事例研究:トリプトファン事件


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本事例の概要 (原文資料はこちら)

 トリプトファンは必須アミノ酸の一つで、少量で蛋白質の利用率の向上をもたらします。また、脳内の興奮を鎮める神経伝達物質のセロトニンや、サーカディアンリズムを安定させるとされるメラトニンの生合成素材ともなり、精神的・肉体的苦痛の緩和を効果的にもたらす物質として期待されてきました。


(資料画像;東京工業大学知能システム科学専攻山村研究室, SungJoon, PARK氏提供)

  こうした効能から、トリプトファンは15年以上にわたって抑鬱症や肥満、不眠症、アルコール依存症を含む多くの病気の治療、さらには栄養補給食や乳児用流動食として使用されてきたわけです。
 ところが、去る1989年頃から米国において、原因不明の筋肉の痛みや呼吸困難、咳、皮膚の発疹などの症状を訴える患者が急増し始めました。結果として数多くの死がもたらされ、5000名もの人々に様々な悪影響が及ぼされました。
 ただちに米国食品・医薬品局 (FDA) が、その予期せぬ流行病の発生を追求すべく同薬品を回収し、その症候群の正確な原因を調査しました。その結果、L-トリプトファン含有製品の摂取によって好酸球過形成を伴う好酸球増多・筋肉痛症候群 (EMS; Eosinophilia-Myalgia Syndrome) との関連が疑われました。この症状は筋肉痛,関節痛,皮膚の硬化等を特徴とするもので、本事例の諸症状と一致するものでした。
 一般に、好酸球増多症 (tissue eosinophilia) に伴う好酸球過形成の機序には、好酸球系幹細胞を刺激して好酸球産生を増大させる因子や、多くの種類の好酸球遊走因子が関係するといわれています。しかし、本事例における一連の調査では、明らかな要因としての不純物を示す証拠が挙げられると同時に、日本の昭和電工によって製造された遺伝子組み換えトリプトファンが原因であるという事がつき止められたのです。
 トリプトファンは細菌の発酵作用によって製造され、次いで幾つかの工程を経て精製されます。昭和電工では遺伝子組替えによって改造した細菌にトリプトファンを産生させ、それを抽出・精製して販売していました。同社が用いた細菌はバチルス・アミロリケファシエンスといって、元来トリプトファンを産生する能力を有するものでした。
 同社はその細菌のトリプトファン生産に関する酵素の遺伝子を、 その細菌自体に再び組み込むことで生産量を増やすことに成功し、1984年10月から、その改造細菌を使って生産を開始しました。さらに同社は生産率を上げるために、納豆菌の仲間である枯草菌の遺伝子の一部を組み込んで遺伝的に変質させた新しい菌種を創り出しました。
 本件では全症例がL-トリプトファンを含有する健康食品の摂取によるものであったため,L-トリプトファンを含有する健康食品の摂取には十分な注意が必要とされるようになりました。しかし、米国で大量に発生したEMS患者は、同社の最終組み換え細菌から生産されたトリプトファンを食べた人々でした。
 同社によって製造されたトリプトファンからは、後になって60近くの種々の不純物が検出されましたが、そのうちの2つは、その症候群の発症を引き起こした疑いのある重要なものでした。つまり、同社が枯草菌の遺伝子を組み込んだことで予期し得ない有害物質ができ、しかも、これを濾過して取り除く精製工程を無視したことで大きな被害がもたらされたというわけです。
 遺伝子組み換えという技術は、このように予測できない事態を引き起こし、人類に被害をおよぼす危険性を秘めた技術でもあるわけです。
 なお、本事例では如何にして主要な製薬会社がその製造上の協約を変え、その「新」製品に不純物が非常に多く含まれることを特定し得なかったのかが重大な関心事となりました。FDAの薬剤品質基準は、商標の付された製品の最小限度の含有率のみに目が向けられたものでした (98.5%)。昭和電工のトリプトファンは99.65%の含有量で、その基準を超過するものでした。しかし、この制度は微量の生産残留物に如何なるタイプの化学添加物が存在し得るのかを検査するものではありません。
 おまけに、その事例は科学的という以上に政治的な副産物をもたらしました。栄養補給食 (一般食品や薬品は別として) を管理するFDAの責任の有無が疑われたのです。1991年、食品・医薬品コミッショナーは、これらの製品が如何にして規制されるべきかを調査するための全く新しい見方を以った事由として、トリプトファンの標本が使用されました。製造業者側は、その症候の急増は危険な栄養補給食によってもたらされたというより、むしろ生命工学の規制の欠如によるものなので、それは必要ないと反対しました。
 1990年、不純物が混濁したトリプトファンの産物には遺伝設計された細菌が含まれていたという情報を公開することを、FDAの政府職員たちが遅らせていたことが露見しました。彼らは成長する生命工学産業への不利な影響を少しでも回避するために、その情報公開を遅らせたのでした。この一連の事件はFDAの統制者としての力量を、多くの人々に疑わせるものでした。
 アイオワのマーハリーシ大学の分子生物学者で、「遺伝工学とその警鐘 (Genetic engineering: the hazards)」や「ベーダ工学とその解明 (Vedic engineering: the solution)」の著者でもあるジョン・フェイガン博士 (Dr. John Fagan) は多くの生命工学に反対し、1989年の米国での昭和電工トリプトファン事件による悪影響は遺伝工学の結果として起こったものであると主張しています。
 なお、昭和電工はPL法により、90年から累計して約2,100億円の賠償金を支払っています。同社による不純物の混濁した致命的なトリプトファン製品とその症候群の余波は、多くの人々を混乱させ、不安にさせたようです。しかしながら、本事例は新しい科学技術を非難するものではありません。何よりも、科学技術の適切な規制や統制の欠如に対して警鐘を鳴らすものなのです。

