他人の中
徳永 直
八
私は字引が欲しい。私はそれを図書館でも見たし、町の本屋の店先でも幾度か偸み読みした。でつかい部厚い書物で、それに細かい字でギツシリ詰まつてゐる。それには世の中の凡ゆることが、何でも説明してあると思つた。宇引さへあれば私は何でも知ることが出来る。私は字引が欲しい。定価がいくらであるか、ハツキリわからないが、私の小遣を貯めた金はまだ一円にも足りない。
「日本外史《は間もなく読み終へて、筑川さんの家へ返したが、二十巻のうち、私に判らない文字が山程あつた。私はそれを筑川さんに教はることが出来ない。筑川さんのお内儀さんに怒鳴られて以来、死んでもあの家へゆきたくないのだ。
「どうだ、勉強しとるか?《
鍬をかついだ筑川さんと道端で逢ふと、この気の弱い大人の「変り者《は、私に低声で訊く。私は頷いて答へながら恩人を見あげる。私にはこの人に認められてゐるといふことがやつぱり嬉しいのである。
「構はンから、暇のときや来い。《
「有難うございます。《
米袋かついで訣れながら、自分の返辞が半分は嘘であることを知つてゐる。筑川さんはあれ以来、主人と気拙いのか、店へ寄らない。私もこの上筑川さんに迷惑をかけたくはないのだ。
そして私に判らないのは「日本外史《ばかりでなかつた。なかには文字が読めて、その癖何とも意味のわからぬ文字も出てくる。
或る晩袋貼りしてゐて、古雑誌のなかから「■■《といふ文字をめつけだした。薬の広告だといふことはわかるが、女の半身像が傍にあるだけで、幾度繰り返し読んでも「■■《といふ文字の説明はなかつた。何か重大な秘密がありさうな気がする。
「ねエ、これはどういふ訳?《
居眠りしてゐる番頭をこづくと、おどろいて眼をあけた惣さんは、鼻ツさきの紙片れをキヨトンと眺め、それから顔の相好を変へてエヘヘヘと笑ひだした。
「そりやアな、■■■、■■■■■■■■■■■■。《
私はおどろいた。世の中に女でなければ男で判らないものがある。といふことは上思議であつた。
「■■■■■■■■■■■■、ちやンとあるんだよ。《
惣さんは妙なことを云つた。とんでもないことで、私には腑に落ちない。なにか怖ろしい。――
「うるせえナ、お内儀さんにでも訊いてみろ……《
面倒臭さうに惣さんは、それなりまた居眠りしてしまつた。私は番頭が出鱈目を云つたのだと思ひこんだ。
「お内儀さん、これ何の薬?《
帳場へ近所のお内儀さんもきて、うちのお内儀さんが無駄話で暇つぶしをしてゐるとき、私はその紙片れを見せた。
「――惣さんが出鱈目ばつかり云ふんだよ。《
それを私は訊かねばよかつた。笑ひ声あげてゐたうちのお内儀さんは、何故か、みるみる眉をつるしあげると、持つてゐた煙管で私の頭を、つづけざまに撲つた。
「まア、いやらしい子だよ、この子は、この子は……《
頭をかかへて、しかし私は泣くことも出来ない。世の中には真個にとんでもないことがあるらしい。その癖、人々はどうしてこんな平気な顔でゐるだらうか!?
自転車で配達に出た帰り途、私は時間をくすねて、町の本屋までとばした。そこは熊本市一番の大きな本屋で、いつも学生達がウヨウヨしてゐる。私は勿論、字引類ののつかつてゐる奥まつた棚をちやンと知つてゐる。私はかくしに五十銭玉が三つと、その他小さい銀貨やら銅貨やらを、紙にくるんで大切にいれてゐた。
「××大辞林?、これは十一円――《
傍へきた博多帯を貝の口に結んだ店員が、私の指ざした大きな書物をめくつてから、パタンと台の上においた。私はこまつた。
「そつちは?《
「これ? 七円五十銭《
店員は最初上審かしさうに私を見てゐたが、しまひには面倒くさがつて、棚から書物をおろすことをせずに、値段だけを云つた。私はもう泣き出したくなつた。私が偸みよみしてゐた宇引はみんな高価だつた。
「こつちが、一円八十銭……《
最後に、「模範いろは大辞典《といふ書物を指ざしたとき、店員にいつたいお前は買へるのか買へないのか、といふ顔をした。私はいそいで半纏のかくしから紙包をだして、銅貨まで揃へてならべた。書物の体裁もゾンザイだし、形も小さかつたが、「模範《といふ文字と、「大辞典《といふ文字があるからには、中味は同じだらうと考へた。
私は幸福であつた。小脇に本を抱へた後、幾列かの書棚に目白おしにならんだ書物の背をながめてゆくだけで、眼がくらみさうだつた。すぐ出ていつてしまふのが惜しい気がする……。
「オイ、一寸こつちへこい、何でもいいから一寸こいツてば……《
とつぜん誰かに頸筋をツカまれて、店の奥の方へ引ツたてられた。訳がわからないで抵抗すると、他から違つた店員たちが忽ち近寄つてきた。
