佐藤 貴裕
1 オトムジリ
戸板康二『家元の女弟子』(文春文庫 一九九三)を読んでいたら、おもしろい言葉に出会った。
「おとむじりって何です」と私は急いで質問した。はじめて耳にすることばだからである。
「竹野さんは山の手の方だから、耳馴れないかもしれませんが、昔から私たちの使っている言葉でしてね、母親のおなかに二度目の赤ちゃんができると、ひとりっ子に弟か妹がやがて生まれることになるんですが、母親に子供が生まれるときまったころから、異様に母親に甘えて離れない、そういうことをいうんですよ」というていねいな解説だった。(「おとむじり」二四五〜六頁)
「竹野」は、この小説の主人公で、新聞社の芸能担当記者。年齢は五〇才代くらいだろうか。答えているのは「東京の下町、昔の地名でいうと日本橋の小網町」の出身で「いまどきの五十代以下の東京人とは、すこしちがった語彙で話す」「ことし七十になる老女」である。
こうした性向が幼児にあることはともかく、それを表す単語があることを私ははじめて知った。登場人物の竹野と同じである。私は、六〇才を越えた両親はじめ、何人かに尋ねてみたのたが、だれも知らない。いつの間にか忘れられてしまった単語のようである。しかし、「いつの間にか忘れられ」るというのは落ちつかない。言葉の変化に興味があるので、単語が使われなくなるという事態を説明したくなるからなのだろう。そこで、オトムジリについて調べはじめているのだが、正直に言って、調べ、考えるほどに分からなくなってきた。
2 語の消滅について
語の歴史をあつかった論考は数多いが、それらのなかでは、ある語形が使われなく理由を述べるのが普通である。すべての単語は、コミュニケーション上、必要だからこそ生まれてくるわけだから、使われなくなるにはそれなりの理由があるはず、と考えるためであろう。
すべての論考を読んだわけではないが、ある単語が使われなくなるのは、普通、二つの要因のどちらかで説明される。ひとつは、その単語の意味することがらが消滅する場合である。廃物廃語ともいうが、表すべき意味・概念がなくなるのだから、単語が使われなくなるのはごく自然のことである。もう一つの説明は、新しい語が登場して意味を引きついだため、もとの語が使われなくなるというものである。細かくみれば、音韻変化などで別の語と同じ形になって使いづらいとか、思わず使いたくなる魅力的な語形が生まれたとか、語ごとの事情があることもある。が、大きくみれば、新語が生まれると在来の語が使われなくなるというパタンはよくある。
オトムジリの場合、この二つのうち、どちらがふさわしいのだろうか。それを探っていくのが、私の問題意識なのだが、そのまえにオトムジリがどのように使われているのかをみておきたい。「日本橋の小網町」だけで使われていたのであれば私の手にはとどかないし、広い地域で使われていたのであれば相応に手がかりも増え、深い検討への足がかりにもなるかと思うからである。
3 宮城県のオトムジリと語源
オトムジリは、いくつかの大規模な辞典や民俗語辞典・方言集に収載されている。ただし、いずれも宮城県の方言形であって、東京下町の例は見あたらなかった。
オトムジリ 方言。母の妊娠に会って、子供が不機嫌になること。仙台市@。(『大辞典』)
おとむぢり 名 乳児ある中に又懐妊して其乳児が不機嫌になること。(土井八枝『仙台の方言』一九三八)
オドムズリ[産]宮城県伊具郡筆甫村で、乳離れの幼児のむつかることをいう(山村手帖)。(柳田国男『綜合日本民俗語彙』)
冒頭のオトムジリとは意味がずれるが、「異様に母親に甘えて離れない」から「不機嫌」「むつかる」までの距離はそう遠くはない。
そこで、いましばらく宮城県の方言に注目してみる。辞典によっては語源を示すものがあり、オトムジリについての知見を豊かにしてくれそうである。
おとむじり オドムズィリ あとが出るようになると乳の出が細くなるので、乳児はなんとなく機嫌が悪くなる。弟見曲りである。ムジリはすねること。(藤原勉「方言」『宮城県史』20 一九六〇)
をとむづり(略)むづりはむつかるの意なるべく、をとみむつかりなるべし。(真山彬〈青果〉『仙台方言考』刀江書院 一九三六)
さらに、浅野建二『仙台方言辞典』(東京堂 一九八五)によれば、土井八枝『仙台方言集』は「弟拗り」の表記を挙げるという。これも語源解釈の結果だろう。
