彼の人生のたゆまぬ努力は、人知れぬ困窮、貧困世帯の地獄へと向かっていくのだった。(ゾラ『ボヌール・デ・ダム百貨店』p.130)
- 【デパートの女性客どうしの会話。当時の1フラン=現代日本の1,000円で換算すると、おおざっぱな金銭感覚がつかめる。】
「あのパラソルは面白いわね、赤いのをひとつ買うわ」と突然【買い物依存症の】マルティ夫人が言った。彼女はそこで何もせずにいることに耐えられず、足をもぞもぞさせていた。
彼女は十四フラン五十のをひとつ選んだ。【倹約家の】ブルドレ夫人はその買い物を非難するような眼差しで見つめた後で、親切げに言った。
「あわてて買わない方がいいと思いますわ。一か月もすれば、十フランで買えるようになりましてよ……私はデパートのやり口に引っかかったりはしませんわ」
そして彼女は、良き家庭の主婦の理論を開陳した。デパートが値下げをするのは確実なのだから、ただ待っていればいい。自分はデパートに搾取されたくはない。逆に自分の方が、デパートの提供する本当のお買い得品を利用するのだ。彼女は意地の悪い戦いを挑みさえして、デパートに一文たりとも儲けさせたことはないと自慢していた。(ゾラ『ボヌール・デ・ダム百貨店』p.368)
- 【目玉商品を原価割れの安い値段で売ることについて、社長のムーレが部下に語る。太字は私の強調。】
「たしかに、この商品に関する限り、われわれは何サンチーム【百分の一フラン】か損をするかもしれない。でもその後どうなると思う? もしわれわれが女という女を惹きつけて、意のままにするとしたら、女たちがわれわれの商品の山を前にして誘惑され、狂乱して、勘定もせずに財布を空っぽにするとしたら、実に結構なことじゃないか。重要なのは女たちに火をつけることだ。そしてそのためには、時代を画するような【お買い得の】目玉商品が必要なんだ。そうすれば他の商品を他の店と同じくらい高く売っても、彼女たちは安く買ったと思いこむだろう」(ゾラ『ボヌール・デ・ダム百貨店』p.65)
【男性客だって衝動買いはするだろうに、この小説ではもっぱら「男性の経営者が女性の顧客を手玉に取る」という描かれ方がされている。そんな女性観に納得のいかないあなたは、この授業で再来週から始まる「性」に関する講義をお楽しみに!】
- 夏のデッド・シーズン【買い物客が減る閑散期】がやってくると、パニックの嵐がボヌール・デ・ダムを吹き荒れた。それは解雇の恐怖であり、大量の首切りであって、経営陣は七月と八月の暑い時期に、客足のとだえた店内を大掃除するのだった。
【社長の】ムーレは毎朝、【部下の】ブルドンクルと巡回するときに、【誰を解雇すべきか尋ねるために】売場の主任を脇へ呼んだ。【繁忙期の】冬のあいだは販売に悪影響が出ないよう、必要以上の店員を雇用するよう促していたが、それは後で優秀な人間だけを残すためだった。今度は、店員の三分の一を解雇して、出費を減らすことが必要だった。解雇されるのは強者に食われた弱者である。(ゾラ『ボヌール・デ・ダム百貨店』p.231)
- ボヌール・デ・ダムで働きはじめて以来、彼女【今は子供服売場主任となった主人公ドゥニーズ】はとりわけ、店員たちの不安定な運命に傷ついてきた。……。仕事を始めた頃の苦痛がいまでも彼女を苦しめており、売場で出会う新入りの女店員が、足を痛め、目に涙をいっぱいためて、絹の服【女店員の豪華な制服】の下に悲惨な境遇を引きずり、古参の女店員たちの手厳しい迫害を受けているのを見ると、憐れみの気持ちに心を動かされるのだった。こうした負け犬のような生活は、もっとも性質のよい女たちをも、悪い人間にしてしまう。そして悲しい行進が始まる。どの女店員も、四十歳になる前に、仕事に食いつぶされ、姿を消して行方知れずになり、多くのものは苦労のあまり、肺病や貧血症にかかり、疲労と悪い空気のために死んでしまう。中には路上に身を落とす【=娼婦となる】ものもあり、もっとも幸福な者でも【女店員は結婚すると解雇されてしまうので】結婚して田舎の小さな店の奥に埋もれてしまうのだ。デパートが毎年行っているこの恐るべき肉体の消費は、人間的だろうか。正当なものだろうか。(ゾラ『ボヌール・デ・ダム百貨店』p.524)
- 【ドゥニーズが社長のムーレに助言したおかげで】店員たちの運命は徐々に改善され、【真夏の閑散期に生じる】大量解雇の代わりにデッド・シーズンに休暇を与えるシステムが取り入れられ、ついに従業員を不本意な失業から守り、退職金を保証するような相互扶助基金が創設されることになった。(ゾラ『ボヌール・デ・ダム百貨店』p.525)
