再び評価について

 またしても評価は難しいということに触れてみたくなりました。あの、例の女子マラソンのオリンピック代表の選考に関して、ですが、そのこと以外でもいろんなことに関連します。

 この代表選考では、結論がどうあれ、たぶんもめるだろうということは、最後の名古屋国際マラソン大会が行われる前から言われていました。スポーツライターのN氏はある月刊誌4月号で、選考基準に「実績」を加えよ、と主張し、陸連の選考基準の中にはどこにも「実績」の文字がないにもかかわらず、実績をそれとなく示唆している関係者もいるしこれまでも実績によって選考されている部分もあった、それで余計に混乱してきた、と述べています。要するに、評価基準=選考基準に曖昧な部分がある、ということで、実際に代表選考の結果に対しては、だいぶ抗議が起こったようです。私もQちゃんファンとしては、ちょっとがっかりの結果でしたが、もちろん当初からの予想の範囲にはありましたので、選考結果を当然と受け止める人とがっかり(「ちょっと」と「だいぶ」をあわせて)と考える人がほぼ半々という結果も客観的に見ることはできました。

 一般的に、評価あるいは選考には、目的があります。オリンピック代表選考では、3位以内のメダル獲得か上位入賞期待という目的での選考です。そのために何をするか。選考レースであり、そこで勝てそうな人を選ぶ。しかし、実際は、限定的な4試合しかなく、しかも選手自身にとっては実質的には一発勝負で決めることになります。大学入試でも、一発勝負ではなく、前期後期の2回、またOA入試や推薦や面接などの幾つかの選択肢があるように(それらが最適ではないにせよ)、良い人材を採るほうとしては、一発勝負の危険性を知っているので幾つかの選択肢をとることにしています。そして、多様な人材を採るほうが、トータルとしては大学としてはプラスになると考えているわけです。普通の授業で学生を評価するための試験でも、定期試験一発で学生の成績を数値化することは、少なくとも私はしていません。それも当然参考にするが、授業の中での小テストの実績や出席などの努力面も重みをかけながら考慮し、時間はかかるが総合的に判断し、ABCDを付けます。それくらいは評価するものの責任として行います。大体、一回の90分の試験で授業の理解度を100%判断できるような試験問題を出すことは不可能です。

同じように、女子マラソンのオリンピック代表選考では、例えば、一回のレースで3位まで決めて、その3人を代表にする、といういかにもシンプルで公平な(アメリカがそうですが)方法を採用したら、誰も文句がつけようがない。しかし、実際それでオリンピックという舞台でメダルは可能なのかというと、それこそかなり危険である、というのはこれまでの長い勝負の経験から考えられていることではないでしょうか。選考基準として設定されている代表選考レースで良い結果を出した選手が、本番のオリンピックで惨敗というのは何度も経験しています。例えば、前回シドニー大会での3人の選考では、世界選手権の2位だった市橋選手、3人の中では一番良いタイムで東京国際で優勝した山口選手、の例を思い出します(しかし、大会本番では市橋15位、山口7位、そして高橋優勝)。ここでは、大阪国際で22分台を出して市橋選手よりも4分以上も良かった弘山選手が落とされました。一方、バルセロナやアトランタでの有森選手が選ばれたケースでは、バルセロナ大会では大阪国際で2位で良いタイムを出した松野選手ではなく実績の有森選手を選んだし、アトランタ大会ではやはり大阪国際で2位で、選ばれた3人よりも良いタイムであった鈴木選手ではなく、やはり有森選手が選ばれた。そして、オリンピック本番では有森選手がメダルを取った。こんな歴史があるし現在でも選考基準は曖昧なところがあるので、小出監督も判断を間違えたのもしょうがないと映ります。

 大学入試の成績と、大学を出るときの評価を比べると、あまり相関関係は良くない、というかほとんど相関がないという結果が出ています(工学部FD研究会)。直接、女子マラソンの代表選考と大学入試を比べるのは良くないですが、タイムや順位という誰にも明らかな数値だけで、本番で良い結果を出せる人を選ぶことができるかどうか、人を評価するのは、難しいということなんです。だから、陸連がどんな結果をどのような経過でだそうが、曖昧な基準での選考には変わりがないので、誰にとっても満足のいくことにはならないでしょう。政治が絡んでいるとかいろいろウラの詮索するのは無駄というものです。マラソンファンとしては、選ばれた3人はチャンスと思ってそれなりに頑張ってゲームを楽しんでほしいと願うだけで、結果が悪くても誰も責任取らないので、選手は別にあまり気にすることはないのです。Qちゃんも、彼女ほどの選手なら、他にちゃんとした道を見つけていきますって、ラドクリフの記録への挑戦という形で。あと今後は僕も長良川の尚子ロードで彼女と一緒に走ってみたいな、昨年はそばで見ていただけなので。

