岐阜に関するテキスト
last update 1999.4.16
ここで紹介するのは、教育学部の同僚の早川万年さん(史学)のエッセーです。
ここに書かれた、田中大秀の蔵書への島崎正樹による書き込みのエピソードを早川さんからうかがったのは1997年のはじめでした。たまたま早川さんはすでにこれを活字にしておられましたので、許可を得てここにUPします。冒頭の昨年九月とは1995年のことです。
なおテキストを掲げるにあたって、直接画面から読むさいの読みやすさを考慮し段落ごとに1行のブランクを加えたほか、強調色をつけるなどの改変をほどこしてあります。
最後に、あらためていうまでもありませんが、島崎正樹は島崎藤村の父親です。
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高山市郷土館にて 早川万年
昨年九月、飛騨に一泊二日のささやかな旅行を試みました。宮川村の考古民俗館を訪れてから、国府町にもどって、すこし話題にもなった前方後円墳を見、タ刻、高山市に入り一泊しました。翌日朝から、この小旅行の主たる目的であった、高山市の郷土館をたずねました。高山市の郷土館は、市内観光のコースにも入っているので、訪れたことのある方も多いと思います。高山を中心に、飛騨各地の出土遺物から、近世の文書史料まで、多くの文化財が収蔵、展示されています。わたくしも、以前、一度見て回ったことがあったのですが、今回は、とくに目的がありました。それは、鈴屋門の国学者、田中大秀の関係資料を閲覧することでした。
田中大秀(一七七七〜一八四七)は、高山が生んだ著名な国学者であって、近世飛騨の学芸を考える上に、欠かすことのできない人物です。郷土館の一室には、いつも大秀の画像が掲げられています。そして、この大秀の著述や所蔵本を集めたものとして、郷土館内に香木園文庫(かつらぞのぷんこ)が、現在に伝えられています。
さて、わたくしは、この大秀の著述もさることながら、彼の所蔵本に関心がありました。どのような蔵書があり、それらへの書き入れがどうなっているかを一見したかったのです。大秀の著述としては、竹取物語の注釈書である『竹取翁物語解』が、よく知られているところですが、まとまった著作は、言ってみれば学問の結果であるのに対し、所持していた典籍への書込は、そのひとの、日常的な読書と思考を具体的に示しているといってよいでしょう。
そこでわたくしは、郷土館の方にお願いして、大秀所持本のいくつかを書庫から出していただき、大秀が日本の古典にどう取り組んでいたかを、ほんの少しですが調べてみました。そのことについては、ここでは述べません。ただ思いがけず、島崎藤村の父の筆跡に接したことだけは触れておきます。ご存じの方も多いでしょうが、島崎籐村の父、島崎正樹は、有名な『夜明け前』のなかで、青山半蔵の名で登場する人物です。この人物は、明治初年に、飛騨の水無神社の神官をしていたことがありました。当時、大秀の蔵書は、学間上の後継者に受け継がれていたようですが、そのなかの数冊を島崎正樹がいったん借り受け、しばらくしてから、返却したむね、署名とともに記されていたのです。われわれは藤村の父というより、青山半蔵として、その人物像を思い描くほかありませんけれど、その実に謹直な文字に、人柄が窺われました。
それから、覚書などの資料をいくつか見ていましたら、大秀の師である、本居宣長の講説の聞き書きが含まれているのに気づきました。大秀は鈴門の俊秀でありましたが、実際に宣長に会い、講筵に列したのは、享和元年四月からニヵ月間ほどでした。この時、大秀は二十五歳。おそらく多くの宣長門人が参じているなかで、末席につらなっただけでありましょう。ところが大秀にとって、この時の宣長との出会いは、実に大きな意味がありました。そのことを端的に示すのが、大秀所持本の『万葉集略解』です。万葉集の注釈書としては、スタンダードな位置を占めていたこの本は、のちに大秀が門人に講義を行なう際にも、テキストであったようですが、彼はこのなかにいくつかの書込をしています。そこに、日を追って、講義の記録をメモしている箇所があります。それは、かつて宣長の講筵に侍したときの、師の講説の進行状況と、自分の講義の日程とを引き比べたものでした。すると、大秀は、何十年も以前、若き日に、宣長から受けた教えを常に拠り所として、自分の日頃の勉強、また教育に用いていたことになります。大秀が実際に宣長の指導を受けたのは、ほんの一時期でした。けれども、そのわずかな期間の講義録が、大秀にとっては、終生の指針であり、宝物であったのです。
先人の記録や関係資料を播くと、ほんとうにさまざまな事柄が知られます。通り一遍の人物伝からは、とうてい窺い知れないような、その人の生きざま、心の持ちようなど、時には意外な一面に接することもあります。そして、人との出会いが、いかに大きな影響を及ぼすかを、改めて思い知らされるのです。教育−受手にとっでは学間−とは、まさに出会いに他なりません。実際に、その人自身に出会うことも、あるいは著述を通じてのこともあるでしょう。このような出会いを大事にするとともに、過去の人物への眼差しも大切にしたいものです。先人もさまざまな出会いのなかから、自分の生き方を模索し、実践していったのですから。
「まいまいつぶり No.37」(岐阜大学教育学部付属学校 PTA読書クラブ機関誌 1996.5)
この夏に井口時男さんの『柳田国男と近代文学』(講談社)を読んだ。このすぐれた評論そのものについては別の機会にゆずるとして、ここでは柳田国男の「山の人生」中の一挿話が、私の勤務地である岐阜県のできごとであったということをこの書物によって教えられたことをあげておきたい。
「山の人生」の冒頭の話とは次のようなものである。
