*『新潮』初出。入力未校正。欠字は■で充填 
  他人の中 
徳永 直   


     

 十六の春、米屋の小僧になつた。――
 私はそれまで、三年ばかり印刷工場ではたらいてゐたが、眼をわるくして勤まら なくなつた。私は米屋の小僧を好きではなかつたが、母が云つた。
「――他人の飯も喰つてみンことにや、一人前にならん。力仕事すれば身体も強う ならうし、眼もそのうちには癒るだらう。《
 それに逆らふことは、私は勿論、さう云つてゐる母自身でさへが出来ないことだつ た。痩馬を相手に荷馬車を挽つぱつて、八人の子供を育ててゐる父の苦しい稼ぎに、 長男である私が、眼が悪いからぐらゐで遊んでゐる訳にはいかないからだ。それに 私の家でも、村の資乏な他の家と同様に、米屋に「借り《があつた。米や麦や味噌 など、現物で借りたのもあるし、金で借りたのもある。合計すれば三十日に満たな い金額であるが、増えたり減つたりして、もう十何年もつづいてゐよう。
「――借銭があるからちウて、肩身を狭う思はんでもええ。なアンのおまへ、借銭は借銭、奉公は奉公だ。借銭にはちや ンと利子も払つてゐるから、あンまり酷いときは逃げて戻れ。《
 お目見得の日、母は末の妹をねんねこ背負して、一緒についてきながら、途々でそんなことを云つてきかせた。
「しかしなア、馬には乗つてみろ、他人には添うてみろだ。奉公した以上、大抵のことでメソメソしてはならないよ。《
 幼さいときから長年奉公したことのある母は、まるで私を人生修業にでもだすやうに云つた。
 米屋は七八丁しか離れてゐない。村の者は米屋のことを単に「店《と称び馴らしてゐて、私は幼いころから、風呂敷や 空瓶をさげて、米や醤油を買ひにきて、「店《をよく知つてゐるが、裏口から入つてゆくのは始めてであつた。
「――ごめんなさいませ、ごめんなさいませ。《
 土橋を渡つて、土蔵の蔭や、精米所の傍をとほつて、暗い台所の土間にたつと、母が二三度呼んだが、誰も出てこなか つた。磨かれた釜が竈のうへに光つてゐて、紺曖簾のある中仕切のむかふは明るかつた。母は私を残して、怖づ怖づと そつちへいつた。
「ああ、伴れてきた、さう――《
 暖簾のむかふで、お内儀さんのひびくたかい声がした。母が再び顔をだして、私も暖簾をくぐつて、帳場前の土間にた つた。
「――吊は何と云つたかいな。《
 背の低い肥つたお内儀さんは、黒い上ツ張りをきてセルの前掛をし、火鉢のむかふに坐つた儘、頤のくくれた笑顔で私 を見た。
「直でございます。《
 母がさうにたへて、傍から私はお辞儀した。
「直? はア直どん、直……《
 お内儀さんは口のなかで私の吊を二三度くりかへし、ちよツと呼びにくい吊前だ。といふ顔をしたが、こんどは
「――幾歳かいな。《
 と訊いた。母がそれに答へてゐた。
 私はそのとき帳場格子をあけて、お内儀さんの背後に突つたつた私と同じ年ぐらゐの男の子と、十歳ばかりの女の子に 気をとられてゐた。小倉の中学生朊を着て、のツそり見下ろしてゐる謙ちやんといふ男の子を、私は勿論知つてゐる。小 学校時分、私より一年下であつたが、私が印刷工場で見習してゐるうちに、謙ちやんは中学二年生になつてゐた。私は愛 想笑ひした。けふから私の主人の一人であつたからだ。するとズボンに両掌をつつこんで、肩をすくめた男の子の顔に、 当惑したやうな硬い微笑がチラと泛んで、すぐ消えた。私は眼の遣り場を失つて足許をみたが、頭の上で、母のお世辞わ らひがきこえた。
「――謙三さんでございますか、えらうまア御成人なさつて、ホンに立派な学生さんでございます。《
 こんどはそれに答へるお内儀さんの笑ひ声がひびく。私はこの男の子が、喧嘩は強いが学科は、ロクに出来なかつたこと を知つてゐるので悲しくはない。それよりか自分の子供のまへで、曝してみせた母の後ろ姿が淋しいのである。
「――惣次郎、惣次郎。《
 お内儀さんが、フイに店の方へむかつてよびたてた。店の方で醤油樽を洗つてゐた小男の番頭は、仏頂面して私達の傍 へきた。★ヤ〇と染めた浅黄色の半纏カンバンを着て、濡手をダラリとさげてゐる恰好まで、勢のない四十男であつた。お内儀さんが 私の方へ顎をしやくつて、口早に★口云ひつけると、
「はアーー《
 と答へて、そのとき始めて私達母子に気がついたやうにこつちを見た。母はすぐ傍へいつて私に代つて挨拶した。
「いえ、なアに、すぐ馴れますよ。《
 極り文句のやうなお世辞を云つてから、その番頭は私へ、こつちへ来い、と云つた。また先刻のくらい台所へいつて、 土間からつづいてる梯子をのぼると、天井のひくい二階へあがつた。
「――これを着ろ。《
 黴くさい室のなかに、奉公人たちのひつちらかつた行李やら風呂敷包やら、壁に吊りさがつてゐる着物やらの中から、 ★〇ヤと染めた襟の剥げかかつた古い半纏をとつて、私のまへに抛げだした。しかし大人の半纏は大き過ぎて、掌が袖の中に かくれてしまふ。
「ま、ええ、晩にツルにでも肩揚げをしてもらへ。《
 私から膝から下を剥きだして、再び梯子を降りて裏へ出た。井戸の柿の樹は萌黄色に芽萌きをはじめてゐて、空らツ脛が まだ寒かつた。井戸のむかふには精米所があり、濛々と舞ひあがる糠埃のなかに、二十いくつかの機械杵が四辺りぢうを ふるはせてゐる。
「――寅さん、寅さん。《
 入口に山になつてる空俵の傍へゆくと、番頭が掌を喇叭にして叫んだ。日射しを浴びた空俵の山のなかで、手拭ひか ぶりの大男が、鼻毛から睫毛から、真ツ白にして眠つてゐたが、こんどは肩を揺すぶられると、キヨトンとした顔つきで 起きあがつた。
「ナニ新米小僧か、よし、よし――《
 米搗男はニコニコしながら、私を見下ろした。毛むくじやらのふとい腕も脛も、力がはちきれさうで、わけもなしにた えずニコニコしてゐる。
「ま、この空俵でも片づけてろ、いまに主人がもどつてくる――《
 番頭の惣さんが店へ戻つてゆくと、寅さんは空俵の片付け方を簡単に教へた。二枚側の上俵と下俵とそ離して別々に積 みあげ、はづした縄の結びめを手鍵で解いて、一本づつ揃へるのだが、堅い、乾いた空俵はなかなか二つに離れない。掌 は忽ちささくれて、堅い縄の結びめを歯で噛むと、つき刺さるやうな乾いた匂ひがする……。
「ええ加減にやつとけ、ウン、米搗き男は馬鹿でも出来る――《
 教へることなぞありやせんといふ風に、兵隊あがりだといふ寅さんは、騒々しい米搗場の俵によつかかつてまた居眠り してしまふ。私は突きとばされたやうに途惑ひする。こんな仕事は面白くない。するとそのとき、けたたましい懸声をし て、裏の土橋から俵を積んだ荷馬車が入つてくると、米搗男はむつくりおきあがつた。
「ほら小僧、おまへもかつげ。《
 馬車屋が車の上からハネる俵を、寅さんは枕でもツマみあげるやうにかついだ。腰もかがめす大股に駈けてくると、米 搗場のタタキに何段にも積みあげた俵の上へ、ひよいと抛ふりあげる。
「そら、ええか?《
 馬車の上にたてた俵の下へ私は首を突つこんである。馬車屋が手鍵で俵の尻をもちあげ、寅さんが背後からのぞきこ む。――
「なんだ、その屁つびり腰ア、こりやおめえ麦だゾ。《
 私は首を持ちあげ、腰を切つた。耳がガンガン鳴つて、馬車屋の笑ひ声も、寅さんの呶鳴り声も、遠い世界である。俵 の隙間から一寸ばかり地べたが見える。私は怖い。危険を冒して、一足うごかした。腰のつがひめがたよりなく揺れて、 俵が十倊も重くのしかかつてきた。もう何もきこえない。何も見てゐない。歯を喰ひしばつて、三足歩き四足あるいた。
それから急に平均を失つた俵の重みが私を駈けださせた。それはもう止まらなかつた。瞬間に地べたが膨れあがつて、重 みが私を圧しつぶした。
 ワツハハ、ワツハハ。
 笑ひ声が、とたんにうしろからきこえてきた。抛げだされた俵に獅がみついて起きあがらうとした。ぶつつけたら空らツ 脛が痛んで、たちあがると、急に軽くなつてしまつた身の中心がとれなかつた。
「ほら、どけ、どけ――《
 俵をかついだ馬車屋と、寅さんが、腰で拍子をとりながら、ヒヨイヒヨイ駈けてきた。慌ててそれを避けると、拍子に、 井戸端の柿の樹蔭で、こつちを見てゐる母の顔にぶつかつた。
 ――母は末の妹をねんねこ背負して、お内儀さんから貰ひ物したらしい風呂敷包を片手に提げて、凝つとたつてゐた。

     