これらの語源説は方言集編者のものだが、その根拠は、オトムジリの一部分から連想される類音類義語を挙げただけで、かならずしも学術的なものではないらしい。そのため、ムジルにせよムツカルにせよ、言語使用者にも思いつきやすい語源であるともいえる。オトムジリにもきちんとした意味があると納得でき、その納得がオトムジリを使う動機になるような語源である。
一方では、語源が、本来の形を変化させることがある。「一所懸命(の地)」が「一生懸命」と書かれるなどは、よく知られた例である。そこで、オトムジリでも同じことあった可能性が考えられる。原形は、いくつかの文献でも指摘されているオトミズワリ・オトミツワリである。
オドムじり〔←弟見曲り〕乳児のあるうちに又懐妊して、その乳児が不機嫌になること。オトミ・オトミヅワリ(魃)などともいう。(『仙台方言辞典』)
オトムツリ[産]仙台地方で、乳児のあるうちに次の児の生れることをいう(方言集)。オトミツワリの約か。(『綜合日本民俗語彙』)
おとみ‐づわり【弟見悪阻】小児の病の名。母親が妊娠してつわりとなったため乳離れさせられた子に起る病気。おとみわずらい。おとみよわり。おとみまけ。(和訓栞)(『広辞苑』第五版。旧仮名遣表示を省略)
宮城県でもオトミズワリの形があり、発病のタイミングも一緒である。江戸時代の国語辞典『和訓栞』の名が挙げられているように歴史的にもさかのぼれる語形である。語形も近い。ミとズの母音が交替すればオトムジワリとなる。この段階で先のような語源解釈によってオトムジリになったのであろう。
このように考えられれば、オトムジリという語があること自体、語源解釈がなされたことを意味することになる。また、そういった語源解釈が生じるのは、オトムジリが生き生きと使われていたことを示していよう。乳幼児の状況をつぶさに見、それにふさわしい言葉を使おうという思いがなければ、生まれにくいと思うからである。
以上のように、オトムジリは、東京下町だけでなく宮城県でもさかんに使われていたようである。そうなると、全国的にも使われている可能性があるように思われる。
4 全国にひろがる類語
オトムジリのように母親が妊娠した乳幼児に注目する語は、早くより民俗学が採りあげるところで、産育民俗に造詣の深い大藤ゆきは全国にあるものという。
妊娠についての多くの俗信中、第二子の出生については、およそ全国を通じて同じようないい伝えがある。
たとえば最初の子が自分の股をのぞくと、次の子ができるという。これをアト見る子はオト見るという。オトは弟とか末子とかを指しているので、次の子ができる意味である。あるいは子どもが気むずかしくなると、やはり次ができているといい、これをオトマケしたという。このマケはイミマケなどと同じ使い方で、精神上の障碍が体の上に徴候としてあらわれるという考え方から発しているものであろう。(『児やらい』岩崎美術社 一九六八 二二三頁)
これを受けて、実際に全国で使われているさまを確認したい。具体的には、『日本方言大辞典』をはじめとする方言辞典などで、語形か意味のうえでオトムジリに通じる単語を拾っていくことになる。なお、語義はオトムジリのように単に甘えるだけにとどまらないので、語釈も引いておく。『日本方言大辞典』のように依拠資料を番号で記すものもあるが、省略した。
A母の妊娠で幼児が弱る
おとじけ【弟─】母親が妊娠して乳の出が悪くなったり年子が生まれて、まだ授乳期にある上の子が母乳不足で弱ること。京都府竹野郡
おとみまけ【弟見負】@母親の妊娠によって乳児が乳不足で体力が弱ったり不機嫌になったりすること。岩手県気仙郡 宮城県栗原郡 山形県西置賜郡 新潟県 《うっとぅまき・うっとぅみーよーがり》沖縄県首里 A(略)Bつわりの強い時、幼児が栄養不良になる。《おとまけ》青森県三戸郡(以上『日本方言大辞典』)
オトジケ 次の妊娠のために子供が弱る現象をいう。〔(兵庫県)飾磨郡置塩村糸田〕
オトミ、オトミマケ。母親が次の子を妊娠したために、授乳期にある先の子供が乳不足になって弱ることをいう。〔(青森県)三戸郡館村〕(以上『日本産育習俗資料集成』。私に県名を補う)
B母の妊娠で幼児が病気になる
おとみ @(略)Aまだ乳離れしない子が母親の懐妊によって陥る栄養不良の結果、病的になったもの。(『高知県方言辞典』)
おとみつわり【弟見悪阻】母親が妊娠してつわりのひどい時、乳児が乳不足で起こす病気。長崎県対馬 《おとみ》青森県上北郡
