ルビ部分を石丸憲子(佐藤ゼミ・4年生)が入力したもの。協力、多謝。
佐藤の検閲は経ていない。

小公子 若松賤子

第一回(上)

セドリツクには誰(たれ)も云(い)ふて聞(きか)せる人(ひと)が有(あり)ませんかつたから、何(なに)も知(し)らないでゐたのでした。
おとつさんは、イギリス人だつたと云(い)ふこと丈(だけ)は、おつかさんに聞(き)ゐて、知(し)つてゐましたが、おとつさんの歿(ぼつ)したのは、極(ご)く少(ち)さいうちでしたから、よく記臆(きをく)して居(ゐ)ませんで、たゞ大(をほ)きな人(ひと)で、眼(め)が浅黄色(あさぎいろ)で、頬髯(ほゝひげ)が長(なが)くつて、時々(とき\/)肩(かた)へ乗(の)せて坐敷中(ざしきぢう)を連(つ)れ廻(まは)られたことの面白(をもしろ)かつたこと丈(だけ)しか、ハツキリとは記臆(おぼえ)てゐませんかつた。
おとつさんがおなくなりなさつてからは、おつかさんに余(あま)りおとつさんのことを云(いは)ぬ方(ほう)が好(よい)と云(いふ)ことは子供(こども)ごヽろにも分(わか)りました。
おとつさんの御病気(ごびようき)の時(とき)、セドリツクは他処(よそ)へ遣(や)られてゐて、帰(かへ)つて来(き)た時(とき)には、モウ何(なに)も彼(か)もおしまいになつてゐて、大層(たいそう)お煩(わづらひ)なすつたおつかさんも漸(やうや)く窓(まど)の側(そば)の椅子(いす)に起(を)き直(なを)つて入(いら)つしやる頃(ころ)でしたが、其時(そのとき)おつかさんのお顔(かほ)はまだ青(あを)ざめてゐて、奇麗(きれい)なお顔(かほ)の笑靨(ゑくぼ)がスツカリなくなつて、お眼(め)は大(おほ)きく、悲(かな)しそうで、そしておめしは真(ま)ツ黒(くろ)な喪服(もふく)でした。
かあさま、とうさまはモウよくなつて?。
と、セドリツクが云(いひ)ましたら、つかまつたおつかさんの腕(うで)が震(ふる)へましたから、チゞレ髪(け)の頭(かしら)を挙(あ)げて、おつかさんのお顔(かほ)を見(み)ると、何(なん)だか泣度様(なきたいやう)な心持(こヽろもち)がして来升(きまし)た、それからまた、
かあさま、おとうさまはモウよくおなんなすつたの?。
と同(をな)じことを云(い)つて見(み)ると、どういふ訳(わけ)か、急(きう)におつかさんの頚(くび)に両手(りようて)を廻(まは)して、幾度(いくたび)も\/キスをして、そしておつかさんの頬(ほう)に、自分(じぶん)の軟(やはら)かな頬(ほう)を推当(をしあて)て上(あげ)なければ、ならなくなり升(まし)たから、その通(とほ)りして上(あげ)ると、おつかさんが、モウ\/決(けっ)して離(はなさ)ないといふ様(やう)に、シツカリセドリツクをつかまへて、セドリツクの肩(かた)に自分(じぶん)の顔(かほ)を推当(をしあて)て、声(こゑ)を吝(おし)まずにお泣(なき)なさい升(まし)た。
ソウだよ、モウよくお成(な)りなすつたよ、モウスツ‥‥スツカリよくおなりなのだよ、ダガネ、おまへとわたしは、モウふたり切(きり)になつてしまつたのだよ、ふたり切(きり)で、モウ外(ほか)に何人(だれ)もいないのだよ。
と曇(くも)り声(ごゑ)に云(いは)れて、セドリツクは幼(をさ)な心(ごヽろ)の中(うち)に、アノ大(おほ)きな、立派(りつぱ)な、年若(としわか)なおとつさんは、モウお帰(かへ)りなさることがないのだといふことが、合点(がてん)が行(ゆき)ました。
他(ひと)のことでよく聞(き)く通(とほ)り、おとつさんはお死(し)になすつたのだろうと分(わか)りはしたものヽ、どふいふ不思議(ふしぎ)な訳(わけ)で、こふ悲敷(かなしい)有様(ありさま)になつたのか、ハツキリと会得(えとく)が出来(でき)ませんかつた、自分(じぶん)がおとつさんのことを云(い)ひ出(だ)せば、おつかさんはいつもお泣(なき)なさるから、コレハ余(あま)り度々(たび\/)云(いは)ないほうが好(い)いのだろう、いふまゐと内々(ない\/)心(こヽろ)に定(き)めて、そうして、暖室炉(ストーブ)のまへや、窓(まど)の側(そば)に、ヂツト黙(だま)つて坐(すは)つて入(いら)つしやる様(やう)な時(とき)には、打遣(うちや)つて置(をい)てはいけないといふことも分(わか)りました。
おつかさんと自分(じぶん)の知人(しりびと)といふは、極(ご)く僅(わづ)かなので、人(ひと)に云(いヒ)せれば大層(たいそう)淋敷(さびしき)生涯(しようがい)を送(おくつ)てゐたのですが、セドリツクは、少(すこ)し大(おほ)きくなつて、なぜ人(ひと)が尋(たづ)ねて来(こ)ないといふ訳(わけ)が分(わか)る迄(まで)は、淋敷(さびしき)ことも知(し)りませんかつた。
