「岐阜大学教育学部研究報告 人文科学」46-1(1997.10)所収




詩教材における解釈の多義性をどう考えるか
 −谷川俊太郎「どきん」を中心に−


根岸 泰子  




   1 詩テキストとしての「どきん」の特性 



 先日小学校教育実習での公開授業で、三年生の詩の授業を参観する機会があった。教育実習生によるその授業は全五時間が配当された詩の授業の最後の時間だったが、多くの示唆を含む興味深いものだった。(1)
 きわめて印象的だったのは、子どもたちが教材である谷川俊太郎の「どきん」という詩にかなりの興味を示しまた惹きつけられていたという点である。本稿では以下、子どもの興味を引いたこの詩テキストの分析を導入としながら、教材の特性に応じた「感じ方の詩教育」(鑑賞指導)と「見方の詩教育」の方法について考察してみたい。(2)

 最初に、「どきん」のテキストをかかげておこう。





 この詩は、「谷川俊太郎少年詩集」という副題をもつ詩集『どきん』(一九八三年、理論社)の巻末に収められている。谷川俊太郎のほぼ同時期の詩集『ことばあそびうた』(一九八二年、福音館書店)と同様に、童謡や歌謡に隣接した自由な言語遊戯的な側面をもちながら、基底部には谷川俊太郎固有の「透明なリリシズムと軽やかな機知」(3)の流れる作品である。
ではまず具体的にテキストに即してこの詩の解析をしてみよう。
 まず形式的には、すべてひらがな表記であること、そして文末が擬音語・擬態語の繰り返しであることが目につく。この形式がこの詩の独特のリズム感を生み出しているわけである。
 文章の構成上の特徴としては、この詩では、詩の主体がどのように感じているかということだけが心話文のようなかたちで投げ出され、そのあとに先述したような擬音語・擬態語が繰り返されている。そして各センテンスには主語がまったくないために、読者はこの主体がどのような人物であるのかの特定ができない。また、この主体の動作の対象となるものは、「つるつる」「ゆらゆら」「ぐらぐら」「がらがら」といった擬態語で示されるものの、これまたそれが具体的にどのようなものであるかを明確に特定することはできない。またこれらの形容語が主体の判断によるものなのか、あるいは語り手(詩人)による客観的な描写と見なすべきなのかについても曖昧である。むしろこれらいっさいのてがかりは、この詩の中からは注意深く取り除かれているといってもいいだろう。
それに対して、読者がはっきりと認識できるのは、主体(仮に「僕」とする)(4)の対象への関わり方が、最初はほんのすこしのためらいを含んだ「さわってみようかなあ」からはじまって、やがて対象の「つるつる」という感触に触発されるように一歩踏み込んで、「おしてみようかなあ」と次第に大胆になり、対象が「ゆらゆら」から「ぐらぐら」と揺れが大きくなってきたところで、誘い込まれるように「もいちどおそうかあ」と意志的に高まってゆきながら、「がらがら」と対象が均衡を失って倒れると、我に返って「えへへ」と照れ笑いする。その一瞬のインターバルのあと、「僕」が「みしみし」という「いんりょく」を感じながらやがて「ちきゅうはまわってるう」と高揚し、やがて自分を包む大気中の風を感じて「あるきはじめるかあ」と新しい動作へと転換しようとする。その瞬間、「だれかがふりむいた!」という驚きで「どきん」とする、という一連の感情の高揚から沈静、驚きという一連の情動のグラデーションだろう。
 ただし、後半部の「いんりょくかんじるねえ みしみし」と「ちきゅうはまわってるう ぐいぐい」の二行については、「みしみし」「ぐいぐい」という形容語が、何のどのような動作または状況を示しているのかは不明確である。つまり「みしみし」は「僕」の足を踏みならすような動作ともとれるし、「がらがら」崩れた対象そのものがきしむ音ともとれる、あるいは「僕」が対象に力を加えたり動かそうとしている音ともとれるし、あるいはもっと別の解釈も可能だろう。「ぐいぐい」もまた同様で、これを地球の回る様の客観的な擬態語ととるか、あるいは「僕」の体に感じられる地球の回転なのか、はたまた「僕」が地球の回転を実感しながら地球に向かって「ぐいぐい」働きかけている動作ともとれるのだ。
 つまりは内容を正確に解釈しようとするればするほど逆に、これらは一義的な解釈の手がかりをもたない、むしろ多義的な解釈を積極的に誘発するようなことばの装置であることが読者に理解されるのである。
 とすれば、「どきん」という詩全般から確実に読者が共通して感じとれるものはなによりも徐々に高まっていく情動の律動そのものなのだ。いわば情動のグラデーションがこの詩全体から受けとれる印象なのである。これは、詩集『どきん』の中の「あはは」という詩(5)を参照することでいっそう明らかになる。





