『岐阜大学カリキュラム開発センター研究報告』14-3(1994.6)所収

ただし、本文には一部訂正等が施してあります

         
あまんきみこ『白いぼうし』論−読者論の観点から−


 亀岡 泰子(根岸 泰子)


1  はじめに


 あまんきみこ「白いぼうし」は、小学校国語科(四年生)の文学教材としてしばしばとりあげられるテキストである。
 周知のように、小学校国語科教育の現場では、主人公のタクシー運転手松井さんの思いやりにみちた「やさしさ」が、作品の中心的モチーフとして最重要視されている。また作品のジャンルに付随して、現実と非現実の交錯する表現方法の特性(ファンタジーの特性)などが、指導事項としてとりあげられることが多い。
 ところで、ここで「白いぼうし」に対する、いくつかの生徒の読後感想と教授資料を紹介してみたい(下線は亀岡が付した)。



 多分、@の、タクシー料金にまで言及するような感想は、ファンタジーという領域に習熟していない読みとして退けられることが多いだろう。それに対してBのような読みは、教室での「白いぼうし」の読みとしては、それほど抵抗なく許容されているのではないだろうか。
 だがこれらの解釈は、松井さんとチョウのエピソードに<恩返し>というパターンの話型を想定している点では、本質的に同一のものである。そしてこのようなタイプの感想(解釈)は、「白いぼうし」を読む際の読者の読書プロセスを、私たちに明かしているといえよう。すなわち、読者は無意識のうちに、まず原型的な物語の型−話型−をあてはめながらテキストを読み進んでいるのである(4)
以下の章ではまず、「白いぼうし」に対する、読者の一次的な読みのプロセスをとりあげて考えてみたい。



2  「白いぼうし」における話型の分析



 「白いぼうし」は、形式的には4つの場面に分けられている(5)。 ここで各々の場面の概要をあげておこう。



 @の場面はきわめてわかりやすく、起承転結の複雑さや葛藤などは存在しない。話型、という観点から興味深いのは、ABCの場面である。
 まず、Aの場面は、基本的には<損失の発生→その補填>という構造をもつ話型と考えることができる。これはたとえば「わらしべ長者」やイソップの「金の斧銀の斧」などにみられるタイプであるが、「白いぼうし」の場合は、読者がこの話型を松井さん(「白いぼうし」の主人公(6))と男の子の両サイドから享受することができる点が、大きな特徴となっている。
 まず男の子の側からみれば、失われたチョウが夏みかんにかわることで男の子は損失が補填されるわけで、これは通常のこのタイプの話型と同質であり特に難解な点はないだろう。
 むしろ文学作品としての「白いぼうし」の意味は、松井さんの側にある。松井さんはおとぎばなしや民話では通常超自然的な存在(多く神や魔法使い)のみが立つことのできる位置に立って、男の子に償いをする。松井さん自身、このことを十分認識していることは明らかで、いたずらっぽい(一見超自然的な)手段で男の子に驚きと喜びを与えること自体が、松井さんにとってはわくわくするような喜びなのだ。これは男の子の驚きを想像した松井さんが、(おどろいただろうな。まほうのみかんとおもうかな。なにしろ、チョウがばけたんだから−(7))と考えたところで、思わず声に出して「ふふふっ」と笑ってしまう場面からもうかがうことができる。
ここで強調しておきたいのは、この場面がこのようなタイプの話型を基底にもっていると想定することで、松井さんのいたずらっぽさや茶目っ気(超自然的なできごとをアレンジするということ)というキャラクターが、テキストから新たに浮き出してくる点である(8)