おとみわずらい【弟見】次の子が母親の胎内に宿ったために、栄養不足などで乳児が起こす病気。富山県砺波(以上『日本方言大辞典』)
C母の妊娠で弱った幼児
おとみ【弟見】@(略)A乳児のうちに母親が妊娠して乳不足になり、栄養不良で弱った子供。宮城県 秋田県鹿角郡 新潟県佐渡 岐阜県飛騨 香川県三豊郡 愛媛県 高知県
しけご【時化子】@母親の懐妊による乳離れで発育の悪くなった乳児。長崎県壱岐島(以上『日本方言大辞典』)
オトミゴ[産](略)山形県荘内地方では次の妊娠のために乳飲児のよく泣くもの、佐渡の相川町などではそのために痩せ衰えたものをいう。(『綜合日本民俗語彙』)
オトムジリの類語は、青森から沖縄までの広い地域で使われている。なお、工藤力男氏(成城大学)の御教示によれば、秋田県でも、かつてオトムジリと同じ意味でマンキという語を使っていたらしいという。おそらくはほかにも、文献に記録されてはいないが、オトムジリの類語が各地で使われていたのではなかろうか。
ところで、オトムジリには〈時期:母親の妊娠〉〈人:乳幼児〉〈状態:甘える・不機嫌になる〉という三つの要素がある。右のABは〈状態〉が〈弱る・病気になる〉に変わっただけのものであり、Cもそれに準じるものである。が、この三つの要素がそろっていなかったり、内容が大きく変わったりした類語もある。
D〈人〉が変化したもの。
おとみまけ【弟見負】@(略)A妊婦の発散する毒素のために家族が栄養障害を起こすこと。新潟県東蒲原郡(『日本方言大辞典』)
おとみ @A(略)B妻の懐妊したとき、夫が原因不明で病的症状をおこすこと。
おとみわづらい(幡ア)妻が懐妊したとき、夫が原因不明の病的症状をおこすこと。(以上『高知県方言辞典』)
妊娠した妻がつわりで苦しんでいるとき、その夫も食欲不振となり体の変調を訴えたりすることが県下にわずかにみられる。これを飯山市桑名川では、オトミマケと呼んでいた。(『長野県史 民俗編 第五巻 総説T』一九九一)
E〈状態〉が欠けたもの。
おとみ【弟見】@乳児がいる時に母親が妊娠した場合、その乳児。新潟県佐渡 西頸城郡 《おとみご〔−子〕》岩手県気仙郡 山形県 《おとみっこ》新潟県
おとみばら【弟見腹】(「次子を見る腹」の意)乳児がいる母の懐妊。《おとみ》とも。新潟県中蒲原郡《うっとぅみし》沖縄県首里(以上『日本方言大辞典』)
オトムツリ[産]仙台地方で、乳児のあるうちに次の児の生れることをいう(方言集)。(『綜合日本民俗語彙』)
F次の子の妊娠、次の子、妊娠など。
おとみ【弟見】@A(略)B末っ子。また、乳児。新潟県中頸城郡 《おとみっこ》新潟県上越市中頸城郡 C乳児のいる時に生まれる次の子。群馬県多野郡 新潟県東蒲原郡 D弟、妹。《おとみっこ》新潟県岩船郡
おとみる【弟見】〔動〕@次の子を妊娠する。青森県三戸郡 新潟県岩船郡 中頸城郡 《おとめる》富山県 《おとをみる》富山県高岡市《うっとぅみゆい》鹿児島県喜界島 《うっとぅみしゆん》沖縄県首里 A妊娠する。山形県飽海郡 新潟県中頚城郡《おとをみる》新潟県中頚城郡 B次の子が生まれる。富山県砺波(以上『日本方言大辞典』)
このほか、さきに記したマンキには「A子供のしっと。山形県東田川郡・西田川郡」(『日本方言大辞典』)というのもある。わざわざ大人の嫉妬と区別した背景やきっかけを想像すると、かつてはオトムジリの類語が使われていたこと思わせる。
このような例も含め、オトムジリの類語は全国的に広く使われていたことが知られる。語形・意味のうえで多少異なりはあるが、これは、それぞれの地域の人々が使いやすいように変えていった、ひいては日常生活に密着した語であったことを示していよう。また一方で、このような全国的な広がりは、オトムジリの類語が歴史的にも長く使われてきたことを予想させる。現在、過去の文献資料を調査しているが、詳細は別稿にゆずりたい。
このようにオトムジリとその類語は生活に密着した語として広く使われていたらしいことがわかった。そのような語が使われなくなるには相応の理由があるはずである。そこで、最初の問題意識に立ち返ってみたい。
5 アカチャンガエリへの違和感
ある単語が使われなくなる理由として、さししめす現象・事態がなくなるか、別の新語が登場するかがまず考えられる。オトムジリの場合、以下に示すように、現象としては現代でもあり、意味を肩代わりするかに見える語形がないわけではない。