 一読して明らかなように、「はらりとちった はなびらいちまい」というやわらかでかすかな動きからはじまった律動が、ぽとんというひとしずくの水滴、ぱたっとたおれた一冊の絵本が、やがてがちゃんとコップの砕ける音、馬のさおだちと嘶き、小高い杉の木のへしおれるめりめりという音へと連鎖的に拡がってゆき、やがてがらがらと崩落する岩山、ずぶずぶ沈下してゆく無数の町というすさまじいイメージへと一挙に拡大する、そのカタストロフが「どかんとばくはつ」して消え去る地球の球体のイメージとなったところで、響きわたるこどもの笑い声が律動と破壊のグラデーションをやわらかな相対化によって包み込むところで詩が収束する。ここには詩人による無償の情動のグラデーションが、イメージのみごとな連鎖によって一種の身体的な快感をともなうリズムとして表現されている。(6)


   2 さまざまな鑑賞例



 さて、ここで実際に読者がこの詩を解釈する場合の問題に戻ってみよう。
 実際には読者は情動のグラデーションだけを抽象して受け取るのではなく、ことばによって喚起された具体的なイメージを通してそれを受容していると考えられる。ここに、先にふれたこの詩の多義性の問題が浮上してくるのだ。
ここで、私のゼミでこの公開授業の検討会を行ったおりにでてきたいくつかの解釈(鑑賞例)をあげてみよう。
 まずメンバーの何人かで音読を行い、たとえば末尾の「だれかがふりむいた! どきん」の部分をどの程度の音量で読むかについて意見が分かれたことを発端に、おのおのこの詩から受け取ったイメージそのものについて話し合ってみた。
 すると、たとえばこの詩における動作の対象となっているものをどのようなものとしてイメージしたかについては、壁、積み木状のもの、彫刻のようなオブジェ、そして地球そのものを表現しているなどといったさまざまの感想が出てきた。
 次に、さきにもふれた「いんりょくかんじるねえ みしみし」「ちきゅうはまわってるう ぐいぐい」については、この部分のみを取り出して分析した場合については各人とも前半部とつなげての整合的な解釈は示せなかった。また「みしみし」や「ぐいぐい」のイメージそのものについても、たとえば「木の床がきしむ感じ」「木材がきしんでいる感じ」「地を踏みならしている感じ」など各人の受け取ったイメージはばらつきを示した。
 また「いんりょくかんじるねえ みしみし」からはじまる後半の部分について、なぜ「だれかがふりむいた」ときに「どきん」としたかについて、対象にほしいままにはたらきかけてそれを「がらがら」と崩してしまったとに対するかすかな自責の念ととるか、それとも忘我の境地でいたことが他者の視点によって相対化されたときの驚愕、ととるかで意見が大きく分かれた。
 以下にその鑑賞例を例示しておこう。A・Bはゼミのあとで私が依頼して学生のうちの二人に彼女たちが感じ取った詩の世界を自由な形式で描写してもらったもの、Cは私の鑑賞例である。


  


 

  