 さて、Aの場面で分析した、<損失の発生→補填>の話型を基底とする一連の物語を、ここでは男の子系の物語と呼ぶことにしよう。
 「白いぼうし」のテキストの構造の問題として興味深いのは、この男の子系の物語がAで終わらず、松田さんの意識のレベルに移行してBCの場面にまで継続していく点である。より正確にいえば、一連の物語は明確な起承転結を迎える前に、女の子の「はやく、おじちゃん、はやく行ってちょうだい」という声によって現実的には遮断されており、そのつづきは、松井さんの想像の次元に引き継がれるのである。
 そして、読者の興味もまた松井さんとともにこの男の子系の物語の結末(ぼうしをあけて目を丸くして驚く男の子)に向かっていまだに引きつけられている、その状態の中に、いわばこっそりとすべりこむようなかたちで、女の子の物語が始まっていく。これが基本的な初読時の図式である。
 それでは、新たにすべりこむようなかたちでこっそりと始まった女の子系の話は、読者によってどのように読み解かれていくのだろうか。
テキストに散りばめられたいくつかの符合によって、女の子=ぼうしから逃げたチョウと解読した場合には、この場の関係性は、まずは男の子系の物語からひきずられるかたちでの、男の子の損失→「チョウを逃がしてしまった松井さん」とその「逃げたチョウ」、すなわち「逃がしたもの」と「逃げたもの」というものになる。
 この関係性をたどってゆくことで、やがて読者に想起されるのは、<囚われ→(偶発的な/必然的な解放)→本拠地への逃走と帰還>(9) の話型だろう。
 しかしながら「白いぼうし」は、読者がここですぐにこの話型へと、ポイント切り替えすることがしにくいような構造になっているのだ。以下、その理由を述べておこう。
 さきに男の子系の物語について、「白いぼうし」では、一つの話型について、その話型の主役と松井さん(「白いぼうし」の主人公)の双方のサイドからの読みが可能であることを述べたが、ここからはじまる女の子系の物語でも、同じことがいえる。
 すなわち、<脱出と帰還>の物語の主役は「女の子」(チョウ)なのだが、松井さんを物語全体の主人公としてクローズアップしたいという志向性を強くもつような立場の読者は、<脱出と帰還>の話型のなかに、松井さんの役割を探し求めようとする。そして「脱出に手を貸した者」としての松井さん像を導き出すわけだ。つまり読者は、そもそもチョウがぼうしから「脱出」できたのは、松井さんの「おかげ」だったことを「思い出す」わけである(実際には、チョウの脱出に際して松井さんの果たした役割はふたつの物語では異なっているのだが(10) 、女の子系の物語の起承転結に注意を引かれ始めた読者にとっては、前の物語での松井さんの役割も、後の物語に引きつけて解釈し直されることになる(11)) 。
 とすれば、松井さんの立場からこの話型を読んだ場合、「(それと知らずに)チョウを助けて、タクシーに乗せて野原まで運んでいく松井さん」に、読者が<異類の恩返し>(12)の話型をここに重ね合わせてくる可能性は、非常に高いということが予測できるだろう。この場合、「女の子のチョウへの変身」もしくは「チョウの化けた女の子」という異類のイメージは、ますますこのような話型へと読者を引き寄せる動機となる。そして結局のところ、<脱出と帰還>の物語は、いつのまにか<異類の恩返し>の物語へと、ポイントが切り替わってしまうのだ。
 前章であげた感想文およびあらすじ例は、いうまでもなくこのような読解をしたものだ。つまりこの場合、読者は、「松井さんのおかげで無事に逃げおおせることのできたチョウ」が、当然なんらかのかたちで松井さんに<報恩>を示すであろうことを、期待するわけなのだ。
 このように考えた場合、感想@がタクシー料金に言及しているのは、読者である子どもが、無意識のうちに、女の子=チョウが松井さんに恩返しすることを期待していたからとみることができるだろう。
 しかし、読者の期待する<報恩>は、テキストには明示されないのだ。



 「よかったね」「よかったよ」という声は、チョウたちが相互に語っていることばであって、松井さんに向けられたものとは読めないだろう。かりにこれが松井さんにも向けられたものだとしても、これを<報恩>よりも一段レベルを下げた<謝恩>のことば−ありがとう−、としても、そう解釈することにもむりがある。
 結局、読者による<異類の恩返し>の話型の適用は、女の子系の物語の結末部にいたって裏切られる−挫折する−のである。
 感想@の「女の子のことを悪く思うんだけど」といういいかたは、この子どもが<異類の恩返し>の話型を「白いぼうし」に適用し、結局それが裏切られた−まとはずれだった−ことへの失望感を反映している。感想Aは素朴に、「恩人」ということばを使うことで<恩返し>の話型にこだわっている。それらに対しあらすじBは、より積極的に<異類の恩返し>の話型に合わせて、テキストを裁断し直している。ここに私たちは、話型によるテキスト読解の強固な例を見ることができる(14)



