書くための辞書・節用集の展開
佐藤 貴裕
漢字は複雑・高度に発達した文字体系である。個人が習得するには相当の時間と労力がかかるし、忘れることもある。使用層の拡大につれ規範がゆらぐこともあっただろう。とすれば、日本語の表記の少なからぬ部分を漢字にゆだねたときから、読み(日本語)から漢字をひく「書くための辞書」は、生まれるべく定められていたようである。
そのような辞書として、日本語の歴史の上では『色葉字類抄』(平安末期成立)と『節用集』(室町中期成立)が注目される。ことに節用集は行われた。たとえば、室町時代には五〇本以上が、江戸時代には四〇〇本以上が書写・刊行されたと見込まれるほどであり、昭和初期まで刊行されるという息の長さを見せるのである。
節用集では、仮名一字目のイロハ(部)と十数の意味分野(門)の別で語を分類・収載するので、これ利用して漢字がひけた。たとえば、「池」ならイ部乾坤門(地理・気象・家屋など)の部分から、「青鷺」ならア部気形門(動物)の部分からさがしだすのである。
このような書くための辞書・節用集は、どんな展開をたどったのか。まず、次のエピソードからはじめよう。
漂流舟頭の節用集から
寛政六(一七九四)年、奥州名取郡閖上浜(ゆりあげはま)村(宮城県名取市内)の彦十郎船・大乗丸は、南部藩の廻米を輸送する途中、銚子沖で遭難し、安南(ベトナム)に漂着した。舟頭・清蔵らの見聞は、京都の本屋・銭屋長兵衛が柳枝軒静之の筆名でまとめ、刊行したが、節用集に注目するあたりはさすがに本屋の面目がうかがわれる。
右舟頭去年国に有し時、新敷節用(あたらしきせつよう)二冊[一冊は和漢節用無双袋、一冊は大々節用の万字海]買求め、いつも廻船に入、昼夜詠めありしが、此度も石の巻出船のとき、右二冊の本を持来りしに、はからずも難風に漂ひ……此本の有候故に、始西山小村へ漂ひ着せし時も、真字(漢字)を書事しれざる時は、かしら字のいろはにて引出し、草字を以て真字を書みせ候故に、二冊の本にてことを便じ候こと、広大の一助となり……官人(やくにん)・通辞までも珍敷(めづらしく)存じ、本をかしくれ候様申、くりかへし\/詠め悦びけり、其内にも和漢節用の奥にある男女相性の図にて、我国の女の風俗をみて、甚だ笑ひを催せり、又は口にある所の武者の百将伝などにては、大きに我折(がをり)、或は文字一つを二様に用ひ、音声(おんとこへ)の替ることを皆感心せり……望に任せ殿中へ暇乞の節持参せしが、永く安南国の秘蔵となり……残一冊大々節用の方は、清朝の左甫まで持来りしに、是も此所にて官人所望いたされ、かの国の宝となりしなり−−−『南瓢記』寛政一〇(一七九八)
節用集は、コミュニケーションだけでなく、ささやかな文化交流にも一役かっている。漂着先が漢字文化圏だったことも幸いしたが、異国での不安は相当やわらげられただろう。彼らの漂流行は、案外に悲惨さのないものだったのかもしれない。この記述にはそう思わせる明るさがある。その中心に節用集があった。では、舟頭・清蔵の節用集とは、どのようなものだったのだろうか。
『和漢節用無双袋』の方は、図1と同じものであろう。B5版よりわずかに大きく、袋綴じで二〇〇丁(四〇〇頁)ほどある。うしろ四分の三が辞書で、語数は一三〇〇〇語(用字)ほど。草書を大きくだし、平仮名で読みを記す。左には楷書をかかげ、片仮名で読みが記される。ただし、草書の読みが訓読みなら音読みを、音読みなら訓読みを示すのが原則である。この辞書部分の上欄と巻頭の五〇丁ほど・巻末の数丁が付録となる。用語・用字の解説や手紙文例など辞書にふさわしいものから、礼儀作法・絵図・芸能・趣味・武鑑・占いなどまであり、巻頭の目録によれば一〇〇種におよぶ。豊富な挿絵とあいまって、なかなかにぎやかである。
このような体裁の節用集は、江戸中期ではもっとも行われた典型である。が、室町時代のいわゆる古本節用集とはかなり異なっていた。その間に、どのような要請で変容したのか。書体や付録を中心に見ておこう。
商業出版による変容