岡島昭浩氏(福井大学)に、オトムジリと同じ意味をアカチャンガエリ(赤ちゃん返り)が担っているようだと教えていただいた。これをキーワードにインターネット上を検索したところ、次のような例があった。
真香ちゃんがお腹にいる時は、家族はもちろん周りの友達も皆男の子と信じ、寅年生まれにちなみ「寅キチ」と呼んでいた。お姉ちゃんになる長女の優香(ゆうか)ちゃん(当時5歳)も「寅キチ」と話しかけ、生まれるのを楽しみにしていた。しかしある時よりママに急に甘えるようになり、赤ちゃん返りが始まった。それまでおしゃまでお姉さん気取りだったので「優香にはないんだ」と思っていたママもびっくり。(テレビ朝日ホームページ内『徹子の部屋』「妹誕生で赤ちゃん返りの長女」(出演:森尾由美)http://www.tv-asahi.co.jp/tetsuko/backno/html/990309.html)
まず、現象の確認から。引用の部分からも明らかなように、「おとむじり」は現代でもあることになる。また、『2人目準備ガイドBOOK』(ベネッセ 一九九七)には、二人以上の子を持つ母親一〇〇人を対象にしたアンケート結果を載せており、「上の子は赤ちゃん返りをしましたか?」の問いに、なんらかの形で赤ちゃん返りしたと回答したのは六四人にのぼった。さらに右の引用に「『優香にはないんだ』と思っていた」とあるのは興味深い。この母親(森尾由美)は、「おおむじり」を予想していたことになるからである。『2人目準備ガイドBOOK』のアンケート結果でも、「やっぱり(赤ちゃん返り)した」と答えた母親は四一人にのぼった。
このように、「おとむじり」が現代でもあることは間違いなく、二人めの子を妊娠した母親なら覚悟すべきものとすら捉えられているもののようである。したがって、オトムジリは、表すべき意味・概念がなくなったために使われなくなったのではないということになる。
では、右の例にも出てくるアカチャンガエリという語のためにオトムジリが消滅したのだろうか。もちろん、私も、そうした代替語の出現ということで解決できればそれに越したことはないと思うが、少しばかり気になることがある。
まず、アカチャンガエリが、必ずしも「おとむじり」だけを表す語ではないことがある。弟妹が出産されてから甘える場合にも使えるようで、『2人目準備ガイドBOOK』の体験談の多くはそうであった。また、「『赤ちゃん返り』する小学生──言い分通らず『家に帰る』」(見出し。『Aera』一九九七・六・三〇)のような例もある。こうなるとアカチャンガエリは、心理学用語「退行」の俗称とみた方がわかりやすい。精神状態の変調による年齢に似合わない行動ならすべて表せる、あまりに便利な単語なのである。
また、これと表裏の問題だが、アカチャンガエリは、その愛すべき響きにも似ず、影のある重い語である。実は、アカチャンガエリという語を知らされてまず私が想起したのは、痴呆症老人の異常行動であった。また、「退行」の俗称であれば、次のような深刻な文脈にもあらわれうるものである。
失立(身体的損傷がないのに起立できない症状──佐藤注)は現実生活に不適応をきたした結果生じたもので、いわゆる〈赤ちゃんがえり〉をした状態と同等である。(略)本症状は、不登校(登校拒否)児童にしばしば見られる。(「失立」『精神医学大事典』講談社 一九八四)
このような深刻な症状まで表すアカチャンガエリでオトムジリを表したとしたら、かえってマイナスであろう。この語のためにお母さんたちの心理的な負担が増さないよう祈るばかりだが、こうした語への乗り換えは、変化の流れとしても自然ではないように思う。
このような点で、アカチャンガエリが使われていることに違和感を覚えるのである。この背景には、単にオトムジリを肩代わりしたというのではない、なにか別の事情があるように感じられるのである。
6 理由なき消滅
『家元の女弟子』の別の部分を見てみよう。登場人物・竹野の妻の会話である。
「私もおとむじりという言葉はいま聞いたばかりですけれど、姉と年子だったから、私が母のおなかにはいった時、まだ数えの三つになったばかりの姉がしきりに母にまつわりついたものだと、のちのちまで姉に母がいって、からかっていたものですよ」(二四六〜七頁)
「おとむじり」のような現象は聞き知っているが、それを表す言葉がない、という状況である。もちろん、引用しなかった部分にアカチャンガエリなどの別語が出てくるわけでもない。同じような状況はオトムジリの類語ウットゥミーにも見られる。参考までに引用する。
