「岐阜大学教育学部研究報告 人文科学」第47巻第2号(1999.3)所収
笙野頼子論−フェミニズム批評のための鏡− 根岸 泰子
1 序にかえて−笙野頼子の「難解さ」について−
まとまった笙野頼子論としては比較的新しい部類に属する野谷文昭の「笙野頼子論−マジックとリアリズムのはざまで」(「文学界」、一九九七・六)もまた、それまでの論と同様に笙野頼子を論じることの困難さから論を書き起こしている。そして笙野頼子も自身に貼られた「九〇年代難解派」というレッテルを自嘲的に認めている(1)。たしかに笙野頼子のテキストは、「奇怪」な幻想が踊り狂うという意味では難解かもしれない。「私」のところには、さわると爆発する恋愛用マグロから電話がかかってくるし、商店街を歩けば店がアメーバー状になってふたつに分裂しはじめる。人面猫たちが町を練り歩き、マンションの部屋中に水が染み出し、そして「夢と現が逆転し、世界の輪郭は溶けてしまう」(2)。そしてその悪夢の中で「私」はサイボーグ桃木跳蛇(ももき・とびへび)と一体化し、魔都スプラッタシティで男女のゾンビたちと死闘を展開するのだ。 だが彼女の作品は断じて難解ではない。この小稿の前半はその説明に費やされることになるが、さきに結論を言うならば、彼女のテキストがのった台座自体が、既成の文学的な制度を拒否し、凶暴なまでに現実的で日常的な−笙野自身の言葉を借りるならば「小市民」(3)の感性によって認識された世界であることが、彼女が難解とされる最大の原因なのだ。ただしこれが単なる「小市民」の感性であるならばそれほどそれが難解なはずはないのだが、肝心なのはこれが性別女の「小市民」である点だ。ここにしばしば指摘されるフェミニズムと笙野頼子の文学の親和性の根拠がある。 ところで性別が女であることが作品の難解さの原因だというのは、依然としてあまり明確な理由づけにはなっていないように思われるかもしれない。しかしここにミソジニー(女性憎悪・女性嫌悪)という概念を導入するとその説明はたいへん容易になる。詳細は第二節に譲るが、読者のうちのミソジニーの意識が笙野頼子のテキストを読むための阻害要因になることは確かである。つまり読者自身の性別が、笙野頼子のテキストを読むさいに一種のフィルターとして作用してしまうのだ(これについては、のちほどいくつかの男性批評家による笙野評を参照してみたい)。しかも、これは必ずしも女性の読者であれば笙野のテキストを読み解けるということを意味しはしないことも私は強調しておきたい。ミソジニーの意識は女性自身の中にも強固に巣くっているからである。 先に挙げたような笙野頼子のテキスト中の(以下、この論考では特にことわらないかぎり、笙野頼子という記号は笙野のテキスト全般を指すこととする)さまざまな「奇怪な幻想」もまた、ミソジニーの瀰漫した世界の中で、それに抵抗するさなかに必然的に「私」の中に生まれてくる幻想であるといえよう。これはそのような世界の中でそれに対抗するための自己の拠りどころであったり、あるいはその中で疲れ果てた末の幻覚であったり、それでもそこで過ごしていくための自己防衛の戦法であったり、あるいはあるがままに世界を眺めたときに見えてくる世界の実相であったりする。つまり読者がミソジニーについてある程度理解すれば、すくなくともそれらの奇怪な幻想が生まれてくる根拠については納得できるはずなのだ。 だがその前に笙野頼子の作品世界のなかのいくつかの核を指摘し、それらの相互の関係性についてごく簡単に触れておきたい。私見では笙野頼子のテキストの台座はそのようなミソジニー的なものが瀰漫した世界として規定されており、したがって「私」はつねにそのようなものとの闘争の拠点としてあるわけだが、ある時期−たぶん一九九三年以降−からその世界に登場しはじめる〈猫〉はあらたに、まったくミソジニーに汚染されていない世界の象徴としての意味を笙野頼子の中で担いはじめる。だがこの新世界を抱え込んだこと自体が、「私」のヴァルネラビリティーともなる。ミソジニーの瀰漫する世界の中で「私」はいっそう攻撃されやすい弱点を抱え込み、しかもそのヴァルネラビリティーそのものが「私」にとってはこのような世界で生き続けていくためのほとんど唯一の実感的な根拠となっているため、「私」はますます世界に対し攻撃的になりそしてまた傷つきやすくなっていく。このような悲劇的な円環構造は、キャトまたはナツハと呼ばれる猫と、ドラ、スリコ、ルコラなどと呼ばれる二体の猫によって象徴される。おのおのが笙野頼子の世界のなかにつくりだすものの意味については別稿に譲りたいが、彼らの存在が笙野頼子の世界に単なるフェミニズム・イデオロギーの作品化ではない、あるいはむしろフェミニズムのイズムに抵抗していくようなきわめて明晰な叙情の核になっていることだけはとりあえず指摘しておきたい。 