大(おほ)きくなつてから、おつかさんは孤子(みなしご)で、おとつさんがお嫁(よめ)にお貰(もらひ)なさるまでは、此(この)広(ひろ)い世界(せかい)にタツタ一人(ひとり)で、身寄(みより)も何(なに)もなかつたのだと始(はじ)めて知(し)りました。
おつかさんは、大層(たいそう)な御器量好(ごきりようよ)しで其時分(そのじぶん)ある金持(かねもち)の婦人(ふじん)の介添(かいぞへ)になつて入(いら)つした処(ところ)が、其婦人(そのふじん)といふが意地悪(いじわる)な人(ひと)で、ある日のこと、カプテン、ヱロルといつて、後(のち)にセドリツクのおとつさんになつた人(ひと)が、丁度(ちようど)その家(いへ)へ来合(きあわ)せてゐた時(とき)、何(なに)かことがあつた末(すへ)、おつかさんが睫毛(まつげ)に露(つゆ)を持(もつ)たせながら、急(いそ)いで二階(かい)へお上(あが)りなさる処(ところ)を、其(その)お方(かた)が御覧(ごらん)なすつて、可愛(かわい)らしく、あどけなく、痿(しほ)れかへつた其姿(そのすがた)を忘(わす)れることが出来(でき)ず、色々(いろ\/)不思議(ふしぎ)なことが有(あつ)て、互(たがひ)に心(こヽろ)を知合(しりあ)ひ、愛(あい)し合(あ)つて、とう\/婚姻(こんゐん)をなさる様(やう)になつたのでした。
さて此婚姻(このこんゐん)に付(つい)ては、さま\゛/の人(ひと)にわるく思(をも)われたのでしたが、其中(そのうち)で、一番(ばん)に腹(はら)をたてたのはカプテン、ヱロルの爺(おやぢ)さまで、是(これ)は英国(エイこく)に住(す)んでゐて、お金(かね)の沢山(たくさん)ある豪儀(ごうぎ)な華族(くわぞく)さまでしたが、癇癪持(かんしやくもち)で、アメリカとアメリカ人(じん)が大(たい)のお嫌(きらひ)でした。
此方(このかた)は、カプテン、ヱロルの上(うへ)に、二人の息子(むすこ)をお持(もち)でしたが、英国(エイこく)の法律(はうりつ)で、家(いへ)に属(ぞく)する爵位(しやくい)も財産(ざいさん)も、何(なに)も彼(か)も、皆(みな)長男(ちようなん)が受継(うけつい)で、若(も)し長男(ちようなん)が死(し)ねば、次男(じなん)が跡(あと)を譲(ゆづ)り受(うけ)ることに諚(きま)つて居(を)り升たから、此(この)お方(かた)は大家(たいけ)に生(うま)れはしたものヽ、三男(なん)のことで、ひどく有福(いうふく)になる見込(みこみ)はありませんかつた。
然(しか)るに、カプテン、ヱロルは、二人(ふたり)の兄(あに)たちの生(うま)れ付(つか)ぬ天才美質(てんさいびしつ)を備(そなへ)て居升(をりまし)た、美麗(びれい)なる其容貌(そのようぼう)、屈強(くつけう)なる其姿(そのすがた)、生々(いき\/)したる其笑(そのわらひ)、華(はで)やかななる其音声(そのこはね)、其大胆(そのだいたん)で、慈悲深(じひふか)きこと、人(ひと)に接(せつし)て柔順(じゆうじゆん)なる挙動(きよどう)は、多(おほ)くの者(もの)の敬愛(けいあい)を一身(しん)に集(あつめ)ました。
さて二人(ふたり)の兄(あに)は、是(これ)に反(はん)して外貌(ぐわいばう)も美(うつく)しくなく、何(なん)の才(さい)も持(もた)ず、心(こヽろ)に美質(びしつ)を備(そなへ)ても居(おり)ませんかつた故(ゆゑ)、イヽトンなる邸内(ていない)に在(あつ)ても人(ひと)に怡(よろこ)ばれす、大学(だいがく)に修学(しゆうがく)する折(をり)も、学問(がくもん)は大嫌(だいきらひ)で、其処(そこ)に居間(をるあひだ)只(たヾ)時日(じヾつ)を無益(むゑき)に消費(しようひ)する計(ばかり)で、朋友(ほういう)もろくに出来(でき)ませんかつた。
父(ちヽ)なる侯爵殿(こうしやくどの)は此(この)二人の息子(むすこ)には非常(ひじやう)に失望(しつぼう)し、失望(しつぼう)のみならず常々(つね\゛/) 大層(たいそう)迷惑(めいわく)の体(てい)でした。
自身(じしん)の世(よ)を譲(ゆづ)る嫡子(ちやくし)は先祖(せんぞ)の家名(かめい)に光沢(くわうたく)を添(そ)へぬ耳(のみ)か、男(おとこ)らしく、凛然敷(りヽしい)性質(せいしつ)は一も備(そな)へず、只(たヾ)自身(じしん)の欲(よく)を恣(ほしひ)まヽにし、つかひ払(はら)ふことを知(し)つてゐる計(ばか)りで、世(よ)に何(なん)の益(えき)なき人物(じんぶつ)でした。
然(しか)るに産(さん)も位(くらひ)もなかるべき末子(ばつし)が、他(た)の二人(ふたり)に欠(かけ)て居(を)る伎倆(ぎりよう)も、徳(とく)も、美貌(びぼう)も、兼備(かねそな)へて居(を)るとは、此人(このひと)にとつて如何(いか)にも残念千万(ざんねんせんばん)のことどもでした。
時(とき)としては巍々(ぎヽ)たる其位爵(そのいしやく)、壮麗(そうれい)なる産業(さんぎよう)に付属(ふぞく)す可(べ)き美質(びしつ)をば、他(た)に与(あた)へずして独(ひと)り占(じめ)したる此若年(このじやくねん)が、反(かへ)つて父(ちヽ)の心(こヽろ)には憎(にく)くなりました。