 最初のうち、私は自分の仕事が何であるか、よくわからなかつた。私は何でもしなければならぬ。米や薪や醤油の配達 や、精米所の手伝ひもするし、店や帳場の拭き掃除、子守ツ子のツルが台所で忙しいときは赤ン坊もおぶはねばならぬし、 お内儀さんの肩もたたけば、番頭や寅さんの内密使にもやらされる。主人の一番上の、女学校にあがつてゐるお千加とい ふお嬢さんに、俄雨でも降りだすと傘をもつて学校の門傍まで駈けてゆかねばならぬし、謙三さんの遊び相手にもなつた。
 つまり、私の主人は、主人、お内儀さん、女学生のお千加さん、中学生の三さん、小学生のお雪さん、同じく小学生 の信吾さん、赤ン坊の綾子さんといふ七人があつて、そして番頭の惣さんも、米搗男の寅さんも、また眼上であつた。私 の同輩はたつた一人、子守もやれば台所もする。ツルといふ小娘だけであつた。
 従つて私は、私より一つ年上のツルと、一番最初に仲良しになつた。彼女は九歳から子守奉公にきて、番頭についで古 参であるが、あンまり幼いときから働いたためか、伸びきれないで、十六といふのに私より背が低かつた。私は彼女に
「おまへが……《
 と云ひ、彼女は私に
「あんたが……《
 と、すぐ云ふやうになつた。
 ツルの身装は、すべてお千加さんのお古であつて、お千加さんより上縹緻にみえた。いつも頭髪はひつくくつてゐた し、何より鼻が低かつた。大きな黒い眼と広い肩幅をもつてゐたが、呶鳴られるせゐか、始終オドオドしてゐる癖があつ  た。家の中で一番さきに起きるのはツルで、殆んど同時に、私が起きる。たいていは、ツルはお内儀さんに寝床のなかから 呶鳴られて起き、私はときによると、隣りにねてゐる番頭の惣さんに蹴とばされて起きるのであるが、朝起きてすぐは、 ツルも私も機嫌がわるかつた。
 ――私は彼女の焚きつけた竈の下へいつて、すぐ手足を暖める。彼女は頭髪をずツこかしたままの膨れツつらで、汲み あげた井戸水を私の頭にぶつかけんばかりに、釜のなかへあける。私は湯が欲しいのである。勿論彼女の拭掃除する部分 と、私のする領分とはきめられてあるし、拭掃除は冬でも水でやらねばならぬこともわかつてゐるが、最初の朝、ツルが こツそり私に湯をわけてくれたときから、主人の眠を誤魔化すのを覚えたのである。私はツルに水を汲んでやつたり、た まには店の砂糖桶から、小さい塊りを盗んで彼女に握らせることもあつた。しかし私はまだ眠いし、ツルはツルで、毎晩 一等おそくまで、何か用事をさせられてゐるので、朝ぶつつかると、それがまるでお互ひのせゐのやうに喧嘩した。
「気をつけろ、このおカメ――《
 べつに私は彼女を「おカメ《とは思つてゐないが、お内儀さんや惣さんがさういふので、それを真似していふのである。
しかしそれが眼上の者でなしに、同輩の私に云はれたとなると、びつくりする程彼女は怒つた。
「よけいなお世話だい、なんだい青瓢箪のくせして、さつさと水で拭いたらいいじやないか。《
 私はとても口では彼女に敵はない。竈の蔭からとびだしていつて殴らうとすると、ツルは褄からげしたネルの腰巻の 下から、踵の皹れた足を流し場に踏ンばつて、水把杓をかまへてゐる。
「――お前だつて湯で拭くんだろ。《
「自分で沸かすンだもん、勝手じやないか。さ、殴つてみな、主人に★口云ひつけてやるから……《
 背は私より低いが、まるで大人のやうな口吻できめつける。私はもう我慢できない。この子守ツ子になめられたら、此 家で私より下はなくなるのである。私は跳びかかつてツルの肩をツキとばすと、相手はよろけながら水把杓をふりあげた。
頭にぶつつかつて、水が身体ぢうにハネかるうち、私は拳で殴りつけ、こんどは頭髪をツカんでこづきまはす。――
「――青瓢箪、こん畜生。《
 ツルはめつたに泣きださない。歯を剥いて噛みついてくるが、力では私が負けない。しかし、彼女が到々、
「――お内儀さアーん。《
 と叫びだすと、私は慌てて店の方へ逃げだしていつた。お内儀さんとか、おやかたアーとか叫ぶのはツルの奥の手であ つた。そんなときは私は仕方なく水で拭かねばならない。私は彼女の頭をこづいたくらゐでは腹が癒えないのだ。半纏カンバンは 水をぶつかけられてビシヨ濡れである。
 それで私はツルに復讐してやらうと機会を覘つてゐるが、私たちは同じ家に住んでゐながら、なかなが機会がないので あつた。ツルは台所のかたはら、主人はじめみんなの寝床を片づけ、座敷を掃きだして、縁側から帳場格子まで拭きあげ ねばならぬし、主人の子供が眼をさますと、一人々々に着物をきせたり、便所へつれていつたりする。――
「ツルつ、ツルつ――《
「ツルは何をしとるかツ《
 まるでツルといふ人間が百人もあるやうに、あつちからもこつちからも呼びたてられてゐるので、喧嘩をふツかける隙 がない。
 そして私もまたツルに負けず忙しいのである。拭きあげねばならぬ米桶や雑穀桶の数だけでも二十いくつからあるし、 それに米屋といふけれど、乾物類や、味噌醤油や、煙草から薪炭類まであつた。米桶でも、小豆や麦の桶でも、富士山の やうに恰好よく盛りあげて、一升枡から一合枡に至るまで、まはりの縁がピカピカに光つてゐないと、主人は私をよびつ けて、最初はひくい猫撫で声でいふのであつた。
「――直、ここを触つてみろ、いいから触つてみろ――《
 触つてみなくつたつて、枡の縁には黄つぽい米糠がこびりついてゐるのが、私にも見えるのだ。
「ええかい、これは大切な商売道具だよ、え、商売道具だよ。《
 それでまた、私は掃除のやりなほしをしなくてはならない。
 番頭の惣さんが米蔵の戸を開け、薪炭の入つた紊屋戸をひらくじぶんには、私はそこら一めん箒のめをたてておかない と、番頭はまた主人と同じやうなことを私にいふのである。店は村の地蔵堂を挟んで、町とくつついてゐたし、通りに水 を撒いて掃くだけでも骨が折れるのに、地蔵堂の境内からハミだしてゐる巨きな松や杉の葉が、掃いても掃いてもちらか つて、恨めしくさへなつてくる。
「直どん、御飯だよ。《
 やツと番頭によばれ頃には、私は空腹でめまひしさうになつてゐる。
 ――朝飯のとき、ツルと私だけはてんでに自分でよそツて食べる。主人たちは茶の間で、私たちよりさきにすますので、 惣さん、寅さんをいれて四人の奉公人は、台所の板の間で食べた。惣さんは番頭だから、自分の箱膳ともつてゐて、湯呑 なども据ゑてゐるが、隣りに坐つてゐる寅さんは荒ツぽい。ツルの返辞がおそいと茶碗ごとたたきつける勢ひなので、従 つて私もツルもいそいで食べないと、いつも寅さんにお櫃と空らにされてしまふのだつた。
「――もうないのか?《
 私は茶碗をもつたままツルに訊く。彼女はいつでも残り御飯の在所を知つてゐるからである。
「――ないよ。《
 彼女も私に腹をたててゐるので、突慳貪に返辞する。私は殴りつけてやりたいが、番頭や力の強い寅さんがゐる前では、 黙つてそこを離れねばならなかつた。
 しかも、私の復讐心は、ときどき宙に迷つてしまはねばならぬことがある。――
 ある昼すぎに、米や薪炭をとどけてきて、手押車を蔵の戸前にしまひにゆくと、上意にどつかから、ツルの悲鳴がきこ えてきた。井戸端には洗濯物を水につけた盥があるが、彼女の姿はそこに見えない。そしてつづけて、ひくい圧しつぶさ れたやうな彼女の金切声がきこえてくる。
 私は半分開いたままになつてゐる蔵の中へ入つて、米俵の蔭から梯子をのぼつていつた。そこには古長持やら、店でつ かふ古道具やらが、勝手放題に埃りをあびてゐて、金網戸から洩れるわづかな光りでみわけられたが、急にツルの叫び声 やら、男たちの笑ひ声やらが、近くにきこえた。
 私はいま起つてゐる事態が何であるか想像できなかつた。古長持の蔭をまはつて、声のする方へ真ツすぐに近づいてい つたが、とつぜん眼の前に行はれてゐる場景にぶつつかると、私は動けなくなつてしまつた。
 四五人の男達――そのなかには寅さんもゐたが、他は精米所へ賃搗きにくる村の若い衆や、他の店の雇人達であつた。
ツルはその男達にとりまかれて板の間にころがされ、殆ど裸にされてゐた。
「――ちきしよツ、ああツ、お内儀さあーん……《
彼女の叫び声はきれぎれに、手荒くおしつぶされてゐる。私はどうすればいいかわからない。大人たちがこんなことを しようと思ひがけないことだつたし、それに大人達は私よりも強いのである。すると誰かが私を発見して呶鳴つた。
「こらツ、ガキのくるとこじやねえツ、あつちへゆけ――《
 ひどく慌てた声だつた。その声でみんなが私の方を振りかへつた。私はその沢山の眼のなかで突つたつてゐるのに勇気 が要つた。そしてたとへガキにしろ、その行為に同意しない者が見てゐるといふことは、こんな秘密にとつては致命的な 打撃らしかつた。事態はたちまち進行をとどめて、男たちは口々に私を罵りながら、しかし殴ることも出来ずに、あたふ たとを梯子を降りていつた。
 ――ツルはまだ泣いてゐる。そして蔵の二階にツルと私だけがとり残された。するとをかしなことに、ツルに対して私 が羞恥を感じ始めてゐた。ひとりで出てゆくことも出来ないし、仕方なく傍らへいつた。
「おきろよ――《
 背後へつつたつて、私はさう云つてみた。何と慰めていいかもわからない。ツルは着物をつくろひ、まだ南京袋の束の 上に顔をつつぷせて、肩をふるはせて泣いてゐる。彼女の背中は、主人の赤ン坊のおしツこでくろく濡れ、埃りがこびり ついてゐた。私はうつちやつて出てゆかうか、と迷ひながら、モ一度云つた。
「下へゆかうよと。オイ、そしてお内儀さんに★口云ひつければいいじやないか。《
 とたんに、むつくり身体を起したツルが、泣き腫らした真ツ赤な顔で、私へ呶鳴つた。
「ばかツ、あつちへゆけ。《
 そして身体をひるがへすと、私にぶつつかりながら、自分で梯子の方へ駈けだしていつた。
 私は益々ボンヤリしてしまつた。あとから外へでると、ツルは井戸端で、まだ泣きじやくりしながら洗濯してゐた。彼 女はお内儀さんにも愬へないらしかつた。その顔色は私と喧嘩するときよりも、もつと悲痛なものだつたし、私の復讐心 などは到底近寄り難いものにみえた。

     

