<書評> 新・フェミニズム批評の会 編 『『青鞜』を読む』(学芸書林) 

「社会文学」(日本社会文学会)第13号(1999.6)所収


さきごろ大橋洋一が「わたしたちにとって、いかにも不愉快で、わたしたちの心をなごませてくれないような話題こそ、わたしたちが、自分の分身あるいは他我では ない真の他者に語りかけることができた証拠といえるのです」(『新文学入門』)ということばによってフェミニズム批評の意義を高く評価したことは記憶に新しい。雑誌『青鞜』が時代に先駆けて直視したのは、まさにこのもっとも「不愉快」な話題であるところの性的な二重規範―ダブル・スタンダード―の問題であった。本書を読み終えたとき、私たちはこの事実を驚くほどたしかな手応えで受け止めることになるだろう。

もうひとつ、言説が状況を離れては存在しないという認識は人文・社会系の研究における大前提だろうが、特にフェミニズムのようにイデオロギーのかかわる対象を扱う際にこれは不可欠になってくる。その意味で本書ができあいのジェンダー論的概念の単なる貼りつけ作業に堕さぬ、まさに『青鞜』自身とそれをとりまく状況に密着したオーダーメイドの論を提出したことの研究的な意義はきわめて大きい。

あらためて紹介すると、本書は新・フェミニズム批評の会のメンバーが一九九三年から五年間にわたって、雑誌『青鞜』をその表紙から広告の隅々に至るまで丹念に読み込んでいったその共同研究を母体としたものである。実際各論文が交響し、また時として互いに錯綜しあうような何本もの描線が引かれることで、おのずから立体的な『青鞜』の像が浮かび上がってくる。これは先行研究を吸収しつつ(しかも岩田ななつや岡野幸江のそれをはじめとするこれまでの実証研究の積み重ねを経て)、ひとつのテーマを異なった領域と視点の複数の研究者間で論じ合うというプロジェクト・チーム方式の生んだ、まさに羨望に値する成果である。したがってこの本は、全体性としてとらえられたときにその力をもっとも発揮する書物であるといえよう。

全体は第1部『青鞜』の文学、第2部『青鞜』のセクシュアリティ戦略、第3部メディアとしての『青鞜』より成る。この構成自体従来の作家別の縦割りを脱したこのプロジェクト・チームの意向をよく反映しているが、個々の論を詳述するだけの紙幅はない。思い切っておおづかみにまとめながら、各論について触れていくことにしよう。

冒頭でも述べたように『青鞜』のアイデンティティとは、それまで女性自身によってすら意識的に目をそらされ隠蔽されていたジェンダー的なダブル・スタンダードの詐術を正面から直視する精神であったといえよう。いわば本書の脊髄をなすこの認識は第2部に集中的に語られており、「青鞜」理論篇へのアプローチともなっている(その意味では、読者はまずこの第2部から読み始めるというのもひとつの手である)。

まず長谷川啓「〈新しい女〉の探求―附録「ノラ」「マグダ」「新しい女、其他婦人問題に就て」は、『青鞜』のイプセン特集および上野葉・岩野清子・加藤緑・生田花世らによる近代父権制秩序および性の二重規範への挑戦を分析、特に上野のイプセン論が今日的に見てもきわめて本質的なものである(ノラ論は瞠目すべきものである!)点に着目する。また岩淵宏子「セクシュアリティの政治学への挑戦―貞操・堕胎・廃娼論争」は特に矯風会との交錯にふれた廃娼論争の分析で、また松田秀子「『母性』をめぐる言説」は育児と仕事の両立の問題によって、ともに『青鞜』の理念が現実に突き当たったときのひとすじなわではくくれない相克に迫り得ている。

一方『青鞜』の運動は、その方向性をらいてうという個性的なベクトルとの葛藤のなかで決定していったという側面をもっていた。第2部は、それ自体がきわめてユニークな存在であった平塚らいてうの本質―神秘主義、高踏性、そしてS・ヒースふうにいうならばオルガスムス至上主義(これは藤田和美「『青鞜』読者の位相」が紹介する読者とらいてうの応酬でも明らかだ)―の解明の枠割りも担っている。岩見照代「平塚らいてうと神秘主義」は、今や安直なメタファーと化した感のある青鞜の”太陽”が実はロマン主義的神秘主義の太陽であったことを解析、それに対し高良留美子「成瀬仁蔵の女子教育思想と平塚らいてう」は、日本女子大の成瀬仁蔵サイドからの分析によって彼の良妻賢母主義の広がりと限界を精密に測定するとともに、「発刊の辞」の”太陽”のイメージにらいてうの成瀬の実証主義との葛藤、らいてう自身の神秘主義的観念論の失墜とその新たな再生を読みとってゆくきわめて密度の高い論である。