併(しか)しまた傲慢頑固(ごうまんぐわんこ)なる其心(そのこヽろ)の底(そこ)には、此末子(このばつし)を大(おほい)に寵愛(ちようあい)せずに居(を)られず、二つの情(じやう)は互(たが)ひに戦(たヽか)つて居(ゐ)ましたが、或(あ)る時(とき)此忌々(このいま\/)しさが癇癪(かんしやく)となつてムカ\/と、外(そと)に発(はつ)し俄(にわ)かに三男(なん)を米国(アメリカ)へ旅行(りよこう)に遣(つか)はしました。
是(これ)は二人の放蕩不頼(ほうとうぶらい)な息子(むすこ)の挙動(きよどう)に困(こう)じ果(は)て、末子(ばつし)に比較(ひかく)しては腹(はら)を立(た)てるから、末子(ばつし)を暫(しばら)く遠(とふ)ざけて見(み)よふと思付(おもひつい)たからでした。
然(しか)るに六月(むつき)たヽぬ内(うち)にはや淋(さび)しさを感(かん)じ始(はじ)めまして、密(ひそ)かに末子(ばつし)の顔(かほ)が見(み)たくなり、直(す)ぐ文通(ぶんつう)して帰国(きこく)を命(めい)じました。
其手紙(そのてがみ)と引違(ひきちが)つて着(ちやく)したカプテン、ヱロルの書状(しよじよう)に米国(アメリカ)で出逢(であ)ふたある妙齢(めうれい)の婦人(ふぶん)のことと是(これ)と婚姻(こんいん)する決心(けつしん)をしたことが書(かい)て有(あり)ました、侯爵殿(こうしやくどの)が此手紙(このてがみ)を読(よ)まれた時(とき)は夫(それ)こそ立腹(りつぷく)でした。
生来(せいらい)癇癪持(かんしやくもち)では有升(ありまし)たが、此時程(このときほど)其癇癪(そのかんしやく)をひどく起(おこ)したことは無(な)い位(くら)ひでしたから手紙(てがみ)の来(き)た時(とき)丁度(てうど)居合(ゐあは)せた給事(きうじ)が其時(そのとき)の様子(やうす)を見(み)て御前(ごぜん)はヒヨツト卒中(そつちう)でもお発(はつ)しはなさらぬかと心配(しんぱい)した程(ほど)でした。
凡(およ)そ一時間(じかん)も猛虎(もうこ)の如(ごと)くに哮(たけ)り立(た)ち、其(その)あげくに、一通(つう)の端書(はがき)をカプテン、ヱロルに認(したヽ)め遣(つか)はし、以後(いご)邸(やしき)に近寄(ちかよ)ることは一切(せつ)ならぬ、又(また)親兄弟(おやけうだい)にも文通(ぶんつう)を禁(きん)ずる、今後(こんご)如何様(いかやう)なる暮(くら)しを為(な)すとも何処(どこ)に果(は)てやうとも、一向(こう)かまはぬ、ドリンコウトの家(いへ)よりは永遠(えんゑん)に切離(きりはな)したものと見做(みな)して、父(ちヽ)の存命中(ぞんめいちう)は、何(なん)の補助(ほじよ)もせぬものと心得(こヽろえ)よ、と申送(まうしおく)りました。
カプテン、ヱロルは此手紙(このてがみ)を一読(どく)して愁歎(しうたん)に堪(たへ)ませんかつた。
此人(このひと)は故郷(ふるさと)も懐(なつ)かしく、自身(じしん)の生(うま)れた美麗(びれい)な家(いへ)も至(いた)つて恋(こひ)しく、癇癪(かんしやく)ある老父(ろうふ)にも親(した)しんで居(を)つて、是(これ)まで父(ちヽ)が色々(いろ\/)失望(しつぼう)したことを気(き)の毒(どく)におもふて居(を)りましたが、此文通(このぶんつう)があつてからは最早(もはや)親子(たやこ)の間(あひだ)に何(なん)の好(よし)みもないといふことを泣々(なく\/)覚悟(かくご)致(いた)しました。
始(はじめ)はどうしよふかと方向(はうかう)に迷(まよ)ひ升(まし)た。
是迄(これまで)の育(そだ)ちが育(そだち)でしたから働(はたらい)て活計(くらし)を立(たて)ることには慣(なれ)ず、事務上(じむじやう)の経験(けいけん)も有(あり)ませんかつたが、併(しか)し勇気(いうき)も決断力(けつだんりよく)も充分(じうぶん)でしたから先(まづ)陸軍士官(りくヾんしくわん)の株(かぶ)を売却(ばいきやく)してしまい、様々(さま\゛/)の困丹(こんたん)の末(すへ)漸(やうや)くニユーヨウクの都会(とくわい)で、勤(つと)め先(さき)を見(み)つけ、間(ま)もなく婚姻(こんいん)を致(いた)し升(まし)た。
偖(さて)大英国(だいエイこく)某侯爵家(ぼうこうしやくけ)の若殿(わかとの)とも云(いは)れる身分(みぶん)が、斯(か)く落(をち)ぶれての生計(せいけい)は昔(むか)しに比(く)らべて非常(ひじよう)な懸隔(けんかく)でしたが、併(しか)しまだ年(とし)は若(わか)く、世(よ)の中(なか)の面白(おもしろ)みも多(おほ)いのでしたから、勉励(べんれい)せば何事(なにごと)か成(な)らざらんと、頻(しき)りに前途(ぜんと)を楽(たの)しんで居(を)り升(まし)た。