本来、節用集は、特殊な人々のための、特殊な辞書だったらしい。安田章氏は、古本節用集を連歌や和漢聯句などの作成に関わるものと見、利用者・関係者も「知識階級の側に属」する人々を想定される。証拠も多く挙げられ、ノワキ・オモイヤルの用字に「野分・思遣」をあげるのは少数で、多くは連歌で通用したとされる「暴風」や『文選』にある「想像」をあげるという指摘もその一つである。このような古本節用集は、漢字を楷書で示すのが普通で(図2)、付録も少なく、挿絵もない。これは、古本節用集が未発達だったというより、特殊な辞書だったので、それはそれで通用したということなのだろう。
ただ、室町末期から商業的に出版されだすと、購買層をひろげるため、多数の側へシフトすることになる。舟頭・清蔵はある漢字の草書は知っていても楷書は知らないことがあった。それほど当時は草書が日常的・一般的な書体だった。このような状況に対応して、易林本の書体を草書にあらため(図3)、一方では、楷書も引けるようにもしたのだろう(図4)。
付録も、同じような背景で、付加価値をあたえようとしたものだった。事実、次のような例がある。
此ごろある人節用集を寸珍にして首書(かしらがき。本文上欄の付録)をくわへ、書礼(手紙文例や作法)をかき入、土産節用と名付、一年ほとにして写本出来侍り。これを黄楊板にせば三重韻には倍して売んとおもひ−−−梅薗堂『元禄太平記』元禄一五(一七〇二)
実際、節用集の付録は歓迎された。幕末の例だが、吉田松陰も不自由な獄中では重宝したようである。
大日本図の付録可作と奉存候。延喜式の中の郡名は写置候。追て和名抄をかり、式と対校し、又節用をかりて郡名を対校せんと思ふ。是は郡名、古今の異同ある故なり。武鑑も節用の武鑑は国わけにして有之、あの順にて写し置可 申−−−兄杉梅太郎宛書簡 安政元(一八五四)
となれば、付録をふやす傾向はいよいよつよまる。清蔵の節用集をとおりこし、明治では『伝家宝典/明治節用大全』など、辞書部分のない教養全書が「節用」と銘打って刊行されるまでになった。ただ、この節用集=教養全書という認識は、江戸中期にもすでに見られた。
節用にちきれ\/の仕付形 『武玉川』七
一村で物知りとなる節用集 『折句たわら』
同時代の清蔵も節用集を教養全書や読み物とみていたかもしれない。「いつも廻船に入、昼夜詠め」るには、単なる用字集よりも、挿絵も豊富な「教養全書」の方がふさわしいように思えるからである。
このように、節用集は魅力をまし、相応に安価になって、江戸中期には廻米舟の舟頭も手にできるようになる。漂流のために清蔵の節用集は特殊な役割をはたすが、所持すること自体はそれほど特殊でなくなったのである。ややくだって文化一二(一八一五)年の例だが、補強の意味であげておこう。
榎原村(京都府福知山市)と云ふに行き……今晩は一宿せよと主し云ふに付宿す。易蔵と云ふ宅。此仁二十歳余りの男なり。書物すきと家内の者共云ふ。又自身にも好物と噺しあり……書物段々取出すを見れば、庭訓往来、節用集、手習の往来等也、外に安(案)文の書あり−−−野田成亮『日本九峰修行日記』
もう一つの変容−−−早引節用集の誕生
購買層を拡大するいとなみは、体裁の上だけでなく、漢字を引くという行為にも向けられた。
古本節用集以来の意義分類は、案外に面倒なものだった。使用者の意識が節用集の分類とくいちがうことがあるからである。たとえば「草鞋・鎧」は食服門(衣服・食物)にありそうだが、節用集では器財門(道具)にあるのが普通だったりするのである。
そのような意義分類をやめたのが『宝暦新撰/早引節用集』(宝暦二〈一七五二〉年)である(図5)。これは、イロハと仮名の数(声)で検索するものだった。「池」はイ部二声を、「青鷺」はア部四声をひくことになる。