- ボヌール・デ・ダムが新しい売場を作るたびに、周辺の商店では、倒産する人々が続出した。災害は広がり、もっとも古くからの店まで崩壊する話が聞えてきた。(ゾラ『ボヌール・デ・ダム百貨店』p.327)
- 【主人公ドゥニーズの叔父で、ボヌール・デ・ダム百貨店の向かいで個人商店を営むボーデュが語る。】
「破産はこの先も続きそうだ。あのろくでなしども【ボヌール・デ・ダム百貨店】は、次々と新しい売場を作っている。花、婦人帽子、香水、靴などなどだ。……その後にも別の連中が犠牲になり、こんな調子でずっと続くさ! この地区のあらゆる小さな商店はなくなってしまうだろうよ。キャリコ【デパート店員の蔑称】どもが、石鹸や木靴まで売り始めるなら、フライドポテトだって売りかねん。まったく、この世は狂っとる!」(ゾラ『ボヌール・デ・ダム百貨店』p.547)
- 【地元商店街でブーラ老人が個人経営していた傘屋は、ボヌール・デ・ダム百貨店の店舗拡張の邪魔になったため、ムーレ社長は傘屋の店舗を家主から買い取ってブーラ老人を追い出し、古い傘屋の店を取り壊す。】
商品は売り払われ、部屋の家具は運び出されていた。しかし老人だけは寝床にしていた片隅を離れようとしなかったので、哀れさのあまり追い出すことができなかった。解体作業員たちは【寝ているブーラ老人の】頭上で屋根を壊すことまでした。……天井が崩れ、壁はみしみしと音をたてたが、老人はむき出しになった古い骨組みの下に、瓦礫に囲まれてとどまっていた。ようやく警察が介入して、ブーラは立ち退いた。……。【邪魔な傘屋という】小さな蠅は押しつぶされ、デパートは、限りなく小さなものの痛ましいまでの執拗な抵抗に対して最終的な勝利を収め、区画全体を侵略し征服した。(ゾラ『ボヌール・デ・ダム百貨店』pp.566-7)
- 【ボン・マルシェなどのデパートでは】売るために視覚的な効果を考えて商品を見せるだけではなくて……これは劇場なんだ、一種の演劇的な空間なんだ、というイリュージョンのつくり方をものすごくやるわけです。(高山『パラダイム・ヒストリー』p.166)
- ボン・マルシェの中央の吹き抜けのことを「大殿堂」と呼びますが、あれは演劇の空間のことなんです。客はみんな買物に行くのじゃない。着飾って、「見られる」ために行く。オペラ座の吹き抜けと絵で比べてみれば分かりますけれども、構造的にはまったく違わないんです。(同書、p.166)
- 大きなデパートへ行けば分かりますが、入口で必ず巨大な空間に対面させる。ようするに、客がそれまで持っていた外の世界の間尺というか、スケールをどこまで壊してしまうかというテクニックの問題です。中へ入ってしまうと、寸法だけではなくて、値段のスケールのこととか、全部が徐々に、徐々に狂っていく。(同書、pp.166-7)
- 衝動買いというのは昔は考えられないことです。お金もないし。ところがボン・マルシェで衝動買いというのが起きる。なぜかというと、これは分類の詐術なんです。ある物を買うでしょう。すると横に似たようなものが並んでいる。そうすると、これも買わざるをえなくなる。売るほうは、買わざるをえないように並べないといけないわけです。(同書、pp.170-1)
- そういう配列の一種のテクニックが重要になるという意味では、それは博物館の管理者のオーダー【陳列】感覚と全然違わない。ただ、コマーシャライズする【商売にする】かどうかの違いにしかすぎないのです。(同書、p.171)
- 見ること、分類すること、展示することの三段階に加えて、買うことができるというのは、十七、十八世紀の博物学の文化をそっくり商法にかえたものなのである。(高山『奇想天外・英文学講義』p.187)
【デパートは展示品の買える博物館! デパートと博物学・博物館・博覧会とのつながりは重要。】
- ブシコーという魔術師の登場により、〈ボン・マルシェ〉に行くことは、まるでディズニー・ランドにでもいくような、胸のわくわくするファンタスティックな体験となり、買い物は、必要を満たすための行為ではなく、自分もスペクタクルに参加していることを確認する証[あかし]となる。(鹿島『デパートを発明した夫婦』p.69)