もうひとつの核は〈母〉だろう。初期作品からさまざまなヴァリエーションで登場する〈母〉のイメージは、フェミニズムの理論が理論であるがゆえにまぬがれえない普遍化の傾向からきっぱりと笙野頼子が決別する場所でもある。〈母〉とはミソジニーが集中的に集結した悪夢のようなスポットであるとともに、「私」にとっては唯一無二の取り替えのきかない一回性の存在であり、理論はそのような不条理の前ではしばしば沈黙を余儀なくされる。初期作品から「イセ市、ハルチ」(1991.2)「なにもしていない」(1991.5)「居場所もなかった」(1992.7)「タイムスリップ・コンビナート」(1994.6)「二百回忌」(1993.12)を経て、「母の縮小」(1994.4)にはじまる傑作「母の発達」(1995.秋号)での伸縮自在な母のデフォルメ、そして「壊れるところを見ていた」(1997.1)を分岐点として「竜女の葬送」(1997.11)に顕現する、作者の手によって奇怪なほどに様式化された神話構造の中に封じ込められた母と娘の世界へと、〈母〉はさまざまな様相に変幻する。この部分についてもあらためて別稿で論じる予定である。 さて前置きが長くなった。笙野頼子の世界の全体構成の解明自体は先にふれたようにあと二つの別稿を組み合わせて完成することになる。この稿はまず手始めとしての、笙野頼子の世界の台座の部分、「小市民(性別女)」性の意味およびミソジニーの瀰漫する世界についての解説であり、そのもっとも象徴的な例としての「レストレス・ドリーム」(4)を中心に解析しながら笙野頼子の〈文学〉の意味について考察していきたい。 2 小市民性およびミソジニーについて
彼女の作品に驚くべき点があるとすればそれは、あまりにも普通でまともで常識的な小市民の感性がそこに展開されている点だろう。
頭の中の引き算は同じものを二回引いたり昨日の買い物のレシート分をうっかりと混ぜてしまうことが多い。特に今日は徹夜明けだから計算そのものも全体にねばねばと糸を引いてしまうし、数字に可愛らしい足が生えて夜明けに逃げて行くイタチみたいに機嫌良くどこかへ走っていったりする。が、ともかくもはっきりとしているのは今、私のお金が少ないという認識ばかりである。そのくせ、世間の目はともかくとして自分では特に貧乏だとも思えないのである。 私には一度だけ婦人雑誌のエッセー五枚を引き受けたという経験があったが、その他はだいたい文芸誌関係だけで自活していた。むろんその収入は同世代の勤め人の半分ほどでしかなく、それでも物喰う口は私の他には、大家に内緒で飼っている猫一匹だけだし、人付き合いがほとんどないので交際費もいらず、時々原稿料を期日よりも早く払って貰い、電話代等はあまり気にせず、無事に暮らせた。(「増殖商店街」より)(5) ここには、これまでは断じて〈文学〉のステージにはのぼってこなかったような、すくなくとも「文学者」の規定のイメージの中にはとらえられなかったような「私」のリアリティが、たとえば「短さや淡さ、余韻や多義性」といった許容可能な〈文学〉的滅菌処理を受けることなく、凶暴なまでに生(なま)のかたちでテキストにあふれ出している(6)。 今日まで「私小説」で展開され続けてきた「貧にあえぐ小説家」(貧乏は彼の小説家としての自意識にとって大切な衣装である)という文学公認のキャラクターとこの「私」が決定的に違うのは、小説家であることが彼女の作品の中ではまったく特権化されていない点にある(7)。 そこで笙野頼子の特徴を、彼女の言葉を借りて再度、「小市民」性と名づけておこう。くり返すが、この小市民は性別が女である。ここにミソジニーという問題意識が発生する。都会の中で「私」のような境遇にいてしかも性別が女であれば、「私」は「小説家」という社会的ポジションによってカバーできる範囲をはるかに逸脱した過酷な現実のまっただ中に否応なしに立たされることになるのだ。 たとえば「居場所もなかった」での編集者との会話のなかでの