こんなにムキなって書くことは無いんだが、でも、ちょっとね…。

今後、相変わらず繰り返される代表選考のごたごたを繰り返したくないなら、ちゃんとした、曖昧さの少ない選考基準を明示すべきである、という意見には賛成です。では、どんな選考基準が良いのか。一発選考なのか、実績重視にするのか、選考レースだけの数値を重視するのか。こんなことは、その道の専門家たちが決めればいいのですが、ファンの一人としては、両方、即ち実績枠(シード枠)と直近レースの数値枠を作ってほしいということです。

私のアイディアはこうです。責任を取れる人たちが、ちゃんと、良い選考基準を明確に提示するのが原則です。選考基準としては、例えばこれまでの数年間の成績を考慮して実績で選ぶ選手1名と3つの直近の代表選考レースで良い成績を残した3人(代表プラス補欠)を選ぶ、というような基準を出して選考するのです。もし大会本番のレースで全員惨敗であったならその人たち(選考委員)は辞めるなりの責任を取るようなことをすれば良い。

評価=選考は、責任を取れる人たちが充分熟考して決めるべきものだと思っています。そこには、数値というデータは参考であり、能力の一部であり、絶対的なものではない、と言える、良いバランス感覚を持った人たちが入ってほしいと思います。評価の重みを嫌がって責任を取りたくない人たちは、きっと数値だけを持ってこようとするでしょう。そのほうが楽ですから。しかし、国にとって、組織にとって、個人にとって、重要な場面での評価では、その数値だけではなく己の進退をかけて選考対象者に「投資」して欲しいと思います。もし、その上で選考結果に不満な人たちが出てきた場合は(選別だから必ず出てくる!)、裏も表もなくちゃんと説明し、責任をまっとうして欲しいと思いますね。

サッカーU-23日本代表のオリンピック出場も、もし決まらなかったら何か書こうと思いましたが、幸い決まりましたので何も書かずに済みます。ただ、ここでも結構対戦相手の評価を間違えていたように思いましたね。誰に責任があるというわけではないですが…。

評価=選考は、このような競技や試験などでは、一種の「投資」あるいは「賭け」としての意味合いを持っています。当たることもあれば、はずれる事もある。そういうものだから、しょうがない。しかし、同じ評価でも、これがその人の今後の給料の査定に直結するとしたら、がぜん真剣になるでしょう。いわゆる、成果主義をどう評価するか、ということです。短期的は、成果主義は人件費削減にかなり有効でしょうし、ビジネスにとっては良い面に働くかもしれない。しかし、会社や大学などの組織にとって、それが組織の中の人材育成にとって長期的な視点で本当に有効に働くのか、という点をよ〜く考えて、評価すべきだと思います。

思うに、やっぱり、バランス感覚なんですな。成果主義と年功制、陰と陽、裏と表、鞭と飴、賭けと計画、などなど。そんな思いで、最近、山本七平氏の「日本はなぜ敗れるのか−敗因21カ条」(角川)を読んでいます。第二次大戦の時の話が主体なのですが、「敗れたのか」ではなく、「敗れるのか」と現在形で書かれているのがミソ。この敗因21カ条の中に気になった項目として、「日本の学問は実用化せず、米国の学問は実用化する」「日本は基礎科学の研究をしなかったこと」が挙げられています。何か、対立するような考えのように見えますが、これもバランス感覚の問題で、基礎科学研究をして、かつ学問を実用化する、というスタンスでの日米の差、ということでしょう。また、「反省力なき事」「一人よがりで同情心が無い事」「個人として修養していない事」も挙げられていました。最近、日本は「撤退(撤兵)は敗北だ」と信じて遮二無二それほど向いていない要員をどんどん送り込もうとしている(もちろんかの「非戦闘地域」に、ですが)のを聞くと、山本七平氏の指摘が現実味を帯びているのを感じます。

この本の中に次のような記述があります。「一方、私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。同じ型の突撃を馬鹿の一つ覚えのように機械的に何回も繰り返して自滅した。… 極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」というのであろう。…」

無念である(あ、「財前教授」の遺書みたいだな)。

(2004.03.21)