- 極端な言い方をするなら、買いたいという欲望がいったん消費者の心に目覚めた以上、買うものはどんなものでもいいのだ。まず消費願望が先にあり、消費はその後にくるという、消費資本主義の構造はまさにこの時点で生まれたのである。(同書、p.70)
- では、ブシコーは、商品と祝祭空間の結合による潜在的消費願望の掘り起こしというこうした手法をどこで学んだのだろうか。それはいうまでもなく、第二帝政下に二度、一八五五年と一八六七年に開催されたパリ万国博覧会である。(同書、p.70)
- 万博の「事物教育」は要するに「贅沢の民主化」教育だった。世紀末は消費の沈滞に悩むどころか、これまでにない消費熱に火をつけた時代だったのである。一八八六年に新館オープンとなったオー・ボン・マルシェはじめ、デパートが繁栄してゆくのがこの時代。見る者の想像力のニーズに訴えかけ、「必要」を超えて「夢」を売るデパートの販売戦略は構造的に万博の商品の祭典と同一である。(山田『ブランドの世紀』p.92)
【十九世紀の万国博覧会を解く鍵は、「帝国」「商品」「見世物」だ。】
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【近代国家が威信をかけて最新の産業技術と植民地からの珍しい物産を展示する】博覧会は、帝国主義のプロパガンダ装置であると同時に、消費者を誘惑してやまない商品世界の広告装置である。そしてそれはまた、多くを近世以来の見世物から受け継いでもいたのだ。(吉見『博覧会の政治学』p.24)
- 【明治時代には、そんな「博覧会」と、少し遅れて「デパート」が日本に入ってくる。】
展示されたモノを、……相互に比較し、有益の品と無益の品を選別していくこと。明治国家が内国博【明治時代を通じて開催された内国勧業博覧会】にやって来た民衆に要求したのは、まさにこうした比較・選別するまなざしであった。(同書、p.126)
【見て、比べ、選別するまなざし——われわれが普段当たり前のように使いこなしているまなざしである。】
- 江戸時代までの人々の楽しみは、芝居や遊里などに限られており、人々の娯楽の中には、買い物はそれほど大きな位置を占めてはいなかった。明治後半における資本主義経済の発達は、「買い物」を都市生活の代表的な娯楽のひとつにしたのである。このような背景から江戸時代からの呉服屋「越後屋(当時、三井呉服店)」、「白木屋」、「高島屋」といった店が、次々と業務の規模を拡大していくために、欧米の百貨店スタイルを導入していく。(神野『趣味の誕生』p.2)
- 【明治時代後半に台頭した】新しい中流上層階級にとって消費は「良い趣味」、すなわち文化資本の獲得のための重要な手段であった。すなわち、彼らを主要な顧客層に抱える百貨店で「趣味」はそれまでとは異なる意味を帯びることになるのである。「趣味」は人々が「もの」を見るときに介在するフィルターの役割をするようになった。そうしてつくられたのが、本書で考察する「三越趣味」である。(神野『趣味の誕生』p.7)
【三越などのデパートが提案するライフスタイルに従って生きれば、お上品な「良い趣味」が手に入り、そうした良い趣味が「文化資本」、つまりお上品な人々の仲間に加わるための会費のようなものとして機能することで、社会的に高い地位を買い取る、すなわち「成り上がる」ことができる。人は教養や良い趣味を「資本」のように蓄積していくことで、それを金銭のように用いて出世することができるという「文化資本」の考え方は重要。】
- 文化というのは、ごくおおざっぱに言って、われわれの物の見方や行動の仕方、お互いとの関わり方やコミュニケーションの取り方にみられる、ありとあらゆるパターンのことだ。それらのパターンは、われわれが使う言葉や、その他のコミュニケーション方法——身振りや表情、絵画、文章、建築、音楽、ファッション、食事といったもの——を通して、世代から世代へと受け継がれていく。(Osborneほか Sociology for Beginners、p.142、訳は内田)
- 文化とは……ある集団に属する人々が、これに属さない人々とは異なって共有している一定の特性である……。この集団は、日本人やイギリス人といったネーション【国民国家】に一致する場合もあるし、民族や地域集団などを指す場合もある。いずれにせよ、この文化概念からするならば、共通の文化を有している人々の集合が一定の社会集団の範域に一致しているわけである。(吉見『思考のフロンティア カルチュラル・スタディーズ』p.94)