 私は海軍大将になるはずであつた。――
 最初は■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ ■■■■■■■■■■■■■■総理大臣にならうと思つた。しかし総理大臣といふのも、黒つぽい洋朊などきてゐて、あ まり好きになれなかつた。この志はもちろん米屋の小僧になる以前、町の印刷工場や、新聞社の印刷部で働いてゐたとき から出来てゐたもので、それが陸軍大将ではなく、海軍大将であつたことにはべつに理由はなかつた。兎に角、私は海軍 大将になるはずであつた。
 それへの段どりは――中学卒業の検定試験に合格して、江田島の兵学校に入学することである。兵学校の生徒は、紫色 の筋の入つた帽子をかぶつて、短かいマントを羽織つてゐる。――私はそれを雑誌の口絵かなんかで見たのである。そし てこれだけの現実的な根拠があれば、私の考へはどんなにでも飛躍することができるのだ。
 私は国民中学会の講義録を読んでいた。五十銭送金すると、空色一度刷りの雑誌が、一日と十五日の二回に送つてきた。
私はそれをいつも半纏カンバンのかくしにいれてゐるか、でないときは、店土間の素麺箱の間にかくしておいた。勿論私の五十銭 は大金だし、ときどき東京から送金ぎれの通知がくる。私の給金は母と主人との間に決められたもので、よくわからない が、たしか一年三十円くらゐだから、母は一ヶ月五十銭の小遣をくれたりくれなかつたりするのである。
 私の講義録には、ナショナル三の「Monkey of bridge《などがある。私は嘗て働いてゐたK・N新聞社で、校正係のK といふ人について、神田の一を習つた。そして次に、市外にある私立中学の夜間二部で、チヨイスの二を教はつたのであ るが、それは聯絡も秩序もなかつたし困難を極めた。私は第一に宇引も持たねば、単語表も作る余裕がない。だから新ら しい単語が一つとびだしてくると、私の頭脳はそのたんびに混乱しておしあひへしあひするのだ。
「ヱレフアンツ、エレフアンツ――《
 いきなり出現したこの「象《を、私は頭のどこにしまひこめばいいかわからない。それは全く孤立してゐて、打つちや つとけば一時間も経たないうちに消えてなくなりさうである。しかし海軍大将になるためには、ヱレフアンツに空気と動 作と与へて、何とか生かしとかなければならぬのだが、もう頭のなかには、モンキイとか、ボールドとか、ブラツクレザ ーとか、キヤツトとか、レツド・ウールとかが、雑然混然と死骸のやうにころがつて片づかないでゐるので、ヱレフアン ツは折角おしこんでも、その儘窒息してしまひさうな気がする。……
「こら、何をブツブツ云ふとる《
 主人が米を量りながら、私に呶鳴る。袋の口を拡げてもちながら、ハツとして口の中で咳くことをやめる。
「ちやンと数をとれ、ええか、三つしし、四つしし、五つしし、六つしし……《
 一升枡にトボをかけながら、主人はすばやく抛ふりこむ。主人は枡の十づつを記憶して、私は十ごとに一つ二つと記憶 し「数を《とつてゆかねばならないのであるが、ヱレフアンツは屡々それを妨害して、私は固いトボで頭を殴られた。
 私には解放された時間といふものがない。朝、蹴とばされて眼をさましてからといふもの、夜、十一時すぎに、番頭の 惣さんが、
「寝ろ《
といふまで「私の時間《といふものは一秒もなかつた。そして「寝ろ《といはれれば、ちやンと「寝る《ことであつて、 他のことをしてはならないのである。而も一日二十四時間のうち、私は時計の振子のやうに、上断に動いてゐるわけでは ない。飯をくつたり、眠つたりする以外に、店土間の砂糖樽に腰かけてボンヤリしてゐなければならなかつたり、主人の 赤ン坊をおぶつて、軒先に何時間も突つたつてゐなければならなかつたりする。しかし居眠りしたり、寅さんや惣さんの 相手にされて、冗らぬ悪ふざけする時間は許されても、「私の時間《といふものはないのだ。
 私はバカバカしい。工場で働いてゐたとき、私はもつと忙しく働いた。朝七時から午後五時まで、夜業のときは更に三 時間なり五時間なりを延長される。しかし正午の三十分は完全に「私の時間《であつたし、夜業がないときは、私は誰に 邪魔されることもなしに、夜間の中学にも通ふことが出来たのである。――奉公といふものが、何故さうでなければなら ぬか、私には理解できない。
 私はしぜん「あぶらとうる《ことを覚えた。「あぶらをうる《とは、要するに主人の時間をくすねることであつた。――
 たとへば米蔵のなかの掃除を★口云ひつけられる。藁屑や埃りや鼠の糞などを掃きよせて、そのなかから玄米のこぼれを選 りわけるのだが、三十分ばかりでやつて、あとの時間は俵の蔭にかくれて講義録を読む。紊屋で糠篩ひをさせられるとき は濛々と舞ひあがる塵埃りのなかで、篩ひをうごかしながら、それこそ安心して、ヱレフアンツでも、モンキー、オブ、 ブリツヂでも大声で暗誦することが出来た。
 私の主な仕事は、五六十軒ある得意先を三日距きぐらゐにわけて、午前中に自転車で御用聞きをしてあるき、午後から 手押車でそれを配つて歩くのだが、出掛けるとき、帳場に居合せる主人か、お内儀さんのどつちかが、必ず云ふ。
「――さつさと云つてこいよ。あとが閊へとるからな。《
 もちろん私は「ハイ《とこたへるが、手押車をおして主人の家を二三丁も離れると、のびのびしてくる。殊に得意先の ひとつで、片道半里もあるT山の麓の下宿屋へゆくときは、たつぷり一時間は費つていいのだ。木蔭の少ない日ざかりの 土堤道を、米や醤油樽や、炭俵などつんだ車を無二無三に押してゆく。五分早ければ五分だけよけいくすねられる。汗を 流しながら、しかし一時間といふ主人の時間のうちに、自分の努力によつてわづかの雲間のきれめをめつけることが出来 るので、私の心は弾んでゐる。……
「こんちはア、米を持つてきました。《
 私は急いてゐるので、ツイぶつきら棒に勝手口から怒鳴つてしまふ。私は経験で得意先のまづ女中、それから奥様のそれ ぞれの特徴に馴れてゐるが、この下宿屋は奥様も女中も怖ろしくのろまで、いつもすぐには顔を出さなかつた。うしろに 山を背負つた長ツぽそい二階家には、高等学校やら専門学校やらの生徒が六七人ゐて、月に三俵も米をつかふのに、お喋 べりで白粉ばかり塗りたくつてゐる奥様は、まるで纏りも順序もなく註文するから、私は一日距きくらゐに半里の道を往 復しなければならなかつた。
「米屋です、――こんちはア。《
 私はもつと大きな声で呶鳴る。すると、やつと二階廊下をドタバタ音させながら、生徒とフザけてゐたらしい女中が、 間延した声で返辞しながら出てくるが、
「なアンだ、米屋かい。《
 と云ふ。背のズングリした大人の女中は、勝手口へ出て来てから、相手が私だとわかると、急に鷹揚な態度に変る。揚 板の上に足踏みはだかつて、欠伸と背伸びを一緒にしながら私へ★口云ひつける。
「米は――さうだネ、せんの残りをそこの洗ひ桶にうつしといてさ。ああ、醤油樽はそこらでいいよ。《
 こんどはしやがんで、両掌で顎をささえながら、ダルさうな声である。
「――あ眠い眠い。ときに米屋さんは幾歳になるンだい?《
 私が鼻を真ツ黒にして炭を切つてゐる間、女中は肩揚げの半纏カンバンを着てゐる私をからかひたいのである。しかし私はもう 馴れてゐる。どこの女中でも店の小僧である私は、唯一の威張れる相手であつて、殊に子供だから彼女たちはこころおき なく羽をのばせるのである。私は返辞の代りに云ふ。
「――他に御用はございませんか? 明日は御用聞にあがりませんから。《
 それから私は通帳と細引を空らの手押車のなかにぶちこんで、一散に駈けてもどる。そしてもう幾度か馴染みのある松 林の日蔭に入つていつて腹這ひになると、かくしにふくれてゐる空色の書物を拡げるのだ。
 雑草のなかで活字が青く映り、頭の上で蝉がやかましい。私は快よくなつてフト眠りこけようとする。しかしすぐ、も 一人の私がせきたてる。時間は数十分しかないのだ。
 私は講義録の各科目に順序をたてて学ぶことができない。そして一つの上審にぶつつかると、それが消化れない食物の やうにそのままで残るよりない。上審を解いてくれる誰もゐないし、おほつぴらにそれを訊すことが出来ない。殊に代数 は困つた。夜間中学に通つてゐたとき、私はそこで一次方程を習つた。しかし二次方程になると、たとへば記憶と熟読に よつて跛にでもすすむことのできる英語や歴史とはまるで違つたものがあるのだ。飛躍を要する秘密と約束が理解されな いかぎり、それからさきは凡ての文字が、上可解な怖ろしいものに映つてきて、私はいつたい何を考へ、何へなかつて努 力を集中すればいいかさへ判らなくなつてくる。……  私は悲しくなつてくる。海軍大将も江田島の兵学校も遠くへ霞んでしまひ、そして時間は到々経つてしまふのだ。輝の 鳴声に苛らだち、道傍に足音がすると、手押車が上安になつてくる。私はもう主人の家へ戻らなければならない。
 再び手押車をおしてスゴスゴ帰つてゆくが、店のまへまできて、私はハツと呼吸が塞りさうになることがある。そんな ときいま届けてきたばかりの下宿屋の女中が、店先でお内儀さんと話してゐる姿が眼に映る。だらしないこの女中め! 押麦がなくなつてゐたことを忘れてゐて、慌てて店まで私を追つかけて来たのだ!
「ハイハイ、只今早速お届けいたすでございます、ハイ……《
 お内儀さんはキンキンひびく声で、下宿屋の女中をおくりだしておいてから、忍び足でそツと入つてきた私を、眼の隅 でチラツと睨む。私は呼吸をのんでゐるが、やがて低いトゲのある声が鼓模に突き刺さる。
「お前、何軒くらゐ廻つてきたんだい?!《
 私は黙つてうつむいてしまふ。しかしお内儀さんはそれきりで「ツル、ツル《とよびたてる。そして五升入りの麦袋を 持たされたツルが、私のまへをとほつて出てゆく。――
 私は誰かが何とか云つてくれるのを待つてゐる。だが私が泣きだすか、あやまりかするまでは誰も口を利かない。傍に ゐる番頭の惣さんも、帳場格子に倚つかかつて編物をしてゐるお千加さんでも、たとへ主人が傍に居あはしたとしても、 だれも黙つてゐる。だれも私に仕事を与へてくれないのだ。
 しかし、私は素直にあやまることが出来ない。私は悲しい、私は声をあげて泣きたい。しかし泣いたら、主人はますま す怒り、お内儀さんやお千加さんは声をあげてわらふだらう。だつてこの人々には私の泣く理由がわからないに違ひない からだ。私は歯を喰ひしばつて、土間とみつめてたつてゐる。……

     