解釈にここまでのヴァリエーションがあるということは、このテキストはある一定の関係性と方向性のみを指示するだけであり、読者は自分のコードによって情報を取捨選択することでひとまとまりのイメージを構成していることを示しているといえるだろう。だからこそ結果としてそのイメージは、読者ごとに千差万別なのだ。
 たとえば対象をどうイメージするかについては、A・Bともに「壁」と答えているものの、片方は自分を取り囲むものとして、また他方は自分の前にそびえ立つものとしてイメージしている。これはおのおのの読者が自らの資質のうちに、そのような解釈をするなんらかの必然性をもっていると考えるべきだろう。すくなくともテキストには双方ともその根拠を見いだすとはできないのだ。また「みしみし」「ぐいぐい」についてはA・B・Cともに前半部の対象物との関わりに関しては濃淡の差こそあれ不明確であり(Cに至っては、ほとんどこれを無視している)、「ひたひた」という語のニュアンスについても、Aはそっと足を踏み出す新しい世界、という読み、Bは「大理石の長く続く道をはだしで」というよりはっきりしたヴィジョン、そしてCは一種の内省をみるというような違いを見せている。
 また「だれかがふりむいた! どきん」については、A・Bともにこれを他者の視線による自意識の覚醒とその驚愕とらえるのに対し、Cは詩の前半部に引きつけて「がらがら」と壊してしまった対象へのかすかな罪悪感を突然振り向いた他人にだぶらせて感じ取っている。以上のおのおのの解釈は相互にかなりの振幅を示すものの、それぞれの解釈それ自体はおのおの内部的にひととおりの整合性を備えたものになっている。
 それではそれらすべての異なった解釈に対し、一義的な正しい解釈、あるいはより合理的な解釈というものを想定すべきなのだろうか。
 さきにふれたように、テキスト内のすべてのことばを網羅しながらそれらすべてに整合性を見いだすような解釈はたぶんあり得ない。むしろこれらの鑑賞文からみてとれるのは、おのおのの読者がテキスト内のことばから無意識のうちに取捨選択を行って(自己の読解コードに位置づけて)、いわば自分にとってのこの詩の世界を再創造しているという、詩の読書過程のメカニズムである。
このようなテキストの構造は、このテキストのことばが何かを説明したり解析することばではなく、なにものかを表現していることば、すなわち詩的言語であるという文脈状ではじめて有効となる。
 これは近現代詩の精神が、詩の中から、散文その他のジャンルでも表現可能なものをすべてそぎ落としていって純粋に詩的な要素だけを用いて詩を作ってゆくことをめざした運動であったことを考えあわせると非常によく理解できる(7)。つまり詩のことばとは、すでにある対象を正確に描写したり説明するための道具ではなく、それ自体で表現となっていることばなのである。そこではことばの固有の音韻性や多義性がむしろ積極的に機能し、現実の忠実な模写とはことなる、ことばそのものの自立的な世界を形作っているのである。
そのような近現代詩の文脈で考えれば、たとえばここでの対象を「地球」そのものとするような、一見整合性のない解釈もここでは十分許容される、否むしろきわめて創造的でユニークな解釈として評価することが可能だろう。(8)
ただしこれが国語の授業である以上、子どもはなぜそのようなイメージを自分が受け取ったのかについて、テキストのことばのレベルにもどってある程度説明できなければならない。その場合、論理的な整合性を犠牲にしてもその子が重んじたかったものは何だったのかについてその子が説明できるよう、教師は適切な質疑応答によって援助しなければならない。イメージの連鎖といった概念はこどもにとっては非常に説明が困難だからである。