【日本の文化、中国語圏の文化、イスラム文化、関西の文化、愛知県の文化、飛騨地方の文化、若者の文化、おばさんの文化、学校の文化、小学生の文化、農村の文化……この意味での「文化」を考えるには、その文化に縛られる「集団」を設定する必要があることに注意。】
- おそらく「文化」の定義の中でもっとも有名なものは、マシュー・アーノルド【19世紀イギリスの詩人・批評家】の『文化と無秩序』【1869 年】の定義だろう。アーノルドによれば、「文化」とは「これまでに思考され、語られてきたものの最高のもの」と定義された。ここで具体的に考えられているのは、偉大な文学作品や哲学であり、古典音楽や絵画・彫刻といった芸術だった。この「文化」は教養のある特権的な少数の人々によってのみ理解され、維持されなければならない、とアーノルドは考えた。彼にとっては、「文化」とは高級文化のことだったのである。(上野ほか『カルチュラル・スタディーズ入門』p.18)
【そんな「文化」の対極にあるのは、「通俗」「低俗」「俗悪」、果ては「野蛮」「未開」(!)ということになるのだろう。この意味の「文化」にはいつも、序列化と差別の臭いがつきまとう。】
【選別するためには、何が上質なのか、いま何がイケてるのか、という基準が必要になる。】
【というわけで、デパートから生まれたもう一つの重要な文化現象——「流行」について考えてみたい。】
- 【それまでの小売店と「デパート」とを明確に隔てるもの】
ひとことでいえば、それは、デパートで買い物をすると自分のグレードが一段アップしたと感じられるような贅沢品、あるいはこの品物を買うためなら自分を投げ出してもいいと思えるような官能性を持った超高級品を品揃いの中に加えることができたか否かにかかっている。(鹿島『デパートを発明した夫婦』 p.93)
【だって、欲しいんだもん!——生活に必要だから買うんじゃなくて、自分をグレードアップさせたいから買う、という消費行動が生まれる。】
【このあたりで、「文化」(なにやら上質な雰囲気)と絡んでくる。】
- 「文化」と聞けば金を出す私。(When I hear the word culture, I take out my checkbook.)
【アメリカ合衆国の美術家バーバラ・クルーガーの言葉。彼女の作品の中では、満面の笑みをたたえた腹話術人形の顔の映像に、この言葉が重ねられている。】
- 【近代以前の、】個人のアイデンティティが身分や職業といった社会的な枠組みに依存していた時代には、身を飾る必要はあまりなかった。……。そのような社会においては、モード現象【つまり「流行」】が全社会的な現象になることはむずかしかった。(北山ほか『現代モード論』p.77)
- 【デパートが誕生した十九世紀半ばには、】ブルジョアの婦人というのはどういう余暇を過ごすべきかというところで困っていたのです。(高山『パラダイム・ヒストリー』p.152)
- 理想的なアッパー・ミドル【中産階級の上のほう】の生活を隅々にいたるまで実現するには、これこれの家具や食器類を揃え、これこれのカジュアル・ウェアを身につけ、これこれのヴァカンス用品を購入しなければならないというように、具体的なライフ・スタイルを中産階級の消費者に教育してやる必要があるのだ。なぜなら、彼らはまだ何を買うべきかを知らず、しかも、それが買うことができるのも知らないからだ。消費者に、到達すべき理想と目標を教え、彼らを励ますこと、これが〈ボン・マルシェ〉の、ひいてはデパートすべての任務となる。(鹿島『デパートを発明した夫婦』p.105)
【かくしてデパートは、上質なライフスタイルを教える「学校」となる。】
- 人々は自分より上位の人の真似をしようとし、下位の人からはなるべく遠ざかるような、さまざまな工夫を衣服に凝らすのである。いずれにせよ、ここに上昇エネルギーの存在を認めることは容易だろう。(北山『おしゃれの社会史』p.321)
- モード【流行】はエリート文化を体現する一定のモデル形態を、社会の上昇エネルギーを利用して下へ下へと広げていく。こうして社会の広範囲の人々に自分たちもこのモデル(エリート文化)を共有しているかのごとき幻想、すなわち社会全体が平準化、平等化されたかのような幻想を与える。(同書、 pp.330-1)
- 【ブシコーは、その文化戦略の一環として、〈ボン・マルシェ〉店内でクラシック音楽のコンサートを開き、常連客を無料招待する。】