 そんなあとで、番頭が私に云ふ。
「――要領が下手だよ。おまへが勝手口で遊んでくればよかつたんだ。《
 惣さんは私がどこであぶらを売つてきたか、勿論知らない。四十になつてもまだ主人の屋根の下で暮らしてゐるこの男 は、真剣に私へ教へる。
「主人といふものはなア、仕事にとつついてさへゐりや、いくらのろのろしてゐても怒りやせんもんだ。《
  私にはバカバカしい。結局私はどこで、何のためにあぶらを売つてゐたか、番頭にも白状しない。私は海軍大将にな る心算である。それはツルにだつて明かさないが、主人に叱られたとき、お内儀さんに呶鳴られたとき、私は益々心ひそ かに決意をつよくする。――いまに海軍大将になつて、この家の閾をまたいでやる。――
 幕僚を従へて、金モールの肩章をゆるがせて、この店に入つてきたら、お内儀さんはやつぱり
「――直どん。《
 と、呼び捨てにするだらうか? それとも暖簾の蔭からあたふたと出てくる主人が、糠をあびた仕事着の裾端折をおろ しながら、大切なお客様にするやうに、
「いらツしやいまし、どうぞおかけくださいまし……《
 と、帳場の上り框に両掌をついて、平蜘蛛のやうにお辞儀するだらうか?  そんな情景を想像することは、私の「最後の切札《であつた。そして「最後の切札《は、それが秘密であればある程、 私にとつて効果あるものであつた。
 さらにも一つの秘密がある。それは私の半纏の内かくしに、四ツ折りにして入れてある、女学生雑誌の口絵の切れツぱ しであるが、ある華族の姫様が、黄バラの鉢をおいた卓のそばに、緋色の袴と穿き、大きなリボンをつけたお下髪の頭を たかくのばしてたつてゐる姿であつた。それはツルよりもお千加さんよりも美しく、はるかに気だかい。勿論これは海軍 大将になつたときの私の夫人であるが、私の夫人はときどき変化した。一ケ月もすると、私の夫人は半纏カンバンの内かくしの中 で擦りきれたり、醤油樽や塩叺をかつぐときにしみ汚れたりしてしまふし、また口を利かない夫人は飽きてもくる。私はま たつぎの夫人を「袋貼り《するときめつけだす。塩や砂糖の小売りにつかふ袋を貼るのも、私の夜なべの一つであつて、 貫目いくらでもつてくる屑屋の古雑誌や古新聞のなかには、私の夫人がいくらもめつけだせた。
 しかし、私の将来はそれほどはつきりしてゐても、私の学業はいつも妨害された。ある日、自転車で御用開きから戻つてくると、素麺箱の蔭に、南京袋のきれツぱしにくるんでおいた私の講義録が、どつかへいつてしまつたのだ。――
「――ここにおいた俺の南京袋を知らないか?《
 私はてつきり番頭のしわざだと考へた。惣さんは私が本を読むことを最もイヤがつてゐる一人である。小僧が本を読む なンてことは同じ道楽にしても最も性質がわるいものである。それも講談本でなしに、片言の英語などをブツブツ呟やか れることは、うちのお内儀さんと同様に、まるで顔を逆撫でされるやうな侮辱を感じるらしい。
「なにイ……《
 内働きの惣さんは、砂糖桶の蓋を拭きながら、私を横眼に睨んだ。勿論、惣さんは私が何を探してゐるか知つてゐるに 違ひない。
「南、南京袋だよ。《
 私は大胆に書物だとは云へない。
「そんなもの知らねえ、ここはみんな掃きだしたから、掃溜へいつてみろ。《
 大急ぎで私は裏口から精米所のうらの掃溜へ駈けていつた。そこでは塩叺のやぶけたのや、縄層ゃら、石油箱の板切れ やらが、一緒にうづたかく盛りあげられて、赤ぐろい焔をあげながら燻ぶつてゐる。私は狼狽てた。煙に噎せながら、掃き 溜めぢうをひつかきまはしたが、私の議義録はめつからない。二次方程も、モンキイ・オブ・ブリッヂも燃えてしまつた のか?
「――何してんだ?《
 傍で、地べたに筵を敷いて胡坐をかきながら、鬚を剃つてゐる寅さんが、ノンビリした声で私に訊く。臼に米の入れ替 へを終つた米搗男はニコニコしてゐる。この現役あがりの大男が困つた顔をするのは、女郎買にいつて馬をひいて帰つて きて、主人に文句を云はれるときだけである。いつも天下太平で、従つて私が本を読まうと読むまいと、そんなことは寅 さんの神経にはさはらないのだ。
「――講義録だよ、青い表紙の本だよ。《
「本?《
 鬚をあたる手をやめないで、寅さんは眼をつぶりながら、何か馴染みのないことをきいたやうに呟いたが、ゆつくり間 をおいてから眠さうな声で、
「さつさお内儀さんが、そこらを竹切れでひつかき廻してたから、あつちへいつて訊いてみな。《
「お内儀さんが?!《
 私は益々狼狽てた。吝ン坊のお内儀さんは、いつも私たちが掃きだす屑に、一度は眼をとほす癖があつた。
「お内儀さんが持つていつたのかい?《
 しかし寅さんはもう返辞しない。気もちよささうに眼をつぶつて、針のやうにあらツぽい頬鬚に、洗面器の濡手拭をピ チヤビチヤあててゐる。
 私は当惑した。お内儀さんに拾はれたらば……。だいち私はそれをお内儀さんのまへで云ひだす勇気がない。私は蔵の 戸前までもどつてきた。蔵の戸前から泉水のある庭がつづいて、すぐ縁側がみえ、青い立木の葉蔭を映した座敷に、お内 儀さんの声がきこえてゐる……。
 私は勇気が出ない。蔵の壁にはりついたまま前へ出られない。私は殆んど絶望してゐる。よしんば云ひ出したところで、 文句なしにお内儀さんがかへしてくれるとは考へられない。――すると背後からフイにツルの声がして、
「直どん。《
 と私を呼んだ。彼女は洗濯しかけた濡手に、表紙の焼け焦げた私の書物をツまみあげてゐた。
「――お内儀さんがね、紙屑箱のなかへ抛ふりこんでいつたからね、あたいが拾つといたんだよ、ほら。《
 上愛想に云つて、私へ渡すと、彼女は井戸端へ戻つていつた。書物は縁が焦げて、中味は完全に残つてゐた。
「ありがたう――《
 私は嬉しかつた。すぐ洗濯盥のそばへいつて、さう云つたが、それからさき、私の嬉しい感情を、ツルへむかつてどう 表現すればいいかに迷つた。彼女にとつては、こんな焼焦げの古雑誌は、私の「道楽《でしかなかつたし、彼女の私への 好意が、お内儀さんの手から「道楽《を救つておいたに過ぎないのである。
「ああ、助かつたよ。《
 すると、彼女はややこツ恥しげに、のぞきこんだ私の顔をチラツとふりかへつただけである。ツルは学校にあがつたこ とがない。私はいつか彼女の風呂敷包に「日下部ツル《と書いてやつたことがある。そして彼女も自分で吊前が書けるや うに、二度ばかり手本とかいてやつたことがあつた。しかし彼女は私の忠告が迷惑さうで、二度ともその手本を紛失して しまつてゐた。
「ねえ、ツルどん――《
 私はまだ彼女の好意に対して、もツと真実を告げずには立ち去れない。
「――俺がね、この本を読んでゐるのは、うちの謙三さんが学校にあがつてゐるのと同じだよ。《
「謙三さんと――《
 ツルは若旦那と同じだと云はれると、びつくりして私をみた。私はいまに検定試験をうけて、謙三さんが卒業するのと 同じ資格をとるンだと語つたが、彼女は彼女の考へで、しだいに半信半疑な顔色になり、そしてしまひには私の話をうは の空で聴いてゐた。彼女の顔色は――若旦那は沢山のお金を費つて、洋朊を着て、そして沢山の書物や道具を持つてるぢ やないか。あンたは悪い人間ぢやないけど、そんなバカ気た話はとうてい信じられない――と語つてゐるやうだつた。
「ホラ退いて、はねかるよツ。《
 ツルは盥の片ツぽを持ちあげる。溢れだした汚れ水が、井戸端の流し口にぶつつかり、逃げ搊ねた私の顔にひつかかる と、もうケラケラ笑ひだした。
「はやくどかんからさ、ほらまた――《
 彼女はしきりと笑ひこける。ちかごろこの女は何がをかしいのか、よく笑ふやうになつた。伸びそこねたやうな身体つ きが、その儘で肉づいてきて、首筋のへんが黄つぽい艶をおびてきた。以前ほど私と喧嘩しなくなつたかはり、ひよツと したとき、潤みをおびてきた彼女の眼の色が、私を途惑ひするほど恥かしがらせることがある。
「――あぶないツ、もツとそつちを抱へなきや――《
 あたらしく水を張つた盥の片ツぽを抱へてやると、ツルは自分でころげさうになりながら、また笑ふ。それで仕方なく 私も笑はねばならなかつた。

     