これらをふまえながら第3部〈メディアとしての『青鞜』〉に至ると、私たちは金子幸代の「『青鞜』の揺籃―一九〇〇〜一九一〇年代の女性雑誌―」によって、婦女新聞』『女学雑誌』から堺利彦の『家庭雑誌』や『二十世紀の婦人』なども含む女性雑誌の流れのなかに、「青鞜」の突出性や独自性をほぼ正確に位置づけることができる。藤木直美「『青鞜』のメディア戦略」もまた、金子論と対にして読まれるべきだろう。

池川玲子の「生田長江と『青鞜』―幻の演説をめぐって」は、第一回青鞜社公開講演会に焦点を絞ることで、『青鞜』と深い関わりをもった生田長江とらいてうの葛藤を中核に、この公開講演会での岩野清子、大杉栄、馬場孤蝶、また成瀬仁蔵およびジャーナリズムの動向までを立体的に再現しながらこれを大正期の「自己と社会」というテーマが『青鞜』に導入されていく契機と指摘し、状況の中を生きた複雑な個性の関係性をとらえたスリリングな論考となっている。それ自体が女性解放思想と男尊女卑との複雑な癒着のサンプルともいうべき長江への着目は、『青鞜』分析の有効なキーなのだ。また有名無名のさまざまな読者―女たち―の「青鞜」への深い共感を列挙した藤田論文は、夫への忍従を貫いた穏和な婦人がその晩年語った「『青鞜』はすばらしい集団だった。お前は男だから、読まなくてはいけないよ」という息子へのことばをあげ、女たちの胸の炎の在処を示してあまりあるものといえよう。

さていうまでもなくジェンダー的なダブル・スタンダードを直視する『青鞜』の姿勢は、らいてうや上野葉の良妻賢母思想批判をはじめとして事実上近代父権制国家制度への反逆にほかならない。このような視点を獲得した、あるいは持たざるを得ないところまで追いつめられた『青鞜』の女たちもまた、男性中心主義的な抑圧構造のなかでそれを明確には意識化・理論化できないことからくるとまどい、混乱、あるいは自己矛盾の認識のただなかにあったといえる。このあたりの分析については今日のフェミニズムの混迷にまで論の射程をのばした北田幸恵「街頭に出た女たちの声―評論」が出色であるが、その北田論を所収する第1部〈『青鞜』の文学〉は、混沌の中から生まれてきた『青鞜』の小説・詩・戯曲等を個別に分析する、いわば『青鞜』の感情篇あるいはガイノクリティック篇である。これらの作品を「生きて居るのか死んで居るのかわからないやうな生温つこい、影のうすいもの」と当初罵倒したらいてうもやがて「目覚めむとしつつある我が国の若き婦人の旧道徳や世俗思想との戦いにおける苦悶や、意識的の恋や、婦人の生活の標的となるべき何ものをも失つた精神的危機にある婦人の心など総てを通じて何事かを語つてゐるやうに思はれます」という肯定に転じていく中で、田村俊子をはじめとする表現上のオリジナリティーが屹立してゆく過程がここでは精緻に押さえられている。

江種満子「知としての〈女〉の発見」は、文学的制度たる男性作家たち(あるいはそれを自己規範とした女性の書き手たち)の言説をいかにそれらが踏み破っていたかをあざやかに照射し、有島の「或る女」における自然と女の自罰の構造性、田村俊子における自愛というモチーフの本源的な革新性の指摘等、貴重である。小林裕子「告白体というスタイル」、岩田ななつ「女性の『精神的危機』が語るもの」も同様であり、井上理恵「〈華々しき〉女たち―戯曲」は、自己肯定に覚醒した女たちがやみくもに「恋愛」にすべての解決策を見いだしていくのではなく、むしろ恋愛に逃避する青年たちの身勝手さや未熟さを見抜いて自立していくような強さの造形(荒木郁・岡田ゆき子)やバイセクシュアルなものへの肯定等を指摘して興味深い。戯曲に関してはハウプトマン「寂しき人々」への主体的共感の指摘(岩田)や、レズビアニズムの指摘(渡辺みえこ)もこの文脈に置かれるべきだろう。

最後に疑問点もあげておこう。『『青鞜』の表紙絵―イメージとしての新しい女」(山崎明子)での長沼智恵子のアルカイックな表紙絵に世紀末芸術における「水の女」をみる論旨だが、ファム・ファタールという男権主義の産物を女が主体化するという図式は魅力的なだけに慎重な実証が必要であり、キトンの波形文様という類型手法をその主要な根拠とする立論には少々強引さを感じた。また金子論中の治安維持法は治安警察法の誤りである。

以上、大まかながらこの書の意義の一端はたどれたと思う。フェミニズム批評の「幕引きを急がせる圻(き)の音」をこのような学問的成果が押しとどめる役割を担うことを、私は強く信じるものである。


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