また、ほかにも従来型の節用集から離れようとした節がある。特に初期のものにはその色が濃い。たとえば、付録は申し訳ばかりに付くだけだし、書体も草書しか示さない。大きさは文庫本の幅を一センチほど詰めた縦本で、書物としての重厚感はのぞむべくもない。用字も、さきの『倭漢節用無双嚢』がホトトギスに「杜鵑・杜宇・子規・■鳥・蜀魄・別都頓宜寿・郭公・時鳥」(■=縷鳥)をかかげて古本的なのに対し、早引節用集は「郭公」しかかかげなかったりする。のちに『 早引節用集』(宝暦一〇年)などがでて、付録以外は従来型の節用集に近づくが、初期のものも幕末まで刊行される。早引節用集を、日常的な用字集としての実用性を追求したものだったと見られる。
江戸中期には、このような早引節用集も受け入れられ、文学作品にもいろいろな形で現れるようになった。
ときに将門、文字の早書きにはかなはせまじと、七ッいろはを一度に書いてみせる。秀郷それもかなはせじと、早引節用にて八ッの文字を一度に引いてみせ、その上、八打(やから)の鉦を一度に打つて見せる−−−山東京伝『時代世話二挺鼓』天明八(一七八八)
早業くらべで、平将門は分身を使い、俵藤太秀郷は当時流行の利器・風俗で対抗するという趣向。早引節用集の流行が知られる。また、使用層が推測できる例もある。
世に早引節用集なる物あり。大抵其書を閲するに。大屋店子の代筆に採つて。張華が博物を資け。文謁子(ひねつたきやく)の贈答に名妓(おいらん)秘して論衡に擬す−−−楽亭馬笑『廓節要』寛政一一(一七九九)
ちよつと大家さんへ行つて早引を借りてこい。じきに去り状を書いてやるは−−−曲亭馬琴『料理茶話即席話』寛政一一
夫婦喧嘩をするなら、早引を一冊買つておいてすることだ。去り状が書けぬと直にさしつかへてじやん\/になる−−−馬琴『胴人形肢体機関』寛政一二
大家だけでなく店子も使い、また買えるものだった。早引節用集も、付録満載の節用集と同様に、あるいはそれ以上に愛用されたのだろう。かつての知識層の詩文参考書は、庶民が三行り半を書くのに使う辞書となった。となれば、次の例はむしろ勲章であろう。
商業出版の功罪
このような早引節用集に刺激されて、仮名(読み)に注目した検索法が続出した(表)。なお、特殊仮名引きとは、濁音・長音・撥音をしめす仮名の有無で分類するもので、三者がないものを「清」とした。仮名数の偶数奇数の別や、二度目のイロハ分けを語末の仮名でみるもの、清濁の有無だけをみるものは派生形である。このなかでは、イロハ二重引きがもっとも優れていただろう。他のものはさほどでもない。仮名数の偶数奇数をみてから仮名数で引くものや、当時一般的でない五十音で引くものなどは不自然である。また、特殊仮名引きも、「豌豆」のように特殊仮名を二つ以上含む場合、どの仮名でみるか優先順位をしる必要があった。また、何種類もの基準を併用するものは複雑なばかりだったろう。
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│書名 刊行年 検索法 │
│早引節用集 宝暦2(1752) イロハ拷シ名数 │
│国字節用集* 宝暦7(1757) イロハ鴻Cロハ │
│早字二重鑑* 宝暦12(1762) イロハ鴻Cロハ │
│安見節用集* 宝暦12(1762) イロハ鴻Cロハ │
│千金要字節用大成* 明和元(1764) イロハ壕モ義拷シ名数 │
│万代節用字林蔵* 明和3(1766) イロハ壕モ義拷シ名数 │
│連城節用夜光珠 明和5(1768) イロハ告エ濁引撥壕モ義 │
│連城大節用集夜光珠 明和6(1769) イロハ告エ濁引撥壕モ義 │
│広益好文節用集 明和8(1771) イロハ豪奇壕モ義 │
│急用間合即座引 安永7(1778) イロハ告エ濁引撥壕モ義 │
│二字引節用集* 天明元(1781) イロハ鴻Cロハ(語末) │
│五音字引節用集* 天明元(1781) イロハ轟ワ十音(語末) │
│万徳節用集 天明2(1782) イロハ告エ濁引撥壕モ義 │
│大成正字通 天明2(1782) イロハ告エ濁引撥壕モ義 │
│早考節用集 天明5(1785) イロハ壕モ義告エ濁 │
│画引節用集大成* 寛政4(1792) イロハ黒ミ仮名総画数 │