〈ボン・マルシェ〉のクラシック・コンサートは、いってみれば、中産階級が買えるように価格を下げたクラシック・ミュージックのバーゲン品だった。だが、たとえバーゲン・セールの衣料品でもそれによって火がついた中産階級の購買願望が歯止めをうしなったように、いったんクラシック・コンサートで上流階級のテイストを覚えた彼らの文化的上昇願望がとどまるところを知らなくなる日はそれほど遠くはない。そして、もちろんこの二つの願望がたがいに相手をリードしあう中から、高度消費社会が生みだされてくることになるのである。(鹿島『デパートを発明した夫婦』p.139)
- 【さらに〈ボン・マルシェ〉は、すべての商品のイラストが入った分厚いカタログを希望者に無料で郵送し、通信販売を始める。】
ひとことで言えば、〈ボン・マルシェ〉のカタログはモダン・エイジのライフ・スタイルを教えてくれる教科書……として、準アッパー・ミドルの階級の者たちにもっとも熱心に読まれていたマガジンだったのである。(同書、pp.154-5)
【もっとかっこよくなりたい! という欲望が、人を消費に駆り立てるのだ。】
【センスのいい自分、上質な自分を目指して、ファッション、音楽、旅行、資格、英会話……。】
【上質を知る人/一般大衆、イケてる/イケてない……。高級文化も流行も、序列化や差別と骨がらみである。】
- モードは、その巧みな階級化メカニズムによって、不断に差異構造を更新していく現象でもあった。いうまでもなく、エリート文化は一般大衆との差、つまり稀少性をその本質的価値としていた。したがって一般化したモデル形態はすでに価値の下落した、似て非なるコピーだった。(北山『おしゃれの社会史』p.331)
- きらめくものは——ブランドはと言いかえてもいいが——希少でなければならない……。大量化してゆくと、それらは陳腐化してオーラを喪失してしまう。ブランドがブランドであり、魔術性を保ちつづけるには、あくまで希少性を保ち、一部の特権階級のものでなければならない。(山田『ブランドの世紀』 pp.79-80)
- 大衆の手に届かないものであること、それがモードの、そしてブランドの条件なのである。(同書、p.80)
- こうして真のモデルは永遠に逃げ去っていく、決して捕えることのできない点と化し、追いすがる者との距離を常に保つことに成功した。この点では、モードは上流階級の特権維持にきわめて有効かつ不可欠の手段であったのである。(北山『おしゃれの社会史』p.331)
- 平等主義と自由主義【「どなたでもご自由にお入りください」「ご自由にお選びください」】をその存在原理として発達した近代の消費社会は、一方で、ここで述べたような中心的価値への志向性(模範意志)を原動力として作用していた。まさしくこの点に近代社会の本質的矛盾があったのである。(同書、pp.336-7)
- 消費社会というのは、単にモノを大量に消費する社会のことではない。機能的な必要や耐用年数を超えて大量に生産され続ける商品を買わせるために、広告や商品のデザイン、それらによって付加される他の商品とは異なる意味づけや記号性によって商品に対する欲望を喚起し続け、それによって資本主義的な社会システムにとって必要な消費という行為へと人びとを駆り立て続ける社会。それが消費社会である。(若林『郊外の社会学』p165)
- 商品に対する人びとの欲望を喚起するためにパルコが行ったことのひとつは、モノを売り買いする行為に文化的な意味合いを与えることだった。一九七〇年代から八〇年代にかけて、パルコのCMやポスターはアート作品のようで意味が分からないことで有名だったが、それらのことによってパルコは「モノを売る」のではなく「新しい文化を売る」というイメージを作っていったのだ。この場合、そこで本当に文化が売られている必要はない。パルコは劇場や美術館を作り、さまざまなイベントを行うことで実際に「文化」をも商品として売ってきたのだが、重要なのはそうしたことも含めて「文化的な匂い」をパルコというブランドと場所にちりばめることだった。(若林『郊外の社会学』pp.165-6)
- 地方都市はこの二〇年間に、東京的な商業環境を地方につくろうとして躍起になってきた。そのためには旧市街地を再開発するよりも、地価が安く、権利関係の単純な農地を買ってショッピングセンターをつくるほうが簡単だった。そうして日本中の農地が開発され、そこに道路ができ、道路に沿って商業ビルが林立した。その施設には東京を直輸入した店が入った。たしかに物という意味では、北海道でも九州でも東北でも四国でも、売っている物は東京とほとんど変わらなくなった。
