田中真介さん(京都大学体育指導センター助教授)
1. 空間のアート 〜イノシシと雪うさぎ〜
まずおもしろかったのは場面そのものでした。美術棟があり、石膏で「ぶた」を作っている人がいて、その工房の向こうに日差しの入る明るいスペースがある。そこは何のことはない、大学の学部の建物のほんの傍らのテラス。それもほっとけば殺風景なコンクリートと美術教材の物品の数々が壁際に積まれただけの場所。それが芸術家たちの秘密の力発揮する煌びやかなステージになるんですねえ。
小学校1〜2年生の子どもたちが教室で座っているような小さな木の椅子の上で、三角形の厚みのある木のブロックが二つ、無造作に組み合わせて置いてある。美術学生のためのデッサン用のドッキングしてる円柱&円錐、その上に雪うさぎ。旧世代コンピュータから引き剥がされた半導体のプリント基板。
野村幸弘さん「え?あ、これ? そのへんにあったものを僕が適当に置いといたんですよ。なんか寂しかったから」。こういうオブジェを置くだけで、こんなに雰囲気が変わるのかと驚きました。自分の部屋に生活に、こういうアートのセンス、すっぽり抜け落ちてたよなあ。ウチまるで兵営だもの。闘いに行くためだけの殺風景な準備室。このテラスだって、ふだんはごく硬質な日常の場なのでしょう。意識が変わるだけでこんなにアーティスティックに変えられるのかと驚いたのでした。「ありあわせのもの、そこにあるものを使えばいいんです」ともおっしゃってましたね。そして教室の外に置いてあったテーブルを運んで、「しゃべってましょか」と。
2. 時間のアート 〜蛙ゲコゲコ〜
いつ始まるのだろう。2時と聞いてたけど。ふだん時間厳守のパンク生活をしている私などは不安に。わらわらと観衆は集まっているけど、始まる気配がない。レクチャラーの片岡さんと山辺さんがスピーカーや(えっと、なんて言うんでしたっけ)ジューサーやマック・クラシックIIを運んでこられた。わお、まだあったのかあと感動。「なしくずしにボチボチと始めましょうか」と、音楽が流れ始める。ハンドベルをひとりまたひとりと手にとって、曲の合間に思い思いに鳴らしている。いつの間にか始まっている。楽器が増えていく。トーキングドラム、竹のあのあれ、鈴なりの鈴。蛙ゲコゲコ。幸弘さんはソニーのデジタルビデオカメラでオブジェや参加者たちの映像を撮っている。あらら〜区切りがわかんない。フォーラムっていうのは、講義っていうのは、ある時刻からキチンと始まらなくてはならないものなのに。・・・私の体にはそういう習慣や制度が浸み込んでいます。それがゆらゆらと揺さぶられている心地よい感じがしました。
いつのまにかボンッと現れてテーブルに座っていたのが、野村誠さんでした(こちらが缶コーヒー買いに行ってた間に登場されただけのことでしたが、神出鬼没の印象を受けちゃいました。読者は勝手です)。「ぼくはちゃんとこれ出たことがあんまりないんですよ。終わった頃に岐阜駅の近くの飲み屋で引っ張り込まれたとか、そーゆーことが多くて」。ほらやっぱり。
3. コミュニケーションのアート 〜ヒモ付き玉のやわらかな感触〜
山辺さんの、環境音を音楽の中に取り入れて融合させていく試み、楽しかったです。鳥の声、そして足音。その後ビデオ作品「場所の音楽」のの中で、河原の堤防沿いの道を走る車の音が、片岡さんの演奏とコラボレートしていたのには驚きました。こういう音楽作りがあるんですねえ。鳥の声の主はオーストラリアにしかいない鳥なんです。そう言って山辺さんはオーストラリア出身という男性をinvolve。そのあと足音の話になった時に幸弘さんは、「その足音もオーストラリアの足音?」。
片岡さんの2拍子と3拍子、槍の、闘いの音楽。そして弓の狩りの音楽。シンプルでいてすべてを包括するおもしろい見方でした。ビデオの中での、自閉性障害者の方へのドラムの先導は珠玉。音楽がこんなに人の力引き出すものであろうとは。ランダムのメロディーも楽しめました。「コンピューターは何も意図していない。聴く側がそう聞くんだと思うんです」。誠さんは冬眠から醒めて「表現してるじゃない!」と軽やかに反論。幸弘さん「指示を与えるのは人間で、一方で、聴く側が独自にソコに何かを感じることができる、聴く側が作るっていう面もある。そういうことやね」。
アフリカのひも付き玉、三拍子の動きで二拍子の音を出すんですね。エロティックな音楽。この発見も今回の大収穫。最後までできませんでした。行うは難し。
4. 思考のアート 〜オーストラリアの足音〜
教室では前回のフォーラムで「動く風景画」の試みの紹介がありました。毛糸の帽子の○○さん。大垣の学習塾で仕事している友だちたちを沢山連れてきてくださった方。赤枠のムコウに風景が見える。それは、どんなものでも絵になる、写真になるんです。そして赤枠も含めて撮った写真をまたサービスサイズの小さな赤い額縁に入れて机の上に並べて見せてくださいました。幸弘さん「そしてこれをぜーんぶまた写真にとってこの額の中に入れるんだよね」。このユーモアとメタ思考の冴えにも感銘。
そして、ここには転倒のメカニズムが使われているんじゃないかなと思いました。写真の赤い枠を、風景を取り囲んで区切る役割をするはずのものを、全部中に取り込んでそれ自体を被写体とする、内部に転化する思考です。同時に対象を広やかに捉えてるでしょう? だから、メタ思考と内部-外部の転倒操作がオーバーラップすることになっています。足音を「オーストラリアの?」と崩せた力もこの源泉から湧き出てるように感じました。
5. 人間というアート 〜駆け回るハンドベル〜
今回は短時間しかお邪魔できなかったのですが、楽しませていただいて出会いに感謝しています。誠さんは寒さが苦手なわけではないのが、最後の見送りでわかったような気がします。昼間の外でのフォーラムタイムでは、「レクチャーする-される」という二分法の世界を回避しておられたのではないでしょうか。また、室内でも、一方的になってしまいがちな教室レクチャーに「切れ目」や「反転」を入れておられたように感じました。夏のフォーラムのいわば正攻法の取り組みの映像に対しては、逆に自ら「夏は暑苦しいな」と冷やし溶かす爽やかな氷の一言を入れて、独特の立場と方法でこのフォーラムを引っ張ってこられたことが感じられ感銘を受けました。
クルマで岐阜大学を出るときに、誠さんと幸弘さんたちが見送ってくださって、とても名残惜しかったです。懐かしい場所を離れ去るような。帰り際に「じゃあハンドベルで送ってあげよう!」と誠さんはアートスペースを駆け回りながらベルを振り鳴らしておられましたね。この演奏家の、ナマのハンドベルが聴けるとは何とシアワセな。そして幻想工房の主宰者は車が見えなくなるまで手を振って下さっていました。こんなふうに世界を音でオブジェで夢で切り裂ける人たちはまれだろう、と思いました。芸術フォーラムの実力が十二分に伝わってきた瞬間でした。
すごい受け手がいると、岐阜大学芸術フォーラムはかくもすばらしいものに転化するのですね。芸術作品を作る人もすごいが、それに感動し、それを理解し、意味付け、語る人も同じようにすごい。というのが、レポートを一読しての、私、野村幸弘の感想でした。第9回フォーラムで「宣言」した「観客批評団」にまっさきに田中真介さんをオルグ(?)しようと決意した次第です。(野村幸弘)