住居(すまゐ)といふは物静(ものしづ)かな町(まち)のちんまりした家(いへ)で、そこで男子(だんし)が一人(ひとり)生(うま)れてからは質素(しつそ)ながら物事(ものごと)総(す)べて珍(めづ)らしく、愉快(ゆくわい)でしたから、只(たヾ)余(あま)りの愛(あい)らしさに思(をもは)ず思(をもひ)を寄(よ)せ、其人(そのひと)にも愛(あい)されて人(ひと)の介添(かいぞへ)といふ身分(みぶん)のものを妻(つま)にしたのを後悔(こうかい)したことはたゞの一度(ど)もありませんかつた。
此婦人(このふじん)といふは、如何(いか)にも愛(あい)らしい人物(じんぶつ)でしたから、生(うま)れた男子(だんし)も両親(りようしん)によく似(に)て居(を)りまして、此通(このとふ)り偏卑(へんぴ)な安(やす)つぽい家居(いへゐ)に生(うま)れたには似(に)ず、其果報(そのくわほう)は誰(たれ)にも劣(をと)らぬほどでした。
第(だい)一、此子(このこ)は、いつも壮健(たつしや)でしたから誰(たれ)にも面倒(めんだう)を掛(かけ)ませんかつた。
第(だい)二に気立(きだて)が柔和(にうわ)で誠(まこと)に可愛(かわい)らしい子(こ)でしたから、人毎(ひとごと)に嬉(うれ)しがられました。
第(だい)三に器量(きりよう)の好(よ)いことは画(ゑ)に書(かい)た様(やう)で、頭(かしら)には赤子(あかご)によくある禿(はげ)の様(やう)なもの少(すこ)しもなく、生(うま)れた時(とき)から軟(やわら)かくつて細(ほそ)い金色(こんじき)の髪(け)が沢山(たくさん)で、六ケ月(げつ)たつ中(うち)にくる\/と可愛(かわい)らしくちゞれました、眼(め)は大(おほ)きく茶色(ちやいろ)の方(ほう)で、睫毛(まつげ)は長(なが)く、顔(かほ)は極(ご)く愛嬌(あいきよう)ある質(たち)でした、筋骨(きんこつ)は珍(めづら)しく逞(たくま)しい方(ほう)で、八ケ月(げつ)たつと、急(きう)に歩(ある)く様(やう)になり升た。
其上(そのうへ)大層(たいさう)人(ひと)なつこく、小(ち)さい手車(てぐるま)に乗(の)つて、市街(しがい)を運動(うんどう)して居(ゐ)る時分(じぶん)、誰(たれ)でも近寄(ちかよ)つてあやす者(もの)があれば、例(れい)の茶勝(ちやかち)な眼(め)で、ヂツトまじめに見(み)つめるかと思(をも)ふと、直(す)ぐ可愛(かあい)らしく笑(わら)ひかけて、雑作(ざうさ)もなくお近付(ちかつき)になつてしまいました。
此通(このとほ)りゆえ、此物静(このものしづか)な町(まち)の中(うち)で、此子(このこ)を見(み)て、あやすのを楽(たの)しみにせぬものとては、一人(ひとり)もなく、向(むか)ふ角(かど)の万屋(よろづや)の亭主(ていしゆ)で、世(よ)に癇癪持(かんしやくもち)とはあの人(ひと)と云(い)はれる位(くらひ)の人(ひと)まで、此子(このこ)には眼(め)がないのでした。
(以上、『女学雑誌』第二二七号)



   第一回(下)

段々(だん\/)月日(つきひ)が経(た)つに随(したが)つて、奇麗(きれい)に可愛(かあい)らしくなりましたが、稍(やヽ)成人(せいじん)して、短(みじ)かい着物(きもの)を着(き)、大(おほ)きな帽子(ぼうし)を冠(かぶ)り、少(ち)さな車(くるま)を引(ひ)つぱつて、姆(もり)と外(そと)を歩(ある)いてゐる処(ところ)は実(じつ)に見物(みもの)で、よく往来(わうらい)の人(ひと)の足(あし)を止(と)めました。
姆(うば)が家(いへ)へ帰(かへ)つては、今日(けふ)馬車(ばしや)へ乗(の)つた貴婦人(きふじん)が、坊(ぼ)ッちやまを見(み)るとつて、態々(わざ\/)馬(うま)を止(と)めさせ、坊(ぼ)ッちやまに言葉(ことば)をおかけなさいましたよ、そうして、坊(ぼ)ッちやまが臆面(をくめん)なく、先(せん)ッからのお友(とも)だちかなんかの様(やう)にお話(はな)しを遊(あそ)ばすので、大層(たいそう)嬉(うれ)しがつて行(ゆき)ましたよ、などとセドリツクの母(はヽ)に話(はな)すことは度々(たび\/)でした。
殆(ほと)んど不思議(ふしぎ)と迄(まで)に思(おも)はるヽ程(ほど)の、此子(このこ)の愛矯(あいきやう)は、多分(たぶん)、少(すこ)しも恐気(おじけ)なく、極(ご)く気軽(きがる)に人(ひと)に懐(なつ)く処(とこ)ろに在(あ)るのですが、これは生(うま)れ付(つき)、人(ひと)を信(しん)ずる質(たち)で、人(ひと)を思(をも)ひ遣(や)る親切(しんせつ)な心(こヽろ)の中(うち)に自分(じぶん)も愉快(ゆくわい)に、人(ひと)も愉快(ゆくわい)にし度(たい)と思(おも)ふ天性(てんせい)に起(をこ)るものと、思(をも)はれます。
