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同企画展は7月12日(金)~9月1日(日)まで岐阜公園にある岐阜市立歴史博物館にて開催されており、岐阜大学の郷土博物館からも何点かの古地図が出されている関係もありまして、同博物館の学芸員望月さんのご説明のもと展示を見る機会に恵まれました。
江戸時代、戦乱の世が終わり、世の中は平和な時代となって来て、今まで軍事機密的な意味合いをもっていた地図は、今度は為政者にとって、その地域を把握するために重要なものと位置づけられ。1650年代以降、大きな国全体を描いた物から、領主が自分の領地を把握するための限られた区域のための地図、あるいは特にこの美濃地方においては、治水というものが、その時々に非常に重要な課題であったために、多くの川筋、治水計画等の地図が作られていました。
そのような難しい話は、図録等の解説に譲ることにして、普段はこういったものを目にしない人間の感想を綴りたいと思います。
まず展示の中で目を引くのは、美濃の国の地図でしょう。 その大きさは軽く六畳間くらいの大きさがあります。これはご説明によれば、江戸幕府が正保・元禄・天保年間に国絵図を提出するように命じた際、幕府に提出した美濃の国絵図の下書きのようなものです(これは正保2年1645年) この作成の際、道は赤・群境は黒でというような決まりができたそうです。
大きな地図とはいえ、字が細かく、入口で貸出している双眼鏡にて見るのがおすすめですが、ほぼ現在の地名と同じ地名が載っており、たいへんに興味深いものです。
それしにても、こんなに大きな地図を書く力量のある人というのはどんな人だったのだろうと思いましたが、狩野派の絵師の方が多かったとのことでした。納得しました。
岐阜市内の街絵図は、いまに通じる道筋が分かります。地名も事細かに書いてあります。自分の住む長良地区についても「長良三郷村絵図」が展示されてり(NO18)
今長良にある町名が、19世紀に多くみられ、山からの土砂止の石済みとおぼしきものがこの時代に既に作られていたことも見て取れます。道としてわかるのは、旧高富街道がまっすぐ走っています。堤も黒で書かれており、この時代すでに堤内地に家があったことが伺え、地元民としては大へん興味深いものであります。
このような絵図が加納、金華の地区のものも展示されており、特に加納は城下町の様子と現在の様子が対比できて、地元の方は必見だと思いました。
もう一つ特徴的なのは、治水関係の絵図です。
政治の要は治山・治水であり、特に長良川は江戸時代には川筋が複雑に入り組んでおり、 何度も治水計画が立てられて、撤去すべき障害物なども事細かに書き込まれており、当時からの治水に対する緊急性というのか並々ならぬ為政者の努力を感じます。
長良川の川筋については、展示NO48「濃州勢州尾州川通絵図」がたいへんみやすく、これをみると、三川分流以前の川筋がわかり、また岐阜付近にあっては、今の近島・旦島などは昔本当に輪中の島であったことがわかります。
これだけ川筋が四方八方へ広がっていた川を今の川筋にして流していくまでには、宝暦治水があり(これによってよくなる村・悪くなってしまう村などの調査されている絵図もあります)デレーケによる明治治水があり、岐阜市内にあっては古川・古古川の締切を行った大正時代の改修を経ており、岐阜市についていえば、この大正時代の改修工事でようやく今の岐阜市の状態なったようです。
その他にも色々水に関する絵図がありますが、江戸時代から 本当に川の氾濫に悩まされ、一方では、その水利権を村で争ったという記録も残されており、興味を引きます。
そう言った係争事に関しては、岐阜はもともと一つの藩ではなく、領主も多いため隣村とは領主が異なっていたということも稀ではなく、川の水の使用・山の入り合いの問題が起こると地元では解決できず、江戸まで持って行って解決してもらったという今でいうところの判決文の証拠となるような絵図も展示されています。(展示NO32~37)
一口に地図といっても色々な使われ方によって、描かれ方も違っており、郷土を知る良い機会になると思いました。たいへんに力の入った展示が多く、なんと2時間半も地図の世界に見入ってしまいました。
地図なんてと思われる方もあるかもしれませんが、それは別方向から見れば、一点一点が手描きであるが故に、山の木の描き方であったり、デザインであったり(展示NO62美濃国地球全図)美術品としてみても、どうやってあんなに細かい字が書かれているのだろうかとか、見入れば見入るほど興味尽きないものになっています。
なかなか狭い地域でこれだけの古い地図が集まってくる機会はないのかと思います。 夏休み、長良川や岐阜公園へお出かけの際は、覗いてみて損のない展示だと思いました。