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今年の秋も、事務員の中では恒例となっている、石垣島に行ってきました。


何度も行っているから、行くところも無くなってきたのではと、よく言われますが、そんなことはありません。天気だけは、人間がどうしようもない不確定要素で、今回は南の島に吹く北風というものを、身を持って体験しました。ただ環礁に囲まれているため、リーフの向こうの波は荒くとも、その中は比較的穏やかな波です。私が滞在した間、波が強くて、環礁の外にある、鳩間島などはフェリーが欠航という日が多かったです。 小さな離島にあっては、観光客が乗るフェリーに、島の生活物資も同時に運んでいます。もっと大きな貨物だけのフェリーは行っていたのかもしれませんが、これが台風でそれが長期になると石垣島でも生活物資が不足してくるそうです。これは綺麗な景色だけではすまされない離島の現実なのかもしれません。(写真は北風が吹く海です。)


今回私が見たいと思ったのは、島に点在し今も残る戦跡です。「八重山の戦争」(太田静男著南山舎刊)には、事細かに離島の戦争がいかなるものであったのかが書かれています。沖縄戦とは違って、ここ八重山は沖縄本島の前哨地と位置づけられ、それなりに戦闘の準備をしていたことが伺えます。それよりも、この地にあっての戦争は、戦闘よりも市街地を軍事用に使うため、市街地住民を山の方に避難させたこと…。そこはマラリアの有病地帯で、多くの方がマラリアの犠牲になられています。
八重山には「戦争マラリア」という言葉がありますが、それは石垣島の住民だけではありません。離島の住民も又避難を余儀なくされ、現在日本の有人島としては最南端の波照間島に至っては、疎開先の西表島南風見田で、その住民の97%の方がマラリアに罹患し、その内の3割以上の方が亡くなって見えます。西表島の南風見田浜…、そこは、普段はほとんど人の訪れない浜ですが、そこに避難していた波照間島の学校の先生によって、この事実を「忘れる勿れ」と刻まれた「忘れ勿石」がまだ実際に残っています(事務員も二度訪れましたが、すぐ傍まで行くのですが、現物にはまだお目にかかっていません)
 写真は、そんな島の戦跡の一つです。比較的よく保存されている壕です。国道沿いという、場所的にもわかり易い場所にあります。入口には、今も慰霊をされているのか、そのための台が置かれています。海岸にでると、琉球石灰岩の中に銃眼や壕が比較的探し易くなっています。 昔はそういったものであったところに、中学生が秘密基地みたいに遊んでいた姿がなんとも、微笑ましいと言うのか、知らないということは平和なのだなぁと思いました。 ただ山の方へ行くと、壕が沢山あるのですが、探し出すことはなかなか不可能に近い状態でした。
一つは石垣島の平得という場所の発祥の地とされる「ピライキ」(池)-写真右-のそばにこの島では最大級の壕があるはずなのですが、放置されてしまえば、亜熱帯の事、瞬く間に自然の中に封じ込められてしまいます。
戦跡というのは、いってみれば負の遺産なのかもしれません。市なりが、整備するには予算の問題もあり、又観光地にはなるわけもなく、放置するより手段がないのかもしれません。ただ決して忘れてはいけないことであり、戦跡は、ものはいいませんが、軍事動員されて昼夜を問わず、掘り進められていった壕を目の当たりにすることは重要なことでないのかと思った次第です。自然が美しく、青い海、青い空、咲き誇る花々 八重山にそういったイメージが一番ふさわしいものであることは否定しようもありませんが、この島にしても、こういう歴史があるということも又忘れてはならないことだと思います。