それで、人(ひと)の気(き)を見(み)てとることが大層(たいそう)早(はや)い方(ほう)でしたが、是(これ)は両親(ふたをや)が互(たがひ)に相愛(あいあい)し、相思(あいを)もひ、相庇(あひかば)ひ、相譲(あいゆづ)る処(ところ)を見習(みなら)つて、自然(しぜん)と其風(そのふう)に感染(かんせん)したものと見(み)え升(ます)。
家(いへ)に在(あ)つては、不親切(ふしんせつ)らしい、無礼(ぶれい)な言葉(ことば)を一言(げん)も聞(きい)たことはなく、いつも寵愛(ちようあい)され、柔和(やさし)く取扱(とりあつ)かわれ升(まし)たから、其幼(そのをさ)な心(ごヽろ)の中(うち)に、親切気(しんせつぎ)と温和(おんわ)な情(じよう)が充(み)ち満(み)ちて居(を)り升(まし)た。
例(たと)へば、父親(ちヽをや)が母(はヽ)に対(たい)して、極(ごく)物和(ものやわ)らかな言葉(ことば)を用(もち)ゐるのを自然(しぜん)と聞覚(きヽおぼ)へて、自身(じしん)にも其真似(そのまね)をする様(やう)になり、又(また)父(ちヽ)が母親(はヽをや)を庇(かば)ひ、保護(ほご)するのを見(み)ては、自分(じぶん)も母(はヽ)の為(ため)に気遣(きづか)ふ様(やう)になり升(まし)た。
それ故(ゆゑ)、父(ちヽ)がモー帰(かへ)らないことになつて、母(はヽ)がそれを悲(かな)しんでゐる塩梅(あんばい)を見(み)てとると同時(どうじ)に、サアこれからは、自分(じぶん)が一処懸命(しよけんめい)に慰(なぐさめ)なければならないのだといふことを覚悟(かくご)して、其心持(そのこヽろもち)になり升た。
まだ年(とし)は行(ゆか)ず、赤(あか)ん坊(ぼ)の様(やう)なものでしたが、母(はヽ)の膝(ひざ)へ攀登(よぢのぼ)つて、キスをして、、ちゞれ頭(あたま)を母(はヽ)の頚(くび)へすり寄(よ)せる時(とき)や、自分(じぶん)のおもちやや絵草紙(ゑそうし)を持(も)つて来(き)て見(み)せたり、長(なが)い倚子(いす)の上(うへ)に横(よこ)になつてゐる母(はヽ)の側(そば)へソツトゐ寄(よ)つて、猫(ねこ)の様(やう)にまるくなる様(やう)な時(とき)でも、必(かなら)ず其心持(そのこヽろもち)が有(あ)つたのでした。
年(とし)の行かぬ身(み)には、為(な)す術(すべ)も知(し)りませんかつたから、出来(でき)る丈(だけ)のことをしてゐたのでしたが、自分(じぶん)のおもふよりは、結句(けつく)充分(じゆうぶん)の慰(なぐさ)めが出来(でき)たのでした。
いつか母(はヽ)が、旧(ふる)くからゐる雇女(やとひをんな)のメレといふのに、「アノ、メレや、あの子(こ)は、子供心(こどもごヽろ)にわたしを慰(なぐさ)める積(つも)りでゐるのだよ、キツトそふだろうよ、時々(とき\゛/)可愛(かあい)いヽ、不審(ふしん)そうな顔付(かほつき)をして、気(き)の毒(どく)そうに、わたしを見(み)て居(ゐ)ると思(をも)ふと、側(そば)へ来(き)て、わたしに甘(あま)へつくとか、何(なに)か見(み)せるとかするもの、ほんとうに成人(おとな)の様(やう)な処(ところ)があるから、今度(こんど)気(き)を付(つけ)て御覧(ごらん)よ」と云(い)つたこともありました。
一つ宛(づヽ)年(とし)を重(かさ)ねる中(うち)に、此子(このこ)の如何(いか)にも可愛(かあ)いヽ風采(ふうさい)が大層(たいそう)に人(ひと)を嬉(うれ)しがらせました。
母(はヽ)にとつては、此上(このうへ)もない好(よ)いお合手(あいて)で、母(はヽ)は外(ほか)に朋友(ともだち)を求(もと)めぬ位(くらひ)でした。
それ故(ゆゑ)散歩(さんぽ)するも、話(はな)しするも、遊(あそ)ぶも、皆(みな)一処(しよ)でした。
極(ご)く少(ち)さい時(とき)から、本(ほん)を読(よ)むことを習(なら)つて、少(すこ)し読(よ)める様(やう)になつてから、夜(よる)暖室炉(ストーブ)の前(まへ)の毛皮(けがは)の上(うへ)に横(よこ)になつては、さま\゛/のものを声高(こわだか)に読々(よみ\/)しました。
其読(そのよみ)ものヽ中(うち)には、子供(こども)の悦(よろこ)ぶ談話(はなし)もあり、時々(とき\/)は成人(おとな)の読(よみ)そうな書物(しよもつ)も稀(まれ)には新聞(しんぶん)も有(あり)ました。
そうして、さういふ折には大層(たいそう)妙(みやう)なことをいふので、奥(をく)さまが面白(おもしろ)そうにお笑(わら)ひなさる声(こゑ)をメレが台所(だいどころ)で聞々(きヽ\/)しました。
それをまたメレが万(よろづ)やの亭主(ていしゆ)にこふ云(い)つてはなしました、