私の見解

 人類は多くの化学物質の機序を、永年その経験と叡知によって解明してきました。しかし依然として、その全てを知り得たわけではありません。おおよそ物質というものを探究していく際には、最大限の可能性を当該研究目的に設定すると同時に、考慮し得る最大限の危険性をも大前提として第一義に認知しておくことが肝要と考えられます。一般に至極安全と考えられる物質の性質にも、信じられない程の大いなるリスクが隠蔽されていることを私たちは常に何らかの形で意識しておく必要があるのではないでしょうか。
 昨今、遺伝子組み換え技術を駆使した食品が次々に改良されております。これらは、いずれも遺伝子レベルから食品構成体の遺伝情報に介入し、その発生機序を改変させた結果として産生されたものです。もはや現在の科学技術は、試験管内で初歩的なダーウィニズムを短期実現させることさえ容易ならしめるものとなったのです。
 そもそも、地球上に生命が誕生してから、著しく種が分岐し、各々の生物集団内の遺伝的構成が変化するまでに久遠の歳月を要しました。そして、この時間経過において、実に多様な突然変異、自然選択、遺伝的浮動注1 、さらには集団間の遺伝子流動・隔離注2 等が繰り返されてきました。私たち人類も、その進化過程において出現した生命体です。この絶え間ない生命発生の流れの中にいる私たちが、翻って新しい生命を創り出すようになったわけです。
 確かに、失敗を恐れるのみでは生命体そのものの発達もあり得ません。実際、多くの偶然性に基づく発生の試行錯誤を繰り返し、生命系はその進化を遂げてきたわけなのですから。従って、人類はその知的営為の未知なる可能性を信じ、将来においても、その能力を大いに発達させて然るべきであると私は考えます。
 しかしながら、短絡的な知性の行使は何としても避けていかねばなりません。人類の経験と知識が開拓すべき未踏の分野は、細胞一つを例に挙げてみても依然として多く存在しています。自然界の物質の性質を既得の知識のみによって、即座に断定してしまうことは極めて危険なことであると言えます。特に、実生活に適用可能性のある物質を扱う際には非常なる評価規範が不可欠であり、適用後においても永続的な審査及び、それによる意思決定を即座に行使・介入させ得る柔軟な社会システムの構築が必要となってきます。
 トリプトファン事件においても、FDAの情報公開の在り方が問題になりました。おおよそ万民の健康を預かる如何なる公的機関も、本質的には、全ての情報をあまねく全ての人々に知らしむる民主的義務があります。国家の最重要情報をまず先に知る公的機関の「管理統制」なる役割は、断じて世論を抑制する性格のものではなく、むしろ国民側の問題提起に応じ得ないものを社会に適用させるべくコントロールするものであるはずです。民意不在のままに、特定の産業の振興や目先の国家的利潤のみを図る行政は、結果的には国民の信頼を失い、一層重大な損失と責任を負うことになり得るでしょう。
 私たちの実生活の安全性は、遺伝子組み換え食品の問題においても然り、人類の知的営為としての科学そのものに左右されるというよりは、それを適用する際の社会システムから良かれ悪かれ、大きな影響を受けるものと考えられます。
 科学の未知なる可能性の探究において、人類は公理注3 を導き出し得ても、真理注4 を獲得する段階には未だ到達していないものと考えられます。もしかしたら人類は、その科学的所産を「絶対的な」安全性によって自らのものに還元し得るべき存在ではないのかも知れません。
 しかしながら、永い時間を費し培ってきた膨大な経験と知識によって、人類は少なくとも「相対的な」安全性については、それを自らの営為に見い出し得る存在ではないでしょうか。
 そのためには、一部の関係者のみならず、社会全体が些細な兆候も看過せず、絶えず問題意識をもって科学技術を適用する集団的態度が望まれます。そして、万一問題が生じた際には、即座に対応し得る責任の明確な所在と考慮し得るあらゆる解決方法を社会システムとして想定しておくことも必要であると考えられます。
 進化する生命系の知性というものは、何も試験管の中で新しい生命体を創り出すことのみを指すものではありません。その知的営為の連環の中で起こり得る、予期し得ぬ事態の恒常的な対策を考案していくことこそ、健全な生命体の高次な知性の進化と捉えられると私は考えます。そして、こうした社会全体の多角的な思考様式こそ「考える葦注5 」としての人間知性の本領発揮であると言えるのではないでしょうか。(終)

(早稲田大学大学院人間科学研究科 河原直人)


インターネット参考URL;
SOS「地球号」, 「遺伝子組替え作物」4:http://www.pluto.dti.ne.jp/‾t-kyng/memo06.htm
鹿児島大学病院薬剤部, 医薬品副作用情報 No. 102:http://khosp5.kufm.kagoshima-u.ac.jp/‾pharm/di/adr102.htm 
東京工業大学知能システム科学専攻, 山村研究室:http://www.es.dis.titech.ac.jp/index_jp.html


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