−ともかくね、この印鑑ってやつ・・・・・・印鑑証明くらいで何でこんなに主人公がじたばたするのか、やたら怒るのか、たいていの人が簡単に通り過ぎるところでどうしていちいちこんなに問題が起こったり考え込んでしまったりするんですか。大体ね、やり方次第で部屋を借りるなんて非常に簡単なことなんです。 立場と生活歴が違うだけだ、とぼんやり感じた。 はそれをよく示している。「たいていの人が簡単に通り過ぎる」「非常に簡単なこと」(傍点稿者)も、客観的に見ればそれが可能な立場にいる強者にのみ可能な発言にすぎないわけで、「私」はそれが可能ではない弱者のポジションにいるのだということが、強者−「公務員」の「息子」で「勤め人」の「彼」−にはまったく見えないのだ。同様に、読者が強者のポジションに立っているときには、笙野頼子のテキストは「理解できない」のである(8)。 ここまで論じてくればある程度理解が可能だと思うが、「私」のいるポジションとはまさにこれまでフェミニズムが論じてきたところの、女性の置かれたポジションそのものにほかならない。笙野頼子のテキストの特徴とは、女性にとっての生(なま)のままの現実が〈文学〉的な滅菌処理がなされないままに過剰に横溢している点にある(9)。これこそがフェミニズムがその対象とする現実だ。 ではなぜ性別が女の小市民は弱者となってしまうのか。あるいは笙野頼子はそれをどう解釈しているのか。 一般に笙野頼子とフェミニズムとの相関性はしばしば指摘されることであるが、よくつかわれる「ファロセントリック」だの「男性中心主義的」な「言語国家との戦争」という常套句は、笙野頼子のもつ特質をフェミニズム批評もしくはフェミニズム的批評が現在かろうじて生息可能な領域内へと、囲い込んでしまうおそれがある。それよりは「ミソジニー」という概念の方が、笙野頼子を論じる際にはより現実的だろう。 ミソジニーとは、woman hating−女性憎悪もしくは女性嫌悪のことである。ごく簡単にいえばこれは父権制社会の必然的な産物であり、男性よりも劣位とされる女性への男性の憎悪・嫌悪(そして潜在的にある恐怖)の感覚の称である。具体的には女性への愛玩・揶揄あたりにはじまって無視・侮蔑から積極的な攻撃・殺意にまで拡大する幅広い範囲にわたっている(10)。当然、父権制社会の価値観を自己のうちに規範化した女性もまたミソジニーを自己のうちに取り込むことになり、これは無意識の自己否定の歪みを伴うことで男性以上にねじくれた様相を呈する場合がある。いずれにせよ多かれ少なかれ現代社会に生きる我々が免れえないものといえるだろう。 笙野頼子の作品内では悪夢的な奇怪な幻影が繰り広げられるとされている。しかしながら現実世界でも女性嫌悪が作用する磁場では、女性の姿が透明になったり、ことばがどうやっても相手に通じないといった程度のホラーは実は日常茶飯なのだ。一例としてイギリスのジャーナリスト兼作家のジョーン・スミス(女性)の『男はみんな女が嫌い』(原題 MYSOGYNIES,1989)中の「一幕劇 ガス検査員の訪問」を引用してみよう。 場所 −スティープルトン・アストンの、ある一軒家
時 −二月のある朝 登場人物−ジョーン・S 女性作家 フランシス・W 男性作家 P ガス会社の訪問員 (呼鈴が鳴る。フランシス・Wが玄関に出てドアを開ける。)
P:おはようございます、こちらはWさんのお宅ですか。(フランシス ・Wうなずく)。ガス会社からきたPと申します。本館からお宅まで、どこに管を通せばいいか、下見にきました。長くはかかりません。フランシス・W:はい、どうぞ。(玄関ホールを横切って、Pを大きな台所に案内する。窓のしたにレイバーン社製のガスレンジがある)。こちらが同居人のジョーン・Sです。 ジョーン・S:こんにちは。 P:(彼女を無視して)このタイルは剥がさなくてはなりませんね。ちょっと面倒ですね。 ジョーン・S:(不安げに)でも、貼ったばかりなのよ。他に方法はないの? P:(彼女を無視して)それは困るというわけですね、Wさん。では、そのことはひとまずおいて、こちらを見てみましょう。(台所から部屋を覗き込む)。こりゃ参ったな。この敷石も剥がす必要がありますな。 ジョーン・S:冗談じゃないわ。一度剥がしたら二度と平らにはならないのよ。きっと他に方法が−。 P:(彼女を無視して)それもお困りですか、Wさん。 フランシス・W:ジョーンがいま、困ると言ったでしょ。ぼくも同感だね。 ジョーン・S:建物の下にトンネルを掘る道具があるでしょ。たしかモール(モグラの意。トンネル掘削機のこと)とか言ったわね。あれを使えないのかしら。 P:(彼女を無視して)あれは一般家屋には使わないんですよ、Wさん。もしここにガスをお引きになりたければ、床を上げるしか方法がありませんね。 ジョーン・S:天井裏に管を通したらどうかしら。床を上げるよりいいわ。 P:(彼女を無視して)それはやめたほうがいいですよ、Wさん。壁紙を剥がすことになりますからね。 ジョーン・S:床を剥がすより壁紙を剥がす方がずっといいわ。 フランシス・W:ジョーンの言う通りだ。その方がずっといいね。 P:(不審げな顔で)そうですか、そこまでおっしゃるなら・・・・・・。 ジョーン・S:わかったわね、ぜひともそうして頂きたいわ。 P:(彼女を無視して)わかりました、Wさん。ご希望通りにいたしましょう。何カ所か寸法を採らせてもらいます。(メジャーを取り出して何カ所か長さを測り、クリップボードに何やら書き込む)。これでよしと。終わりました、Wさん。(台所から玄関に向かう)。これですべて完了です。(玄関のドアを開ける)。それでは失礼します、Wさん。(後ろ手にドアを閉める)。 −幕−