ほんとうに、だれだつて笑(わら)はずにゐられやしませんよ、あんな愛(あい)くるしひ様子(やうす)をして、妙(みやう)なことをお言(いひ)なさるのだものを、マア聞(きい)ておくんなさい、此間(このあひだ)大統領(だいとうりよう)さまの撰挙(せんきよ)があつた跡(あと)で、台処(たいどころ)へ来(き)て、両手(りようて)をポツケツトへ突(つ)つ込(こ)んで、火(ひ)の前(まへ)へお立(たち)なすつた処(ところ)は、丸(まる)で絵(ゑ)にでも書度様(かきたいやう)でしたがネ、何(なに)をおいひなさるかと思(をも)へば、マアこうなんですよ、メレや、僕(ぼく)は共和党(きやうわとう)だよ、かあさまもそうなんだよ、おまへもそうかへ?、とおつしやるから、わたしが、イヽへ\/、どふいたしまして、メレは民権党(みんけんとう)の堅(かた)まりですよ。といふと、それは\/気(き)の毒(どく)そうな顔付(かほつき)をして、そうかへ、それは大変(たいへん)だよ、国(くに)が亡(ほろ)びるよ、民権党(みんけんとう)はいけないんだから。といつてそれからといふものは、わたしを共和党(きようわとう)にするとつて、毎日(まいにち)の様(やう)に議論(ぎろん)にお出(いで)なさるじやありませんか。
メレは此子(このこ)が大好(だいすき)で、そうしていつも大自慢(だいじまん)でした。
元(もと)セドリツクの誕生(たんじよう)の頃(ころ)から居(ゐ)るので、主人(あるじ)がなくなつてよりは、お三どんも、小間遣(こまづかひ)も、児守(こもり)も、何(なに)も彼(か)も一人(ひとり)で兼(かね)て居升(まし)た。
此女(このをんな)はセドリツクの文優(しなやか)で屈強(くつきやう)な体(からだ)つきと愛(あい)らしひ様子振(やうすぶり)が自慢(じまん)なので、殊(こと)に額(ひたい)の辺(へん)に波打(なみう)つて、肩(かた)へ垂(た)れかヽつて、一層(そう)の愛嬌(あいきやう)を添(そ)へる艶(つやヽ)かな頭髪(かみのけ)が大自慢(おほじまん)でした。
それ故(ゆゑ)、朝(あさ)は早(はや)く起(を)き、夜(よ)は夜(よ)なべまでして、セドリツクの小裁(こだち)の着物(きもの)の仕立(したて)や、修繕(つくろひ)を手伝(てつだい)ました。
サウサ、あれが本当(ほんとう)の品(ひん)とでもいふのだらうよ、大家(たいか)の坊様(ぼうさま)だつて、うちのの様(やう)な器量(きりよう)や、推出(をしだ)しの好(いヽ)のは、ほんとうにありやしない、奥(をく)さまの旧(ふる)いおめしを直(なを)して、拵(こし)らへたのだけれど、アノ黒(くろ)びろうどの服(ふく)を着(き)て、外(そと)を歩(あ)るいてゐらつしやろうもんなら、どんな男(をとこ)だつて、女(をんな)だつて、子供(こども)だつて、ほんとうに振(ふ)り返(かへ)つて見(み)ないもんなんかないから、丸(まる)で華族様(くわぞくさま)の若様(わかさま)の様(やう)だ。
と人に云々(いひ\/)しました。
セドリツクは自分(じぶん)が若様(わかさま)のやうだか、様(やう)でないか知(し)りませんかつた。
全体(ぜんたい)若(わか)さまといふものがどんなものかといふことさへ、知(し)らないのでした。
自分(じぶん)の一番(ばん)の友(とも)だちといふは、角(かど)の万(よろづ)やの亭主(ていしゆ)で、音(おと)に聞(きこ)えた癇癪持(かんしやくもち)でしたが、セドリツク丈(だけ)には一度(ど)も怒(をこ)つたことがないといふ評判(へうばん)でした。
名(な)はホッブスといひましたが、セドリツクは此人(このひと)を大層(たいそう)尊敬(そんけい)してゐまして、彼(か)の人(ひと)は余程(よほど)の金持(かねもち)で、エライ人物(じんぶつ)だと思(おも)つてゐました。
なぜかといふと、其人(そのひと)の店先(みせさき)には、杏子(あんず)、無花菓(いちヾく)、密柑(みかん)、ビスケツトと、種々雑多(しゆ\゛/ざつた)の品物(しなもの)が並(なら)べてある上(うへ)に、馬(うま)と荷車(にぐるま)が置(をい)てあつたからです。
セドリツクは、牛乳(ちヽ)やも、麺包(ぱん)やも、林檎(りんご)やのおばあさんも好(すき)でしたが、中(なか)で此(この)ホッブスといふ人(ひと)ほど好(すき)な人(ひと)はなく、例(たと)へば毎日(まいにち)逢(あい)に行(い)つて、対(むか)ひ会(あ)つては、其時(そのとき)\/の事(こと)をいつまでも話(はなし)てゐたといふ丈(だけ)でも、どの位(くらひ)懇意(こんい)だつたといふことが分(わか)ります。
二人が寄(よ)れば、いつも話(はな)しが尽(つき)なかつたといふことは、実(じつ)に不思議(ふしぎ)な様(やう)でした。
先(まづ)七月四日の独立祭(どくりつさい)の事(こと)などです、独立祭(どくりつさい)の話(はな)しが始(はじ)まれば、実(じつ)に切(きり)がない様(やう)でしたが、ホッブスは英人(エイじん)といへば大(だい)の反対(はんたい)で、或る時(とき)革命(かくめい)の話(はなし)をすつかりセドリツクにして聞(きか)せましたが、其中(そのうち)には、敵(てき)の姦悪(かんあく)、身方(みかた)の勇士(いうし)の功名(こうみやう)などに付(つけ)て、随分(ずゐぶん)異様(いやう)に聞(きこ)える愛国的(あいこくてき)の談話(はなし)が雑(まじ)つてゐました、其(そ)の上(うへ)独立(どくりつ)の宣告文(せんこくぶん)まで言(い)つて聞(きか)せました。
