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 岐阜市の最高は、百々ヶ峰の417.9mとなっています。
ここにあります写真の真ん中、奥の山です。岐阜城で名高い金華山が、329mですから、ざっと90m位高い山です。
この山は、ずっと名無しの最高峰でありました。 百々ヶ峰とは、かつては今の西峰(あるいは眞福寺山)を指していました。
ここの写真では、左側の頂上にマイクロウェーブの反射板の経っている山です。
明治の頃、この西峰に三角点が作られ、それを「百々ヶ峰」としたことで、この西峰を長良の人は百々ヶ峰と信じて育ってきたと思います。
ところが実際はそうではないと言う、郷土史家の指摘を受けて、国土地理院が訂正し、現在の百々ヶ峰になっています。それはまだ10年ほど前の事です。

 では、今度名無しになってしまった、西峰は、何と呼ばれていたのでしょうか?
濃陽志畧という江戸時代の本があります。これは江戸時代の尾張藩士 松平君山が宝暦六年(1757)に4年の歳月をかけて 上梓したものです。
この中に「方縣郡眞福寺村」の項があります。
そこに「一観音堂は白山峰の麓にあり、古は天台宗也、七堂伽藍の大刹とて門前に十二坊あり、眞福寺と稱せり、大寶年中守屋大臣の子眞福と云人建立し、
其後美濃守頼國公より寺領七百余貫文寄附せられり、廢寺となりし年暦は不知由、今大門長百十三間横四間あり、地内四畝除地なり、今村名も此寺號によるとなり、本尊は行基の作千手観音あり、又堂内に元三大師自作の木像あり」という記述があり、これは現在ある真福禅寺のことを指しています。
江戸時代の「長良三郷(上福光・中福光・真福寺)村絵図」には山裾に小さな観音堂が描かれていますが、これが二間四面ほどしかない堂守堂と観音堂と思われます。
 さらに「一大覺寺は白山峰の麓にあり、この寺は寶暦三酉年牧吾と云尼、姪の忠右衛門と云者の扣八畝廿四歩の地に初て庵を建立し、寶暦十辰年武儀郡宇多院村陽徳寺の末寺同郡柿野村大覺寺の號を乞て官府に達し禪寺を取立、牧吾が師黙山和尚を以て開山とせり」 とあります。
こちらも現在もそのまま大覺寺として存在しています。岐阜七福神めぐりの“寿老人・福禄寿”のお寺です。
 以前真福禅寺の和尚さんにお話しをお聞きした際に、昔は天台宗のお寺で、この山で修業をしていたというお話を聞きました。
山には白山神社もありました(現在は下の六社神社の裏にかつての場所を望むように移されています)
以上のこと等から考えると、かつては百々ヶ峰といわれ、今は西峰・眞福寺山とか言われている、この山は、その名は江戸時代は“白山”であったのでしょう。