数年前岐阜市の大型ショッピングモールに「丸善・ジュンク堂」が開店しました。
現在本を買うという行為は、実物の本を見ながら物色するというよりは、ネットなどで買う事の方が多くなっています。街の小さな書店から、大きな本屋まで多くが店をたたんで行く中、ショッピングモールの一角とは言え、大きな本屋が出来たことは、あえて時代に逆行するようではありましたが、本を物色するという行為自体が好きな人間にとっては、有難いことでありました。
丸善の創業者は早矢仕有的です(写真左の本の真ん中の人物です)現在の岐阜県山県市美山町笹賀の出身の人物です。生れは天保八年(1837)。当時は岩村藩の飛び地であり、そこで代々の村医者であった山田柳長と笹賀村の庄屋早矢仕家の娘タメとの間に生まれた子ですが、父親は生まれる前に亡くなった為、早矢仕家に引き取られ幼少期を過ごした後、大垣で蘭学を、名古屋で医術を学び、18歳の時、故郷に帰り医者を開業しました。医者として非常に有能であって、患者の一人、川下の中洞村の庄屋高折善兵衛がその才能を埋もれさせるのを惜しんで、江戸へ出ることを勧めたといいます。当然金銭的な援助も行ったことでしょう(この庄屋の子孫にあたる家はいまでも美山にあります。許可を得てとった写真が右の写真です)
江戸へ出た有的は、日本橋で医者を開業し傍らで蘭学を学び、大いに繁昌していましたが、慶応三年に 突如医者を辞めて、福沢諭吉塾に入ります。
その前から医業の傍ら通ってはいたのですが、江戸から明治に時代が移っていく中で、西洋の先進医学を学びたい、その為には外国の医学書を自分で読めなくてはいけないと思ったようです。そこで彼は、福沢諭吉と彼をとりまく人脈と親交を持ち、その後の彼の人生に大きくかかわってくることになります(晩年有的の銀行経営の破綻がもとで、福沢に酷評され、決別します「横浜商人とその時代」p136)
彼が横浜にやって来たのは、江戸が明治に変わる頃、横浜黴毒病院の医師としてです。
その数か月後、明治元年11月10日 茶商「美濃屋」の店を借りて、小さな書店を開業します。最初は、東京の版元からの委託販売と、有的所蔵の書物から出発します。翌二年の正月1日付けで「丸屋商社之記」を制定し、此の日をもって開業としています。
丸屋というのは、その当時に良くあった名前で、丸=錢ということで縁起が良いという事であったそうですが、ここに早矢仕が丸屋と名付けたのは、当時店主の多くがその出身地を取って、“駿河屋”・“甲州屋”などがあったのに対して、“世界を相手に商売をする”という意味から、まず球屋としたのですが、それをマリヤ、タマヤなどと誤って呼ぶ人が多かった為、わかりやすく丸屋(マルヤ)としたという事です(「丸善百年史第1巻」p36)
そのうち、商店の屋号の下に営業者の名前を付けて呼ぶという、当時あった慣行から、
丸善と呼ばれるようになったのは、明治六年頃の事です。
もうおわかりのことと思いますが、丸善は、早矢仕有的が、自分の事業を始めるにあたり、世界を相手に商売をする丸屋と、恩人の名前善兵衛(代々は善六)から架空の店主丸屋善八を名乗り、それが丸善となったのです。
早矢仕有的が、岐阜県の出身である事は、事務員も知っておりましたが、それ以外の詳しい事はハヤシライスの命名者かも知れないというような話以外は知りませんでした。
今回、原三渓の事を調べている際に読んだ本で、早矢仕有的の姿を知ることができました。
早矢仕有的は、明治42年7月1日付『横浜貿易新報』に発表された「横浜の物故六偉人」の中に、その名を連ねています(「横浜商人とその時代」横浜開港資料館編p108)
早矢仕有的は、ただ単に丸善の創業者というのではなく、横浜が幕末に開港されて以来歴史上に名を留める偉人の一人として、横浜市民から選ばれたのです(上記の企画は、開港50周年を企画して、それまでの偉人生存者15名、物故者6名を公募したものです)
その功績として、同紙は今の横浜市立大学の大学病院の前身の十全病院の創成期に関わった事、横浜正金銀行の発起人の一人で会った事等で、“医療・貿易・会社経営・金融・市民権などの多岐にわたる”と紹介しています。
早矢仕有的については、「丸善百年史」第1巻(インターネットでPDFで閲覧可能です)や、先の「横浜商人とその時代」に詳しく見ることができます。権利に屈しない人物であったこと、会社の経営に関して、いち早く西洋式簿記の導入を計った事(これは、中村道太の入社によるところが大きい)、出資者への利益の配当、社員保障制度-死亡時に死亡退職金を支給する事など、近代的な会社経営の先駆を為すものでした(同書p116)
彼の墓碑には、
「先生ノ人ト為リ、樸直真摯、事業ニ専注スルニ当リテ殆ンド寝食ヲ忘ル、気概有リ、
深ク民権ヲ重ンジ、吏胥ノ勢ヲ狭ミ人ヲ凌グ者ヲ見レバ之ヲ憎ムコト讎ノ如シ、平生実践ヲ尚ビ、言論ヲ屑シトセズ、故ニ其名世ニ甚シク顕レズ」とあります。事業に専心し、民権を重んじて、権利に屈せず、理論よりも実践を尊んだという、彼の生涯を端的に言い表しており、言い得て妙であるとのことです(同書p138)
尚ハヤシライスについては、早矢仕有的の病院食・社員の賄い食説、上野精養軒のコック林の賄い食説、ハッシュドビーフライスからハヤシライスに転じたものと諸説があります。