セドリツクが此話(このはなし)を聞(きい)てゐる間(あひだ)は、眼(め)が光(ひか)り、頬(ほう)が赤(あか)くなり、髪(かみ)がビタ\/に汗(あせ)になるほど、一処懸命(しよけんめい)でして、家(いへ)へ帰(かへ)つて、母(はヽ)に話(はなし)をするのを、御膳(ごぜん)の済(すむ)まで待(ま)てない位(くらゐ)でした。
セドリツクが政事(せいじ)のことに注意(ちうい)する様(やう)になつたのは、全(まつ)たく最初(さいしよ)、ホッブスの仕込(しこみ)の故(せい)であつたのでした。
さて、ホッブス氏(し)は、新聞(しんぶん)を読(よむ)のが大好(だいすき)でしたから、ワシントン府(ふ)にある事柄(ことがら)などは、いつも精(くわ)しく話(はな)して聞(き)かせました。
それでセドリツクはコウ\/で、大統領(だいとうりよう)が義務(ぎむ)を尽(つく)してゐることの、又(また)コウだから義務(ぎむ)を尽(つく)さないのだといふ話(はな)しをも、感服(かんぷく)して聞(きい)てゐました。
一度(ど)撰挙(せんきよ)があつたときなどは、セドリツクは大層(たいそう)夢中(むちう)になり、何(なん)でも豪勢(ごうせい)なもんだと思(をも)ひ、自分(じぶん)とホッブス爺(おぢ)さんがゐなければ随分(ずゐぶん)国(くに)の安危(あんき)にも関(かヽは)らうかといふ威勢(いせい)でしたが、ホツブスがある時(とき)セドリツクを連(つ)れて、たいまつの行列(ぎようれつ)を見(み)に行(ゆき)ましたが、行列(げうれつ)の人(ひと)の中(なか)には、其時(そのとき)ガス灯(とう)の側(そば)に立(た)つてゐる、肥(ふと)つてヅングリとした人(ひと)の肩車(かたくるま)に乗(のせ)られた少(さい)さな奇麗(きれい)な男子(をとこのこ)が大声(をほこゑ)に万歳(ばんざい)を呼(よび)ながら高(たか)く帽子(ほうし)を振(ふ)つてゐたことのあるのを記臆(きおく)して居(ゐ)ましよう、忘(わす)れないでしよう、夫(それ)がセドリツクです。
丁度(ちようど)此撰挙騒(このせんきよさわぎ)の直(す)ぐ跡(あと)で、セドリツクの七歳と八歳の間(あひだ)の頃(ころ)でしたが、此子(このこ)の生涯(しようがい)に大変動(たいへんどう)を起(をこ)した一大事(だいじ)がありました、然(そう)してまた丁度(ちようど)此日(このひ)にホツブス氏(し)が英国(エイこく)や、英国女王(エイこくによわう)の話(はなし)をしてゐて、米国(ベイこく)には例(ためし)のない貴族(きぞく)といふものの講釈(かうしやく)をして、大層(たいそう)烈敷(はげしい)ことを云(い)ひ、殊(こと)に侯爵(こうしやく)とか伯爵(はくしやく)とかいふものに対(たい)して、非常(ひじやう)に憤(いきど)ほつてゐましたが、跡(あと)で思(をも)ひ合(あは)すれば、此日(このひ)は実(じつ)に不思議(ふしぎ)なことでした。
其日(そのひ)は朝(あさ)から大層(たいそう)暑(あつ)くつて、セドリツクが友(とも)だちと一処(しよ)に兵隊(へいたい)の真似(まね)をして遊(あそ)んでゐて、恐(をそ)ろしく熱(ねつ)しましたから休息(きうそく)しようと思(をも)つて、ホツブスの店(みせ)へ這(はい)つて行(ゆき)きましたらホツブスは折節(をりふし)朝廷(ちようてい)の儀式(ぎしき)の図(づ)のやうなものが這(はい)つてゐるロンドンのある絵入新聞(ゑいりしんぶん)を読(よ)んで大(たい)そう、すさまじい顔(かほ)をしてゐ升したが、
よしいまの中(うち)、さんざ高上(たかあが)りをして、下々(しも\/)の人(ひと)を踏(ふみ)つけるが好(い)い、今(いま)に見(み)ろ、踏(ふみ)つけた人(ひと)たちに、イヤといふほど飛(とば)し挙(あが)られるから(是は暴徒(ぼうと)、ダイナマイトの類(るい)を云(い)ふ)わしのいふことに間違(まちが)はない、みんな眼(め)を開(あい)て見(み)てゐろ。
と言(いひ)ました。
セドリツクは此時(このとき)いつもの通(とほ)り、高(たか)い倚子(いす)にチヨンボリ腰(こし)かけて、ホツブス氏(し)に敬礼(けいれい)を表(ひよう)する為(ため)、帽子(ぼうし)を後(うし)ろへ推遣(をしや)り、両手(りようて)をポツケツトの中(なか)へ突込(つきこ)んでゐましたが、ホツブス氏(し)に向(むか)ひて、かふ尋(たづ)ねました、
おぢさんは、侯爵(こうしやく)だの、伯爵(はくしやく)だのといふ人(ひと)、たんと知(しつてゐ)るノ?
