若井研  研究テーマの背景!

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世界のエネルギー・環境問題入門

Edited by :Kazunori WAKAI


目次

  まえがき

  1. 世界のエネルギ−事情('09/7月一部データ・本文,更新)

  2. 大気汚染、さらに地球温暖化の問題

  3. エネルギー危機と大気環境問題を乗り切るために

  4. 地球温暖化のメカニズム
    (非常に簡単に説明しました、詳細はしかるべき本を!)

  5. 原子力(核分裂・核融合)利用発電技術
    (十分理解したい人は 中部大学隅田先生の [2030年が危ない!!]をまずお読み下さい)

  6. 新エネルギー技術のいろいろ('09/7月一部データ更新)
    (順に執筆・公開中)

  7. 環境対策型自動車新技術(09/7月一部データ更新)

  8. 日本や世界のとるべきエネルギー・環境対策
    (COP3 に日本は対応できるか? )      (COP7からヨハネスブルクサミットまでまで)

  9. 私たち個人でできること (少々)

  10. 引用文献、推奨する文献、web.site集、使用した図の
    オリジナルデータ(表形式ファイル)のダウンロード




まえがき
(改定:Sept. 23/'99, 再改定:Jul. 18/'09)

 今私たちがふんだんに使っているエネルギー資源の枯渇するときがいずれやってくることは誰にでもわかるあたりまえのことですね。過去には石油やそのほかの資源の調査方法が貧弱であったり、資源はあってもその採掘技術が未熟であったために、埋蔵量が少なく評価されていたのですが、それらの技術が時を経るにしたがい上達するにつれて、埋蔵量が増加するという一見矛盾したデータとなり、エネルギー資源の枯渇を訴えても「またおおかみ少年が始まった」と思われるだけになってしまっていました。エネルギー資源埋蔵量は増えることはあっても減ることはないという幻想を作ってしまったのです。
 20世紀末になっていよいよ確認埋蔵量が停滞から減少に転じることが疑い無いと
データ的に明らかに されるに至って、やはり資源は有限だったのだということが今更ながら認識されるようになってきました。オイルピーク説というもので、2000年過ぎあたりで生産はピークを迎え、それを過ぎるともはや新規発見量は消費(生産)スピードに追いつかず、それを懸念して生産量が減り始めるというものです。
 化石燃料の消費・生産とは、何億年という長い年月をかけて太陽エネルギーを糧とした海に始まる生命活動が、炭酸ガスを化石燃料として固定化し(そのほか石灰岩としても大量に固定化されています)、植物から動物へと順に生命が地上で生活するのに快適な環境を提供してくれたものを、人類は産業革命以来あっという間に再び大気圏に炭酸ガスとして戻してしまうという、考えてみれば暴挙とえいる行動を開始し、継続してきたのです。これに対して生命界が順応できない速さで季候が変動すると警告を発した科学者(宮沢賢治もその一人と言われている)が当然居たにもかかわらず、そしてその方向性は誰にもわかるあたりまえの自然の摂理であるにもかかわらず、「平均気温が 50℃に達する赤道からマイナス20℃に達する両極まで」、あるいは「8000メートルを超える山脈をかかえる大陸から10000メートルを超える深さの大洋まで」、さらには「せっせと熱と炭酸ガスを吐き出す大都市から自然のままの現代文明を知らないアマゾンの奥地まで脚注」、ありとあらゆる環境のデータをもとに全体像を語れるほど計測技術も計算機によるシミュレーション技術も発達していないため、気候変動や、エネルギー資源の枯渇の信頼しうる定量的な証拠が無いではないかと、つい最近までこの問題に取り組む積極的な動きが出ないまま時間が経過してきていました。さらに、地球は人間レベルの時間間隔ではなく、宇宙のスケールでの時間間隔で寒暖を繰り返しますし、その変化の中で火山の爆発で発生した塵や人類の出すものを含む硫酸エアロゾルなどによる冷却効果がオーバーラップするから、一層解釈を複雑にしていました。ところが、温暖化に関する証拠 (たとえば、有名なのがKeeling ) が徐々に出始めるにしたがって、にわかにクローズアップされるに至ったのが世紀末の最近(参考1,参考2)のことです(ただし、今でもその温暖化説をそのまま信じてはいけない、という意見も種々あります)。
 世界的な取り組みの典型が地球環境に関する 1992年のブラジルサミットであり、そこで人為的活動による気候変動を抑えることの必要性が唱えられて始められた1995年ベルリンでの COP1、そして各国の具体的数値目標を定めた 1997年の COP3 いわゆる京都会議です。それは 1992年のブエノスアイレス・地球サミットから 10年目にあたる 2002年開催予定のヨハネスブルグサミットまでになんとか、締約国の批准を得て京都議定書 (Kyoto Protoclol) を発効させようと言うものです。その後毎年 COPx と名付けて開催されました。その一方で、1999年 9月、国連環境計画 (UNEP) は地球温暖化対策は今更手遅れだと発表するに至りました。COP シリーズは京都議定書批准に向けて詳細な詰めを続け、2008年には COP14 を数えました。IPCC (気候変動に関する政府間パネル)も 2005年、第4次レポートでさらに詳細な計算のもとに強く温暖化を警告しました。今起こっている温暖化は、人為的活動に起因するという結論を導き出して居ます。
 そういう中でもいまだに、反対の姿勢の科学者も種々居ます。もちろん日本にも。自らの説を真に唱えている場合もありますし、一方では予算がらみであるため、とくにアメリカではそちらに偏った見解を出しやすい環境にあると言えます(日本も、予算は出資者が配分するいわゆる競争原理に基づく方法が非常に多くなり、とくに温暖化論争についてというわけではないですが、出資者の意向に添う研究目的や結果を重視する方向に向かいつつあります)。それらいわゆる偏った意見をまともに信じ(利用し?)、主流派の意見に耳を貸さない代表が米大統領ブッシュ氏で、 COP3 で日本より先に議定書の目標値に理解を示した米国は、2001年3月、再び世界の潮流から離脱宣言をしてしまいました。