女性であれば比較的思い当たることの多いような場面であろうが(私自身も何回か類似の経験がある)、ミソジニーはたとえばこんなかたちをとるわけである(11)。この場合女性は自分が透明になったようななんともいえぬ圧迫的な違和感に悩まされる。 別の例を挙げよう。セクシュアル・ハラスメントの事例の場合、男女両性がもつミソジニーの意識は、性的な犯罪行為に他の犯罪とは異なったむつかしさをもちこむ。まず女性はすぐさま被害者として認定されるわけではない(12)という問題にはじまって、さまざまな困難が女性を襲う(13)。この場合もっとも女性にとって過酷な障碍となるのが、世間に流布する "No means Yes" という俗信だろう。これが通用するのは少なくとも女性の側が相手に対して好意を持っている場合に限定される(14)ということについて少しでも誠実に想像力を働かせるならば、そうでないケースの女性の置かれた状況が言語に絶する不条理状況−なにしろどんなに気合いを入れてことばを発しても、絶対に相手はそのことばどおりには受け取らないのだ−であることは、男性にもある程度理解できるのではないだろうか。まさにグリム童話の中の呪いにも匹敵するようなホラーが日常の中に温存されているのである(15)。 ここでふたたび笙野頼子の問題に戻りたい。これまで論じてきたようなミソジニーが、まさに作品中の「私」をとりまく環境のなかにひびきわたる主調低音であることは、もう一度笙野頼子の作品を読み直せばわかってもらえると思う。セクハラにおける性的なイメージが笙野頼子のテキストとは違和感があるという向きもあるかもしれないが、それは逆なのであって、女性の側から見た場合のセクハラの本質的な問題は、これがセクシュアリティの問題ではなくミソジニーのゆえの人権侵害である点に尽きるのである。この節の冒頭で見たような笙野頼子の世界の生の現実とは、文学的な滅菌処理を施されなかったがゆえに作品の中で生き延びた、ラディカルなフェミニズムの戦闘性ののるべき台座なのだ。 このように考えたとき、笙野頼子のテキスト中のシュールな幻想部分のみを彼女の文学のアイデンティティとして重視したり(16)、あるいは笙野頼子をきわめて特異な逸脱者として表象したり(17)、さらには笙野頼子の小市民性をすべて「天皇制」への批評意識といった外部の図式によって意味づけしようとした(18)男性批評家たちは、無意識のうちにこのようなフェミニズム的台座の部分を圧殺してきたともいえるだろう(19)。 3 『レストレス・ドリーム』考
ここでこの作品を取り上げるのは、いうまでもなくこの作品が「桃木跳蛇」という名の性別が女である主人公が、スプラッタシティと呼ばれる悪夢の都のさまざまなステージを男女のゾンビたち(20)と戦ってクリアしながら、最終ゲーム「魔鏡マンダラ」にたどり着きスプラッタシティを破壊するというゲーム仕立ての物語であり、笙野頼子のモチーフであるミソジニーとの闘争がっともストレートに語られる作品だからである。 だがその分析はそれほど容易ではない。すでにこの作品には笙野の伴走者として知られる批評家清水良典による評がある。彼の最新の評「言語国家と『私』の戦争」(河出文庫版解説 一九九六・一)は、『レストレス・ドリーム』の本質を、まず「これほど徹底して夢の世界が日本文学で描かれたことが、短編を別として長編では稀だった」こと、二点目に「その記述が、既成の小説の文章観を戦闘的に覆す文である」こと、三点目に「いわゆるフェミニズム思潮を、きわめてラジカルなレベルでくぐり抜けた(ひょっとしたら追い抜いた)作品」と規定した上で、夢と言語との構造的な連関性を指摘し、『レストレス・ドリーム』を「現実そのものであるような夢の小説」である、と定義し直す。「悪夢」とは「現実全体が日本語の構造ごと、とり憑かれている女性差別の体系」であり、それは「もはや世の中の男性中心主義(あるいは男根中心主義)への明晰な論理的抵抗では済まされないほど、彼女の自覚した悪夢は深いのだ」とも清水は言う。 しかしながら清水自身も認めるように、ここで彼の使う「女性差別」「男性中心主義」「男根中心主義」といったジェンダー論もしくはその周辺のカテゴリーのことばは、「深層に達した言語体系」にはまったく「太刀打ちできない」。