  3 詩の授業との接点−詩の解釈と音読の相関性−




 では以上の分析をふまえて、子どもたちと「どきん」との授業に戻ってみよう。
 さて、当該時の授業のねらいは、主として詩から喚起されるイメージ、テキストの表記の特徴、それらを総合した詩のことばのおもしろさを、子どもたちに音読を通じて体験させる点にあった。(9)
 子どもたちの音読は、一斉音読の段階では平板さが目立った。ところが一人ずつ起立しての音読の場では、ひとりの子が詩全体のリズムの律動をとらえたきわめて自然な抑揚による音読を行った。つまり詩テキストの解釈がまだ行われていないひとり読みの段階で、彼女はこの詩の情動の律動性をみごとに理解していた−すなわち彼女固有のテキスト解釈がすでに成立していた−のである。
 だが一人読みによる「工夫」の発表では、子どもたちは擬態語の辞書的な意味に即しての発言(10)や文末表現の類似性の指摘といったテキストの一部分のみを抜き出しての指摘に偏っていくという傾向がめだった。
 これは子どもが、ワークシートに書き込んだ線引きや書き込みに即して答えていたことに起因していると考えられる。つまり線引きや書き込みによってテキストの全体的な律動性が部分的なものに分断され、その結果として子どもの意識の対象がテキスト全体から受け取ったイメージの表現から離れて、音読の技術論へと変形してしまったのである。(11)
 この授業での、純粋に音読を通じて詩的イメージを子どもたちのなかに形成していくという試みは、原理的にはきわめて正当かつ野心的なものとして評価すべきであろう。(12) だが「読みの工夫」ということばをつかったとたん、こどもは詩テキストの全体の印象をうちすてて、個々の言葉の辞書的な意味やそれを音読で表現する技術論へと後退してしまう。個々のことばは詩的言語であることを止めて、記号化してしまうのである。こうなってしまうと、音読の繰り返しを通して子どもに感受されるリズムなどの感覚的要素によって、ことばがまさに詩的言語として活性化されるというメカニズムは、どこかにけしとんでしまう。
 更にいえば、音読についてはその技術上の巧拙が問題なのではなく、その子どもの詩への解釈がどの程度音読の際の声の音量・抑揚などに反映しているかという点に限定して考える必要があるのではないか。
 さて、教室ではひととおりの授業内容の最後に、各自が発表した音読の「工夫」をもとに、全員でいっせいに音読を行った。ここでは、「工夫」のラインがともすれば最大公約数的な解釈に沿って詩を規定していたため、たとえば「どきん」の部分についてはかなり大きな音量で読むことが教育実習生によって指定されており、いわば模範的な音読のモデルが想定された斉読となった。ここではいっせいに読むために自分の声が聞き取れないということもあってか、かなり無秩序でしかも大声を張り上げるような読み方が目立った。
 さて当日の予定を終了したうえで時間が余ったため、今度は詩に書かれたさまざまな動作を模倣しながらいっせいに音読を行った。これは教生が黒板の前で「さわってみようかなあ」にはじまって一通りの動作を行い、また「ゆらゆら」「ぐらぐら」「がらがら」という動作についても自分自身がその対象となって揺れるさまを表現するのを見ながらの斉読であった。
 次に希望する子(六人)を前に出させて、振り付けつきで詩を音読させた。その際、過度の緊張感を与えないようにという教生の判断で、教科書はもたせなかった。
 この際に、子どもたちの側から「さわる役の子と『つるつる』や『ぐらぐら』、『そよそよ』をする役の子とに分かれて、そのワンペアで掛け合いのかたちで読みたい」という声が挙がった。これはこの段階で子どもたちが、詩の主体の「僕」と対象とをはっきりと分離して認識していたことを示している。
 しかしながら、「ちきゅうはまわってるう ぐいぐい」のセンテンスで両手をあわせて高くかかげながらそのままくるくると回転する子どもが出てきたところで、教室の子どもたちは非常に気分が乗ってきた状態になり、何人もそれを模倣する子どもが現れた。これは「かぜもふいてるよお そよそよ」ですぐに終息し、教室中の声をそろえての「だれかがふりむいた! どきん」の音読とそれにあわせての六人の子どもたちのマイムで詩は終わったわけだが、子どもたちの気分の高揚はなかなかのものであった。
 この一連の場面で興味深かったのは、マイムを伴う音読が「どきん」のもつグラデーション効果を表現するのに大変効果的だったことである。子どもたちはこの詩のもつグラデーション効果に、直接身体レベルで感応したと考えてもいいだろう。それに加えて、私自身がこの詩のなかで主体と対象とを厳密に区別しながら解釈していたことが、子どもたちのマイムの中から生まれたまったく別の解釈によって相対化された点もなかなか示唆的だった。
 つまり私は教生が「ゆらゆら」「ぐらぐら」する動作をも自分の身体で行ったことに対して疑問を感じていたのであるが、似たような問題意識−主体と対象のワンペアでの音読を主張−から出発していったはずの子どもたちが、「ちきゅうはまわってるう ぐいぐい」の動作を自ら行うことで、いわば主体と対象とが不可分となった状態という自由な解釈を獲得していったことはなかなかの感動だった。いわば子どもたちのこの詩への身体的共感は、論理的な整合性を追い求めるあまり硬直し一面的になりがちだった教師(私)の解釈を解体させていく効果を持ったわけである(13)。
 