 米国の例を見てもわかるように、残念ながら世の中を動かすのは科学ではなく、政治であり経済です。知っての通り、いまだに原子力を利用した爆弾がいつでも使えるよう用意されているのが好例であるように、科学(したがって科学者)の努力はそれらに利用されることはあっても、先に立って利用法を制約することはできないといえます。それは米国に限ったことではなく、上記の通り COP3 で気候変動が取り沙汰されたのが 1997年 12月のことなのに、当時はアジアが不況の泥沼に陥っていた状況にあり、それが世界経済の足を引っ張っているという分析がなされ、1997年暮れから98年の初頭その深刻さが頂点に達するに至る一方で、それまでも不安定であった議長国日本の経済が年を越えて一層不安定になるに至って、1998年冒頭から各国は日本の経済基盤の建て直しを声高に叫び続けて来ました。経済活動の活発化は、直接エネルギー資源の枯渇を加速し、大気中炭酸ガス濃度の増加を引き起こすことに必ずしもならないはずですが、西欧諸国のみならず、多くの日本の経済界や政治家が要求するような救急治療を行えば、その方向に向かうことは疑いがありません。バブルの時代が今となっては破綻するための栄華であったにせよ、経済的には余裕があったのであり、その余裕の中できちんと先を見越した真に持続可能な経済活動について検討し、徐々に移行するという重大な政策転換をすることなく、それどころか一層のバブルを求めた結果当然のように環境問題を深刻にしただけでバブルの崩壊を招いたのは周知の通りです。そして、当時年率 2%の経済成長を目標に掲げる政策展開が政府の使命と考えられていたのです。1999年 10月はじめに予定された(JCO の臨界被爆事故で遅れることとなった)内閣改造で続投となった堺屋太一経済企画庁長官と、経済学者との対談を NHK ニュースで聞いても、「エネルギー問題、環境問題を先延ばししないためには経済は縮退すべきだ」、などという意見が出るどころか、エネルギー問題、環境問題という言葉さえまったく聞きません。また2001年7月、参院選のさなか、与野党会談をやはり NHK が中継していました。それとぴったりタイミングを合わせてCOP6 ボン会議が開かれていました。この経緯の詳細は第8章に譲りますが、すべての野党はこの席で「どうブッシュ氏を説得したのか?」「米の復帰を待っても無駄だ、日本が率先して批准することが重要だ」「日本は世界に対して議定書に批准する大きな責任のある国だ」とまくしたて、小泉氏を攻撃していました。ところが、小泉氏がのらりくらりとかわしてらちが明かず、司会者が景気問題に話題を転ずるやいなや翻すように各野党は「景気対策を早急に」「消費税を引き下げねば景気は回復しない」「不良債権を早急に始末する方策を」等々、ともかく消費を増やさなければどうにもならない、と声高に主張していました。これも、当人たちは気づいていないとはとても思えないのに、全く互いに矛盾(景気回復は温暖化を加速)することを同一人が主張するわけです。上述COP3の年明けに「アジア不況は日本に責任」と世界が非難するには 2ヶ月の遅れが有ったのですが、この与野党会談での変わり身の時間間隔は、わずかに1分というオーダーでまさに舌の根も乾かない間のことです。
 真に持続可能な経済活動は必ずや一時的な痛手を被るであろうことを考えれば、たとえバブルが真に健康的な経済活動では無かったにせよ、1990年代初頭、その余力をもって正しい健康的な活動への移行を進めるべきであったのに、バブルは崩壊し、すべてとは言わないまでも脆弱な基盤下の経済活動は破綻し(したがって本来政治も破綻しているはずですが・・・?)、余力のないその後になってはそれを検討し実行しようという政治家も経済学者も現れないであろうと悲観ばかりが募った次第です。
 結局のところ、カンフル剤はいつもと変わらぬ補正予算だのなんだのの公的資金投入であり、結局はこれも有るはずのないお金を利用しての立ち直りです(環境とエネルギー問題を先延ばししないで日本が生きてゆく経済活動を説くことのできる経済学者、政治家は日本だけでなく世界にも居ないのです)。ここでもう少しこの件で主張したいことがあるのですが、本題を逸れるので脚注に回します。
 2002年の COP7 でやっと各論の詳細が決定され、批准国数も相当数に達し、ヨハネスブルグサミット(2002年8月末)まであとはロシアが批准すれば発効という段階まで至りましたが、ロシアはアメリカ離脱を受けて、いまさら急いでもしょうがない、慎重に、という理由で批准を遅らせていまた(2002年7月時点)ため、残念ながら10年目を記念したヨハネスブルグサミットで発効という夢は消えました。もちろん、それに遅れて2004年2月には批准しました。
 さて、ブッシュ氏が京都議定書を離脱した理由の一つは、温暖化自体もそうだし、人間の活動に起因するという科学的根拠が無い、というものですが、その後いくつかの米国政府機関すら温暖化は人為的活動に依るという報告を出していました。その活動とは、前述のように経済に牽引されており、ブッシュ大統領のもう一つの離脱理由が「もし京都議定書に米国が従うなら、米国の経済活動に深刻なダメージを与え、それは世界の経済にも大きなダメージを与えることになるから」としています。