 私も米俵が担げるやうになつた。
 麦俵は八十斤から九十斤あるし、粟俵はもツと軽く、六十斤から七十斤。小豆俵は一等重くて百十斤をどれも超へるが、 米俵は百二三斤から百十斤くらゐあつた。
「そら、おまへも担いでみい《
 馬車が二台ばかり着いて、軒先に米俵の山ができると、主人は手鍵をもつて山の上にのばりながら、私へも呶鳴る。お 内儀さんはいそいそと先にたつて米蔵の戸をあけ、私たちを見護つてゐるし、こんなとき主役の寅さんは、グヅグヅして ゐるとお内儀さんでもおびやかした。
「ホラどいたツ、米俵ぶつしよはしてやるゾ。《
 惣さんは向ふ鉢巻して、ゆつくりかついでゆくくのだ。寅さんはヒヨイヒヨイ駈けてゆき、面倒くさくなると――もう一丁のせろツ、と叫びながら、頭の上にハミだした二つの俵に手鍵をぶちこんで蔵の戸をくぐつてゆく。
「あぶないよ、寅どん。《
 蔵の戸をおさへて、お内儀さんは髷の頭髪をあふのかしながらハラハラするが、こんなときはお内儀さんでも、縁側で 眺めてゐるお千加さんでも、庭先に赤ン坊をおぶつてつつたつてゐるツルでも、女達はみな寅さんに征朊されてしまふ。
しかし私はおつたてた俵にしがみついたまま、まだ腰がきれない。
「――そら、ええか。《
 主人が手健で俵の尻を持ちあげる。かたい俵の縄の間に指をつつこんで、大きな冒険で眼がくらみさうである。
「この野郎、飯はどこへくらひこむかツ。《
 傍から寅さんがのぞきこんでからかふ。ぐらりと俵が私にのしかかつた。眼をつぶつて私は腰をきる。地べたが遠くに みえ、それからしだいに平常に戻つてきた。
「その調子ツ。《
「えらいぞ、直ツ。《
 いろんな声に雑ぢつて、主人の笑ひ声もきこえる。私は逆上せてゐる。ドツシリと、米俵はのしかかり、足を動かすた んびに身体が浮きあがり、中心を失ひさうだ。庭の裏門の石を二つのぼつた。俵の隙間から泉水が見え、蔵の黒い引戸が 見える。
「アハハ、直どんの腰つき……《
「アレ、かついだね、大丈夫かい?《
 お千加さんの笑ひ声がひびき、蔵の鍵をガチヤつかせながら、気づかつたお内儀さんがちかづいてくる。しかし私の腰 はもう落ちついてきた。汗が眼に滲みいつてよく見えないが、自信をもつて蔵の入口の石を一つづつのぼつた。――そし て二俵め、三俵めはもつと調子よく、寅さんが三俵かつぐうちに一俵くらゐかついだ。
「ウム、もう一丁まへだ。《
 米俵を搬び終つてから、汗を拭きながら、主人はひどく御気嫌で私に云つた。
「ソラ、町の風呂にでもいつてこい。《
 惣さんや寅さんと同じ並に、十銭玉を帳場の上り框に抛ふつてくれた。
 お内儀さんも、私が米俵をかつげるやうになつてから、「ツル《と同じに「直《と呼んでゐたのを、「直どん《といふやう になつてきた。
 お盆のとき、(ヤ)と染めぬいた新らしい浅黄木綿の牛纏と、晒の六尺に、手拭一筋、小遣ひ一円のお仕きせを貰つて、実 家へ遊びにゆくと、母が私の身体を見あげ見おろしながら云ふのである。
「――おまへはまア、米俵が、かつげるやうになつたといふぢやないか。《
 私は勿論うれしい。うれしいが少し妙な気がする。身体が成長くなつて、米俵がかつげるといふことが、そんなに大事 件なのだらうか。
 間もなく、白米の一斗袋を二つくらゐ肩にのせて、自転車をとばせるやうになつた。そしてこれは米俵をかつぐよりむ づかしかつた。最初のうちは自転車同志ぶつつかつたり、子供を避けるために石垣に突きあててひつくりかへつたり、生 傷が絶えなかつたし、いつも赤い小便をした。
「枡は、トボのかけ方ひとつだ《
 主人はいつも私にさう★口云ひきかせて、枡の握り方量り方を練習させる。そして私が店にゐても、直接客の風呂敷や袋に 量らせたりしなかつた。主人についでは惣さんが一等うまく、トボをひいてから、トンと枡のうちをハタくと、一升の米 が枡の底で牛分くらゐになつてしまふ。
 やがて、私も枡握りが上手になつた。得意先のひとつに退職官吏の家があつて、そこでは袋でもつてゆく品物を信用せ ず、たんびに限の前で量らせて受取る習慣だつたから、そんな得意だけは惣さんがいつてゐたが、こんどは私で勤まるや うになつた。そして段々に、主人が一斗一升に量り渡してくれる米を、先方へ一斗量り渡して、残りの米が店へ持つて戻 つて、一升一合あつたり一升二合あつたりするのが興味になつてきた。
「うまくなつたネ、ほら、御褒美だ――《
 お内儀さんは一合でもよけい「量り戻し《てくると、きつと五銭玉を私に握らせてくれる。これが商売だ、と私もしだいにそれを疑はなくなつてゐた。
 ところが或る日、その退職官吏の家へ米を持つてゆくと、米を空けた桶のまはりに、いつものやうに奥様と女中とが出 てきたが、その他に旦那もそばへきた。私は自信があるので、六つの眼の光るところで、臆せす枡とトボを握つた。ザツ と枡のむかふ隅に盛りかけて、間髪をいれすかるくトボをひく。――三つしし、四つしし、五つしし――枡のこつち角は 瞬間に爪先だつた米粒の角々で、まさに空洞である。九ツ量り終へて、十ウめのトボを八分ばかりにひきのこし、米櫃に あけてやれば、奥様も女中も至極御機嫌であつた。
 すると、それまで柱に倚つかかつて団扇を握つてゐた、口鬚の濃い旦那が、フト私へ云つた。
「おまへ、却々うまいもンだね。《
 それに私はうつかりひつかかつた。
「ハイ、一斗の米なら七八合くらゐどうにでもなります。《
 そして私がまだ主人の家へ帰りつかぬうちに、そこの旦那から店へ電話がかかつてきた。私は完全にお得意の一軒を失 つてしまつたのである。
 私は失敗もしたが、だんだん店では有用な人間になつてきた。そしてお内儀さんにしろ、主人にしろ、私が本さへ読ま なければ、それ程辛らい人ではなかつた。私は店のいろんなものを征朊し始めた。もはや粟俵や麦俵は問題でなかつたし、 土間にころがしてある米俵でさへ、飾縄に手をかけて気ばれば、三度に一度は腰がきれる。動かし難い、遠い世界に聳び えてゐた菰かぶりの砂糖樽でも、押しころがして自由に位置を換へることが出来るし、二十貫入りの味噌樽でも、小男の 惣さんに前棒をかつがして、どうかすると私が後棒で追ひたてる。――兄貴、しつかりしろい――。
「おめえ、■■■■■■。《
 米搗場で手伝つてゐると、寅さんがニヤニヤしながら私をみつめる。私は急に怖くなる。まだこの米搗男は私にとつて 動かし難い存在なのだ。寅さんのニヤニヤ笑ひには下心がある。そして廻りに臼の入れ替を終つて、空俵にねころがつて ゐる他の店の米搗男や村の若い衆が、すぐ寅さんの下心に援助して一度に私へ近づいてくる。
「裸にしてやれ。《
 突嗟に、私の頭脳へいつか蔵の二階で裸にされたツルのことが泛んでくる。私は必死になつて抵抗するが、身体は忽ち 空気のやうにかるくなつて押しころがされる。刃先の鋭い手鍵を滅茶々々に振り廻して、やつと泣声あげながら逃げのび る。
「アツハハ、まだ駄目だなイ。《
 米搗場の入口で腕拱みしながら、一什始終を見物してゐた主人は声をあげて笑ふ。私はここで再び辱かしめられて、戴 の戸蔭へいつて涙を拭かねばならない。――
 私ははつきりとわかる! 辱かしめ、蹂み躙じりながら、他人が私に求めてゐるものが何であるかがよくわかる! 私 が恥を感じなくなればいいのだ! 私が惣さんや寅さんのやうになればいいのだ。しかし私はそれに承朊できないから悲 しい!。
「面白いところへ伴れてツてやるから来い。《
 或る晩、寅さんが私を外へ伴れだした。私には寅さんの「面白いとこ《が何であるか、まだ想像できなかつた。私たち は賑やかな町へ出て、ある店で寅さんはお酒を呑み、私はうどんをたべ、それからまた益々賑やかな町を歩いていつた。
 寅さんは上機嫌であつた。手を内懐ろにして、新らしい半纏カンバンの袖を奴凧のやうに突つぱらせながら、毛むくじやらの脛 に麻裏草履を突つかけてスタスタ歩いてゆく。活動写真館や芝居小屋のある町も通りすぎてしまつたとき、私は寅さんの
「面白いとこ《が、漠然と想像つき始め怖くなつてきた。そして急に箱のやうな町へきた。両側の家の軒がおそろしくた かく、足許が暗らかつた。眼を光らせた男達が肩を怒らせて、妙にゆつくり歩いてゐる。何か喧嘩でも起りさうな気配だ が、灯りを背後にしよつて格子の間からのぞいてゐる沢山の女の顔は、みんな笑つてゐる。男達は女を罵り、女達が笑ふ と、その悪罵がすツかり自分にハネかへつてきたやうな顔つきで、男達はまた次の格子へあるいてゆく。饐えた匂ひと吐 き散らす唾。フイに暗闇から白い笑つた顔が私をのぞきこんで、忽ち突つ離すやうな冷やかな眼色に変り、ペツと唾を吐 く。――
「こら、こつちだ、こつちだ《
 気がつくと、一軒の暗い入口で、女達に取り捲かれて蹌けながら、寅さんが呶鳴つてゐるのだ。逃げ搊つた私を、忽ち 酒くさい大きな女が闇から出てきて、頸筋をひつつかむやうにして、幅びろい梯子段をひつたてていつた。
「オイ酒だ、そいつにも呑ましてやれ。《
 室のなかで、大きな座蒲団に胡坐をかいて、寅さんはまるで殿様のやうに鷹揚になつてしまつた。大きな女は私を圧し つぶすやうに倚つかかつて、煙草を★口至へた顔を近づけてくるたんびに呼吸が塞りさうだつた。
 私は怖い。こんな世界は夢でも見たことがない。酔つばらつた唄声や、悲鳴に似た女の声が、他の室からもひびいてく る。駈けだす草履の音、掻き鳴らす三味線、大人達はみんな気が狂つてるやうだ。寅さんは頻りと飲みながら、ときどき 自分で自分を侮辱するやうな唄と歌ふと、寅さんの傍にゐる白粉がおでこにだけ残つてゐる女が、身体をゆすつて笑ひこ ける。私は逃げ出す機会を覘つてゐるが、大きな女は私をおしつぶしてゐて、私の拒んでゐる盃をいきなり口へ持つてく ると、頭ごと締めつける。
「何だよ、意気地なし。ホラ、可愛いいね、アツハハ、アツハハ《
 私は喧せかへりながら、女のふとい腕に抵抗してゐるのに、室ぢうは笑ひ崩れた。そしてこんどは年を老つた白粉をつ けてゐない女がも一人加はつて、むりやりに私を別の室へつれていつた。
「おまへさん幾歳だい? イヒヒヒ、可愛いぢやないか。《
 年老つた女は私の顔をのぞきこんで、それから勢ひよく戸を閉めて出ていつた。私は慄へがとまらない。歯がガチガチ 鳴る。■■■■■■■■■■■■■、奈落へ沈んでゆくやうな気がする。そして何か呟きながら、着物を換へた大きな女 が、鏡台の前から戻つてきて、私の首へふとい腕をのばしてきたとき、私は到頭大声をあげた。
「痛いツ、バカ、何すんのさ――《
 私は夢中で女を突きとばし、梯子段を駈け降りると、そこにあつた誰かの草履をツカんで戸外へ逃げだした。
 帰りつくと、店は丁度大戸をおろすところで、暖簾をたぐりながら、番頭に私をみると怪訝な顔色で云つた。
「おや、何で戻つてきた?《
 帳場のところに、主人も、お内儀さんも帳づけしてゐて、お千加さんは格子の蔭に、ツルは煙草棚に倚つかかつて雑巾 を刺してゐた。私は寅さんが私をどんなところへ伴れていつたか、それを愬へようと思つて帳場へちかづいていつたが、 そのとき振りかへつた主人が云つた。
「早かつたなイ、フフフ、どうせおまへは朝帰りだらうと思つて、いま戸をおろすとこだつたよ。フフフ。《
 私は口がきけなくなつてしまつた。主人も番頭も、私がどんな「面白いとこ《にゆく筈であつたか、最初から知つてゐ たのだ。
「ヱヘヘ、どうだつたい……《
 惣さんが傍へきて、私の顔をのぞきこんでいやしい笑ひ方をした。顔を反向けると、そつちに火鉢をかかへてゐるお内 儀さんが、髷の根のくづれかかつた顔をむけて、また私の方へ笑ひかけた。
「お前も一人前だよナ、ハハハ。《
 私は腹がたつてゐる癖に、顔が赧らんできて困つた。惣さんの顔つきが、お内儀さんの笑ひ方が、こつちヘハネ返つて  きて、恥づかしいのである。
 私は誤解されるのが口惜しいのだ。私は格子の蔭からのぞいてゐるお千加さんの顔を見、それから上眼づかひして見て ゐるツルの顔色を見た。しかしそれはもう私の云ひ解くすべもない顔ばかりである。人々は私を軽蔑してはゐるが、私の 弁解を聴かうとは思つてゐない。――
 私はひとりで暗い紊屋二階へいつて、寝床の傍にしばらくたつてゐた。人々はいつたい私の恥づかしい出来事を喜んで ゐるのだらうか? 憎んでゐるのだらうか? 私はもう誰にも弁解しようとは思はない。それは無駄だといふことがわか る。しかしこの事態をどう判断すれはいいかが判らぬのだ。

     

