留学の思い出

 

なぜか最近人気がないが留学のすばらしさを書いてみる。留学は「若い頃にやっておいてよかったこと」のトップに挙げられるとか(出典不明)。メリットは英語に慣れることと外国人研究者の知人ができることであるが、今回はそれ以外のことについて触れてみる。ということで観光編。アメリカコネチカット州ニューヘブンにあるYale大学に留学(ポスドクではあったが)していたときの話である。

Yale大学は植物生理学会的には日本のフィトクロム研究の大御所古谷雅樹先生が留学していたことで有名であるが、あちら的にはクリントン夫妻を輩出したこと(「奥さんの方が頭がよかった」と言い足すのがしきたりになっていた)を推していた。法学と建築が強い。演劇学科もあり、大学院では芸術学修士号というのを取得できる。ポールニューマン、ジュディーフォスター、メリルストリープが卒業生。

私が留学していたのはかなり昔の話になる(1994-7)。時代は20世紀末、ライジングサンの後の日米貿易摩擦の残り火があった頃である。為替レートは1ドル=80〜100円の超円高なのに給料(ヒューマンフロンティア(本部はフランス) からのフェローシップ)はドル建てでもらっていた(泣)。



コンサート

京都にいた時には京都大阪へコンサートに行けたが、札幌にいた5年の間には行く機会は一度しかなかった。聞きたい音楽の幅がせまいということもあるが、コンサートに通うというのは住んでいる街によって可能だったり無理だったりするものだと思う。ざっくり言えば大都会の特権なのだ。

留学していたところはNYがわりと近かった。岐阜から京都へ行くくらいの感覚である(もしくは旭川から札幌)。頑張れば日帰りできる距離だったが、だいたいは泊まりになる。クラシック界ではNYといえばNYフィルの本拠地であり、ヨーロッパの著名な音楽家もよく来る。雑誌のNew YorkerとNYタイムスの日曜版(だけ)を購読していたので、コンサート情報はおのずと入ってきた。のでコンサートには札幌にいたときよりはよく行った。秋から春までがホームの演奏会シーズンである。良かった演奏会を並べてみる。

チケットの買い方はよく覚えていないが、電話で予約して小切手を郵送するとチケットが送り返されてくる、のだったような。。。当時インターネットはあったが、ブラウザがMosaic(!)、後にNetScapeの頃でまだ日常生活に関係するものではなかった。渡米して初めてMosaicを見たときには驚いたが、話が長くなるのでこの話はここまで。


・ヨーヨーマ(チェリスト) 本人(NY在住?)がニューヘブンに来てYale大のホールで演奏していった。入場料はなかった気がする。演奏曲はバッハで、無伴奏からの抜粋だった(たぶん)。演奏は理知的というよりは情緒が勝る感じだったが(スウィートなのだ)、チェロの音色が圧倒的に良かった。チェロには名前がついていたような。。。今調べて見ると、ヨーヨーマのメインチェロは「ペチュニア」とのこと(Wikipedia)。彼は飛行機を予約する際に「私のペチュニアにも席をひとつ」とかいうらしい(これまたスウィート)。


・ジェームスレヴァイン(指揮者) METの常任指揮者であるが、調べてみたら1975から2018までの長期政権だったらしい。有名人。かのメトロポリタンオペラハウスでドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」の演奏があり、当日券をあてにして行った。行ってみたら立ち見券しかなかったので立ち見で観劇した。一幕目が終わり休憩になったので、デイパックを背負いつつ(重要)スタンドバーでシャンパンを飲んで席(というか立ち見の場所)に戻ると、見知らぬおばさんから「私はもう帰るから私の席(二席あり)に座るといいわよ」と申し出が。ありがたく申し出を受け前の方のとても眺めの良い席でオペラの続きを堪能した。席には名前の彫られた真鍮プレートがあったのでシーズン券の席であった。演奏は上品かつ繊細、抑制の効いた雄弁さで、とても良かった。おばさん何故途中で帰る?オペラを観たのはこれが初めてだったが、舞台はとても豪華で、使われていた銀色の布(シーツカバー、刺繍入り)は今でも覚えている。

という話をすると私をオペラマニアみたいに思われるかも知れないが、実はオペラを見る趣味はなくて、観たいオペラは「ペレアスとメリザンド」ひとつだけなのである。オペラというのはイタリア物かワグナーモーツァルトに人気がありフランス物はめったに演奏されない。このレアものをレヴァインのMETで観劇できたのだから果報者である。留学してよかった。レヴァインは別の機会にマーラーの交響曲9番も聴いた。これもすばらしかった。レヴァインは抑制が効いているところがいいと思う。そういえばオペラハウスで席を譲ってくれたおばさんはウディアレンの映画に出てくるお金持ちの人みたいだった(映画ではからかわれる役)。


・小澤征爾(指揮者) 小澤征悦の父である(Wikipedia)。当時小澤征爾はボストン交響楽団にいて、夏のイベントであるタングルウッド音楽祭の音楽監督もやっていたのでそれを聴きに行った。野外ステージの演奏を芝生の上で聴くという気楽なスタイル。演奏曲は覚えていない(失礼)。クラシックだけではなくてポップスの人(ジェームステイラーとか)もいた。