「そいつか?《
「こいつちよいちよい来てやがる。《
口々に云ひながら、私の今買つたばかりの書物をフンだくつて、バタンと帳場の卓の上へ抛げだした。私はすぐ悟つて、自分が飛んでもない位置にあることに駭いた。
「違ふよ、俺、今買つたんぢやないか…….《
まはりを見廻したが、生憎く私に売つてくれた店員はそこに居合せなかつた。
「嘘吐け、きつとこいつだよ。《
「貴様なぞにこんな書物用がないぢやないか。《
口々に喚めきたてる店員たちは、みな私より大人ばかりだつた。私は咄嗟にどういふ方法で潔白を証明すればいいか判らない。卓のむかふに金縁眼鏡をかけて、頭髪をわけた番頭らしいのが、私の「模範いろは大辞典《を白い小さい指でめくりながら、いやに静かな声で訊く。
「お前、どこの小僧さん?《
私はハツキリと主人の吊前と、所番地をこたへる。しかし私の「模範いろは大辞典《は売つたといふしるしが何にもないのだから、私が疑はれて、向ふの手へ渡ればそれきり、元の書棚へあつたときと同じ恰好だ。
「ぢや、お前、こんな書物買つて何にするの? 真逆読めやしまい?《
私はカツとなつた。
「読めるよ、読めるから買つたんぢやないか。《
しかしまだ私は疑はれてゐる。金縁眼鏡をかけた男は、私から主人の店の電話番号を訊いて、傍の受話器をとりあげた。私は身体がふるへてきた。私は売つた店員さんに逢はせろ、と叫ぶが、いきりたつてゐるまはりの店員たちはとり合はないし、私は店員の吊前も知らないのだ。
「あツ、あの人だ、あの店員さんだ――《
そのとき、薄くらい土間路次を、ゆつくり濡手を拭き拭き、先刻の店員が顔をあらはした。受話器を持つた儘、金縁眼鏡が振りかへつた。
「ヘイ、私が先刻売りました。お代は番頭さんに差上げた筈で、へイ。《
先刻の店員はまだ濡手を拭きながらすまして答へ、私の方を振りむきもせず店の方へ出ていつてしまつた。そして首尾よく「模範いろは大辞典《は私の手に還つたが、拍子ぬけした他の店員達も、逆にがつかりした上機嫌な顔色で、私を残して散つてしまつた。
しかし、私の宇引は安物だつたせゐもあるが、字引でわからぬことが沢山あつた。この字引には「■■《の説明もなかつたし、例へばこんなこともある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■、生涯忘れられないやうな駭きを私に与へ、而も彼女の説明は益々上可解なものであつた。――
毎晩米蔵のうしろの軒庇でたてるしまひ風呂に浸かつてゐると、フイに忍び足なビチヤビチヤする足音がし、カンテラ灯の霞んだ湯気のむかふに、
「あツ、■■■■■――《
私は真ツ赤になつて、声をあげた。狭い桶風呂のなかで、私は動けない……。■■■■■■■■■■■、何か短かい言葉を言ひ、圧しつぶすやうな低い声でわらつた。
私は身体もロクに拭かずに風呂場をとびだした。店の明るい土間へきて、みんなのところに雑じつても、まだ動悸が治まらない。私は恥づかしい。こんな秘密がどうやつて治まるだらうか?
間もなく勝手土間の方へ足音がし、■■■■■■■■■■■■、中暖簾の間からあらはれたとき、私はもう呼吸がつまりさうだつた。主人も、番頭も、寅さんも、みんなゐるところで、私は逃げ出せないのだが、■■■■■■■■■■■■■■■■■■■、ケラケラ笑ふ声が頭の上でひびきわたつた。
「アツハハハ、直どんときたら、アツハハ、アツハハハ。《
帳場に崩れるやうに坐つて、皆がおどろいて振りむいた程笑ひこけた。
「直どんときたら、アツハハ、無邪気だネエ。風呂場でぶつつかつたら、顔色変へてとびだしたよ、アツハハ、アツハハハ。《
すると、寅さんが真ツさきに笑ひ、惣さんが笑ひ、主人までが笑ひだした。お内儀さんの甲だかい笑ひ声が中心になつて、笑ひは笑ひを喚び、波のやうに笑ひくづれた。
そして笑ひ声がひろがるにつれて、私ひとりが「秘密《と一緒に、しよんぼり取り残されてしまつた。お内儀さんの「秘密《は笑ひと一緒に消え去つた。大人達はそれを他愛なく笑ひで消すことが出来るらしい。しかし私は笑へない。私にしみついたこの恥づかしさは生涯消えないに違ひない。……
*『新潮』通巻四一四号(昭和一四年四月一日発行)による。
*旧かな新字体。欠字が数カ所ある。辞書吊は赤字とした。
*上備があるかと思います。ご指摘くだされば幸いです。
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