これはかなりの程度まで笙野頼子に肉薄しながらも最後の一線を越えられずに結局行儀のいい解説に終わってしまっている清水の論自体に対して私が感じるもどかしさでもあるのだが、私に言わせればそれは清水の評が、笙野のラディカルなまでの小市民性を「不穏なテンション」「破天荒なエネルギー」「現世に対するつもりにつもった憎悪や絶望が、世界の語り方をつくりかえてしまうほどの勢いで噴出」といった、正確ではあるもののあまりにも抽象的なことばで言い換えることに終始し、直接の引用を回避したことにあるように思えてならない(21)。 私自身はこれらのことばに代えて、ミソジニーということばを分析のために用いたわけだが、笙野頼子のテキスト自身はミソジニーとの闘争を具体的にはどのように展開しているのだろうか。以下、テキストの解析を通してその問題を解明していきたい。 まずは桃木跳蛇の前に出現したスプラッタシティの「物語」のテキストを引用してみよう。
そうして、妹娘は王子様と結婚し南青山の三世代同居住宅で末永く幸福にトレンディに暮らしました。 一見してこれはシンデレラのパロディであることは明らかだが、このミソジニー的なテキストはその多声性に特徴がある。冒頭の物語の常套的な「むかしむかしあるところに二人の姉妹がおりました」というきわめてニュートラルで標準語的な語り(ただしこれもすでに唐突な漢字カタカナまじりの表記によって歪められている)が、ほどなくおとぎ話の型どおりの憎まれ役の設定をふみはずすほどに姉をおとしめる「醜く、腹黒い、フツーの女」というトーンに高まっていき、次いできわめて日常的口語的な若い女性のしゃべり口調にと転調していく。この意図的に読点を省いた表記は、早口でよどみなく続くしゃべりを感覚的に再現し、しかも話される内容もきわめて具体的かつ日常的な固有名詞が織り込まれることで、読者はバブル崩壊後もつづく消費社会の中に身を置く自らを振り返らされるが、その口調はとってつけたような物語口調に戻ろうとして「ではございませんか」「でしたとさ」と勢いあまって脱線、「姉妹がね、姉妹が」とたゆたいながら次第に女性を年齢で品定めするような男性の口調へと変形していく。そしてそれが「それでね」というつなぎことばを境に「いいですかっ」という女性の切り口上の命令口調にがらりと切り替わり、京都弁と思われる説教が続いた後、もとの物語口調が「高給優遇」というキャバレーのホステス募集のような紋切り型の文句によって異化される。口から花や宝石がこぼれ落ちるというグリム童話的なシチュエーションもまた「コチョウランの花束」や「コンテスのバッグ」によって異化されつつ、そこに母に姉をそしる幼女の声が「ママー」と挿入されて、それに答える母の声が「あらっ、まあっ」という嘆声とともに「お姉様はサナダムシになってしまいました」という童話の通常の語り(内容は完全に変調されている)に再び収束していくのである。 まるで混線したラジオでも聴くようなこの多声性がじつによどみなく接合されていくさまはみごととしかいいようがない。このように読者の言語に対するリズム感覚を強烈に刺激するような文体は、いうまでもなくスプラッタシティ全体を統括する狂ったリズム−ミソジニーのリズム−を、概念としてではなくリズムとして読者に感受させるためのきわめて優れた装置として機能している。 では、桃木跳蛇はこれらとどのようにして戦うのか。 まずことばでできた階段地獄では、ミソジニーに満ちた「馬鹿女」をののしることばのオンパレードが跳蛇を襲う。これは単純な「馬鹿女を殺せ」や「免許も取れない馬鹿女」から「男と張り合うような馬鹿女が結局男を駄目にしてしまうのです・・・・・・」といった比較的複雑なフレーズまでの男女両性のミソジニーに満ちたさまざまな文体のことばたちだが、跳蛇はこれを蹴り飛ばすことで、みごとなほどに「馬鹿女」を主体化した別のことばへと変換し「ああ私は馬鹿女だ都合の悪い女さ」「馬鹿女で悪かったなこの馬鹿野郎が」といった、それらのことばを足がかりに地上へと脱出していくのである。 全体に跳蛇に特徴的なのは、そのことばが非常に「男性的」な点であり、対する女ゾンビたちは若妻ゾンビもアニマもきわめて女性的な言葉づかいである。たとえば若妻ゾンビの歌「−あいーは、えいえんー/こいーは、それなりー/ははーは、けんしんー/ばかーは、しぬのですっ」も、「−さああ、こういう心掛けがあなたにあるかしらねえ」という彼女の挑発、そしてアニマと跳蛇の会話、