だが、そこには大切なものが欠けていた。ロードサイドの商業施設には物はあるが、生活がなかった。中心市街地はシャッター通りになってしまった。古い建物や街路が整備されて、かえって味気ないものになり、かつての都市の記憶が消えた。都市の記憶が消えるということは、建築が消えるということだけではない。衣食住から子育てまであらゆる生活の仕方や生活の知恵が消失するということである。(三浦『ファスト風土化する日本』p.205)
- 均質で同質なのは、街並みだけではない。一定の価格設定と、似たような間取りの住宅を一斉に分譲販売するために、購入する人びとの階層、所得、家族構成も一定の範囲に収まった、似たようなものになりがちだ。東京郊外でどこを居住地に選ぶのか、個々人の事情はさまざまだが、都心への通勤時間、最寄り駅までの時間、土地や住居の広さなどで住居の価格はだいたい決まるから、都心を取り巻き、通勤電車の路線にそって、ほぼ同じ時間距離帯に、同じような郊外住宅地やニュータウンがつくられ、人びとはそれらのなかから自分の希望と経済条件を勘案して、自らの住む家、住む街を選択し、購入することになる。こうして、似通った階層の、似通った人びとが住む、似たような街並みをもつ場所が、大都市の周囲に作り出されていったのだ。(若林『郊外の社会学』p.103)
- 三浦展の「ファスト風土」論が批判の対象とするロードサイドの量販店やショッピングセンター、ファストフード店やファミリーレストランは、郊外が「どこであってもいい場所」であることのアイロニーが第二次郊外化【高度成長期の「第一次郊外化」の後に来た、八〇年代後半以降の郊外化】のなかでこうして露呈してゆく過程と並行して、文字通り「どこにあってもいい」普通の風景になっていった。小田光雄の言葉を借りると、「八〇年代とは、ロードサイドビジネスがデパートやスーパーに郊外から「攻勢をかけた」時代」(『〈郊外〉の誕生と死』七八頁)だったという。それは、スーパーよりも大量で豊富な商品を、デパートよりも手軽で日常的に、しかも安い価格で購入することを可能にしていった。(若林『郊外の社会学』pp.195-6)
- こうした“攻勢”を前に、そもそもデパートやスーパーよりもはるかに小規模な郊外住宅地やニュータウンの商店街は、消費社会になじんだ消費者の欲求には応えられなくなってゆく。安さも品揃えもサービスも、マニュアル化されてはいるが、そうであるがゆえに合理化されてもいるロードサイドのチェーン店に個人商店やその集まりの商店街が対抗するためには、それ相応の工夫や努力が必要である。しかも大規模ショッピングセンターやアウトレットモールになれば、その内部にいかにも街らしく演出された商店街すら存在し、そこでさまざまなブランド品を買うことができるのである。(若林『郊外の社会学』p.196)
- 【子ども時代の】私と父がテレビで全国放映されていた各地の年頭行事の風景に促されたかのように初詣に出かけたことがはからずも示すように、そこ【郊外】で「再興」され、人びとを捉え、共有されていったのは、マスメディアに媒介され、個々の地域を超えた規模で共有される大衆社会の共通文化とでもいうべきものだったのだ。そこには伝統的な地域社会における祭礼を特徴づける集合的な記憶の伝承や、集合表象である「神」への共通の帰依といったものは存在しない。そこに現れたのは共同の神や共同体への帰属なしに、大衆化された「祭り」や「行事」の形やイメージをなぞり、消費する人びとのばらばらに群れ集う集合体=集列体である。(若林『郊外の社会学』p.183)
- 郊外という場所と社会で人は、既存の近郊地域社会とも、自らが後にしてきた故郷=いなかとも切り離されて、家という商品を買い、さらにさまざまな商品を買い入れて家の内外に並べることで「私の生活=人生[マイ・ライフ]」を形作ってゆく。郊外化は、もともとその土地にあったローカルな社会を、特定の土地への帰属を欠き、特定の土地の建築様式や生活様式とも異なる、標準化され、工業化された住居と生活様式からなるものへと置き換えていった。団地も、分譲住宅地も、そこに暮らす家族も特定の土地に根ざしたという意味でのローカルなものではない。それは確かにある場所に存在するけれども、どこにあってもいい、どこにでもある場所や存在なのだ。(若林『郊外の社会学』p.191)