「ウットゥミー」と言う言葉がある。最初、私はその意味がわからず、先輩や同僚の医師たちに尋ねて見たが、明解な返事は得られなかった。それではと一般の高齢の人たちにお聞きしたら、母親が続けて妊娠・分娩する時に母子に起る病気だと教えてくれた。(中略) 現代社会の豊かさや少子化など、ウットゥミーの発生する環境は改善されているけれども、完全にウットゥミーが無くなったとは考えにくい。言葉はなくなっても「ウットゥミー」症候群は完全になくなることはないだろうと思う。文明・文化の進んだ社会においても心身医学的な障害は多い。(城間祥行「ウットゥミー(弟見)」『沖縄県医師会報』一九九八・四)
オトムジリをはじめて知った私と同じく、この医師もウットゥミーという語を知らなかった。その、知らなかったという事実から「言葉はなくなっ」たと判断したのであろう。なお、「『ウットゥミー』症候群」は、このエッセイのための臨時の造語のようである。
こうした例をみても、やはり、オトムジリは、一度は消滅したと考えた方がいいようである。しかも、代替する語もないままに。
この代替語の欠如という点は、アカチャンガエリの存在自体が証明しているように思う。アカチャンガエリは、意味範囲が広く、そのために深刻な病的症状も表せる重い語であった。そのような、あまり好ましくない語で「おとむじり」を表すようになるには、すでに語形オトムジリが消滅していたとすれば納得がいくのである。つまり、名称もないような現象が身近に起こるのは薄気味悪いので、ともかくも、アカチャンガエリと呼ぶことにしたのだろう。たしかに、アカチャンガエリは急場しのぎにはふさわしい語形である。初めて聞いても意味は察せられるし、耳にも心地よく響く。姿・形は飛びつきやすい語形である。
このようにアカチャンガエリへの違和感が解消されることからも、オトムジリは肩代わりする語もないままに消滅したと考えられそうである。
念のため、使われなくなる理由を他にも考えるのだが、うまく当てはまらない。たとえば、語源が不明瞭な語は使われなくなるが、オトムジリのように明確な現象なら、語源の分かりやすい新語がすぐに登場しそうである。あるいは、シット(嫉妬)・ヤキモチ(焼き餅)などの別語に吸収された可能性も考えるのだが、それならそれで、アカチャンガエリという語形を新たに求めたことが説明できない。
また、社会生活の変化なども考えてみる。核家族化で前の世代からの言語が伝承されにくいというが、オトムジリに直面するのは核家族を構成する人々である。つまり、単語を欲するのは若い世代であり、出産には、産科医・助産婦をはじめ、識見・経験ゆたかな人々と接する機会はいくらでもある。出産をきっかけにして、実家との交信が頻繁になることもあろう。もちろん、すべての世帯が核家族なのではないから、これも直接の要因にはなりにくい。方言衰退の傾向を持ち出してもほぼ同様である。ことに、共通語に語形が準備されていないのだから、いっそう考えにくいのではないか。
このように、オトムジリは、理由なく消えていった語である、というのが現在までの私の結論である。
7 おわりに
このように、従来考えられてきた語の消滅の要因は、オトムジリにはあてはまりにくいようである。もちろん、そのような語を追究することで、あらたな消滅のパタンが見つかるかもしれないし、見つからないまでも何らかの知見が得られることであろう。
たとえば、ささやかで、またごくごく常識的なことではあるが、この語にめぐりあって、語の変化を考えることが、いかに難しいかを改めて知ったような気がする。
仮に、五〇年後・一〇〇年後に、この語を問題にする人が現れたら、オトムジリはアカチャンガエリに代わられたというかもしれない。時間の経過が「おとむじり」を表す語の空白期間をないかのように見せるからである。また、私のアカチャンガエリへの違和感などは、現在生きているからこそのもので、一〇〇年後の人にとっては考慮されないかもしれない。
が、同じことは、現在我々が過去の語の歴史を見るときにも当てはまるのではないか。見逃している事柄が多くあるのではないだろうか。そう思うとそら恐ろしいかぎりだが、だからといって言語変化の研究を無意味なものと言っているのではない。見逃しを少しでもなくしたいということにほかならない。
『月刊日本語学』1999年9月号所収