わたしがこの話にはじめて接したのは、大学院時代、小林秀雄の「信じることと知ること」(新潮社『感想』1979所収)中だった。多分小林のテキストによってこの話を記憶しているという人は他にもいると思う。
小林は、柳田のテキストをそっくり引用したのちにこう述べる。
以降、柳田のテキストは、子どもたちの哀切なイメージの上に照射する夕日そのものとして私の中で残った。それほどこの小林の一文における夕日のイメージは強烈だったのだ。
やがて勤務先で明治編年史の中に文学を組み込むというかたちの講義をはじめ、その過程で私は地租改正以来の日本近代の農村の疲弊についてほとんどはじめて知ることとなった。その過程でこの柳田のテキストは、いつの間にか私のうちで東北の飢饉の惨状の一例へとすりかわっていた(1)。
もともと小林の文中で柳田のテキストに接したときから、「西美濃の山の中」という地名の特定部分はまったくすっとばして夕日のイメージだけに固執していたのは、小林のテキストのイメージ喚起力の強烈さにあてられただけでなく、多分に東京で育ったことにも若干帰因する私自身の地理感覚の欠如から来ていただろう。山の中はただ山の中であって、地名はいらないのだ。飢饉の惨状、といえば東北だというのも、こういうあさはかさからだったが、柳田国男が農商務省の官僚だったという知識もそれに拍車をかけた(「遠野物語」からの連想はもちろんだったろう)。
そんな状態だったから、井口氏の『柳田国男と近代文学』に接したとき、衝撃は大きかった。
井口氏が紹介する次にあげるテキストは、谷川健一氏が『奥美濃よもやま話』(岐阜県郡上郡明方村の中学校長金子貞二氏による奥美濃地方の生活誌の聴き書き集。明方村教育委員会より1971-1976に発行される)の中から紹介した、この惨劇の主人公の直話である。
少しだけ補足をしておくと、このテキストは金子信一氏が、彼の家に作男として出入りしていた新四郎という老人から昭和初年にうち明けられた話を、昭和45、6年頃に甥の貞二氏に語ったものである。文体は、新四郎さの語りの部分からは直接新四郎老人のことばそのものにおきかわるという形式をとっている。
物語の内容は、「山の人生」とは少し異なる。一家が死のうと決心した動機は、村の富家に奉公に出ていた姉娘が、そこの嫁に憎まれて盗みの嫌疑を掛けられいたたまれなくなって家に逃げ帰ったこととされている。これは明治37年4月のことだったというから、日露戦争が始まって間もない頃である。
私自身の個人的な体験にすぎないだろうが、これまで柳田のテキストを美的に完結した名文、あるいは農民史の一齣としてのみ抽象していた私は、いきなりこの美濃方言に置き換えられたもうひとつのテキストを目のあたりにして、ひどいショックを受けた。ここにあるのは、ここ十年あまり私が身を置いている空間で話されている、まさに生きたことばにほかならない。これはここ十年あまりのあいだに接してきた学生たちの誰彼のことばのイントネーションであり、アクセントであり、そしてそのいくぶんかは、私の子どもたちが今自在にしゃべっている尾張弁とも共通のものである。
わたしは、もう柿洞へは戻らんつもりで、黙って出てきたんやで。
柿洞を「かきぼら」って読めましたか? 「〜したんやで」といういいかたは、学生たちともかなりうちとけないと聞くことのできない言い方なのだが、この「新四郎さ」というテキストは、岐阜地方のことばを聞いて生活した人なら完全に身についているだろうようなリズムを目の前に現出させる。方言のリズムと力。自分自身の体をすっぽりとそのなかに置いて、そしてその空間に身をゆだねないかぎり、けっして本当には理解できないだろうような、ことばのリズムのもつ身体的な喚起力のすさまじさを、わたしは無防備の状態で思い知ったわけである(ちなみにこれを読んだのは、暑さでよろめきながらバスを待っていたお茶の水の停留所でだった)。
これは柳田のテキストとも小林のテキストとも異質の世界なのだろう。
さいごにもうひとつ、ここで私がつよく惹かれたことをあげておこう。それは、あのリズムの中に浮かび上がってくる、弱い父と哀れな子どもたちの姿である。子どもたちの庇護者になり得ずおろおろと一緒に死を選ぶという父の姿に、私は家父長的な父とは異質のイメージを感じとる。ちょうどかつて映画「砂の器」で加藤嘉が演じた父の姿のような。
こういうものが今私にとって胸に突き刺さるのは、ここでこの弱い父と子どもたちが「ひとかたまりになって泣くしかなかった」ような、こんな悲惨な場面であっても、ともかくも子どもたちは父親に取りすがって泣いているということが辛いからなのだ。今の子どもたちが置かれている状況のなかで、子どもたちが親にすがって親子ともどもで泣いているようなそんな情景が容易に見られるだろうか。宮台真司氏がいうような、家庭が学校の出店となりはててしまったような状況が本当に一般的なのだとしたら、もうそんな情景はけっしてみることはできない。これはまた、フェミニズムの項目で扱うべき、別の問題ではあるのだろうが(2)。 (1997.10.3 記)
注 1999.4.16
これについては、あとで中央公論社版『日本の歴史 21 近代国家の出発』の存在があったことを思い出しました。色川大吉氏はここでこの奥美濃の山中のエピソードを明治二十年前後と想定したうえで、柳田の『故郷七十年』での、産褥の女が生まれたばかりの赤子を押さえつけそばで地蔵様が泣いているという図柄の絵馬を見たという柳田の幼少期のエピソードへと接続させています(思えば、自由民権運動を論述する色川さんの文体の熱気は私の文学史の講義のエネルギー源のひとつでした)。
これについてはあらためて 『母の変容』(1998.3)という論考で扱っています。
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