東京海上を牽引してきた各務と平生を「管鮑之交」と書かれているのを見受けます。 お互いよく理解しあった終生の友人という故事熟語です。
しかし二人は、長い人生でその考え方が違ってきて、齟齬が出てきたことも確かです。
平生の場合は、自伝(本人は大正2年10月7日から日記を綴っており、又それ以前については、南米に外遊した際、体調を崩しブエノスアイレスの病院にて手記を綴っています)が残っており、平生が何時どのような事に対して、どのように考えたかがわかります。けれど各務は、平生と異なりその類のものは殆ど残しませんでした。
平生は大正10年の夏に関西より、当時伊香保に避暑に来ていた各務に辞意の手紙を送ります。
この時期平生は、保険業界に嫌気がさしていたのと、同じ三菱の傘下にありながらも、三菱海上が東京海上の得意先を掠め取っている事で三菱財閥の岩崎家についても腹に据えかねている所もあり、関西支店は創業25年目を迎えて、既に功成り、名遂げたるものであって、最早業界に思い残すことはありませんでした(「平生釟三郎」p396-399)
50歳以降は奉仕の時代と心に決めている平生に対して、各務はロンドン以来の平生の態度-「幾多の欠陥ある小生に一席を譲り、衷心より業を共にせられ、金石の約を守られたるに対して、常時感謝する処(中略)老兄の如き友を得たるは、小生の生涯の幸福と考え居り候事に御座候」として、東京海上には、まだ二人に並ぶ後継者が育っていない事などを考えて、東京海上にいたまま平生が必要なる時と力とを社会事業に捧げるために、全力を社務に傾注することができないとしてもこれは差支えない事であるから、退職は思いとどまって欲しいというのが各務の考えで(「同書」p403-405)、平生は退職を思いとどまります。
その三年後、平生は八カ月に及ぶ外遊に出発します。南北アメリカ・欧州と長い旅でした。その最中に見聞したことは、平生をして社会事業に専念したいという念を再燃させることになります。
又ベルリンで東京海上と三菱海上が同一経営下に入り、その際に「木村林次郎なる人物が東京海上の専務になると、社内では受け入れがたいという雰囲気があったにも関わらず各務の意向に沿う形となった事」との報を受けます。木村林次郎が如何なる人物であったのかはわかりませんが平生によれば「木村の如き奸侫者」、「東京海上の事業の妨害者たる毒虫」と評し、社員も又この決定を受け入れがたかった事より、各務に対して「自己の勢力維持のためとはいえ、余りに釟三郎及び今日まで東京海上のため忠勤を抽んでたる幹部の人々を『愚弄せる処置にして、彼らの憤慨せるも道理なることなり』」として、平生は直ちに各務宛て「木村の専務就任発表に先立ち釟三郎の辞任を発表せんこと」を要求する電報を打ち、手紙でも念押しをします。それに対して各務は、自分に一任してほしいとしてます(「同書」p523-525)
その後、平生は自分の東京海上の専務取締役辞任に関する一連の各務の行動に対しては、釈然としないものを感じ、特に積年の功労に対する一時賜金も恩給年金も株主総会に掛けられなかった事に憮然とします。各務は「今や東京の実業界に於いては何人も当たるべかざる勢力を有する身とて(中略)彼は余の利用するの必要もなく、随って余に利を与うるの価値なしと考えたるならん。さればこそ余に対して此の如き取扱をなして恬として顧みず、四十年来の友誼をも放棄する事を言を意に介せざるなり」(「同書」p545)と書き留めています。ただこの訣別に際して、各務は個人的に平生の経営する甲南高等学校の基金に対し10万円を10年賦で寄贈しています。
この部分について、各務の手記は残っていませんので、各務の考えを知る事はできません。“各務は三菱の請負人”であったという松永耳庵の言葉を思えば、一業専心である彼が、三菱の事を最優先に考えたということなのかもしれません。この点は謎です。
ただ、其の後二人が徹底的に袂を別ったといえばそうではありません。
平生は、奉仕の時代として東京海上からは、距離を置きますが、二人の交友は続いたのではないでしょうか?
各務は平生に先立つこと昭和14年に他界します。 各務が病床に伏した時、平生は東京に在って殆ど毎日の如く親友を見舞いその回復を願いました。
「世に時めきて、東京に於ける財界の最も強き支柱としえ勢力旺盛なる各務が、今や白骨と化し(中略)五十余年間公私共に互に相信じて事を共にせる友人が、かかる骨粉に化せるを見ては、実に断腸の思を禁ずるに能わず」と、又故人の為に碑文(「東京海上火災保険株式会社六十年史」p550の後頁の各務の写真の裏の言葉?)を撰したのも平生でした(「平生釟三郎」p805)
又「如水会会報」第一八八号(昭和一四年七月)において、「欧米人の尊敬を受けたる日本人-(故各務相談役追悼晩餐会卓上談)-」と題して各務を追悼しています。その中で、自分が追憶談をすれば何時間あっても足りないだろうから、各務君が亡くなった時、「ロンドン・タイムス」がその一面に追悼文を書いた事に触れ、各務君の様に欧米人に知られ、欧米人を良く知っている人物を失ったと言うことは日本国民として洵に惜むべきことであると考えるのであります(「平生釟三郎伝」p397-398)と述べています。
それに先立つ一年前、平生が東京海上の取締役を辞すことになった第七十八回株主総会に於て、各務は平生の取締役辞任を惜しんで哀切の言葉をのべました。元々彼は弁舌の人ではなく(平生と異なり)、しかも資性剛腹であり、その言説は、多くは索然たるものがあったに拘らず、この時の演述は満場に名状すべからざる感動を与えたという(以下略)そして平生に対して金三〇万円の慰労金が贈られる旨決議されました。(「平生釟三郎」p805-806)
両雄並び立たずという諺がありますが、一業専心の各務、奉仕の時代の平生の実業界での活躍、二人は戦前の実業界に輝く星であったことは間違いなく、二人は並び立てない者同士であったのかもしれません。 )
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