TOP >センター資料TOPICS>「見よ祖国 手をつなぐ学童文集」


この本は、昭和28年3月20日発行の岐阜市と奄美群島の小中校生が書いた作文集です。

この本を見た時に、何故このような本があるのか大変不思議でその経緯を知りたくなりました。 これは、当時の岐阜市長であられた東 前豊氏(戦後公選で選ばれた初代岐阜市長2期8年在任。全国市長会初代会長)が、沖永良部島の出身であったことが縁となり、出版されたものだろうと思います。
沖縄については、本土復帰が一番後(1972年5月15日)であり、又その後も米軍基地が集中していることなど、多少なりとも知識として知っている方は多いことでしょう。私もその一人です。けれども、奄美群島については、全く知りませんでしたので、あらためて調べてみました。
敗戦後、沖縄を占領した米軍が、「琉球人は日本によってしいたげられた少数民族である」として保護し、将来占領終了後 国家として独立させるつもりであり、奄美諸島も又琉球の一部と認識したため、S21.2.2北緯30度以南の奄美諸島の行政権が米軍にうつされることになりました。
3月には本土出身者は公職から追放され鹿児島に還らざるを得なくなりました。
S25.11月には「奄美群島政府」が樹立し、公選で群島議会・知事選挙が実施されましたが、結果は米軍の意に沿うものではなかったため(本土復帰を願う側が多数当選)
米軍はS26.4月、今まで4群島(沖縄・宮古・八重山・奄美)に分けていた政府を「琉球臨時中央政府」に一本化し、トップを米軍の任命としました。
S26.9月サンフランシスコ平和条約が締結され、琉球列島(南西諸島)は米軍の統治下に入りました。この前後にも、祖国復帰の運動は激化し、祖国復帰を求める署名活動では奄美においては、14歳以上の住民がほぼ100%その署名に応じ、又村単位でもハンガーストライキなども行われたようです。
 しかしながら、米軍の施政権下に入ると、奄美では、全てのことが沖縄本島経由になるため諸手続きが大変不便であったこと、米軍の援助は沖縄復興に回され予算の配分も届かず、基地も造られなかったので産業が潤うこともなく、たいへん疲弊した状況下におかれたようです。

1950年に朝鮮戦争が始まり、世界における東西の緊張が高まって来ると、米軍の沖縄に対する考え方も変わって来て、保護すべき少数民族のいる土地というよりは、東アジアの重要な軍事拠点として捉えるようになっていきます.
そうすると奄美諸島は、本土復帰運動も根強く、又基地もないため、占領する意味があまりないものとなってきました。そこで米軍はS28年奄美諸島を日本に返還することを表明しました。 その際に、当初 与論島と沖永良部島は現状のままという方針が打ち出されました。
この文集はまさに、この二島が返還されないという事態に陥るかもしれない状況下で、かわされたものです。 最終的には、この二島も含めてS28年12月25日、米軍からのクリスマスプレゼントとして、奄美諸島は本土復帰を果たしました。
 余談になりますが、奄美諸島が本土復帰をして、沖縄に住む奄美出身者は、日本人となり、米軍占領下の沖縄においては外国人となってしまいました。それで仕事をするには居住許可が必要、政治的権利ははく奪され、公的職業からも締め出され、土地の所有も認められないという差別的状況が、S47年5月15日の沖縄の本土復帰まで続いたということです。
 今回、譲り受けた本のなかにたまたま、この本があったことで、興味を覚えて中を読んでみました。小中学校生が、分断された島を想い、平和とは何かを考え、奄美の子供は一日も早い本土復帰を希求し、岐阜の子供は、それに思いを寄せ、その文面はとても子供それには思えませんでした。時代の状況もあるでしょうけれど、今はどうなのだろう、平和というものに慣れてしまって、その本当の価値について子供を含め大人も考えているのだろうかと、思った次第です。この作文を書かれていた方々は御存命であれば、70代から80代になっていらっしゃることでしょう。この本は非売品であり、余り目に触れることもなかった大変珍しい本だと思います。大切に保管したいと思います。

尚、歴史的部分の記述については「世界飛び地領土研究会」のHPを参考にさせて頂きました。
URL:http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/index.html