- 「地域」ではなく、マスメディアや資本主義に媒介された大衆社会とその文化を共通の陳腐で凡庸な環境とすることは、郊外という「地域なき地域社会」を生きる私たち郊外住民の宿命である。(若林『郊外の社会学』pp.199-200)
- 【郊外住宅地の】「商品化」とは、開発された土地や建設された建物が商品として売られるという事実だけを意味しているのではない。ここで商品化とは、それらが売られる対象になるにさいして、宅地の形態、家の間取りや様式、内外の調度や装飾、そこに投入される文化的・社会的な記号なイメージなどが、一定の規範的な型のもとに形式化され、標準化されていったこと、さらには土地や建物だけでなく、そうした場所で営まれるであろう「生活のイメージ」もまた、一定の規範的な型のもとに商品化されたものとして大量に生産され、販売され、消費されていったことを意味している。(若林「都市への/からの視線」pp.402-3)
- そもそも郊外は、都心に通勤する雇用労働者とその家族が土地や家を商品として購入し、さらにそのなかにさまざまな日用品やら贅沢品やらをも商品として購入して並べ、生活してゆく場所である。もともとあった近郊社会の地域生活とも、自分たちのいなかや故郷とも切り離された人びとが、ライフスタイルと生活と文化を、市場で購入した商品によって作り上げてゆくのが郊外なのだ。そのためにまず手に入れられ、彼らの生活がその上で展開される舞台となり、さまざまなモノがそこに配置されるコンテクストになる“最初の商品”が住居なのである。(若林『郊外の社会学』p.175)
- どこに住むか、その場所や家が不動産市場でどのような評価を与えられ、他の人びとにどんな場所としてイメージされるのかは、現代の日本ではそこに暮らす人のアイデンティティにかかわることだ。(若林『郊外の社会学』p.218)
- そして、郊外が収縮し、その郊外としての“生き残り”が課題になるとき、そしてまたそこに暮らす人びとが通勤・通学による都心との結びつきを弱め、「純粋郊外」としてそこに暮らすようになるとき、郊外の「ブランド」はその場所が郊外であり続けるため、郊外の神話に支えられた現実を人びとが生きてゆくために、なおさら求められることになるだろう。(若林『郊外の社会学』p.218)
- 基本的に、東京の郊外の新興住宅地というのは、いままでひとが住んでいなくて何の物語もないところに、あるいは住んでいたんだけど田舎くさいところに、デベロッパーが新しい物語を被せて作られていくわけですよね。それは端的に地名に象徴されていて、“ナントカが丘”とか“ナントカ台”とかそういうやつです。新しい地名をつけ、過去の歴史を消して、新しい物語を作る。実際、新聞の折り込み広告を見ると、「ここから新しい物語が始まる」的なキャッチコピーは非常に多いわけです。
つまり、新興住宅地の戸建てを買うというのは、たんに住宅を買うだけでなく、ライフスタイルを買うことであり、また物語を買うことでもあるわけですね。(東・北田『東京から考える』p. 67、東浩紀の発言)
- 住居やライフスタイルまで商品として購入されるこの社会では、住み続けることによる結びつきよりも、住宅市場やマスメディアのなかでの「素敵な街」のイメージの方が、ときに身近で重要なものになる。いや、そもそも住み続けてゆくことのなかに、アイデンティティの問題としても、資産価値の維持という点においても、ブランド的なものへの希求がともなう場所。それが、私たちの郊外なのだ。(若林『郊外の社会学』p.219)
- 地域を再生する地元意識——たとえたまたま出会ったにすぎなくても、この人たちとはたまたまではなく必然的にここにいるんだと思う意識が生まれるかどうか。これをわたしは「ジモト意識」と呼んでいます。例えば、実際の地域の上に暮らす人たちが結び合わさっていくとき、それが人々の意識の上で「ジモト」と呼べるようになれば、実際の地域と人々の意識とを何かが繋ぐかたちで、「ここがわれわれの生きている土地だ、地元だ、地域だ」と思えるようになる。たまたま出会っただけの人たちが、何かのきっかけに、その場所で見出すかけがえのなさが「ジモト」の根拠になるのです。(鈴木「地域とは何か」p.16)