3  ファンタジーというジャンルの読み



 それでは、<異類の恩返し>の話型が挫折した(=この話型では「白いぼうし」は読めない)ことが明らかになった段階で、読者はどうすべきなのだろうか。 いうまでもなく彼(もしくは彼女)は、道を間違えた分岐点まで戻らなければならない。そして分岐点で再び見いだされるのは、<チョウの脱出と逃走>の話型である。
 この話型が改めて選択されたとき、松井さんはすでに主要人物の座からは転落している。主役はあくまでチョウであって、これはチョウ=女の子が、無事に故郷に帰還する物語なのだ。松井さんは、チョウ=女の子を無事に送り届けるという役目を、そういった自覚もなしに遂行するという一種とぼけた役割を振り当てられるにすぎない。
 だが、話型的に見れば松井さんが端役を割り当てられるにすぎない後半の女の子系の物語は、「白いぼうし」というテキストにあっては重要な文学的な価値をになっている。
 それは、ひとつには、松井さんが端役に後退することで、<チョウの脱出と帰還>という話型にともすればつきまといがちであった副次的な人物たちや物語がほとんど削ぎ落とされ、<脱出して帰還するチョウ>それ自体が単独のイメージとなって輝くからだ。そしてもうひとつには、なにより、<チョウの帰還>を、狂言回しとしての場から見つめていくことで、松井さんは、自身の「やさしさ」というキャラクターに実質的な内容を与えることができるからである。
 それにしても、<脱出して帰還するチョウ>がそれ自体で価値を帯びるためには、そのイメージが自立した鮮烈なものでなければならない。



 女の子(チョウ)と松井さんの実体的な接触は、これだけだ。女の子は次の瞬間には後部座席から消え失せ、場面は、野原でのチョウの群舞へときりかわる。これだけの限られた場面が力をもっているとすれば、それは多分、読者がこの女の子のイメージを、<報恩>などからは免責された<無垢な幼児性>の象徴として肯定的にとらえるからだろう。
 テキストの引用部分に明らかなように、女の子のことばは、極端に仮名の多い特徴的な漢字仮名混じり表記で書かれており(15)、これが視覚的にも女の子のたどたどしさと哀れさ、無邪気さや幼さをよく保証し得ている。
  「白いぼうし」の文学性は、「恩返し」というきわめて図式的な話型が、最終的に矛先をそらされ溶解する、そのあわいに純粋な<幼児性>のイメージが浮かび上がってくる点に存するといっていいだろう。つまり「白いぼうし」におけるファンタジー性とは、いわば数学的な図式性をもつ「異類の恩返し」の話型−一次的な読み−が溶解することを前提として成立する、より高次の読書体験なのだ(16)
 こう考えれば、チョウは「お礼」など言う必要はないのであって、極端な場合、チョウにとっては、松井さんなど、必死の逃走の途中で乗り合わせた任意のタクシーにすぎないと解釈することも可能だろう。
 だが、松井さんという主人公もまた、このように解釈されることによって、より、そのキャラクターが印象的に具体化されるのだ。
 つまり、「女の子がチョウの化けたものであることが見抜けなかった松井さん」とは、とりもなおさず、女の子の正体も目的を知ろうともせず、ただあわてているちいさな女の子の希望をかなえてやろうとして車を発進させた松井さん、にほかならない。作品内の実体的な「やさしさ」とは、まさにこの部分ではないのだろうか。女の子の<幼児性>は、このような松井さんの「やさしさ」によってはじめて、作品世界での存在が可能になるのである。<幼児性>はそれをいつくしんでくれる視線によってかろうじて支えられ、光り輝くことができる、というべきだろう。
 そしてこのような「やさしさ」によって支えられ、ただ一心に仲間たちのもとへ帰ろうとするチョウのイメージは、彼女が帰り着いたときのチョウたちみんなの喜びの声にリアリティを与え、それを聞くことができた松井さんの資質(『車のいろは空のいろ』シリーズでおなじみの、つねに人間以外のものと突き当たり、その声を聞いてしまうという資質)にも肯定的なイメージを付与するのである。
 松井さんの「やさしさ」とは、異類との「接近遭遇」を可能とする、彼の資質そのものを指しているといえよう。



4  おわりに



 以上、話型による一次的読解の分析からはじめて、「白いぼうし」が、そのような話型的興味からずれていくところにその文学的な価値をもっているという可能性について論じてきた。
 勿論、読者には自分のもっているさまざまなコードに応じてテキストを読みとる自由−作品を好きなように読む権利−がある。したがって最初に取り上げたあらすじBやその周辺の読みも、誤読というのはあたらないかもしれない。だが国語科の授業というものが、そういった個人個人の自由な読みのなかからある共通性を取り出すこと−客観性−をめざすものだとすれば、やはり教室では、テキストの字句につねに立ち返る必要があるのではないだろうか。
 テキストの字句は、具体的で客観的な対象としていつでも子どもたちの前に開かれているのだ。

  以上、この稿では話型という構造的な観点から「白いぼうし」を論じてみたわけだが、実際に教室で「白いぼうし」を扱う場合には、『車のいろは空のいろ』所収のテキストと教科書所収時の一部改変が大きな問題となってくる。また、教室から離れて、あまんきみこという作家の世界の中で「白いぼうし」がどのような意味をになっているか、という作家論的な分析も平行しておこなわれなければならない。これらの諸点を次の課題として、この稿を閉じることとしたい。(17)