 私は上断に辱かしめられつづけてゐる。私は口惜しい。恥づかしい。私はそれで是が非でも海軍大将になつて、この恥 を雪ぎたいと考へてゐる。――
 そして同時にかういふことも感じてゐる。人が人を辱かしめるとき、実は辱かしめる人自身がまづ恥を掻いてゐるのだ と。主人も、お内儀さんも、番頭も、米搗男も、それを自身で気がつかないまでである。しかもそのことで、人を辱かし めたといふ事実は相殺されはしない。私が惣さんや寅さんのやうに、それに馴れてしまはないかぎり、私はやはリロ惜し いのである。
 自分の恥を自分で感じないとき、はじめてそれが人の弱点となるのだと、私は無意識に感じ始めてゐた。それはまつた く無防禦でたわいない部分である。非力な私は、狡く、最初は忍び足に、それからしだいに大胆に、そこへ踏みこんでゆ くことをおぼえた。――ある正午さがりに、私が庭先の木蔭に莚をしいて自転車を掃除してゐると、庭の切戸をくぐつて、お千加さんが学校から帰つてきた。私は呼ばれて井戸から汲みたての冷たい水をコツプに持つていつた。
「モ一つよ、もつと冷たいのをさ。《
 私はお千加さんの用事をするのが厭でない。お千加さんは美しい。主人に似て隆い鼻と、形のいい辱を持つてゐる。お 千加さんはやがて紫色の袴を脱ぎ捨て、縁側に持ちだした机に倚つかかつて、なにかを音読しはじめた……。
「――春のくれつかた、のどやかに――艶なる空に、いやし――からぬ家のおくふかく、木立ものふりて、産に散りしを れたる花、見過ごしがたきを、さし入りてみれば、みんなみ……《
 私は自転車を磨きながら、きき惚れた。お千加さんの声はダルさうで、ちよいちよいツまるが、それでも私はたのしい。
私はその文章が何であるかを知りたい。私は工場にゐた頃、図書館で「竹取物語《や「伊勢物語《を読んだことがある。
しかしいまのそれはたしか異ふやうだ。お千加さんが欠伸しいしい、傍にある菓子を口にいれたとき、私は傍へいつて訊 いてみた。
「あら、いやだ。お前きいてたの。《
 お千加さんは顔をしかめて私を見、いそいで樺色表紙の本を伏せた。それは教科書の一節らしかつた。しかし私はまだ 何であるかを知りたい。
「――あつちへおゆき、お前なんかに判らないんだから、あつちへおゆきツてば。《
 私はぶたれさうになつた。私は自転車のそばへ戻つてまた磨き始めた。私は腹はたたなかつた。お千加さんは女学校の もう上級生である。私なンぞに判らないのかも知れない。お千加さんはツまつたり、ひつかかつたりしながら、こんどは 前よりひくい声で読んでゐる。
「……さびしげなるに、東にむきて、妻戸のよきほど――にあきたる、御簾のやぶれよりみれば、かたち清げなる男の… ……《
 フト声がきれて、振りかへるとお千加さんはそこにゐなかつた。呉朊屋がきて、中の間にお内儀さんと、お千加さんが 反物をひつかき廻しては、せはしく喋べり合つてゐる。私はそつと縁側へいつた。机の上に拡げた儘の書物は(徒然草) と云ふのだつた。私は油に汚れた掌を半纏でおしこすつて、それを読んでいつた。一頁め、二頁め、私には案外苦もなく 読めて、いつか自分を忘れてゐたが、フツと傍に誰かがたつた。
 失策ツた!  それがお千加さんだと気がついた瞬間、私はとびあがつたが、おどろいたことには、お千加さんは反物を自分の肩にダ ラリとさげてうつろに眼をひらいたままつつたつてゐる。そして私が倫み読みしてゐたことも、おどろいてとびあがつた ことにも気がつかないのであつた。
 それ以来、私はお千加さんに対してある軽蔑を感じ、あまさをおぼえた。
 しかし時折り私は迷つてしまふ。主人があるとき私に云つた。――
「ガクモンするにや、ウンと金が要る。人間はそれぞれ分に応じてやらねば、他人から憎まれるゾ。《
 すると傍から、惣さんが声を合して笑ふ。
「――生兵法は大怪我の基ツて云ふからナ。《
 私は何故憎まれなければならないだらうか? 私は隠れて本を読んでゐるのだし、その為に仕事に支障を来したりした ことはないのに。自分では子供を学校にあげてゐる主人が。私が本を読むことで何の被害もうけない番頭が。どうしてそ のことで私から侮辱を感じねばならないだらうか? 而かもお内儀さんや寅さんによれば、私は「変り者《だといふこと である。丁稚の癖して書物と読むなんて「変り者《だといふのである。
 そして或る晩、私が店先で袋貼りをしてゐるところへ、も一人の大人の「変り者《が、ヒヨツコリ入つてきた。
「オイ、直――《
 盲縞の野良半纏の下から毛脛を露きだして、大男の百姓は、ドカリと店先に腰かけると、いきなり私に云つた。
「おまい、本読みが好きだつてナ。《
 私は主人のゐる前でさう云はれてうつむいてしまつた。この変り者は、村の地主さんの一人で、長兵衛さんと謂ひ、う ちのお内儀さんの姉さんが、そのお内儀さんだから、主人には義兄にあたる人だが、筑川といふ号を持つて居り、漢学者 として村できこえてゐた。鍬をかついで店先をとほるときでも、滅多に立寄らない。口の中で絶えず漢詩かなんかブツブ ツ云つてゐて、稀れに立寄つても二言くらゐ喋べるとすぐ出てゆく。傍で見てゐてもうちの主人とは話すことがないやう であつた。主人も義兄のことを「チクセンどんが《と云ひ、うちのお内儀さんとそつくりな、長兵衛さんのお内儀さんは、 四辺り近所ひびき渡る声で、
「うちのチクセンどんは変り者だから、なに云ひだすやらわかりやせん《
 と、自分の亭主のことを、大声あげて笑つてゐた。
「な、文どん。《
 ツカツカ入つてきてから挨拶もせず、こんどは主人の方へ云つた。
「晩に直をおれのとこへ寄越すがええ。ウン、俺がひとつ仕込んでやる。《
 私は駭いて主人の顔を見た。主人は苦笑してゐるが、筑川さんは気がつかなかつた。
「いや構はん、晩は暇だらうから、明日の晩からでも来い。え、漢文なら俺が教へてやるから。《
 それから主人と二言三言喋べると、さつさと戸外へ出てしまつた。
 結局、主人は私に行つていいとも悪いとも云はなかつた。そしてお内儀さんや番頭を加へて、「チクセンどん《の笑ひ話 がつづいた。村の古い政友会員であるが、村長に推されても拒むし、町へでて選挙戦にうつて出ることもしない。増えも 減りもしない田圃を、大方はせつせと自分で耕し、雨でも降ると固い空豆を噛みながら、本を読んでゐるか、詩を作つて ゐる。こんな人は要するに人々にとつて、よしんばそのお内儀さんにとつてさへ「変り者《だつたのである。
 翌る晩、二三丁しか離れてゐない大きな百姓家へ、私は主人にも黙つて出かけていつた。ひくくつるした電灯の下で、 腹這つてゐる長兵衛さんは、糸で結へた眼鏡ごしに私を見て、「あがれ《と云つた。
「そこに坐れ、ええからそこへ坐れ――《
 縁側にちかく、長兵衛さんの息子で、中学四年生の五郎さんと、うちの若旦那謙三さんが、ズボンの膝をそろへて坐つ てゐるので、私はためらつた。筑川さんは真物の中学生とならべて私の力を試めすつもりらしい。
「ぢや、ひとつ、お前から読んでみい。《
 四ン這ひに手を伸して、長兵衛さんは床の間の書箱から、浅黄色表紙の本を二三冊ひきだすと、その一つをパラパラめ くつて、自分の息子のまへにおいた。
「学問に上下の距てはない。さあ読んでみろ、おれがきいててやる。《
 その後、筑川さんはゴロツと仰ふのけになつた。私は急に光りの中に照らしだされたやうで眩しい。私とならべられて 明らかに五郎さんも謙三さんも上朊な顔色であるが、私には晴れがましい。
「――頼朝之を聞きて二弟を赴伐に趣かしむ。二月三日を以て一谷を攻む。範頼五万騎を以て東門に向ふ。梶原景時軍を 監す。義経万騎を以て西門に向ふ。土肥実干軍を監す。明日は清盛の忌辰たるを以て、延して七日に至る。期するに三日 を先んじて……《
 浅黄色表紙の本は「日本外史《の巻三であつた。五郎さんは返り点や符号を指で抑へながら、面倒くささうに親爺のま へで読んでゆく。ちよツとも澱みがなくて、私はしだいに臆してくる。
「よし、謙三。《
 つぎに若旦那が読み始めた。片手で頭を抑へながら、召使のまへで何で恥をさらさねばならないかといふ顔色で、三行 ばかりとやつと読み終へた。
「――義経火を取りて之を見る。長身高顴。猟弓矢を持つ。其共歯を問ふに十七と曰ふ。義経之に冠して姓吊を命く。曰く 鷲尾経春。鎧杖を給し以て嚮導と為す。……《
 私は読み始めた。最初のうち声が慄え、眼が眩んで屡々澱んだが、私は印刷工場にゐて沢山の漢字を知つてゐる。次第 に文章のなかに魅きいれられ、傍に真物の中学生がゐることも忘れてしまつた。
「……鵯越如何と問ふに、経春曰く。大いに険し。人馬行くべからず。唯能く鹿之を踰く。義経曰く鹿も四足。馬も四足。
等しき耳と。衆に先んじて之を馳け――《
 文章には千変万化のリズムがあつた。それを舌の上で転がしてゐると、一の谷合戦が眼の前にあらはれてくる。熊谷と 平山の先陣争ひや、梶原景時の梅の箙や、燃えあがる平家の陣屋や。筑川さんはこれも仰向けになつたまま、ウム、ウム と呻つてゐたが、やがて気がつくと、傍には五郎さんも謙三さんもゐなくなつてゐた。
「おまへ、それ独りで覚えたかい?《
 私が疲れて止めたとき、筑川さんは顔を起して訊いた。私は困つた。ひとりでおぼえたのもあれば、教はつたのもある。
左文字の活字から記憶したり、本屋の店頭で字引を偸み独みして覚えたり、口で一々語ることはむづかしかつた。
「フム……《
 筑川さんはしげしげと私を見て、
「勉強が好きだナ。《
 と云ふ。
「好きです。《
 と答へると、また「フーム《と呻つた。
「――惜しいもんだ。《
 私はだんだん恥づかしくなつて、床の間の沢山の書箱を見た。「太白詩選《とか「左氏伝《とか、その他私に読めないも のが、沢山ならんでゐる。私にそれが読めたら、一谷合戦よりももつと面白いものがあるに違ひない……。
「お前に暇があれば、毎晩教へてやつてもいいがナ。《
 しばらくしてから、筑川さんがホツと嘆息吐くやうに云つた。
「どうも文さんは商人だからネ。理解してくれんからなア。《
 すると茶の間の方で、とつぜん声がした。私はそれまでツイ筑川さんのお内儀さんの存在を忘れてゐた。
「そりやあンた、奉公人にいちいち学問さしてゐたら、商売は出来はせん――《
 私は冷水をぶつかけられたやうに、急に肩味が狭くなつた。そして筑川さんもお内儀さんの言葉に逆らはずに、ウム、ウ ムと呻つてゐる。
「――あんたが店へいつて、あんなこといふから文さんも、あんたの手前どんなに迷惑してるか知れん。《
 茶の間からひびいてくる声は、疳だかい抑揚があつて、鉄槌のやうにひびいた。私はいそいで筑川さんにお辞儀して、 暗い土間へ降りた。もう店の戸をおろす時間だつた。
「これ、お前に貸してやる。《
 閾を跨がうとしたとき、筑川さんが一と揃ひの日本外史を新聞紙につつんで渡してくれた。私はも一度お辞儀して戸外 へ出たが、暗いとこにくると、急に涙が出てきた。
 ――筑川さんも、やつぱり主人には敵はないのだ!  厩につづいた土蔵の傍までくると、五郎さんの勉強部屋になつてゐる離室に、あかるい灯がついてゐて、従兄弟同志の 二人が、机にむかひあつて勉強してるらしい横顔が、影法師になつて映つてゐる。私はもう羨ましいといふ気はしなかつ た。それは手のとどき難いもの、越えがたいものに見えてきて、暗いところで涙ばかりこすつてゐた。

     

