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明治時代の絵図&丈量帳


見せて頂いたのは木箱に入ったもので、「郡上郡野々倉村字繪圖」「田畑山林原野丈量帳郡上郡野々倉」「第九大區十一小區 郡上郡野々倉村字分切繪圖」(大區小區を使用していたのは明治4年から11年までの間)そして、野々倉の全体図となっていました。これらについて、特定をすることは当センターの事務員では難しいので、この頃の全国的な動きから、これらについて少し解説したいと思います。あくまで個人的見解です。本当のことは、正確な調査をしないとわかりません。
これらは作成年代は明治のものです。
 明治維新後、新政府は今までの年貢を止めて、税を金銭で徴収することを決め、明治6年(1873)地租改正を行います。その税金の徴収の基となる土地を全国一斉に測量します。それが明治7年(1874)~明治10年(1877)の間に行なわれており、今回の文書にはその時の日付が書かれているものがあります。
岐阜県の資料に「地租改正につき実地丈量現今景況御届出書」という文書が残されており、 時の政府の租税頭松方正義・大蔵卿大隈重信宛てに、岐阜県内の地租改正に伴う検地の状況が報告されています。
 要約すると
 「明治7年1月から県内を区分して、それぞれの地区を官員が回って、地租改正の検地を速やかに行うように、誠意をもって説得した結果、5月には、半分程実地丈量が出来、字ごとの切絵図が提出された。
引き続き6~8月にかけては丈量を精査して、不適切であればやり直させる。そして山間部やへき地には、村に地図の知識が無いので、村人以外の人を雇っている為、実際と違っていることも多い。
これらの村を官員が巡廻して指導していても、地図を正確に作らせるのは難しい。現在は村の中にその境界でもめている所を除けば、実地丈量は済んでおり、9月中には、「字分繪圖」は悉く差し出せる。
ただ地図を差し出した村では、「収穫米金及掟米取調地価書上帳」を編纂中で下旬より実地丈量検査をするため官員等を派遣している。
この一連の作業は、村々から差し出された「字分地引繪圖」を検査して、一枚ごとの畝歩を検証することから官員を現地に派遣し、村を巡視検査して、「地価取調帳」が正確にできているかを調査を行ない、そこから算定される税額の新旧比較表を作成し、地券大帳を整理する作業があり、膨大な量である。
これは極めて重大な事業で、正確に遂行しなくてはならないもので、急いでやっても功を奏しない。現在予想するに二ヶ年以内(明治7年1月から)にすべての作業を終えられるであろう。 この作業にかかる経費の総額は、金二万千六百円である…」

 この時、政府からは「地図作成規則」が出され、全国的に測量の方法や、様式等が規定され、村々はそれに従い、作業を進めていきました。 作成にあたって、人損賃金を平等に支払う事、土地と村民に対する尊重(土地は村民に測量させ、官員はそれを検証する)、合議制による決定などの配慮がなされている点にあります(「村図の歴史地理学」木村東一郎著p170)。同著には、神奈川県での作成の一例が取り上げられ、その支出等が事細かく記されています。(同著p166~168)
 この地図を元に地券台帳、それぞれの土地ごとに「改正地券」が発行されます。後の明治21年(1888)市制・町村制が公布された時、作成された土地台帳(地籍簿)とその付属地図(地積図)が作成されますが、その際にこの地租改正時の地図がそのまま基盤となっています。そしてそれが、現在の都道府県・市町村・登記所等に保管されているものに受けつがれています。現在、土地の登記簿を法務局でとると、実測と登記簿上のものとに差異が生じるのは、測量道具も未発達な段階で作成されたこの地図が元のなっているからです。
  野々倉に話をもどしますと、今回見せて頂いたものは、この地租改正時の作成されたものと、明治21年に作成された今の土地の登記簿の基礎になるものなのでしょう。しかし正式なものは、公の機関に提出されているはずですから、残っているものは複本の可能性もあるかもしれません。ただ野々倉の集落では地権台帳として機能していて、実際に、「丈量帳」には、持ち主の名義が変わる度に上書きがされています。
 そして大きな村全絵図がありましたが、これは下書きではなかろうかと思われます。 正式なものは、「地図作成規則」により、使用する紙、大きさ等が定められており、この大きさが違っています。
 福島県にはこの明治期の地籍編纂事業の資料が8.437点(1.838村分)残されており、県の重要指定文化財となっています。愛知県にも5,000冊余りの資料が残っています。

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