−なんであたしがあんたの言うことを聞かなくちゃならないんだ。(中略) −あれが自由なのかよ、なんなんだ、あれは。そもそも重力がこことそこで違うじゃないか。天井と私がずれているんだ。こんなのは場所じゃない。内も外もない。ただのインチキだ。 という会話も同様だろう。しかし跳蛇のことばを「男性的」と評するのは不正確であって、これはむしろ脱ジェンダー的なことばというべきなのだ。それに付随して宇佐美まゆみ編著『言葉は社会を変えられる』(明石書店、1997)での事例を引用した永井愛のエッセーを引用しておこう。
女性には返す言葉が見つからなかった(後略)。駅長室で聞いたら、切符を持っていってもいいと言われたそうだ。それをこの駅員にどう伝えよう。 「てめえ、駅員のくせにそのくらい知らねえのか。よく勉強しとけ」あたりがふさわしい言葉だと秋葉氏は思ったようだが、実際にはそうしなかった。「(駅長室で切符を)持っていってくださいと言われましたよ」とデスマス体で応じ、「女として正しく」ふるまう道を選んだそうだ(後略)。 「日本の女言葉には命令形がない」という事実を私はここで初めて知った。(中略)言われてみれば、その通りである。出て行ってほしい時、「出て行け」と命令したら男言葉であり、「出てって」と依頼形にしなければ女言葉にならない。「食べろ」は「食べて」、「飲め」は「飲んで」と、女言葉は自分の要求をお願いしかできない仕組みになっている(後略)。 日本の女言葉には日本社会がこれまで女性に期待してきた役割が如実に反映されているという記述に、私は深く頷いてしまった。(中略)たとえば、暴漢に襲われたりしたとき、日本の女性はどんな言葉を発すればいいのだろう。「放してぇ!」とか「やめてぇ!」とか、そんな不埒者にまでお願いしてしまうとしたら情けない。 もう二十年以上も前になるが、ある夏の夜更け、わが家にパンツ一丁の男が忍び込むという事件があった。その男を見つけるやいなや、祖母は迷うことなく一喝した。 「何者だ、名を名乗れ!」 男はすごすごと退散した。明治生まれの女性には、カタギの道から外れないまま、命令する言葉がまだあったようである。(22) 「男性中心主義的性差別に根ざした言語体系」についてのきわめて明快な解説である。したがって跳蛇のことばが「女言葉」を排除したものになっていくのは当然なのだ。若妻ゾンビとのことばのバトルでのキー変換の規則「2 愛を死ね、またはうんこ、死ねうんこ、に変換してください」「3 母はばか、や、くそばか、に変換して行きます」も同様に、ジェンダー的な拘束の強い女言葉を破壊するため−そして脱ジェンダー的なことばを獲得していくための規則であるといえるだろう(23)。したがっていかに跳蛇の発することばが「下品」であろうと、そこにはけっして性的な卑語は混じらない。それらはむしろ女性を貶めるまさにミソジニーのことばだからである。そしてこれらの跳蛇のことばは、たぶん女性読者に対しては一種の解放感と爽快感をもたらすことになる(24)。 それではいわゆるイデオロギーとしてのフェミニズムそのものは『レストレス・ドリーム』の中ではどのように扱われているのか。はたして『レストレス・ドリーム』は「フェミニズムを追い抜いた」作品なのか。 最初の階段地獄で跳蛇はミソジニーのことばを変換してみずからのことばに変えることで地上へと駆け上がっていくのだが、いつのまにか「そこら中の無駄な階段を磁石のように引き寄せ」た結果出現した「性別による役割分担」ということばは「蹴っても千切ってもばらばらにはならな」い役立たずでしかない。フェミニズムのことばがかろうじて跳蛇のために役立つのは、「女子プロレスはええのお、けけけけけ」に「フェミニズム論争」(フェミニズム論争とはしばしばフェミニズム内部での論争をさす)がぶつかり「フェミニズム論争プロレスえーっ、ノーッ、脳が崩れる、げげげげげっ」に変換して自爆していったときだけである。この滑稽さにあっては、跳蛇の力強い味方であるフェミニズムのイデオロギー、というよりは女性差別主義者に対するにフェミニストという、毒を以て毒を制す式のニュアンスの方が強いとしかいいようがない。 一方跳蛇が地上で目にするスプラッタシティの建築物の形容は
