●早野邸パネル紹介
地域資料・情報センターは、早野邸に、中山道・赤坂に関連したパネルを展示しております。若干の説明を加えさせていただきますと
「東京国立博物館蔵の赤坂宿の絵図」は、地図ではありますが、色彩も美しく、地名等の記載もありますので、現在との比較もできます。
昼飯大塚古墳も書かれていますので、一つの目安になると思います。
中山道をラクダが通った については、名古屋市博物館資料証書3_14「猿猴庵の本」絵本駱駝具誌に大へん詳しく書かれています。
駱駝の絵もその特徴である長い睫の目がアニメ調で書かれており、見ていて大へんおもしろい本です。
この本によりますと、この赤坂宿を通ったのであろうラクダは、文政四年(1821)7月にオランダ船より、幕府への献上品として持ち込まれたものです。
幕府に献上を却下された為、何人かの手を経て興行師の手許に渡り、以後約10年近くにわたり日本全国を興行行脚したようです。
昼飯村を通過したのは、文政7年(1824)のことです。ここでは興行はなかったようです。
ラクダの見世物は、名古屋の大須で、駱駝が日本に到着してから5年後の文政9年のことです。
すでに各地でラクダブームが起こっており、駱駝櫛、(駱駝のこぶをかたどった櫛)・ラクダ凧・すごろく・お雛様などのグッズもつくられており、人気を博していたようです。
名古屋での見世物興行の木戸銭は32文(現在の価値で1000円前後)
他に小さく切ったサツマイモを一切れ4文(100円ちょっと)で見物人に買わせて食べされるということも人気となりました。
らくだの日本での主食は大根・ウルマイモ(さつまいものこと)でイモなら二頭で一日135キロを食していたので、この餌をやるというアトラクションは一石二鳥だったのかもしれませんね
そんなに、待望されてたラクダですが、ブームは意外に早く下火となり、翌年の興行時には木戸銭が24文(700円ちょっと)にまで下落しています。
そして、その後のラクダは、一匹は熱田あたりで命を落とし、残った一匹で興行を続けたものの、最後は浪花に三年いた後死んでいます。
ただ、この時代に娯楽としての見世物に1000円近いお金を払って見に行ったり、グッズを買ったりというブームがあったことは、ある意味、この地の豊かさの象徴であったのかもしれません。
尚、中山道は、垂井宿と赤坂宿の中間より名古屋に向けて美濃路という往還が分かれます。この道は象が、ラクダが通る100年ほど前にとおっていますし、
朝鮮通信使(10回)・琉球王使(11回)・お茶壺道中(毎年)と往来の多い道でありました。(東海道では今の名古屋から桑名までが海路であったため、事故も多く、
遠回りであっても安全な美濃路が使われたということのようです)