 お金(経済活動自体)はバーチャルないわば仮の姿だから無くても簡単に作れます。ところが、バーチャルなお金で健康がなぜ取り戻せるかといえば、それは仮の姿のお金の裏で実際は資源やエネルギーを消費し、ものを生産しているからです。お金はまわりものとして無くならないけれど、それが回れば回るほど大事な資源、エネルギーは無くなり、ゴミや炭酸ガスを吐き出し、今のままではそれが環境を一層悪化するばかりなのです。古典落語で繰り返し聞かされてきた「花見酒」がその教訓にはならなかった(今の若者は余り知らないかも知れないが、多くの年寄りの政治家や円熟期以降の経済学者は若い頃しょっちゅう耳にしたと思う)。とくに資源の貧しい日本の国際的経済力は資源の加工・製品化により作られ、その加工にはエネルギーを使う、という構図は否定できません(2008年の貿易収支を見てみると、輸入80兆円弱の4割がエネルギー資源、他に原料、食料など、さらに電気製品などとなる、一方輸出80兆円のほとんどが、機械製品、電気製品、自動車を含む運輸製品、化学製品、光科学製品、いわゆる工業製品が占めることを見れば明らかである)。
 本当のところ、資源はある程度の効率でリサイクルできますが、エネルギーは消費したら決してリサイクルできません。(以上の説明で、「エネルギーを消費」、「エネルギーが無くなる」などと言っていますが、高校あたりからエネルギーは保存されることを習っていますね。だから、この説明はおかしいと感じているでしょう。感覚的にはわかるので多くの人は読み流してしまっていると思います。専門的には、これらは 「有効エネルギー あるいは エクセルギー が無くなる」と表現すべきところです。)
 2008年はサブプライムローンに端を発する米国発経済危機が、あっという間に世界を巻き込み、日本も自動車関係がとくに打撃を受けました。まさに上述ブッシュ氏が「米国の経済が世界を牽引する」という言葉をグローバルに実験し、証明したような印象さえ受けました。10年前のアジア不況時もいくつかの銀行がつぶれるという事態に陥りましたが、今回も大変な数の企業が倒産する憂き目にあっています。ここで、外需頼みの経済が被害を大きくしたというようなことを言っていますが、本当でしょうか?どう考えても、90年代初頭の不況から脱した日本は、まともな状態では無かったと思います。新興国にものづくりを移転し、日本ではものづくりが実は減少。格安の製品がどんどんそれらから入ってくる。日本では少々働けば、それなりに収入があり、その安い製品で暮らして行ける。それほど就職にこだわることなく、生きて行ける。80年代の働き蜂、過労死などまっぴら。大学卒の学生さえもが、何も専門性を生かさず、厳しい職を避け日雇い的な労働でも生きて行けるのだからと、一世代前の者には理解できない生き方を選ぶようになってきたのです。これには、とばっちりと言うことになるかもしれませんが、ゆとり教育も大きく影響していると思います。ものごとを根本から、しかも自ら考えて納得するというスタイルはもはや日本人の心から失せつつあると思います。もちろんそうではない人も沢山居るでしょうけれど。なりたくて非正規雇用者になっているわけではないと言う主張も有るのは当然です。でも、私の目からみれば、途上国のがんばる人たちのがんばり方と比べると、日本はぬるま湯の中のように思います。そのぬるま湯でも、途上国でがんばる人たちよりずっと高給なのです。変な話しなのです。それが変だと思わないのが、さらに変であり、末期的とも言えます。自覚が無い、末期症状。簡単な例を出すなら、資源の無い日本にとって上述のようにエネルギーが輸入品価格の4割を占めている、つまり30兆円ほどを購入するための外貨をどう稼ぐのかです。どうしても、それを稼ぐための輸出品を持たねばならない。そのためには、他国より優れた製品を開発し製造して売らねばならない。製造を海外に委託するにせよ、開発能力は無くてはならない。ところがその開発を担うべき人材が居なくなるのです。理系離れが実に深刻なのに、その手を社会は打たない。最も監棚のは、給料を高くすること。四国の一企業から、カリフォルニア州立大学・サンタバーバラ校に迎えられた中村修二氏のように、画期的な仕事をした人を厚遇する体質が日本にはない。ところが、その製品を他国にうまく売る人は大変に厚遇される。子供がこれでは、理系に夢を持てない。お金だけの世界じゃないよと、誰が説くのだろう。それは理系の者だけに言えるわけじゃ無いのに、好きなことをやっているのだからと、言われてしまう。
 何より、「私たちに必要なものは、途上国で作ってくれる。その証拠に今まで結構高かったものが、安く売られている。それは人件費が安い途上国で生産するからだ。私たちのために、途上国の人たちがものづくりをしてくれる」と若者は無意識に思っている。でも、開発能力が劣る国となったとき、それは先進国。そのころ日本は後退国になっていることに、気付かない。悲観的すぎると思われるだろうか?これは若者を預かる教員として、そう思うのです。岐阜大学の学生だけを見てのことではないですよ。
 まだしかし、そうした若者が労働の主流になるのは少し先のことです。
 90年代初頭のバブル崩壊時も、今回も、本当に日本は明日の生活をも保証できないほど経済破綻しているのでしょうか?そうではありませんね。現在の姿を維持することを前提にすると、それが維持できない者は破綻状態だと感ずるでしょう。生活の苦しさを考えたとき、驚異の経済成長を遂げつつあった頃日本人は上述のように働き蜂と言われ、仕事に疲れ過労死が絶えない時期がありました。今でこそそれは死語になったようですが、水面下では相変わらず過労死はあります。結局のところ、今より良い生活をするためにもっと働く、働けば確かに収入が増えて購買力が増し、欲しいものを手に入れらるようになった。加工国日本株式会社としては、従業員 (国民) の生活を保障するためには他社(他国)以上に収益を上げなくてはならない、そのためには新製品を作らなくてはならない、それは昨日売ったばかりでまだいくらでも使える物をも中古にしてしまうような勢いで自国ばかりか他国の人たちの興味をそそる新製品を開発しないと先んじられてしまう、という強迫観念で新製品の開発に凌ぎを削り合う必要に迫られているのです。せっかく手に入れ、まだ十分使いこなしていないうちから、それ以上に付加価値を高めた新しい物が前より安く作られ、それを持たないと過去の人になりかねないと心配してまたまた新しいものを買う必要が出る、そのためにまた働くというのが今までの当たり前の姿でした。この方式は、日本が世界に広めてしまったと言って良いでしょう。フォードがあがめられている、車の大量生産方式、これが全ての工業製品に浸透し、今やあたりまえのこととなり、大量生産することで初期投資額の製品への転換率を抑え、製品単価を下げ競争率を高める、というのが米国流の商売であり世界を席巻してきたわけです。それをまじめに要領よく日本もやるようになり、そこに日本人特有の微々細々にわたる(心のこもった?)付加価値を付けるということで、米国を凌ぐ工業力をつけて来たわけです。