観念語ばかりを表面に表しながら、内側ではただ回虫のように「ハンカチチリ紙はもちましたかっ」という言葉の夥しい繰り返しだけが氾濫しているもの。 などに見られるように、きわめて日常的なことばをまじえることで肉感的なほどに強い効果を発揮する。これは「性別による役割分担」といった観念語とはまったく異質の効果であり、特に後者はフェミニズム理論の用語が流通するきわめて限定された場に対する、笙野頼子の強烈な批判意識の産物といえよう。たとえフェミニズムであろうとそこで用いられていることばが観念的な普遍主義に堕したときには、それは跳蛇にとっては足手まといの障害物でしかないのである(25)。 以上限られた部分を参照しただけであるが、「レストレス・ドリーム」のテキスト自体が、きわめて実践的なミソジニーとの闘争そのものであることは説明し得たと思う。最初の問題設定に戻るならば、これが難解であると感じる読者、あるいはまったくこれが読めない読者とは、ミソジニーの瀰漫する世界という笙野作品の現実設定そのものに強烈な違和感を感じるために、むしろB級ホラー映画的なビジョンの方に注意をそらされ、これをグロテスクなキッチュ趣味とみなしてしまうのだと考えられる。 ことばのレベルにおけるミソジニーとの実践的な闘争、という笙野頼子のテキストへの私の定義は、彼女の文学がフェミニズムのプロパガンダであることをけっして意味しはしない。むしろ彼女のテキストは小市民・性別女のことばを持ち込んで従来の〈文学〉概念を内側から爆破したことによって、きわめてすぐれた同時代の文学テキストたりえているのである。 「レストレス・ドリーム」が「ひょっとしたら追い抜いた」ものとはフェミニズムではなく、〈文学〉すらその中で足をとられるような男性中心主義的言語体系−ミソジニーのことば−そのものであることだけは間違いないだろう。とすれば今後もフェミニズム批評に積極的な存在意義があるとすれば、それはこのような笙野頼子のラディカルな実践に追いすがっていくこと−まさにガイノクリティックス−の実践こそにあるのではないだろうか。 だがこの稿での試みはいまだ笙野頼子の世界のよって立つ台座の部分を分析したにとどまり、その全体像を描くには至っていない。先に指摘したように、笙野の作品世界のその台座、そして〈猫〉、〈母〉という核の相互的な関係性の解明こそが、彼女の文学のダイナミクスに肉薄するための、私にとっての次なる課題である。 注
(1)「これは小説ですか−。はい、純文学実験小説です」(『居場所もなかった』講談社文庫版あとがき、一九九八・一一)。 (2)「シビレル夢の水」(「文学界」、一九九四・九)。以下引用テキストは筆者による加筆訂正を考慮し、可能なかぎり文庫本等最新の版に拠っている。 (3)「小市民」という自称は第七回三島由紀夫賞受賞(一九九四)のさいにも語られ、また現時点で最新の(1)のエッセーでは「人間の、個人の、小市民の言葉」という語が繰り返されている。 (4) 「レストレス・ドリーム」(「すばる」、1992.1)、「レストレス・ゲーム」(同、10)、「レストレス・ワールド」(「同、1993.3)、「レストレス・エンド」(「文芸」、1994・春)と書きつがれ、一九九四年二月に河出書房新社から刊行されている。 (5)初出「群像」(一九九三・一)、引用は『増殖商店街』(講談社 一九九五・十)に拠る。 (6)たとえばワイドショーレポーターの東海林のり子と武藤まき子の微妙な違いに言及するテキスト(「何もしていない」一九九一・五)などは、既成の文学批評の磁場にあっては存在自体が犯罪的である。 (7)「私」が東京にいること自体、「自分のような、小心で周りに流され易い内向的な女が、一人で何かを考えたり熱中したりできて、「何々家の誰々」でなくなる場所に、来たかった」(「単身妖怪・ヨソメ」一九九七・七)からにすぎない。笙野自身はこういった小説家の「私」の系列についてこれを「思考実験」と呼んでいることからみても、「貧乏な小説家」というキャラクターを演じていることへの自意識的な陶酔はここには存在しない。 (8)なお、編集者との会話が「居場所もなかった」というテキスト自体に言及しているという意味では、「居場所もなかった」はメタテキスト的側面をもっているといえる。こういった技法はテキスト中に現実そのものを取り込むためと考えられる。 (9)いうまでもなく、これはそれまでの既成の文学の地平を踏み越えるという点ですぐれて文学的な営為である。 (10)ミソジニーについては後述のJ・スミスのほかE・バダンテールの二著『男は女 女は男』(筑摩書房)および『XY』(同)が非常に示唆的であった。またB・ダイクストラ『倒錯の偶像』(パピルス)は女性嫌悪やその「魔性」への恐怖が十九世紀欧米絵画の中でいかに具現化されたかを語って圧巻であった。なおミソジニーは西洋的な概念ではあるものの父権制社会の産物であるとすれば日本についてもその適用は可能である。その日本的なヴァリエーションについてはまた別の分析が必要であるが。 (11)これは権力関係における強者と弱者の構図であるから、もちろん女性以外でも同様の状況に陥る弱者は存在する。たとえば大人対子どもの図式などがそうだろう。パターナリズムはその典型的な例である。