「軛」(くびき)というのは、自由を束縛するという意味である。この本のプロローグにその意味が詳しく書かれています。
岐阜県民にとって、薩摩藩による「宝暦治水」は、薩摩藩の苦難の美談として、心に留めている方が多いのではないでしょうか?
この本で著者は「宝暦治水」にまつわる美談としてのこる史実は事実であるのかを検証し、「宝暦治水」を尊い犠牲のもとにある安全と捉えて、その思想が後々にわたって住民を拘束する(p5)と述べています。
「由らしむべし、知らしむべからず」と同頁に書かれていますが、これの意味は、人民を為政者の政策に従わせることはできるが、その道理を理解させることは難しい、だから従わせればよいのであって、その道理を人民にわからせる必要な無い、ということです。この考え方が治水政策にはあって、そのバックボーンに「宝暦治水」があったのではないかと、事務員は読み取りました。
「宝暦治水」にまつわる事件の事実を検証していくと、史実とされていることとは、食い違うことが多くみられるということが、例を挙げて書かれています。
又、「宝暦治水」顕彰運動の推進についての動きも事細かに書かれており、それを読むと、当時の薩摩藩士の苦労が聊かも損なわれることは無くても、それが美談として、木曽三川の治水工事の方向性を決め、明治のデ・レーケの三川分離工事に繋がっていくこと、それが、凡ての流域住民にとっての成功ではなかったことが、書かれています。
この本の事例でいえば、木曽三川分離工事の際の土地収用の為、少なからぬ農民が土地を奪われ、北海道に開拓移住していったこと、
工事によって、確かに下流の水害は減少したが反対に中流域の水害が増加したこと、
木曽三川分離工事は、明治という時代の国家の威信をかけた工事であったこと、等が書かれています。
事務員がざっと読んで、目に留まったことですが、これは今にも通ずることは、想像に難くありません。
本の冒頭に「生きるための自然改造が、新たな矛盾や難問を生むという苦闘の歴史」(秋山晶則)(p3)と書かれていますが、これはこの本を貫く思想だと思います。 これはその発端が江戸時代にあって、現代まで続いてきている問題でしょう。長良川河口堰などは、まさにこの言葉がふさわしいと感じます。
著者が、「曇りなき眼」を通して、「宝暦治水」の史料を取捨しながら事実を見定める行為を繰り返したと述べています (p6)。
これは事務員の個人的見解ですが、歴史というものは、為政者が作ったフィクションであると言えるもので、それは事実ではないかもしれません。それを見定めるには、著者がいう「曇りなき眼」が必要ではないかと思います。そして、私達、原史料を研究したりしない者にとっては、それに加えて、自分の思いや感情を一旦取り払った、素の気持ちで「ものごと」を見ることが大切なのではないかと思います。