 資源も土地も無限に近いほど有ると信じ、贅沢の限りを尽くすことのできる立場になることが人格者なのだという社会のアメリカに、戦争で負け、ともかくその生活に憧れ、その足下にでも及べばと働き、足下に近づいたら今度は追いつきたいと思い、追いついたと思ったら「多民族社会に負けるはずがない」と今度は追い越せとばかりに走り続けた、それが日本流の経済発展だったわけで、それを支えたのが上記付加価値商品策だったと言って良いと私は思います。1990年あたりに外国へ行けば、こうした高い付加価値とともに性能も良い、それでいて価格の安い日本商品が世界中に出回っていたのです(だんだん、韓国、中国などへ移っているもののかなりのものは今も)。確かにこれらの製品が生活を便利にしたのは事実ですが、そのため、一方では使い捨てが当たり前となり今更ながら産業廃棄物問題を引き起こしました。狭い国土の日本人でさえ、資源は無限で使いたい放題、空気も水も無限で汚水大気汚染物質も我々が垂れ流したところで汚れが進むほど地球は小さくない、さらにはごみも「日本狭しといえども侮る事なかれ、無限に捨て場所が有るはずだ」、「ともかくアメリカがやっていることは日本がやって悪いはずがない」と信じて疑わなかったと分析するのは私の偏見でしょうか。1970年代、二度の石油ショックを経験したとき、とくに二度目ではおもに主婦の間で買いだめが横行しました。こうして経済は冷え込んだのですが、そのときある経済学者が「この経済不況を乗り越えるためには、日本の奥様たちが買いだめをしていてはだめだ、どんどん使い捨てをしてこそ立ち直る」と言っていた。しばらくして石油の供給も安定し経済が安定してくるのと前後して確かに奥様達は物不足は大したことではなかったと気づいて再び大量消費生活に戻ったときその学者が「私の説が正しかった」と豪語していたのを忘れられないですね。そして、ITバブルがはじけて日本も景気が低迷を続けているさなか、IT 立国アメリカからの不景気を打開する日本の責任は大きい(日本台頭のチャンスでもある)、そのためにはいかにして懐のお金を安心して株に投機させ、ものを買わせるか、それが問題だとやはり経済通でテレビ常連の学者が言うわけです。その結果はさらに深刻な環境問題を生むことを学習できていないのです。
 本来、使えるものを捨てさせて新しいものを買わせることが資源の無い日本がすべきことでしょうか?上記経済学者、もし正しい経済学者が居るとするなら、古い物で困らないのだから、それを作ってきた人が新たな物を売らず収入が無くなるという経済システムに問題があるのであり、もし、永久に壊れず廃れない製品をどの分野でも開発できたなら、人々はものづくり作業から解放されながら、不便は全くなく、誰も困らないはずなのだから、せいぜい生産作業は食品関係のみになるはず。そこで機能する経済システムを作るべきと思いませんか?
 実は、良い本だと私が思う一冊にリチャード・クー氏の「日本経済 生か死かの選択」という著作があります。なぜ良い本かというと、小泉改革の誤りを適切に指摘しているからです。ほかにも私の勝手な理由がありますが、それは脚注に回すことにします。その改革が今回の不況でないがしろにされつつありますが、小泉改革にもいろいろありました。私が良い本と思うこの本にして、全く納得できない主張があります。それが「国民に消費させる政治が必要」という下りです。あいもかわらず、消費は経済復活の神様というわけです。その背景には、環境のことが完全に欠落しています。その本の中に環境を語る部分は有りませんでした。アメリカで賞を取ったほどの論説をまとめた本だから、環境を抜きにした説を唱えるなど、時代遅れであろうと思ったのですが、それが完全に抜けていて単に日本経済の復興のためには、ということに終始しています(読み損なっていたら、陳謝します)。
 ともかく、これまで経済主導で環境を省みないという方法では破綻すると疑った人がいくらでも居たに違いないにせよ、結局行動は疑わなかったと同じ結果を招いたわけです。将来、「こんな状況に誰がしたのか?」と我々の子孫(それは直接自分自身の子孫とは限りません、よその国の子孫かもしれません) による犯人探しが始まり、現在生きている人が一人一人被告席に立たされるようなことが仮にあるとすれば「私はきっと有限だと思っていましたが、・・」と弁解するでしょう、「でも、私一人が努力したって焼け石に水でした。」と。私もきっとそうです。でも、きっと日本はこのままでは一人一人がどうあれ、国民全員が有罪を免れられないでしょう。アメリカの人たちはしかし他国から後ろ指を指されることは日本より少ないでしょう (アメリカをひきあいに出しすぎていますが、アメリカに私は恨みを持っているわけではありません。アメリカ人のみなさんすみません。)。アメリカはすべての面で自給ができます(石油、天然ガスという見方では、枯渇に近く危ういですが)。今の日本はしかし、多くの面で貿易無くして生きてはいけないのは明らかです。そのうえ、多くの貿易対象国より格段に良い生活をしようとしているわけです。困ったことに、良い生活で不要になったものを貿易品に使ってさえいるのです。ひどい場合は、産業廃棄物を発展途上国に運び出そうとするなど破廉恥なことをしています。資源的に見れば、カスケード方式というわけで有効利用ではあるのですが、どうして日本がその頂点に居られるのか、後の世で非難されても不思議はありません。

