植物分子生理学研究室
Lab for Plant Molecular Physiology, Fac Appl Biol Sci, Gifu University
論理的思考2
ここでは論理的思考というものを具体的に記載してみたい。論理的思考はトレーニングで身につけることができる。
その1 知識の体系化
例えば、「ダイエットは摂取したカロリーと消費分のバランスが重要」という主張と「ダイエットにカロリーは無関係。食前にナントカ油を舐めるだけでダイエットは可能」という主張を両方とも自分の知識体系に組み込むと、相互に矛盾する点が生じる。つまり、カロリーはダイエットにどういう影響を与えるのかわからなくなってしまう。これは2つの主張の間には矛盾があるということであり、両方をそのまま取り込めばその矛盾は知識体系にも取り込まれてしまう。保有する知識間に整合性がないとその知識は「使えない」。
上記のような状況を避けるための戦略としては、①片方の主張を捨てる、②両方捨てる、③それぞれの主張のコアな部分を取り出して(表面上の表現はともかく)整合性が取れるようなら両方取る、の3つがある。要は多数の主張を取り込むことよりも知識体系の整合性を維持することの方を重視する、ということである。③は、例えばナントカ油は口に入れた食物の吸収を抑えるのでカロリー摂取量を下げる効果がある、と解釈すれば両者の整合性をとることができる。ダイエットにカロリーは無関係という部分は勇み足の表現として捨てる。
ということで、小さな知識の断片を整合性に留意しつつ(矛盾が生じないように)組んでいくと大きな知識体系をつくることができる。お城の石垣を隙間なく組んでいくようなイメージであり、石の積み上げ方が「論理的」ということになる。上記の例では取り込むふたつの主張の間の整合性に留意したが、すでに組み上がっている知識体系と新しく取り込むものとの整合性にも気をつける。 一生続く継続的な作業である。
ちなみに、知識体系というのはひとりひとりが自分だけのものを作り、自分でメンテすることになっている。他人のものは使えない。同じデータソースを共有していても体系の形状や結論が人によって異なっている場合も珍しくない(不思議な話ですが)。
知識の体系化の作業は中高の数学で十分経験してきたハズなのでそれを思い出してもらえればよいのだが、慣れていないと転用は若干難しい(数学なみの厳密さを求めると前へ進めない)。「慣れる」ことがトレーニングになる。
しっかりした知識体系を持つと未来が見えるようになる。著名経営者の中には「予言者」と呼ばれる人たちがいるが、彼らは頑強な知識体系を持っている、と思われる。一見複雑な物事の因果関係(これも知識に含まれる)がはっきり見えていると「どこを変えればどこが変わるか」もよく見える訳である。巷では「やってみなければわからない」とよく言われるが、実はやらなくてもわかることもたくさんある。
予測は知識体系の試金石になる。例えば為替変動。過去に起こった為替変動について饒舌に説明している経済評論家が為替変動の原理を理解しているとは限らない。もし将来の変動を予測できるならわかっているのだろうし、できないのなら「口だけ」ということになる。後付けの説明なら何も解ってなくてもそれらしく話すことは可能である。厳しい見方だが理系のスタンスではそういうことになる。 その昔、江戸時代の暦学者は日食や月食を予測し正確さを競い合った、という話である。
サイエンスの分野では予測をもとに実験検証を行い、合っていれば報告し、合ってなければ予測の基盤となった知見とその解釈の見直しをする。修正して使える知識にしていく。検証があるのがサイエンスの特徴のひとつである。検証、修正の作業を繰り返していくことで感覚が磨かれる。
その2 グループの分け方
些細な話ではあるが、集団の分類法にも論理的な扱いに馴染むものとそうでないものがある。基本はMECEである。Mutually Exclusive, Collectively Exhaustiveの略であり、意味は「重複なし遺漏なし」。これ以外の分類では後の操作がぐずぐずになる。
例えば全国の高校生を部活別に分けるとする。野球部、サッカー部、吹奏楽部、コーラス部、等々である。これをもとに全国の高校生は何人いるかカウントしようとすると、正しい数値は出てこない。複数のクラブに所属している学生がいる(重複あり)のと、どのクラブにも所属していない学生がいる(遺漏あり)ためである。ちなみに私は1年生のときはテニス部と地学部、2年生になってテニス部を辞め、3年生になって新しくできた囲碁将棋部にも所属するようになった。こんな学生がいるのでMECEにはならない。
別の例を考える。栽培リンゴを赤いのと青いのとに分けるとする。重複を避けるためには赤と青の境界線をはっきり引く必要がある。おしりが青くて肩だけ赤いやつとかはどちらにするか決めておく。そして、遺漏を避けるためには赤くも青くもないリンゴが本当にないのかどうかチェックする。黄色いのは青に入れ、黒いのは赤に入れる。
と、ここまできてひとつひとつの品種を赤か青に分類するという前提で考えていたことに気がつく。すべての品種を赤か青に分類すれば作業完了というつもりである。しかし、もし品種ではないリンゴがあれば遺漏してしまう。それがあるのだ、野生種である。山に自生しているものや、それを庭で栽培していることもあるだろう。野生種が何種類あるのかはわからない。これは母数となる解析対象をどのように定義するかで無視してよいかどうかを決めることができる。定義からいうと無視できない場合でも「流通量を調べて」無視して良い程度の量なら無視する場合もある。母数内に検出できないグループが〜4割以上占めるようならその解析には意味がないと考えて良い(主流派が見えていない可能性があるのだから当然である)。
その3
「論理的思考」その3、思いつかない。プレゼンの構成を論理的に(確かなデータの提示、それに基づく合理的な判断)、とかレポート作成を論理的に、というのもあるが、特筆するほどのことでもないような。。。その2に留意しつつその1を日常的に行えばあとのことは自然についてくるような気がする。
ネットの世界で「論理的思考」がどう扱われているのか見てみると、扱っているのはビジネス系の啓蒙サイトが多いことに気づく。MECE以外に紹介されているものとしては、仕事を5つの要素に分解して考える(目的、インプット、成果物、関係者、効率)、コミュニケーションの際には結論から言う、図解して説明する、内容をナンバリングする(以上大手就活転職サイト)、ビジネスフレームワーク(3C:Customer, Company, Competitor;4P:Product, Price, Place, Promotion)、ロジックツリー(市場や解決策をツリー構造で示す)(以上ネット系経営大学院)、等があるようであるが、、、残念ながら論理的思考の本質から考えると全てまとはずれである。そもそも行動や戦略を覚えやすいパターンに押し込み、「この通りやって下さい」と丸呑みさせるのは論理的ではない。
論理的というのは因果関係を明らかにして明示的に扱うということであり、2つの事象の関係についての理解のあり方の話である。入り組んだ現象を論理的に理解していくと、構造として理解・表現するのがやりやすい場合が多い。なので論理は構造を求めるのではあるが、ツリー構造で示せば何でも論理的になるという訳ではない。前述の高校の部活の話で言えば、「高校」から分岐して「文系」、「体育系」と二つの枝を作りそこへすべての部活をどちらかの枝へぶら下げていくと3層のツリー構造ができる。部活の種類をすべて並べるという用途になら論理的なものとして扱えるが(といっても並べただけだが)、高校生の人数の分布を示す図として用いるならこのツリーは非論理的である(MECEになっていないので)。ネットで見かけた「ロジックツリーの例」も非論理的なものであった(残念)。
(つづきあります)
2021. 12.1
Highly Cited Researchers of Gifu University