話はそれるが、10年ぐらい後にウィーンへ行った際、郊外の市場のお酢の専門店に「小澤征爾がこの店に立ち寄った」という張り紙を見かけた。その時にはウィーンフィルの常任指揮者(正式にはウィーン国立歌劇場の音楽監督、本体は歌劇団でウィーンフィルは付属物だとか)になっていたのだ。対談などを読んでいると「江戸っ子職人」みたいに思えてくるがとても偉大な人なのである(私がいうことでもないが)。

ウィーンでは(脱線つづく)マーラーの墓を訪ねた。地球の歩き方を見て墓のある郊外のユダヤ人墓地に行った。ろうそくの入った赤いビンがあちこちの墓に供えてあった。墓参りの人に場所を教えてもらって行ってみると、周りの立派なお墓(むきだしの石棺。磨き上げられた大理石の大きな石棺に金色の装飾、などなど)とは対照的に、田舎道の道祖神みたいにくすんだ石碑と石棺なしの平たい芝生の地面がかのマーラー夫妻の墓なのであった。作曲科学生の献納品であろうか、楽譜が一枚丸めて供えてあったのを覚えている。ベートーベンやモーツァルトが市街中心部の公園に立派な像やら花やらで祀ってある(?)のと比べると全然違う。ユダヤ人だからだろうか?プラハではカフカは丁重な扱いをされていたが、、、ウィーンだから?


・エリーアメリング(ソプラノ)が96年に引退した。NYで最終公演があったのだが、残念ながら行けなかった。今でも心残りなのである。行って残念だったのもあったが(ズビンメータとか)、それでも「カーネギーホールに入れた」とかでたのしい経験になった。

・ちなみに私が帰国した後、Yale大のホストラボの人たちがMETのシーズン券をみんなで買うという贅沢な企画を始めてしまった。何とも羨ましいことである。



バケーション

バケーションには車で行けるところだけ行った。車はニューヘブンを引き払うポスドクの人から買った。小さい町でもないと困るのである。バケーションのシーズンは夏だが、ポスドクなので気にせず春か秋に休みをとっていた。住んでいた町は治安の悪いところだったので、休みが終わってアパートに戻るときには「窓が割れているのではないか」と心配した。


・アディロンダック(NY州北部)  地図に湿原のマークがあったので寄ってみたらよい所だったのでその後数回行った。常宿にしていたロッジはアルコールを出さないので、行きがけにビールを6本買って宿に入り(銘柄はボストンのSamuel Adams、買ったビールは宿に預ける)、3泊して帰る。カヌーとハイキング、あとはスティックレーの椅子(オットマン付)に座ってコーヒーを飲むのが主なアクティビティである。夕食時には食堂の外にある鐘を鳴らして知らせてくれる。その昔冬季オリンピックが開催されたレイクプラシッドは賑やかだが、他の地域は静かで落ち着いた雰囲気なのが良かった。


・ケベック、オルレアン島、メイン 当時ケベック州独立の賛否を問う投票をしており(1995)、あちこちに「Oui」という独立推進の看板があった。旅行直後の投票の結果は僅差(49% 対 51%)で否決となり、ケベックはカナダ国内の州として留まることになった。

ケベック州ではとくにあてもなく国道を北上していったのだが、サトウカエデの紅葉(国旗にあるやつ)がとてもきれいだった。カナダでは車で行けるところは限られてしまう。オルレアン島の宿の主人のおばさんが当時騒ぎになっていたOJシンプソンの話題(アメフトの元スター選手が元妻の殺人容疑で逮捕されたが刑事裁判で無罪になった、1995)を振るのでお互いに「あれは黒にちがいない」と言いあって、市井の意見はすんなり一致するのであった。

知らなかったが、ケベック州はフランス語圏であり田舎では英語が通じない、ので苦労した。特に車がパンクしたときには(したのである)とても困った。フランス語は大学で習ったハズなのだが、、、、ケベックから米メイン州に戻って「これで言葉で苦労しなくて済む」と一瞬ホッとしたが、それは気のせいで、今まで通りの英語の苦労が続くのであった。

メインではヘラジカ(moose)が過剰に間抜け扱いされていた。たぶん鼻のあたりの造作の問題だと思う。かわいそうなことである。


・アルゴンキン(カナダ)  トロントの北にある州立公園である。地球の歩き方に載っていたので行ってみた。カヌーにテントと食料を積んで3泊4日の canoe tripというのをした。カヌーとテントはPortage Storeというところで借りて食料も地図も現地調達、自前なのは寝袋コッヘル類くらいだったと思う(たぶん寝袋もコッヘルも借りられる)。湖があちこちにあり、カヌーに乗ったまま巡回できるコースがいくつかあった。水がないところではカヌーを降りてひっくり返して運ぶ。今なら釣竿を持っていくところだが、当時はそんな趣味もなく水鳥(loon)が潜って魚を捕まえるのをのんびり眺めていた。ので獲物の魚種やサイズは知らない。ビーバーのダムをカヌーで乗り越えたときにはちょっと感動した。キャンプサイトには薪が置いてあって毎日焚火をする。焚火の経験はなかったがやってるうちに慣れていった。公園のレンジャーの人に言われたとおりに、匂いのする食料はテントに入れずに高い木の枝に吊るす(そうしないと熊がテントに入ってくる)。夜中に大型動物の鼻息が聞こえて怖かった(たぶんヘラジカ)。動物は大型中型いろいろいた。秋に行ったのだが、カヌートリップが終わってホテルでもう一泊してると雪が降ったのを覚えている。北国の秋は短い。

