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他の事を調べたくて、関市史を開いたところ、松茸に関する記述がでてきました。 一つは近世、上有知に陣屋がおかれていた時代、関市の小野地区より“御用松茸”という、陣屋に献上する松茸があったことが記されていました。  時代的には寛政四年(1792)から明治三年(1870)までの記録帳が小野地区の残されていて、それを基に関市史の記述は進められています。生の松茸はもちろんのこと、塩漬けにした松茸も献上され、これは何か小野地区には願い出ることがあって、その見返りとして松茸の献上を行っていたようですが、詳しくは市史を御覧ください(「関市史」通史編、近世・近代・現代編 p240~249)
又昭和の時代には農家の現金収入として、松茸山(コケ山)の取扱があり、松茸に限っては、その山の持ち主といえども自由にとることはできず、  毎年9月17日に、松茸を取る権利を決める為、山主総代が山をコケ山を区割りし、現地にてセリにかける地域もあったということで、その値段は土地の大きさではなく、松茸が沢山出るか否かで決まったと言う事です。競り落とした者は9月30日までに代金を産地組合に収め90%をその山の持ち主に、10%を組合に按分したそうです。 競り落とした者は、コケ山にスベナワを張って、勝手に入れない事を示した。 11月11日を過ぎると、だれでも自由にどこにでも入って良かった。これをコケ山が開けると言う。(「関市史」民俗編p267~268)

関市史に記されている通り、関市では松茸が沢山とれていました。 この小野地区は、松茸で有名で出荷用に松茸をとっていました。 事務員は、母方の実家が関市の山の方にあったため、子供の頃は、毎年松茸狩りにでかけていました。その頃の事を、忘れてしまわない内に書き留めておきたいと思います。

 松茸、いまとなっては、国産はもとより外国産のものも、一部を除けば高値の華で、庶民に口に入るようなものではありません。けれど今から4~50年前は、決してそういったものではありませんでした。
 岐阜市内においても、秋になると山に行って松茸でスキヤキをという風景がみられていました。事務員の育った団地の傍の山は、伊勢湾台風を境に松茸の出が悪くなり、そういった姿もみかけなくなりましたが、細々と昭和の時代にはでていたようです。
 松茸は赤松の元にしか生えません。昭和50年前後から、マツノセンチュウによる松枯れが日本全国に発生し、赤松は大ダメージをうけてしまいます。これでほとんどの松茸山は、松茸が出なくなったのではないかと思います。このマツノセンチュウの発生は、色々な原因があるかと思うのですが、その一つが松の生える山の富栄養化が上げられています。
松は本来富栄養の土地には育ちにくいもので、昔は里山の松の葉は冬場の大切な燃料として、農民が山から他の落ち葉と共に掻いてきたものでした。

事務員の母親の実家も養蚕業を営んでおり、そこからでる桑の木の枝と山から掻いてきたマツゴ(松葉や落ち葉)を 土間にアルマイトの大ぶりの洗面器で燃やして暖を取っていました。冬休みに従姉妹と遊びに行った時にはその周りに集まって、カチ栗(拾ったのもを干したもの)や干したサツマイモを焼いて食べていたものです。
そうやって、普段から山の松の葉や落ち葉を燃料に使っていたので、松林のある山は、苔が青々と地面を覆うような場所でした。
関市史には、入札で場所を決めた云々が書いてあり、確かに松茸を取りに行くと、山に縄が張られていて、入ってはいけないという所もありましたが、自分たちは母の実家の持ち山に取りに行きました。11月ではなかったような記憶があります。
その道には、他のキノコも生えていたり、柿の木があって、それは誰かの所有物なのですが、一つ木からもらって食べたりと、おおらかな時代でした。そして松茸にも祖母が言うルールがあって、例え縄が張られていようとも、腕を伸ばして取れる範囲の松茸はとっても良いという、ひょっとしたらとても手前勝手なルールだったかもしれません。子供であった事務員は、そう言われれば、そうなんだと道すがらキョロキョロと松茸を探したものでした。
持所の松茸山に着くと、松茸を探すのですが、これは上から見ていてもなかなか分かりません。下から上を見るように松の根元の少し離れたところを見ていくと、ちょっと地面が持ち上がっているような場所があって、そこをかき分けると、まだ笠の開いていない松茸を探すことができました。一本あればその近辺には何本も出ているので、面白いようにとれたものです。殆どでなかった年もありましたが、一番沢山出た年は、半日山に入って背負いかごに一杯、測ってみたら7kg弱の松茸がとれたことがありました。
 一番おいしい食べ方は、その場で、空き缶の中で蒸し焼きのようにした焼き松茸でした。 スキヤキなどというものは、当時はごちそうで、松茸があろうともそれが登場することは我が家ではありませんでした。松茸ごはんに、お吸い物と言ったところが定番でした。それでも余ってしまうような年は松茸を、半分に割き糸に通して干し松茸にしておいて、冬にうどんに入れて食べていました。今考えたらとても贅沢な事をしていたのだと思います。小高い山とまではいかないそこは、正に里山だったのでしょう。
 それと同じ時期には、自然薯掘り(これは自然薯のツルの元に麦をまいておいて、それを頼りに自然薯を掘るというもので、かなり深く掘らないとだめですが、見事なものがとれました)やヘボ追い(今でも東濃地方ではやっているかと思いますが 地蜂の巣を探して巣ごと取るもの)の時期でもあって、松茸よりもそちらを専門にしている人にも出くわしましたが、お互いのやっていることをとやかく言うことはありませんでした。
 そんなことも、その場所にゴルフ場ができるからということで、買い上げられてしまって無くなってしまいました。そして昔歩いていた道も今は車の通れる道が立派にできています。ゴルフ場はともかく、もう誰も見向きもしなくなった里山、一度松茸の菌も死に絶えれば、又ということも無く、何より燃料にマツゴをかくことも無くなって山は姿を変えてしまったのかもしれません。
 山というものは、植林をしている場所を除けば、ずっと自然のルールに支配されてきたものと思っていましたが、やはりそこにも人間の介在があって存在してきたものなのですね。その資源を十分に使って来た昔と放置されている現在を、一概に比べることではないのですが、山から沢山の恵みを頂いていた頃が懐かしいと思いました。何度も繰り返しますが、これは4~50年前の話です。