「How to say “ NO” nicely」
直訳すれば「如何にうまくNOと言うか」-この言葉は各務に関する本に何回か出てきた言葉です。確かに、曖昧に笑って事を済ませようとする日本人にとって、これは、一つの命題かもしれません。
「各務氏の手記」に(感銘シタル金言)として、東京海上が英国でその仕事を任せていたBrennとの契約を解除した後、BrennがLondon AssuranceのMr.McKintosh氏を訪ねていました。McKintoshはBrennの人柄を見抜いて、各務に彼を解雇したことは喜ばしいことだと言いました。
その際に、各務が「余ハ今後自ラunderwritingを爲ス立場ニ立ツノデ何カ参考トナルベキコトヲ聞カセテ呉レト質問ヲ發シタラ、underwritingノコトハ到底言語デ現ハシ得ベキコトデハナク、之ヲ教ヘルコトハ不可能デアルガ、只要諦ハ“How to say ‘ No’ nicely.”デアルト言ハレタ。余ハ之ヲ聞イテ深ク銘ジ今日猶耳朶ニ新デアル」(「同書」p34-35)
NOと言う時には、何故そう言うのか、その根拠をきちんと積み重ねて、反論の余地がないようにして、かつ相手の感情を傷つけず、述べなくてはなりません。かつ、NOと言った後に続く事態を認識し、その対策もたてなくてはいけない。これは、「事業上のみならず、社交上すべての人を相手にする問題に広く通用する金言である。(中略)余は以来今日にいたるまで、これを金言として務めて守らんとしているが、その真髄を会得することは至難である」(「東京海上ロンドン支店」上p341) これは、今現在でも、金言であると思います。
「我が損保界の恩人」(「保険界の人物」島田信三著 p25~)より抜粋
関東大震災の際に、その当時でも保険約款では、地震は免責事項になっており損害保険会社には、その保険金を払う義務はありませんでした。しかし世論はそんなに簡単に「そうでしたか」と納得するわけもなく、社会問題に発展しました。学者、弁護士会からの支払いの要請だけでなく、渋沢栄一は「大震災善後会」を結成し、「火災保険業者は、法律上の義務の有無に拘らず、資力の許す限りは提供して、罹災被保険者に支払うこと」と決議し、その声は政府にまで届く事態になりました。
この時、大日本連合火災保険協会の会長の職にあった各務は、「六千三百餘萬圓程預金部の金を(政府より)借用して、罹災者に一割の見舞金を支拂ふことによって問題を解決した」此の事については、批判もあったけれど、このことによって、震災後の火災保険会社に対する信用は維持されたのであるし、其の後の急発展の一因であることは間違いのない事です。しかも各務は、こと東京海上においては、政府より借り入れることなく、自社の積立金より支払っており、その事が東京海上の信用を倍加し、業績が急激に膨脹を来したのです。
「海外派遣員心得」(1924年)各務鎌吉
これは、各務が自らのロンドン時代の事を振り返り、書いた物です。内容は省き増すが、海外にいっても、決してそれに酔うことなく、自らの分をわきまえることなどを述べています。
その中の一文「内外何れにあるとを問わず凡そ商業(ビジネス)に渉る事柄は自己の知識經驗により、百折不撓の精神の下に終生尚足らざるの注意と勤勉とを以て徐々に會得すべきものたれば、海外渡航、一擧大成などいふ妄想は夢にだも見るべからず。自家の運命は自ら開拓せざるべからず。他力を以てしては何事も成す能わざるの眞理を辨知し、務めて自發的に、獨創的に与へられた絶好の機會を利用し、凡ての目前慾を犠牲に供し自己の知識經驗を開發増進するに努力すべし」(「各務鎌吉君を偲ぶ」p196)
この言葉は、若き日単身でロンドンに乗り込んだ各務を彷彿させます。そして百年近くたった現在においても、肝に銘ずべき言葉だと思います。
各務の事を調べると、三菱財閥を代表する人物として、非常に金銭に厳しいビジネスマンとしての、各務を知る事ができます。けれど彼が、それほど厳しかったのは、東京海上もそうですが、全ては彼が三菱の請負人であったからだと、松永耳庵は言っています。
同じ文面の中に、「世間は今でも強い各務を知って、やさしい各務を知らない。冷たい勘定高い各務を知って、金の事に無頓着な自分の小遣ひがいくら要るかも解らぬ、仙人みたような各務を知らない。剛情我儘だとか、慾張りで冷酷の人だとか言う…」(「各務鎌吉君を偲ぶ」p36)とあるように、情の通う人でもあったのです。
彼の死後、その遺言に基づき遺族より金参百萬圓の提供があり、内弐百萬圓で「各務記念財団」が設立されています。そこには平生釟三郎が設立者に名を列ね理事に就任しています。彼の母校一橋大学に五拾萬圓が遺贈され「東亜経済研究所」が設立されています(後の「一橋大学経済研究所」)。残りは数カ所に寄付されました。生前各務は多くの人を援助しています。寄付の全ては自分の財布から出していました。会社の金は一銭足りとも無駄に使わなかった各務の性格が良く表れているエピソードだと思います。
この追悼文の中に孫の澤田信吉が、日本が戦争へ突き進んでいく時代に、その先を予感したように各務が「多くの外面的なるものゝ喪失されたる末に、結局最後に頼りになるものは廣く社會に生くる自己自身という一個の人間である」と言った事を戦後に感慨深く受け止めています。
各務は、ずば抜けて数字に明るい人物であり、個々の会社の業績から、世界貿易の数字なども頭にはいっていたことでしょう。ですから、先の大戦を予感していたと思います。「自由主義経済でなくてはならない」と保護主義貿易の行きつく先を予言していました。彼は、大蔵大臣の職も要請されますが、一業専心の志からそれを辞退しています。 もし、現在彼が生きていたとしたら、何を思うのでしょうか?是非とも聞いてみたいと思いました。
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