ホツブスは少(すこ)し腹立気味(はらたちきみ)に、
そんな奴(やつ)知(し)つてゐてたまるものかよ、わしの店(みせ)へでも這(はい)つて見(み)るが好(い)い、どうしてやるか。
弱(よわ)いものいぢめをする圧制貴族(あつせいきぞく)め、こヽらの明箱(あきばこ)へなんぞ腰(こし)をかけさせてたまるものか?。
と四方(あたり)を睨(にらま)へながら大威張(おほいばり)に自説(じせつ)を陳(のべ)て、汗(あせ)でポツ\/と湯気(ゆげ)だつ額(ひたひ)を、拭(ぬぐつ)てゐました。
セドリツクは訳(わけ)は分(わから)ぬながら、どふか不仕合(ふしあわせ)らしく聞(きこえ)る其侯伯(そのこうはく)たちが、ひどく気(き)の毒(どく)になり、
おぢさん、夫(そ)れは何(なん)にも知(し)らないもんだから、侯爵(こうしやく)なんぞになるんでせう?。
といひました。
スルト、ホッブスが、
どふして\/、大威張(をほいば)りなのさ、ナニ生(うま)れ付(つい)ての分(わか)らずやなんだ、不埒千万(ふらちせんばん)な奴等(やつら)だ。
と話(はなし)の真最中(まつさいちう)に、下女(げじよ)のメレが顔(かほ)を出(だ)しました。
セドリツクはお砂糖(さとう)でも買(かひ)に来(き)たのかと思(をも)ひましたが、そうでもなく、何(なに)かビツクリしたといふ様子(やうす)で、少(すこ)し面色(かほいろ)が変(かは)つてゐました、
坊(ぼ)ッちやま、お帰(かへ)りなさいよ、かあさまが御用(ごよう)ですよ、と云(いひ)ました。
セドリツクは彼(か)の高(たか)い倚子(いす)から滑(すべ)り降(くだ)り、
ソウカへ、かあさんと一処(しよ)にどつかへ行(ゆく)のかへ?
おぢさんさよなら、又(また)来(き)ますよ。
と云(い)つてメレと一処(しよ)に出(で)かけ升(まし)たが、メレが肝(きも)がつぶれて、物(もの)がいへないといふ面付(かほつき)で、自分(じぶん)をヂツト見(み)てゐるのを、何故(なぜ)かと思(をも)ひ、引(ひ)ッ切(きり)なしに首(くび)を振(ふ)つてゐるのに不審(ふしん)をうちました。
メレや、どふしたんだへ?
あついのかへ?。
と尋(たづね)ました。
イヽへ、ですがね、どふも不思議(ふしぎ)なことになつて来(き)たと思(をも)つてゐるんです。
ナニカへ、かあさんがひなたへ出(で)て、頭痛(づつう)がなさるのかへ?
と心配(しんぱい)そうにきヽました。
併(しか)し、そうでもなかつたのでした。
うちへ帰(かへ)つて見ると、戸(と)の外(そと)に小馬車(こばしや)が留(と)めてあつて、誰(たれ)か小坐敷(こざしき)におつかさんと話(はな)しをしてゐたものがありました。
メレは二階(かい)へと自分(じぶん)を急(いそ)がせて、白茶(しらちや)フラネルの余処行(よそゆき)の着物(きもの)に華(はで)なへコ帯(そび)を〆(しめ)させて髪(かみ)のもつれを櫛(とかし)て呉(く)れました。
メレは口(くち)の中(なか)で、
へン、華族(くわぞく)だつて、上(うへ)ッ方(がた)だつて、しよふがあるもんカ、侯爵(こうしやく)だとへ、マアとんでもない‥‥‥とぶつ\/言(い)つてゐました。
セドリツクは何(なん)だか不思儀(ふしぎ)でたまりませんが、母(はヽ)の処(ところ)へ行(い)つたら、何(なに)ごとも話(はな)して貰(もら)われると信(しん)じ、メレが頻(しき)りに不束(ふそく)らしく口小言(くちこごと)を云(い)つてゐるのを、黙(だま)つて聞(きい)てゐて、何(なに)も尋(たづ)ねませんかつた。
さて仕度(したく)も済(す)んで、下(した)へ走(はし)り下(くだ)り、坐敷(ざしき)へ這(はい)り升(ます)と、背(せい)の高(たか)い、優(やさ)しげな、鋭敏(えいびん)らしい、年(とし)とつた紳士(しんし)が、安楽倚子(あんらくいす)に腰(こし)かけてゐて、其側(そのそば)に母(はヽ)が是(これ)も少(すこ)し面(かほ)の色(いろ)を変(か)へて、坐(すは)つてゐましたが、見(み)れば眼(め)には涙(なみだ)が溜(たま)つていた様(やう)でした。
オヤ、セデーかへ‥‥‥
と声(こゑ)をたて、走(はし)り寄(よ)り、両方(りようほう)の腕(うで)で子供(こども)をかヽへ、キスをした様子(やうす)が、何(なに)か驚(をどろ)いたことか、心配(しんぱい)なことでもありそうでした。
丈(せい)の高(たか)い紳士(しんし)は倚子(いす)を離(はな)れ、彼(か)の鋭(するど)い眼(め)で、セドリツクを眺(なが)め、眺(なが)めながら、痩(や)せた頬(ほう)を骨(ほね)つぽい手(て)で撫(なで)てゐましたが、先(ま)づ満足(まんそく)せぬでもないといふ面付(かほつき)でした。
やがて緩々(ゆる\/)した調子(ちようし)で、
サヤウカ、そんなら、これがフォントルロイ殿(どの)で御坐(ござ)るか、
と云(い)ひました。
(以上、『女学雑誌』第二二八号)