カナダやNY州北部の秋はとても美しい(コネチカットもだが)。主役は赤いサトウカエデ(maple)と、黄色いのは白樺?とかブナ?ナラ?(忘れた)。 濡れた落葉に日が当たると甘い匂いがする。


・大陸横断旅行 留学期間が終わり帰国するときにアメリカを車で横断することにした。大西洋岸のニューヘブンのアパートを引き払ってシアトルまで車で行き、車を売って飛行機で帰国、というプランである。

行ったのは バッドランド、サンダンス(映画祭が行われるユタ州サンダンスは町を作ったロバートレッドフォードが演じたサンダンス・キッドが名前の由来だが、キッドが入っていたサンダンス刑務所はこちらのワイオミング州サンダンスにある。地名の由来はネイティブアメリカンが行なっていたサンダンスという過酷な儀式)、イエローストーン、レスブリッジ、バンフ、ゴールデン、ジャスパー、シアトル。

前半バッドランドまで地名が出てこないのはただひたすら運転しただけだから。1日運転してトウモロコシ畑と牛とサイロを車内から見てモーテルに泊まって終わり、みたいなのが数日続いた。夕方まで車を走らせると翌日に疲れが残ったので、3時には宿を決めて入るようにしていた。距離にすると1日500kmくらい。夕食は自炊かパンと惣菜を買ってきて宿の部屋で食べる。トウモロコシと牛の平野を見飽きた後バッドランドの山なみがちらりと見えてだんだん大きくなってきたときにはわくわくした。バッドランドから西は山あり森ありのワイオミングの楽しい景色が続く。

国道(高速)や州道を走らせていると、いろいろと名所の看板が出てくる(マウントラシュモア、デビルズタワー、等々)。せっかくなので寄ってみると面白かったりそれほどでもなかったりする。国立公園ではTourist Information(“I”の看板)を探して地図をもらい、おすすめのハイキングコースを聞いて予定を立てる。「馬でトレッキングするならこのコースがおすすめよ」とか言われたら、残念そうに「歩きなんですけど」と答える。

モンタナでは農家がやっている化石の博物館があった。自分の農場から化石が沢山出るので拾っているうちに化石採集が趣味になり、そのうち本格的な海外遠征を行うようになったとか。コレクションが溜まって展示物を人に見せるようになったらしい。

バンフ~ジャスパーはいわゆるカナディアンロッキーで国立公園が連なる地域。車から山脈の脇の峡谷を走る貨物列車を見たが、俯瞰すると大迫力の長さなのであった。後で調べると列車は2km(!)くらいはあるらしい。ついでにいうと山脈も峡谷も大迫力である。国立公園へ入る際にシーズンパスを買って車のルームミラーにぶら下げると否応なしにバケーションモードになる。ジャスパーを出て(バケーションモード終わり)シアトルへ向かう途中で露天掘りの銅山があった。作業中の運搬車のタイヤが巨大なのであった(人より大きくて3mくらいの直径)。

あとは、、、シアトルで海を見た時には感動した(太平洋である、向こう岸は日本)。シアトルでは毎朝おいしいコーヒーを飲み、夜はレストラン通いをした。日本人の寿司屋にも行った。久々のおいしい寿司と日本酒でとてもくつろげたのを覚えている。日本酒は私の師匠にゆかりのある男山だった。アメリカ人の客は寿司を食べる順番も知らなくてねえ、という店主の話をそうですよねという顔で聞きながら、我々も食べる順番は知らないので欲望の赴くままに好き放題頼むのであった。昼間は郊外で買い物とか車を売りに行ったりしていた(値切られた)。今突然思い出したが、チャーリーブラウンのTシャツを買った。黄色の地に黒のギザギザ模様の例のやつである。

ちなみに私は大学生のときから野外でお湯を沸かしてドリップのコーヒーをいれる習慣がある(清原なつのの漫画にあった)。バイクのツーリングをしていたときは河原でコーヒーを飲み、その後は河原の石を検分することになっていた。アメリカの高速道路沿いのピクニックエリアでコーヒーをいれて飲んでいると、人が集まってきて「いいアイデアだね」という人が出てくる。気の利いた言い返しができずにつくり笑顔で乗り切っていたが、宿題を出されたような気になる。でも喉元すぎればなんとやらですぐ忘れるから次回も全く同じことになる。


アメリカに住んでいなければ大陸横断やカヌートリップはしてなかった。ということはすべては留学に付随するイベントということになる。留学サマサマという話でした。


2020.10.14



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