だが子どもというのが人生の一時期にすぎないのに対し、性別は一生ついて回る属性である。 (12)まず女性自身が無意識のうちに「私にも落ち度があった」「私がもっと気をつけるべきだった」と自責の念にかられる。これは女性の内なるミソジニーの結果である。つぎに起こることについては注の(12)参照。 (13)従来セクハラの起こった組織内では、女性の抗議は「軽い冗談を本気にした」とか「職場の潤滑油としての女性の役割を理解してない」などと軽くいなされ、少し程度が深刻な場合は男女間の「個人的トラブル」にすぎないと突き放され、次いで「女性の側にも問題がある−ふしだらな困った女性である」と非難されたり「男性の将来を考えて穏便にすませてほしい」と懇願されたり「組織内の人間関係を悪くすることは君の立場を悪くする」と「忠告」されたりする。それでも抗議を続けた場合には、「フェミニズム」にかぶれた女という烙印を押されて組織内で忌避される。同僚(特に男性)からの慰謝や加害者からの謝罪のことばは、ミソジニーの浸潤する場ではきわめて生まれにくい。被害女性はここに至ってはじめて、今日の社会に瀰漫するミソジニーの根深さを身をもって知ることになるのである。なおこの問題の本質を考える上で、金子雅臣『セクハラ事件の主役たち−相談窓口の困惑』(築地書館一九九二・四)は非常に参考になった。 (14)厳密にはこのような場合であっても状況はつねに変わりうるものである。これについては金子の前掲書参照。 (15)こう考えれば逆に、『東京妖怪浮遊』(岩波書店、1998.5)で笙野が都会で職業をもつ独身の中年女を他人の目に映らない「単身妖怪・ヨソメ」として造形したのは、きわめて自然ななりゆきだったといえる。 (16)たとえば菅野昭正「部屋探しの中心と周辺」(講談社文庫版『居場所もなかった』解説、一九九八・一一)。 (17)巽孝之「箱女の居場所−笙野頼子または境界領域文学の夢想−」(日本文学」43、一九九四・一一)。箱女というネーミングに象徴されるような異形の周縁的存在としての位置づけは、一九八〇年代前半までの津島佑子の受容のされ方と非常によく似ている。津島については拙稿「〈母〉へのアンビヴァレンス−津島佑子論−」(『岐阜大学紀要』43-1 1994)参照。 (18)渡辺直己との対談「幽霊化した悲嘆」(「文芸」、1997冬号)で笙野は天皇制批判という解釈に固執する渡辺に対し、「じゃなくて、日本の田舎に生まれたからというか、いや、・・・・・・ほとんどの女の人にとってはごくふつうのことなんじゃないかと思います」と答えている。 (19)その意味で彼女の初期作品「極楽」を「具体性をそなえた純観念小説」でありかつ「純私小説」であると評した藤枝静男の群像新人賞選評(一九八一)は、例外的に笙野のリアリズムのありどころを正確に見抜いていたといえる。 (20)いうまでもないがこれら男女のゾンビとは、ミソジニーに呪縛された男女の称である。 (21)全掲の巽および野谷の両者が「レストレス・ワールド」からの引用の際に比較的〈文学〉的な箇所を選択していたりあるいは引用そのものをためらったりしているのも同様の事情だろう。また清水の場合と異なり、この示唆的な二つの論が共に、ことフェミニズム思想と笙野頼子の関連については非常に消極的である点も興味深い。 (22)「女言葉にないもの」(「日本経済新聞」 一九九八年九月三日付) (23)作者の笙野自身は『おカルトお毒味定食』(河出書房新社 一九九四)にまとめられた松浦理英子との対談で「レストレス・ドリーム」とは男性優位システムへの女の戦いかという問いかけに対し、「というより、男が言葉を支配している世界なので、言葉のビートが歪んでいる。それを歪まない言葉に組み換える。あるいは組み換えられなかったら全部壊しちゃう(中略)。これからは男のでも女のでもない”私の言葉”というのが始まるんだと、そういう感じです」(引用は河出文庫版、一九九七・三)と答えている。 (24)なお、永井が指摘するように明治生まれの女性は脱ジェンダー的なことばを獲得しているわけだが、これは近代の標準語の形成過程における東京/地方および山の手/下町の問題をはらんでいる。それに付随して、笙野頼子は伊勢方言をテキスト内に取り込むことによって非ジェンダー的なことばの磁場を作品内に形成して行く点を指摘しておこう。これについては〈母〉を扱った別稿で詳述する予定である。 (25)フェミニズムという思想への現状認識については加藤秀一のウェブ上の読書日記および書評が非常に示唆的であった。加藤による男性のフェニズム参加へのスタンスにも学ぶべき点が多かったことを付言しておく。 |