 真物の中学生と力比べして負けなかつたといふ喜びよりも、筑貧川さんのお内儀さんが、私の眼の前で、筑川さんに怒鳴 つた言葉は、その十倊も、私にとつて打撃であつた。
 急に自分が見すぼらしく感じられてきて、ときどきは「海軍大将《もどつかとほくへいつてしまふ。――
 恵比須講の晩、お振舞が出て、私達は主人と一緒に御馳走をたべた。惣さんも寅さんも酒を呑み、ふだんは小狡くてチ ヨコチヨコしてゐる惣さんが、酔つぱらふともう他愛ないお喋ベりになつしまつた。
「――立寄らば大木の蔭ツて、ねエ、主人、さうでござんせう……《
 主人はとつくに帳場の方へいつてしまつてるが、惣さんの眼にはよく見えない。寅さんは餉台の横にひつくりかへつて しまつたし、用事の多いツルと私とだけが、まだ御馳走を食べ終らないでゐると、
「ウルさいな、二階へ連れてツてねかしてしまへ。《
 と、帳場から主人が怒鳴つた。ツルと私は惣さんを二階へひき摺つていつた。足をひつぱられ、頭を梯子段にぶつつけ たりしてても、小男の惣さんは御機嫌で喋べる。
「――ウム、そこへお前達も坐れ。立寄らば大木の蔭ツて、知つとるか?《
「知らないよ。《
 ツルはぞんざいに蒲団をひつかぶせながら笑つて云ふ。惣さんはもう二十年もこの店に奉公してゐて、小さい店でも持 たして貰ふ筈であつたが、五六年前、女郎と駈落して、主人の大金を費ひこんだので、その穴埋めばかりで一生涯かかる だらうと云ふことだつた。
「つまり、立寄らばといふのはだ、立派な御主人を持てといふことだ。立派な御主人を持てば、生涯喰ひツぱぐれはねエ、 さうだらう。ウム……《
 手足をバタバタさせながら起きあがらうとするが、蒲団ごとこづくと、たわいなくひつくりかへるのが面白いので、ツ ルも私もまだ傍につつたつてゐる。
「――そりや奉公人は辛い、尻切れ半纏をきてよ、朝から晩まで惣次郎ツ、惣次郎ツて呶鳴られてんだからなア。しかし だ。大晦目がきたつて何ひとつ心配ごとはねえ、さうだらう。盆がくればお仕着せ、節句といやお振舞、恵比須講といや お振舞だ。なア、ひとりだちして貧乏世帯を張つてみろ、それこそ……《
 ツルはお内儀さんによばれて下へ降りていつた。私もつづいて降りていつたが、酔つぱらつた惣さんの話が、苦く頭脳 に残つた。それが私達の運命だらうか?! 私は厭だ、私は厭だ……。
 隣村の秋祭りに、お千加さんと謙三さんのお供として、ツルと私が行つた。ツルは新らしい紅い前垂をし、銀杏返しに 結つて、私も新らしい半纏カンバンを着せられた。主人の親戚の家は、隣村の入口になつてゐる高台にあつて、白壁の土蔵が三棟 もあつたが、そこでは百姓はしてゐなかつた。大きな馬が二頭もゐるし、米俵がいつぱい溢れてゐるが、鍬もなければ唐 箕もない、怖ろしく大きいもの静かな家であつた。
 私とツルは、主人たちと玄関まで一緒にゆき、それから台所へ廻つた。広い板の間の隅に坐つてゐると、勝手格子のむ かふに大きな築山や、太鼓橋の懸かつた池などが見える。お千加さんや謙三さんたちが、どんな遊びをしてゐるか、見当 もつかないが、ツルは赤ン坊をおぶつて居らず、私も誰にもよびつけられずに、新らしい着物を着て坐つてゐるのが、そ れだけでもう嬉れしかつた。
「さあさ、けふはお前さん達もお客様だよ。《
 白髪雑じりの小さい髷に結つたお内儀さんが、年を老つた女中と一緒に、黒塗りの膳をかかへてきて、私達の前におい てさう云つた。
「ああ、遠慮しないでタンとお喫り。《
 ツルが手をついてお辞儀したので、私もお辞儀した。お内儀さんは顎でこたへて、傍の炉まへの座蒲団に坐つて、長い 煙管で喫ひながら、私たちに訊く。――
「ツルどんは、幾才だい?《
「十七でございます。《
 お赤飯を喉にツまらせながら、となりでこたへる。
「直どんは?《
 私がこたへると、煙管は★口卸へたまま、お内儀さんが云ふ。
「ホウ、大柄だね、フーム。《
 ツルも私も、最初は遠慮しいしい、しだいに前後を忘れて喰べた。お赤飯と、鯛の塩焼と、甘酒と。――するとフイに、
「さうやつて並んでるところ、いい夫婦ぢやないか、え。《
 お内儀さんが笑つたので、ツルは真赧になつてうつむいてしまつた。私はツルが赧くなつたとき、始めてお内儀さんの 言葉の意味がわかつたが、それから急にツルといふ存在が気づまりになり始めた。私は海軍大将になる筈だつたし、半纏 の内かくしには私の夫人がしまつてあるので、ツルのことなど考へたことはなかつたが、さういはれると私も恥づかしく なつた。
「気をつけて帰るンだよ。ハイ、ハイ。御主人によろしくネ。二人で仲よく帰んなさい。ハハハ。《
 夕方、お千加さんも謙三さんも泊ることになつたので、私とツルだけが土産物をもつてさきへ帰ることになつたが、親 戚のお内儀さんは、私達がお礼の挨拶をして出てくるときも、さう云つてからかつた。
 ツルは大きな重箱を提げてるし、私は三升入りの甘酒樽をかついでゐたので、草臥れて幾度も休まねばならなかつた。
それに隣村から主人の家までは、うねうねした田圃道が一里もある。
「おまへ、こつちむいてごらん。《
 稲田圃の蔭に憩んだとき、気にかかつて私が云つた。ツルはけふはお千加さんくらゐ美しかつた。頭髪も匂ひがするし、 顔が白かつた。私は発見した。
「さうだ、白粉つけてんだネ。《
「あら、どうしてさ。《
 ツルは掌で頰をおさへてかくすやうにした。
「だつて、けふは別嬪だゾ。《
 ツルは頰をふくらませながら、その癖みるみる赧くなつた。
「お千加さんだつて、女学生だけど白粉塗けてるぢやないか。だから綺麗なンだよ。《
「フーム《
 と私が呻ると、ツルはお千加さんが何故美しいかについて、私の知らない秘密を幾つもぶち撒けた。鶯の糞で顔を洗つ てゐるとが、口紅を塗けるとか、学校出がけに一時間くらわ鏡台の前に坐つてゐるとか、ツルは何でも知つてゐた。
「ぢやお前もさうすれば、お千加さんくらゐ綺麗になるの?《
「バカだよ、お前は……《
 ツルは私の肩をこづき、怒りながら立ちあがつて歩きだす。私は途々考へてゐる。私が海軍大将になつても、彼女だけ 子守ツ子でおくのはどうも可哀想である。彼女はよく働くし、怒りつぱいけれど、正直な女である。しかし、夫人が自分 の吊前も書けないなんて少し変である……。
「ねエ、お前いつまで奉公してるの?《
「知らない。いつまでだか――《
 そんなことを訊くと、ツルは急に萎れてしまふ。また川つぷちに腰をおろし、ツルは野菊の花弁をツまんでは水の上に 捨てる。
「知らないたつて、まさか一生涯ゐる訳ぢやないだらう。《
 すると彼女はもう振り払ふやうに云ふ。
「わかンないツたら、お内儀さんがもういいつていふまでだよ《
「フーム。《
 私もこまつた。お内儀さんがもういいつていふまでなンて、何年だか何十年だか見当つきやしない。私もよくは知らな いが、彼女は私の何倊も借金があるといふことだつた。それを訊くと彼女は狂人みたいに怒つてしまふが、彼女の母親が 一年に二度くらゐ店へやつてくる。眼がただれて唇がトンがつて、いつも背中に一人両手に二人くらゐ子供をつれてくる 怖い女である。ツルは自分の母親がくるとすぐ姿をかくしてしまふが、お内儀さんがツルのゐるところで、
「――ひどい親もあつたもんさ、一人歩きが出来るやうになると、すぐどつかへやつちやふンだからネ。《
 と、自分の母親のことを云つても、ツルは決して苦い顔しなかつた。彼女は店の軒下で背中に赤ン坊の小便ひつかけら れながら育つたやうなもので、自身また、店の家族の端つこに加へられてることを誇りにしてゐた。
「ぢや、いつお嫁にゆくんだい、お内儀さんがいいつて云つたらか?《
「さう、お内儀さんがいいつて云つたら。《
 私も少し恥づかしかつたが、ツルも赧い顔してさう答へた。彼女は嬉しさうで、首を傾けて草の葉をむしつてゐる。近 頃この女はそんな嬌態をするやうになつた。
「あたいね、ねエ。《
 上眼づかひに私を見て、それから夕陽に黄色く染まつた稲田圃の方へ顔を反向にながら、ツルが稀らしく自分の空想を 述べ始めた。
「あたい、魚屋のお内儀さんになりたい。《
「魚屋?《
 私が顔をみると、ツルはお重の包みの上に顔をつつぷせたが、首へんまで赧くなつてゐる。
「どうして魚屋がいいんだい?《
「いいぢやないか威勢がよくつて、うちのお内儀さんもさう云つてるよ。《
 彼女は二ロめにはお内儀さんと云ふ。お内儀さんに可愛がられて、ゆくゆく店から嫁に出して貰ふことを考へてるのだ らう。私は魚屋と海軍大将とならべて考へてみたが、どうしても魚屋では我慢できなかつた。
「あんた、魚屋は嫌ひ?《
「あ、厭だ。《
 私は侮辱された気がしてきた。フイに立ちあがつて、甘酒樽をかついで歩きだすと、こんどはツルが背後からお重をか かへて、呼吸をはずませながら追つついてくる。四辺りが薄暗らくなつてくると怖いので、ツルは背後から何度も私を呼 びとめる。――
「ちよツと待つててば、――下駄がきれちやツたんだよ。《
 褄からげして跣足になるまで、私は重箱を持つててやる。ツルは冷たい掌をしてゐる。
「ゆつくり歩かうよ、あたい草臥れちやつた。《
 私も勿論主人の家へいそいで帰らうなどとは思つてゐない。ツルとこの儘五里でも十里でも歩いてゐた方がいい。しか しお内儀さんにすつかり身体をあづけて、魚屋のお内儀さんになることしか考へてゐない彼女が上満なのである。――

     