 そういう中で、我々はどうしたら良いのか、なかなか良い解決方法が見つからない、それなら少しでも今の生活を落として問題を先延ばしにするのかと言えば、上述の通りで今の生活を維持するため、とりあえず公的資金という名の引き金を引いて問題を早く閉じようとしています(小泉首相は、その公的資金をなにがなんでも増やさないという姿勢を貫こうとしました、もちろん、これは将来への借金を増やさないということで)。つまり、もろもろのエネルギー・環境問題が大きくなるのに拍車をかけていることになるのです。このことに答えているようなタイトルの本もあります。たとえば、優良な産業界のリーダ達を含む、環境や環境破壊を伴わない開発に関連した問題を経済界に訴えるための WBCSD なるグループが執筆した
"エコ・エフィシェンシーへの挑戦" なる本があります。これにしても、たとえばエネルギー枯渇についてはほんのわずか触れているだけです。個々の会社の問題解決を示してはいるものの、たとえば今後必ず台頭してくる巨大人口を抱えた途上国について、ページはほとんど割かれていません。具体的数値にしても、個々の絶対量が示され、全体としてどうなるという展望が欠けているように見受けます。このような世界の産業界のリーダ達が著した書物でも、"持続的"という言葉が単なる美辞麗句であって、真の説得力に欠けているという印象です。問題解決を後に回すことは、破綻を早めるだけなのです。実際、誰もが信じたくないけどわかっていることなのではないでしょうか? 信じたくないデータを突きつけられるか、実際取り返しのつかない状況に至るまで、待っているのでは?