- 【mixiをはじめとする】SNS【ソーシャル・ネットワーキング・サービス、ネット上の会員制交流サイト】には地元意識を広げる可能性があります。ある土地の住人が別の土地に移ったとき、mixi にある「関西人コミュニティ」や「関東熊本県人会」のようにジモト意識が地域を離れて広がったり、土地を離れても維持されるということがネットワークを通じて可能になる。……。ある空間的に区切られた場所で生活することが前提となっていた昔の「地域」の考え方とはまったく違ったタイプの、意識のレイヤーでの「地域」というものが形成されるのです。(同、p.19)
- また、地域に対するイメージが地元意識を伝えて人の縁を繋いでいくとき、その地元意識によって地域のアピール・ポイントを宣伝することも可能になるのではないか。これはSNSにかぎった話ではなく最近の流行であり、例えば『池袋ウエストゲートパーク』や『木更津キャッツアイ』が放映されて、これまで木更津に興味を持たなかった人までが突然旅行に行ったりする。ある地元意識が他人にまで伝播したときに、地元に縁のなかった人もイメージできるような「地域」像が一人歩きしはじめるわけです。(同、p.19)
- 結局のところ、消費しようと考えられるその財に、どのような価値があるのかを決定するのは、もちろん個人の評価も含まれるが、それ以上に個人の価値観を支配している、その時代の消費文化として形成される人びとの趣味規準であると考えられる。そして、消費者は、消費する財やサーヴィスを通じて自らの趣味をそれらに反映させて、自分の消費行動を確認するのである。どのようなものを使うのかという日々の活動を通じて、このような消費趣味を取捨選択し、同時にまた生成しているともいえるのである。(坂井『産業社会と消費社会の現代』p.332)
【要は、あなたの地域そのもののブランド・イメージを引き上げること。】
【引用した文献】
●東浩紀・北田暁大『東京から考える——格差・郊外・ナショナリズム』(日本放送出版協会、2007年)
●荒俣宏『奇想の20世紀』(NHK出版、2000年)
●上野俊哉・毛利嘉孝『カルチュラル・スタディーズ入門』(ちくま新書、2000年)
●海野弘『百貨店の博物史』(アーツアンドクラフツ、2003年)
●鹿島茂『デパートを発明した夫婦』(講談社現代新書、1991年)
●川北稔・桃木至朗監修、帝国書院編集部編『最新世界史図説 タペストリー 四訂版』(帝国書院、2006年)
●北山晴一『おしゃれの社会史』(朝日新聞社、1991年)
●北山晴一・酒井豊子『現代モード論』(放送大学教育振興会、2000年)
●ハワード・サールマン著、小沢明訳『パリ大改造——オースマンの業績』(井上書院、1983年)
●坂井素思『産業社会と消費社会の現代——貨幣経済と不確実な社会変動』(放送大学教育振興会、2003年)
●ヴォルフガング・シベルブシュ著、加藤二郎訳『鉄道旅行の歴史——十九世紀における空間と時間の工業化』(法政大学出版局、1982年)
●神野由紀『趣味の誕生——百貨店がつくったテイスト』(勁草書房、1994年)
●鈴木謙介「地域とは何か、SNSとは何か」『智場』106号(国際大学GLOCOM、2006年)14-19ページ
●エミール・ゾラ作、吉田典子訳『ボヌール・デ・ダム百貨店——デパートの誕生』(藤原書店、2004年)[原著1883年]
●高山宏『パラダイム・ヒストリー』(河出書房新社、1987年)
●高山宏『奇想天外・英文学講義』(講談社、2000年)
●三浦展『ファスト風土化する日本——郊外化とその病理』(洋泉社、2004年)
●山田登世子『ブランドの世紀』(マガジンハウス、2000年)
●吉見俊哉『博覧会の政治学——まなざしの近代』(中公新書、1992年)
●吉見俊哉『思考のフロンティア カルチュラル・スタディーズ』(岩波書店、2000年)
●若林幹夫「都市への/からの視線」今橋映子編著『リーディングズ 都市と郊外——比較文化論への通路』(NTT出版、2004年)387-406ページ
●若林幹夫『郊外の社会学——現代を生きる形』(ちくま新書、2007年)
●Osborne, Richard and Van Loon, Borin, Sociology for Beginners, (Cambridge: Icon Books, 1996)
(c) Masaru Uchida 2007
ファイル公開日:2007年6月11日
最終更新日:2007年6月13日
この回の授業の元になった講義「文化を研究するとは、たとえばどういうことか」へ