 さて最後にまとめの意味で、この論の冒頭に述べた「感じ方の詩教育」(鑑賞教育)と「見方の詩教育」の関係性について私見を述べておこう。
 まず教師は、近現代詩における詩の特性についてきちんと理解した上で、たとえば詩の多義性を組み込んで解釈を行うべきであろう。解釈の多義性とは詩そのものの機能であり、そのかぎりでは「感じ方」を大切にする詩教育は必須である。加えて教室という場で子どもたちのさまざまな解釈が出されることは、多義性という近現代詩の特性を理解させるうえでも非常に説得的であると考えられる。
 一方で、このような多義性が、詩の形式上の具体的ないくつかの特徴によって派生していることは客観的に分析されなければならない(14)。
 また子どもごとの固有の解釈がでてくるためには、個々のことばの辞書的な意味が正確に把握できていることもまた必須であろう。たとえば「みしみし」「ひたひた」といった語の基本的な意味が完全に取り違えて把握されている場合には、解釈は成立しない。「誤読もまた創造的な解釈」という考え方は、すくなくとも国語の授業というある程度の共通理解をめざす場ではひとつの参考にとどめるべきだろう。
音読と解釈との問題に即していえば、子どもたちが音読に対して抵抗がなくなってきた段階では、何人かの子どもにひとりずつ自由に音読をさせて、教室の子どもたちに音読の個々の違いに気づかせ、そのうえでなぜそのように読んだのか、それぞれがテキストから受け取ったイメージを発表させることも効果的だろう。
 その場合には、テキストを参照させずに自由に自分の描いたイメージを具体的に語らせるべきである。そして子どもたちがさまざまの異なったイメージを十分に把握した上であらためてテキストに戻らせ、テキストの語句に自分のイメージの根拠を求めさせる。まったく同じテキストからいくつかもの異なったイメージが発生してくることについて興味を持った子供たちは、テキストを分析することで、自分のイメージをことばによって客観的にあとづけする訓練を行うことになる。
 その作業を通して彼らは、完全に整合的な唯一の解釈というものが不可能であることに気づくだろう。解釈の違いはテキスト読解の錯誤に基づくのではなく、おのおのの読者としての資質の違いに関わったものである。このような作業によって子どもたちは、詩的言語の特性を具体的に理解するのではないだろうか。
 子どもたちの側から自分の受け取ったイメージについての意見がまったくでない場合には、教師の側からの適切な誘導が必要だろう。この場合は、できるだけ具体的な発問を行ったほうが子どもは答えやすい。たとえばここでさわったり押したりしている子どもはいくつくらいの年齢の子どもだと思うか、またこの子が押したり倒したりしているものはどれくらいの大きさの、どんなものだと思うか、この場所はどんな場所なのか、さいごに「どきん」としたのはどうしてだと思うか、といったような質問である。これらの質問に対する答えは、先に述べたようなケースの誤読をのぞいては誤答ということはありえない。間違いであるとはいわれないという安心感が、子どもがリラックスして自由な連想を羽ばたかせるための基本条件になる。先にも述べたように、近現代詩を読むこととは硬直した日常的な発想から脱して自由な連想の世界に身を置くことにほかならないのだから。

 以上、具体的な授業を手がかりに近現代詩の授業における解釈の多義性の問題を中心に考えてきた。
 基本的に「どきん」のような自由な連想と飛躍、そして身体的な部分に深く関わる律動感をもつ詩テキストの場合、これらを感じとり享受する能力はあるいはわれわれおとなよりも子どものほうがずっと鋭いかもしれない。だがそれらを言語化することにおいては、やはり詩の本質を正確に理解した教師の側からの適切な援助が不可欠ではないだろうか。
 国語教育とはやはり、ことばから出発してことばへと戻ってくるものであると考えたい。本稿はそのような立場からの、詩の授業に対するささやかな考察である。



(注)

(1) 五時間目に至るそれまでの指導は、以下の通りである。
一時間目 詩との出会い(導入)。金子みすず「わたしと小鳥とすずと」をとりあげて、学級担任が作者の気持ちや様子の読みとりを線引き・一人読み・仲間読みによって行った。
二時間目 前回を引き継いでの読み深め。ワークシートへの線引き・書き込みから、グループ交流、机間巡視をはさんでの全体交流へ。
三時間目 谷川俊太郎の作品に親しむ(導入)。様子や気持ちの読みとりよりもことばのおもしろさを重視するタイプの詩(「あいたたた」)を紹介。朗読の工夫について考える。本時から教育実習生が担当。
四時間目 ひとりよみ・机間巡視・音読による「どきん」の読み深め。  擬態語のイメージについての意見発表。