 もちろん、エネルギー資源がまだ大量に発見されてゆくということも有るかもしれない(たとえばメタンハイドレートのように)し、全く安全な核の使い方がでて来て地球の温暖化を気にせずふんだんにエネルギー資源を使え、そのほかの材料としての資源も十分にリサイクル技術が発達し、したがって産業廃棄物問題もクリアーできる日が来るかもしれないですね。地球の温暖化も予測ほどでは無いかも知れないし(実際、2008年 BBCがそんな番組を作りましたし、日本でも似たものが東工大の教授にインタビューの形でYouTubeで流れました)、温暖化がむしろ寒冷地で生活圏を増やし、100億の民をも養えるようになるかも知れない。でも、今のところどれも相当不確かな、「かもしれない技術、予測、期待」 なのです。常日頃、希望的観測をする子供に私たち大人は、「そんなあいまいなことを言っていないで確実なことをしなさい」と言ってきました(子供に大事な夢さえ摘み取ってしまったことも)。その子供たちに今は妄想としか言えない「曖昧な可能性」に期待を寄せて、「科学という名を借りて種々の暗い話を作って来た人が多いが、実はそれは正しい事実を覆い隠した詭弁」などと現実から眼を背け、「使い古した地球」を残すことになる可能性をどんどん高くしていると思いませんか。
 21世紀に入って9年。今後それがどんな時代になるのか、明快に説明できる人は居ないでしょうが、20世紀が非常に発展した裏ではエネルギーや環境問題のつけだけではなく、あらゆるつけを残した世紀です。たとえば原子力発電所の寿命は明確に規定されていましたが、先延ばしになりました(種々の老朽化らしき原因の小さな事故が起こりながら、目をつむっている可能性もあります。そうこうするうちに21世紀最初の大きな原発事故が浜岡で発生、つづいて美浜で発生、最初の事故は老朽化ではなく無知に起因する可能性が高いようですが、その影に隠れている事故は 60年まではきちんと管理点検すれば大丈夫という言い分を大きく揺るがしています)。その解体費用という負の遺産がどんどんふくれてゆくのです。石油の埋蔵量が増えるかのごとくに。根拠が無いとは言いませんが、ともかく、今は安いエネルギーをさらに使い続けることになったわけです。このようなものが多々あるのです。昭和 40年代に飛躍的に建設されたビルや道路、橋、トンネルなどが寿命を迎えます(古い話になりましたが、JR西日本を初めとして、トンネルコンクリート崩落事故が多発)。これらの建設には膨大な資金とエネルギー資源を必要とします。ところが昭和40年代と較べ、若者の労働人口がその頃には圧倒的に少なくなっています。しかも2009年当たりからは進学を希望する全ての子供は大学に進学できるという、高学歴志向が頂点に達し、現場の労働力としての価値が一層少なくなっている可能性があります。その上、その後は私を含め働けない老人を養わなくてはならないというとてつもない重荷を背負って居るのです。その老人を養う義務を課せられながら、自分は養ってもらえない可能性さえ有りながら。こういう社会になって行くことが目に見えていながら、実際そういう状態になったとき、誰が責任をとるのでしょう? 「私は人以上に貯金してあるからきっと大丈夫」と思う人が多いでしょう。貯金は全くあてになりません。なぜなら、あてにしたいときに労働人口が不足しているのです。生産活動ができなければ、お金があっても何の価値もありません。結局貯金は大幅目減りする以外有りません。本来、健全な工学技術の発展は労働人口の不足を助けるでしょう。が、今の経済主導の発展は、経済活動の道具にしかすぎません。最近の格好の例が IT です。2000年夏、沖縄でサミットが開かれ、「IT(情報技術)革命」なる言葉がマスメディアを闊歩しました。ところがそのときが、IT 景気の頂点であってその言葉が踊り始めるとともに急減速しました。「IT 戦略」の失敗だと思われます。IT そのものが失速したわけではありません。IT は進歩しつづけています。失速したのは ITにむらがる経済活動なのです。IT戦略を立てたのは、経済学者であり、金融家と言えましょう。巷にうずたかく積み上げられている 「IT」をキーワードにした本の多くを経済学者が書いています。こうして、経済活動は工学技術を巧みに利用します。貯金は、こういう社会ではどうしても安全株にはならないのです。