│大成正字通 享和2(1802) イロハ壕モ義告エ濁 │
│長半仮名引節用集 文化元(1804) イロハ豪奇拷シ名数 │
│国宝節用集 文化7(1810) イロハ告エ濁引撥壕モ義 │
│蘭例節用集 文化12(1815) イロハ鴻Cロハ壕モ義 │
│長半仮名引節用集 文政3(1820) イロハ豪奇拷シ名数 │
│節用早見二重引 嘉永5(1852) イロハ鴻Cロハ │
│早字二重鑑 嘉永6(1853) イロハ鴻Cロハ │
│いろは節用集大成 安政5(1858) イロハ拷シ名数壕モ義 │
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・*は現存が確認されないか、出版されなかったもの。
・ 同じ検索法の再版本は掲げていない。
ともあれ、これだけの検索法が考案されたこと、その背景となった商業出版のエネルギーには驚かされる。また、この多様さは、漢字を引くという行為を捉えなおすと同時に、日本語を種々の面から見直したことを意味する。特に、仮名遣いでは頭をかかえたはずである。現代ほどには仮名遣い自体が流布していなかったからである。そのようななかで、いくつかの工夫もあったが、ここでは余裕がないので触れないでおく。ただ、商業出版をきっかけとして、日本語をとらえなおす機会が作られたことを指摘するにとどめる。
出版といえば版権を忘れるわけにはいかない。当時でも版権は認められていたが、その範囲が曖昧だった場合がある。これに乗じて、権利を過剰に主張することがあった。宝暦一二(一七六二)年、早引節用集の板元は、イロハ二重引きの『早字二重鑑』を模倣書として江戸寺社奉行へ出訴するが、これもその例のようである。
裁判の結果、『早字二重鑑』がやぶれ、刊行できなくなる。このことで早引節用集の版権は拡大した。イロハ二重引きだけでなく、それから派生したものにも早引節用集の版権が適用できるようになったからである。また、後続の本屋は、この大きな版権にふれないように考案しなければならなくなった。すでにみたように不自然な検索法も考案されたが、その背景には、このような版権上の問題があったと考えられる。
商業出版は、節用集を庶民の手に近づけもしたが、反面で、イロハ二重引きという近代的な検索法をほうむり、検索法の考案を阻害するという役も演じたのである。
節用集の終焉
明治にはいると節用集は早引節用集だけといってよい状況になった。収載語は、維新や近代化に応じて変化したが、検索法や用字集としての性格など、基本的な部分はかわらなかった。一方で、辞書界には新たな流れがおこりつつあった。国語辞典の編纂が国家的事業として行われるのである。漢字だけでなく、言葉の意味も学べる辞書の出現であった。しかし、それらは大部で高度な内容のものとして位置し、また節用集は簡便な用字集としてそれなりの位置をしめ、上手に住みわけていたらしい。
だが、やがて国語辞典が小型化しはじめる。山田忠雄氏は、明治三〇(一八九七)年の林甕臣・棚橋一郎『日本新辞林』がはしりだとされる。明治三七(一九〇四)年には、かの『言海』も参入してきた。さすがの節用集もこのような傾向には対抗できなかったらしい。山田氏のリストによると、一九一〇〜二〇年ころから出版数が急激に衰えるのである。
明治期には、多くの文物が、急速な近代化の波にのみこまれていったが、節用集もその一つだったということになりそうである。
参考文献
上田万年・橋本進吉『古本節用集の研究』勉誠社 一九六八復刻
前田富祺『国語語彙史研究』明治書院 一九八五
安田章『中世辞書論考』清文堂 一九八三
山田忠雄『近代国語辞書の歩み』三省堂 一九八一
国語学会編『国語学大辞典』東京堂出版 一九八〇
蒔田稲城『京阪書籍商史』高尾彦四郎書店 一九六八復刻
加藤貴校訂『叢書江戸文庫1 漂流奇談集成』国書刊行会 一九九〇
『月刊しにか』(大修館書店。1993-4)所収
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