(2) 鑑賞指導と「見方の詩教育」の関係性についての私の立場は、「見方の詩教育」を「『鑑賞指導』の代案ではなく、あくまでもその補充のための一つの有力な方法である」とする鶴田清司氏の論文「新しい詩教育論の動向とその検討−詩の授業の課題は何か−」(『文学教材で何を教えるか−文学教育の新しい流れ』所収、一九九〇年、学事出版)に多くを負っている。なおこの問題を考えるにあたっては『国語教育基本論文集成B 国語科理解教育論(3)詩歌教材指導論』(一九九四年、明治図書)がきわめて有益であった。

(3) 原子朗編『別冊国文学 近代詩現代詩必携』参照。

(4) 理論社版の和田誠による挿し絵では、少年の絵が添えられている。

(5) 詩集『どきん』は全体が「T いしっころ」、「U 海の駅」、「V どきん」の表題を持つ三部構成となっており、この「あはは」は第三部の巻頭詩である。ちなみに「どきん」は同部分の巻末におかれており、詩集全体の禎尾を飾るとともに詩集全体の名前ともなっているわけである。

(6) 双方の詩に共通するひらがな表記は、この詩集の基底部のモチーフであるところの「子ども」というイメージに関連するだろう。

(7) これは正確にはフランスの近代象徴詩以降の詩の理念というべきである。

(8) 先に述べた詩の言語の多義性は、ひとつの詩をめぐってさまざまな解釈を生み出すとともに、あるひとりの解釈の内部でもいくつかのイメージを多層的に重ねるといったかたちで働くことがある。たとえば寺田透が紹介するランボーの詩では、「土手に寝ころんでいるとパニエがおりて来る」という詩句のパニエという語は花籠ともスカートとも解釈でき、この詩はそのダブルイメージを織り込んでいるとされている。ここで対象を「地球」と見なすような感想も、近現代詩のこのような構造からくる自由な連想であると考えられる。

(9) 指導案ではこの「体験」を、解釈や分析には立ち入らずまず詩の形式面の特徴(ことばの特徴)を子どもたちに指摘させること、および音読を個々に繰り返しあるいは互いに読み(音読)を交流することによって、詩テキストが全体としてもっている感情の高まりやリズムの変化に子どもたちの注意を向けさせるという手順で行うよう想定している。また音読には、子どもたちの目を、詩における「うた」としての側面に向けさせるという意図も含まれていた。つまりここでは詩の体験に向けて、音読が大きな役割を期待されているわけである。これらは当該時の「目標」のなかに「詩に表れている作者の気持ちをとらえ、それを生かし音読ができる」として示されている。実際の授業では、「どう工夫して読むか」という問題意識が教師から与えられたうえで一斉音読をし、ついで各自音読の工夫をすることによって詩の特徴を子ども自身によって理解させるという方法がとられた。これをうけて、各自がその工夫をワークシートへ線引き・書き込みをした。

(10) 指導案の段階でも、「そよそよ」は静かに「みしみし」は強く読むというような生徒の発言への想定がなされていた。

(11) (10)参照。しかしながら線引きした部分を何カ所かつなげながら発言した子どももいた。

(12) テキスト分析抜きでいきなり音読にはいること自体は妥当である。なぜなら単語や文のレベルに分断して分析するという作業がまだなされないため、読書過程によって形成された全体的イメージがそのまま残存しており、これが音読の際の解釈として働くからである。しかしながらすべての子どもがそのような自己の解釈を即座に音読に反映させられるほど、音読に習熟しているわけではないところに問題があるのだ。

(13) 時間の終わりに「どきん」の授業は今日で終わり、と聞かされた子どもたちはなかなかそれを納得しなかったが、これも思いがけないほどに解放性を持ったこの詩の作用といえるかもしれない。ただし国語の授業でのこのような成功は、当然のことながら日頃の学級担任とクラスの子どもたちとの関係性にも大きく拠っていることはいうまでもない。

(14) 第1節参照。

この論文の執筆に際し、公開授業を参観させてくださった加納小学校三年二組の学級担任の田口広志先生ならびに生徒のみなさん、岐阜大学教育学部教育実習生の斉藤亜古さんにお礼申し上げます。




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