TOP >センター資料TOPICS>「鉱山資料(中野家文書)」



岐阜の鉱山
 そう聞いたとき誰でも思い浮かべるのは、神岡鉱山ではないでしょうか。
1951年の岐阜年鑑によれば、「鉛と亜鉛は全国の生産からみると、鉛は50%、亜鉛は75%を占めており、特に亜鉛は輸出品として、南方、アメリカからの需要が大きく、生産がおいついていない」と書かれており、一時は東洋一の鉱山として栄えたというのもうなずけます。
 又御嵩町を中心とする亜炭も国内生産の40%を賄ったともかかれています。
西の方では、赤坂の金生山で石灰・大理石などが産出されております。大理石は 今はもう産出されませんが、日本の近代建築に沢山用いられてきました。
 鉱石ではありませんが、蛭川村(現中津川市)では御影石や花崗岩が切出されそれに伴い色々な鉱石が産出されています。
関-金山線を走っていると上之保に小さな鉱山があるのが見えますし、今は廃坑になっていますが、上之保では蛍石(フローライト)が産出されていました。
 そう考えると、岐阜はあまり有名というわけではないのかもしれませんが、地層としても日本で一番古い地層の上にあるので、鉱物資源も多様にあるのでしょう。

 過日東京大学経済学部資料室より「鉱山資料(中野家文書岐阜県高山関係資料)目録」が送られてきました。
 内容は岐阜県の北の端の現飛騨市の河合村にあった鉱山(三谷銅山と天生金山)の資料で、これは岐阜県にあった資料ではなく福岡県にあった資料です。




この河合村の鉱山のスポンサーであった中野家は、筑豊炭田の石炭王「安川・麻生・貝島」の御三家に次ぐ中規模の鉱山主であり、鉱山の坑夫から身を起こし、自ら鉱区を手に入れ炭鉱経営に当たり経営者の地位を築いた家系です(同史料目録4頁参照)。筑豊炭田の経営者や技師たちは、その能力を活かして、日本各地に鉱脈を求めた一例なのだろうと思います。

 余談ですが、今から40年以上前一世を風靡し、多分今もその瑞々しさを失わない「挽歌」という小説があります。50代以上の方なら多分ご存知のことと思います。その作者原田康子さんが晩年に執筆した「海霧」という自身の家の自叙伝的小説がありますが、その中で、やはり原田家の初代は筑豊炭田の坑夫から身を起こし北海道に渡って財をなした人物で、物語の初めにその筑豊炭田の様子が丁寧に書かれています。

 当初、中野家はその配下の 細井岩弥氏らとともに東北・北陸地方で有望な鉱脈を探しいていたところ、三谷銅山と天生金山のことを知り、三谷銅山を当時の金額7,450円で購入し、明治39年には8,500円で買収をしています(同史料目録8頁)
…河合村村誌によると、明治39年に買収をしたのは大阪の内藤金一と記されていますが、この「鉱山資料目録」には大正14年11月30日に15,000円で内藤金一に売却したとされています。
その後、昭和7年には、豪雨による大山崩れがあり、
又昭和14年には半官半民の“日本産金KK”となり、最盛期には鉱夫200人を中心に500人が居住し、小学校もあり町の賑わいをみせていた(河合村村誌35頁~37頁)とのことですが、
戦後政府からの援助もなくなり昭和22年に閉山しています。
明治末期から大正にかけてはコンスタントに金を産出していたようです。

天生と聞けば今では天生峠を中心に広がる天然林といったことを思う事のほうが多いかと思いますが、考えてみれば、道筋は違いますが、白川郷に到る道の途中には一夜にして崩れ去り、その埋蔵金が話題となっている“帰雲城”の伝説があります。これもこの辺りに金の鉱脈があったことを考えるとうなずける気もします。

 目録の内容は、当主の中野徳次郎とその配下の技師たちとの書簡・他の鉱山の情報や、売買契約書(中野家は日本全国で鉱山を買収していたようです)に混じって、福岡の中野家の物品の購入記録より当時の生活が伺えるようで、たいへん興味深いものです。
 一例ですが、大正7年10月20日「味の素他代金」とあります。
味の素は、あの“味の素”で、調べてみると、味の素が“味の素”を発売したのは明治42年5月20日で、30gで50銭だったとのことです。そのころの貨幣価値で言えば、5,000円位の値段だった様で、とても庶民には買えるものではなかったのでしょう。
羽振りのいい家であったことでしょうから、その外にも、同年に「夏みかん、ビワ、バナナ」、「赤酒」(熊本特産の地酒)等の嗜好品、「歯磨竹楊枝」-歯ブラシの代用品でしょうか?等など、見ていて飽きません。

 通常こういった目録は、古文書のことが多く、無縁のものと思っていましたが、近代のものは、専門的なものの見方もあるのでしょうけれど、素人にも想像する余地のあるものであると認識させられました。地域資料・情報センター収蔵庫の河合村に配架しました。