 日本のそういう状況を克服するためにも、また60億以上の人類が生きて行くために快適な環境をできるだけ維持するためにも、持続できるエネルギー資源利用技術だけでなく、そういう社会を養って行ける生産性を確保できる技術を謙虚に開発しなくてはならない重要な仕事が待ち受けているのです。待ったをかける余裕は有りません。UNEP が温暖化対策は手遅れだと発表したからといって、諦めることもできないのです。誰も答えを持っていない「どうしたらよいのか」、という模索から始めなくてはならないのです。上述のように、それを始めることができるのは、理系、工学系の諸君なのです。それにしても、技術でできることには限りがあるでしょう。いや、振り出しの議論になってしまいますが、技術がこれほどまでに発展したから諸々の問題が起こったのだと、高校生時代はロボットやコンピュータに夢を抱いたのに、結局のところ環境を駄目にし人の心を卑しくしたのは工学ではなかったのか、もろもろの環境問題はまさに工学が引き起こしたことではないか、と、工学の道を選んだことを後悔さえしている学生諸君も居るかもしれませんね。工学の原点は何であったのか、思い出しませんか? 夜の暗闇をローソクなどより安全に明るくできたら?  人が歩くより速く、人が運ぶより重いものを運ぶ機械が有れば?  人の代わりに働く機械が有れば? こういう希望を満たすために工学は有ったはずですね。一面それは達成されましたね。身近な例では、家庭の仕事は相当楽になったはずです。工場の仕事などもしかりです。結局機械に働かせてその分人は余暇を得るという世界が究極の目標ではなかったかと思うのに、ロボットのために職を奪われてリストラという名の「首切り」に遭う、コンピュータができて、使えない世代はポンコツ扱いになる。IT は中間管理者を不要とし、一層の効率化が図れるなど。首を切られた側は食べるために、あるいは名誉のために新しい産業を興さざるを得ない。まさに死闘が繰り広げられる。首を切った企業は残った人間で元の生産量を維持しようと努力する。かくして世の中忙しくなるばかり。人間世界を取り巻く大変貴重であるべき環境は疲弊するばかり。
 一方、生産活動を前提にした今の経済活動は、破綻有るのみです。既にこのことは上述しましたね。たとえば自動車を見てみましょう。もはや改善する必要のない完全な自動車を造ったとします。壊れることもない自動車です。大量生産できる工場が、あっという間にその自動車を必要とするユーザに供給したとすると、その工場はもはやすることが無くなってしまします。すると、人が何を求めているか次の製品を探し、その完璧なものを供給する努力をして再びあっという間に供給し尽くします。供給が終わり、また新しい生産品目を探し求めなくてはならない。ということで次々と新しい製品を生みだし、それが必要だと思いこませて買わせる。これを繰り返さなければ、今の社会は生きて行けないのはご承知の通り。つまり、良いものを開発し、それが行き渡ったら、不要なものを生産してなんとしてでも売りつけて生産活動を続けなくては収入が絶たれるということです。こういう泥沼の社会を生み出したのが、大本をたどれば産業革命であったわけです。産業革命は、人類の幸福も生み、不幸も生んだ。産業革命という名のもと、経済の仕組みが資本主義あるいは市場原理という形で発展し、爆発したのです。ほどほど、という状態に留まらなかったのが現在を生んだのです。(私のエネルギー・環境問題から到達する経済に関する私の考えは、素人の浅知恵に過ぎませんが、最近=2000.9発行された本に全く同感と思うものが有りました)
 どれだけ工業が発展しようとも、いつまでも「働く者食うべからず」が続く。でも、原点に立ち返れば、工学がなすべきことはまだまだ一杯山積みです。上述の、一度汚してしまった環境を取り戻す仕事も然り、資源の枯渇が間近とするなら、それを先延ばしする技術開発なども然りですが。何はともあれ、便利な機械を作った分だけ、必ず人は余裕を獲得する世の中になっていることが工学の意義の大前提です。とくに先進国でその余暇を新たなる生産活動に振り向けるならば、指数関数的に生産活動が増加し、人類の破滅を招きます。そこで、責任転嫁も甚だしいと言われそうですが、政治学、経済学を学ぶ諸君には是非、先進国はどのように贅沢を落として(真の豊かさを放棄せよと言っているわけではありません、無駄な贅沢を削ぎ落とそうというわけです)行き、年率いくらまで経済成長を下げても(マイナス成長です)人民が不安なく生活を送れるか、さらに最終的に GNP(GDP) をどこまで下げても充実した幸福な生活が送れるかを見いだして欲しいものです。そういう社会にならなければ、人類の破滅が待っていると言えましょう。省エネ技術は捨てたものではない、と言う人もいるかも知れませんが、指数関数的に増え続ける生産活動に使うエネルギー消費を抑える省エネ技術はあり得ないと思います(一時しのぎにはなるでしょうが)。もちろん上述の通り、省エネ技術開発も最優先で進める必要が有ります。「幸福感」は生き物ですから絶対的に数値で表すことは難しいとは思うのですが、たとえば温暖化論争のように、なんらかの結論が世界的な合意になるなら、世界はその方向に動き始めるでしょう。