(1) 「『白いぼうし』の授業」(西郷竹彦監修/文芸研編『文芸研教材研究ハンドブック7 あまんきみこ=白いぼうし』、昭r、明治書院刊)
(2) (1)に同じ。
(3) 高山朝子「特集:主題にせまる『あらすじ』の捉え方−小学校四年の実践 客観的・主観的読みを主題理解に−『白いぼうし』」(「実践国語研究E」、昭l・@)における、「白いぼうし」のあらすじのサンプル。
(4) 話型とは、おとぎばなしや民話に特徴的な、タイポロジーが可能な起承転結や規則性をもったひとまとまりのストーリーを指している。この論ではいくつかの具体的な物語や伝説などを例示しているが、こういった原型的な型はさまざまなジャンルの<物語>の中にセットされているため、読者はここで例示したものを必ずしも読んでいなくても、話型自体の習得はすでにさまざまな局面でおこなっていると考えられる。また話型の応用(フレームとしての話型)という行為そのものは、読者によってほとんど無意識のうちにおこなわれると想定される。なおここで用いる話型分類については、クロード・ブレモン『物語のメッセージ』(審美文庫)の考え方を、また読書における話型の類推的な適用とその合致・挫折というプロセスについては、たとえばロラン・バルト『S/Z』(みすず書房)などの考え方を参考にしている。
(5) 各場面の間は、一行のブランクで区切られている。
(6) 後で述べるように、実質的には松井さんは狂言回しというべき役回りだが、初読時の子どもはやはり主人公として読むだろう。
(7) ここで松井さんが、単にチョウが夏みかんに化けるという趣向だけをおもしろがっているとは考えるのは当たっていまい。化けたものが逃げたチョウと等価かあるいはより価値があるからこそ、松井さんは男の子の驚きを喜びをもって予期できるのだ。
(8) 無論こういったキャラクターは、広義の「やさしさ」に含まれるだろうが、思いやりという狭義の解釈に局限するのであれば、松井さんはぼうしに夏みかんとともに、お詫びのメモを入れて立ち去ってもかまわなかったはずである。
(9) これは「オデュッセイア」、ペローの「親指小僧」などの物語からサスペンスやアクション映画に至るまでさまざまの例を見いだすことのできる話型である。
(10) 男の子系の物語では、チョウを逃がしてしまった松井さんは「あわててぼうしをふりまわし」てチョウを追おうとする。
(11) フレームとなる話型の転換にしたがって、たとえば男の子は贈与(補填)を得る主人公から、主人公(チョウ)をとらえようとする邪悪な存在へと切り替わる。このような観点からの、こどもの感想文(エコロジー礼賛的なパターンのものがその典型だが、一歩進んで、松井さんがチョウを逃がしてしまったこと自体が、チョウをつかまえようとした男の子へ与えられた罰であるとみなした例もある)はいくつか見出すことができる。なお、Bの場面は特に初読時においては、同一の人物の二つの機能が地と図の関係のように並行的に存在するという点で、二つの話型の接続する構造上の特異点になっている。文芸研での初読と再読を比較する視点論は、このような構造をテキストに即して読み解く方法論といえよう。
(12) いうまでもなくこれは「鶴の恩返し」などにみられる、異類が自分を救ってくれた人間に魔術的な手段によって恩返ししようとするパターンである。
(13) 引用テキストは『車のいろは空のいろ(文庫版)』(平3 ポプラ社)。ただし最終章で述べるように、本文テキストについてはあまんきみこによる数回の加筆訂正、教科書所収時の改変(表記の変更・改行の一部廃止・心話文と会話文の形式統一ほか)といった問題がある。
(14) これはテキストの字句よりは話型による一次的な読みに固執する読みである。テキスト外の指導目標である「やさしさ」(作品の主題)はこのような読みを助長しかねない。
(15) (13)ほかでも言及したがこの部分の表記は、教科書所載時に漢字配当表に従ってかなり変えられている。
(16) こう考えた場合、さきにあげた<恩返し>の話型に固執する子どもたちの感想は、「<恩返し>じゃなくってもいい」理由を教師が示すことで、ファンタジーの特質へと具体的に接近するための有効なてがかりとなりうるだろう。
(17)「あまんきみこ『白いぼうし』論 2−本文異同・作家論の観点から−」(「岐阜大学国語国文学」22 1995.2)参照。


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