(若井が、 NHK BS-1 でその10月放送予定の地球法廷・地球温暖化 」エコノミーかエコロジーか」という企画で、2000年3月から8月までのインターネット討論が行われたときに投稿した意見について、ここをクリックしてご覧下さい。)

アマゾン :アマゾンは熱帯雨林で温暖化ガスである炭酸ガスの吸収源と考えられているが、これに対し、実際は炭酸ガスを放出し、吸収分とキャンセルしているという報告も2002年出された。水力発電所も、ダムに沈んだ木材が発酵してメタンを放出し温暖化を加速しているという報告もあり、温暖化およびその抑制のメカニズムはまだまだいろいろ説が出されますね。だから、ブッシュ氏に都合の良いように言われてしまいます。
花見酒 : 二人の町人が花見に一儲けしようと酒一樽を持って行き売ることにした。花見会場に着くまでに、一方が客となり25銭で他方が酒を売る、しばらく行くと立場を交代して一杯、そうして25銭は二人の間を激しく行ったり来たり、そうこうして花見会場に着く頃には酒樽は空になってしまったが、儲かったはずのお金も実は持っていた25銭のみという次第。

国債は将来のつけか? : 国債発行で借金地獄の日本は将来、どうなる、という言い方が多い中、私は借金は将来へのつけではない、実は今リアルタイムで借金しているだけで、将来国債が価値を失うだけで、子孫が返済義務を負うというようなことは、実質的になりえないし、できるわけがない、「将来へのつけ」というのは政治家・経済学者のまやかしの表現だ、という主張を後の章でもしていますが、これは経済に素人の私の説であって、間違っている可能性もなきにしもあらずでした。私はそんなにたくさんの経済の本を読んでいないので、そういうことを言っている人がいるのかどうか、不安でした。ここで取り上げたリチャード・クー氏の本にはそれが書いてあったのです。それで私は、大いに自信を持った、経済にうとくても、この点に関しては正しい認識であったと。いや、実は、こんな事は誰でも当たり前のこととして理解できることのはずです。なぜ、それをゆがめて「将来へのつけ」などと言うのか、そういいうことを言う経済学者、政治家は信用できないというのが私の言いたいことでもあります。そして、そういう人たちが、政治・経済という名で人々を引っ張るということに恐ろしさを感じる次第です。言ってみれば、恐喝にも等しいのではないかと思うのです。何を言っている、と思われる方は、私がそのことを主張しているページに飛んでみてください。そこは、このエネルギー環境入門のことは全く無関係に読んでいただいてわかっていただける部分です。
 それに対して、上述している環境をだめにしたつけは、子々孫々が払わなくてはなりません。つけと言っているけれど、大きな犠牲という名のつけになるでしょう。それなのに、経済のつけ、国債の付け払いという幻想がまことしやかに語られ、環境という深刻なつけについてはその影に追いやられてしまうのは、全く不憫なことです。そうです、おおげさかもしれませんが、私たち子孫が不憫でなりません。みなさん、目の前に生まれたばかりの赤ちゃんを想像してください。その子に、私たちの享受した幸せを経験させられると思いますか?もしかしたら、その子はかなり享受する可能性は有ります。でも、その子(私たちの孫)はどうでしょう?そのあたりから相当深刻化しているかもしれません。
 私の話は、本当に授業中もあちこちへ飛び火して本題に戻れず、時間切れとなることが頻発して学生を困らせている。この話も、本題からはずれてしまう、しかも専門外の話で的はずれの可能性大、少々お許しを。日本はバブル絶頂期に、環境負荷をかけない社会づくりをすべきであったと、主張した。それは本当だろうか? もちろん、バブル絶頂期にならできたと思う。ここで疑問符を付したのは、バブル崩壊後ではとてもそういう社会を作ることはできないのだろうか? 私の考えは、バブル期であろうと、なかろうとできるものはできるということ。なぜならバブルがはじけてもはじけなくても、労働力に変わりはない。エネルギーも資源も変わりはない。バブルとは、単に労働力がフル動員され得る状態であり、一般にバブル崩壊状態ではその労働力が発揮されない。すなわちバブル状態ではお金で資源・エネルギーを買うとともにお金で労働力をも買い、商品を作って売ることでお金を回収するというように、金が効率良く回る状態に置かれていてそれについて回るのが資源とエネルギーであり、それを加工するために労働力が求めらる。その労働は、二つの必要性がある。一つは実際の労働であり、もう一つがその労働という大義名分のもとに給料としてお金が渡され購買力となって作った製品を購入し合う。それで資本家や投資家がそれ以上の富を得ることになる。お金はこうして単に、エネルギー、資源、労働力を動かす一種のモチベーションであり、無くても実質ではないので本来は困らない。さて、バブル崩壊状態で環境負荷をかけない社会を作るためにはどうしたら良いのか? 労働力は相変わらず有るわけだから、お金が無くてもモチベーションがあれば人は労働することができる。環境負荷を軽減するという社会を構築するという大いなるモチベーションが浸透すれば、たとえば、車道を狭くし、歩道に自転車が通っても安全な拡幅工事をする、というモチベーションの元に労働することは十分可能な話。問題は資源が無い日本がどこまでそれが可能か、加工して売り、その利益であるレベルの文化的生活を営むのに必要な資源とエネルギーを輸入する必要はあるわけで、それが直接衣食住的な生産に無関係とも言える上述のような社会構造を変える生産活動にどれだけ労働力が割けられるかを見極めなくてはならない。これこそが、経済学者の仕事と私は思う。



執筆・編集責任者 : 若井和憲および若井研スタッフ
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