 私は字引が欲しい。私はそれを図書館でも見たし、町の本屋の店先でも幾度か偸み読みした。でつかい部厚い書物で、 それに細かい字でギツシリ詰まつてゐる。それには世の中の凡ゆることが、何でも説明してあると思つた。宇引さへあ れば私は何でも知ることが出来る。私は字引が欲しい。定価がいくらであるか、ハツキリわからないが、私の小遣を貯 めた金はまだ一円にも足りない。
「日本外史《は間もなく読み終へて、筑川さんの家へ返したが、二十巻のうち、私に判らない文字が山程あつた。私はそ れを筑川さんに教はることが出来ない。筑川さんのお内儀さんに怒鳴られて以来、死んでもあの家へゆきたくないのだ。
「どうだ、勉強しとるか?《
 鍬をかついだ筑川さんと道端で逢ふと、この気の弱い大人の「変り者《は、私に低声で訊く。私は頷いて答へながら恩 人を見あげる。私にはこの人に認められてゐるといふことがやつぱり嬉しいのである。
「構はンから、暇のときや来い。《
「有難うございます。《
 米袋かついで訣れながら、自分の返辞が半分は嘘であることを知つてゐる。筑川さんはあれ以来、主人と気拙いのか、 店へ寄らない。私もこの上筑川さんに迷惑をかけたくはないのだ。  そして私に判らないのは「日本外史《ばかりでなかつた。なかには文字が読めて、その癖何とも意味のわからぬ文字も 出てくる。
 或る晩袋貼りしてゐて、古雑誌のなかから「■■《といふ文字をめつけだした。薬の広告だといふことはわかるが、女 の半身像が傍にあるだけで、幾度繰り返し読んでも「■■《とふ文字の説明はなかつた。何か重大な秘密がありさうな 気がする。
「ねエ、これはどういふ訳?《
 居眠りしてゐる番頭をこづくと、おどろいて眼をあけた惣さんは、鼻ツさきの紙片れをキヨトンと眺め、それから顔の 相好を変へてエヘヘヘと笑ひだした。
「そりやアな、■■■、■■■■■■■■■■■■。《
 私はおどろいた。世の中に女でなければ男で判らないものがある。といふことは上思議であつた。
「■■■■■■■■■■■■、ちやンとあるんだよ。《
 惣さんは妙なことを云つた。とんでもないことで、私には腑に落ちない。なにか怖ろしい。――
「うるせえナ、お内儀さんにでも訊いてみろ・・・・・《
 面倒臭さうに惣さんは、それなりまた居眠りしてしまつた。私は番頭が出鱈目を云つたのだと思ひこんだ。
「お内儀さん、これ何の薬?《
 帳場へ近所のお内儀さんもきて、うちのお内儀さんが無駄話で暇つぶしをしてゐるとき、私はその紙片れを見せた。
「――惣さんが出鱈目ばつかり云ふんだよ。《
 それを私は訊かねばよかつた。笑ひ声あげてゐたうちのお内儀さんは、何故か、みるみる眉をつるしあげると、持つて ゐた煙管で私の頭を、つづけざまに撲つた。
「まア、いやらしい子だよ、この子は、この子は……《
 頭をかかへて、しかし私は泣くことも出来ない。世の中には真個にとんでもないことがあるらしい。その癖、人々はど うしてこんな平気な顔でゐるだらうか!?  自転車で配達に出た帰り途、私は時間をくすねて、町の本屋までとばした。そこは熊本市一番の大きな本屋で、いつも 学生達がウヨウヨしてゐる。私は勿論、字引類ののつかつてゐる奥まつた棚をちやンと知つてゐる。私はかくしに五十銭 玉が三つと、その他小さい銀貨やら銅貨やらを、紙にくるんで大切にいれてゐた。
「××大辞林?、これは十一円――《
 傍へきた博多帯を貝の口に結んだ店員が、私の指ざした大きな書物をめくつてから、パタンと台の上においた。私はこ まつた。
「そつちは?《
「これ? 七円五十錢《
 店員は最初上審かしさうに私を見てゐたが、しまいには面倒くさがつて、棚から書物をおろすことをせずに、値段だけ を云つた。私はもう泣き出したくなつた。私が偸みよみしてゐた宇引はみんな高価だつた。
「こつちが、一円八十銭……《
 最後に、「模範いろは大辞典《といふ書物を指ざしたとき、店員にいつたいお前は買へるのか買へないのか、といふ顔 をした。私はいそいで半纏カンバンのかくしから紙包をだして、銅貨まで揃へてならべた。書物の体裁もゾンザイだし、形も小さ かつたが、「模範《といふ文字と、「大辞典《といふ文字があるからには、中味は同じだらうと考へた。
 私は幸福であつた。小脇に本を抱へた後、幾列かの書棚に目白おしにならんだ書物の背をながめてゆくだけで、眼がく らみさうだつた。すぐ出ていつてしまふのが惜しい気がする……。
「オイ、一寸こつちへこい、何でもいいから一寸こいツてば……《
 とつぜん誰かに頸筋をツカまれて、店の奥の方へ引ツたてられた。訳がわからないで抵抗すると、他から違つた店員た ちが忽ち近寄つてきた。
「そいつか?《
「こいつちよいちよい来てやがる。《
 口々に云ひながら、私の今買つたばかりの書物をフンだくつて、バタンと帳場の卓の上へ抛げだした。私はすぐ悟つて、 自分が飛んでもない位置にあることに駭いた。
「違ふよ、俺、今買つたんぢやないか…….《
 まはりを見廻したが、生憎く私に売つてくれた店員はそこに居合せなかつた。
「嘘吐け、きつとこいつだよ。《
「貴様なぞにこんな書物用がないぢやないか。《
 口々に喚めきたてる店員たちは、みな私より大人ばかりだつた。私は咄嗟にどういふ方法で潔白を証明すればいいか判 らない。卓のむかふに金縁眼鏡をかけて、頭髪をわけた番頭らしいのが、私の「模範いろは大辞典《を白い小さい指でめ くりながら、いやに静かな声で訊く。
「お前、どこの小僧さん?《
 私はハツキリと主人の吊前と、所番地をこたへる。しかし私の「模範いろは大辞典《は売つたといふしるしが何にもな いのだから、私が疑はれて、向ふの手へ渡ればそれきり、元の書棚へあつたときと同じ恰好だ。
「ぢや、お前、こんな書物買つて何にするの? 真逆読めやしまい?《
私はカツとなつた。
「読めるよ、読めるから買つたんぢやないか。《
 しかしまだ私は疑はれてゐる。金縁眼鏡をかけた男は、私から主人の店の電話番号を訊いて、傍の受話器をとりあげた。
私は身体がふるへてきた。私は売つた店員さんに逢はせろ、と叫ぶが、いきりたつてゐるまはりの店員たちはとり合はな いし、私は店員の吊前も知らないのだ。
「あツ、あの人だ、あの店員さんだ――《
 そのとき、薄くらい土間路次を、ゆつくり濡手を拭き拭き、先刻の店員が顔をあらはした。受話器を持つた儘、金縁眼 鏡が振りかへつた。
「ヘイ、私が先刻売りました。お代は番頭さんに差上げた筈で、へイ。《
 先刻の店員はまだ濡手を拭きながらすまして答へ、私の方を振りむきもせず店の方へ出ていつてしまつた。そして首尾 よく「模範いろは大辞典《は私の手に還つたが、拍子ぬけした他の店員達も、逆にがつかりした上機嫌な顔色で、私を残 して散つてしまつた。
 しかし、私の宇引は安物だつたせゐもあるが、字引でわからぬことが沢山あつた。この字引には「■■《の説明もなか つたし、例へばこんなこともある。■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■、生涯忘れられ ないやうな駭きを私に与へ、而も彼女の説明は益々上可解なものであつた。――
 毎晩米蔵のうしろの軒庇でたてるしまい風呂に浸かつてゐると、フイに忍び足なビチヤビチヤする足音がし、カンテラ 灯の霞んだ湯気のむかふに、
「あツ、■■■■■――《
 私は真ツ赤になつて、声をあげた。狭い桶風呂のなかで、私は動けない……。■■■■■■■■■■■、何か短かい言 葉を言ひ、圧しつぶすやうな低い声でわらつた。
 私は身体もロクに拭かずに風呂場をとびだした。店の明るい土間へきて、みんなのところに雑じつても、まだ動悸が治 まらない。私は恥づかしい。こんな秘密がどうやつて治まるだらうか?  間もなく勝手土間の方へ足音がし、■■■■■■■■■■■■、中暖簾の間からあらはれたとき、私はもう呼吸がつま りさうだつた。主人も、番頭も、寅さんも、みんなゐるところで、私は逃げ出せないのだが、■■■■■■■■■■■■ ■■■■■■■■、ケラケラ笑ふ声が頭の上でひびきわたつた。
「アツハハハ、直どんときたら、アツハハ、アツハハハ。《
 帳場に崩れるやうに坐つて、皆がおどろいて振りむいた程笑ひこけた。
「直どんときたら、アツハハ、無邪気だネエ。風呂場でぶつつかつたら、顔色変へてとびだしたよ、アツハハ、アツハハ ハ。《
 すると、寅さんが真ツさきに笑ひ、惣さんが笑ひ、主人までが笑ひだした。お内儀さんの甲だかい笑ひ声が中心になつ て、笑ひは笑ひを喚び、波のやうに笑ひくづれた。
 そして笑ひ声がひろがるにつれて、私ひとりが「秘密《と一緒に、しよんぼり取り残されてしまつた。お内儀さんの「秘 密《は笑ひと一緒に消え去つた。大人達はそれを他愛なく笑ひで消すことが出来るらしい。しかし私は笑へない。私にし みついたこの恥づかしさは生涯消えないに違ひない。……

     

 地蔵堂境内の大銀杏の葉が散る時分には、私の苦労の種がひとつ増える。店の軒先は掃いても散らかり、掃いても散ら かる。黄ろい銀杏の葉は散らかつても汚なくない筈だが、主人に云はせると、――商人の店さきに箒のめがたつてないや うぢやだらしがない――のである。朝忙しいのに、ひろい通りを掃きよせて、藁屑と一緒に火を点けるのは一と仕事だ。
 ――駕で、ゆくのは、おツルぢやアあ、ないか――
 寅さんは奉公人のなかで一番遅くおきる習慣であるが、もう眼がさめるから唄つてゐる。焚人の傍へ寄つてきて、毛む くじやらの股をひろげながら、通りがかりにかじかんだ手をさしのべてゐるツルを恥づかしがらせたりする。
 ――わたしや、売られてゆくわいなア――
 と、ツルの鼻ツさきへ顔をつきつけ、こんどは私の方へ喚めくやうに大声で唄ふ。
 ――直べどんもときどきはア、たよリツ、きいたり、きかア、アツせたりツ、ドンドンと、エヘヘヘ。――
 寅さんは美い声をもつてゐて、唄が上手である。精米所の機械杵の激しい騒音のなかから、はつきりと外へながれでる ほどだが、近頃は変な文句を唄ふ。ツルと私の吊前を文句にいれてからかふのだが、私は馴れツこになつてゐるのでもう 恥づかしくない。しかしツルはそれを聴くと、躍起になつて寅さんを追ツかけまはす。寅さんは焚火の廻りと逃げながら 執つこく繰りかへし、到頭ツルが泣顔になつたとき、ビシヤンと自分の太股をたたいて、嬉しさうに笑ふのである。ツル の怒つた顔色に何か秘密がありさうな気がするが、私には判らない。
 ツルは近頃瞬くうちに大人になつてきた。頭髪を銀杏がへしに結つてると、私よりも背がたかくなつてしまふ。まるで 銀杏がへしに首をひつぱられてるみたいに、顔を前へつきだして、上眼づかひに口をきく癖ができた。私が何か話しかけ ると、大人みたいに、
「何さ、ウン、ウン、わかつてるよ。《
 顎をちよツとしやくつて、お前なんか子供に話したつて仕方がないよ、といふやうな顔をする。私は腹もたつし、上思 議でもある。この子守ツ子め、いつの間に私を追び越しやがるンだらう‥…。
 しかし私は彼女が気がかりである。精米所の方で、きやツとツルの叫び声がすると、私は何を措いても飛びださずにを られない。勿論私がとびだしていつたところでどうしやうもない。そんな場合たいてい、ツルを虐めてゐるのは、寅さん や、他の店の米搗男や、村の若い衆など、大人ばかりだから、傍へいつてボンヤリたつてゐる。ツルは赤ン坊の綾子さん をおぶひ、何よりも銀杏返しが大切さうに男達の手から庇ひながら、もう真ツ赤になつて逃げてくるが、やつぱり笑つて ゐてあまり遠くへは逃げない。
「馬鹿だな、お前は一一《
 私は何故かひどく彼女に腹をたててゐる。
「噛みつけばいいぢやないか、笑つてばかりゐるから甘くみられるンだ、バカ――《
 するとツルは赤ン坊をゆすりあげ、上眼づかひに私を睨む。
「――よけいなお世話だよ。《
 どうも私にはわからない。いつの間にか大人になつたツルには、男の大人達と、私に理解できない世界があるらしい。
しかしそのツルが、例の――駕でゆくのはおツルぢやないか――と唄ひだされると、怖えたやうに、こんどはホンとに母 家の方まで逃げていつてしまふ。そして近頃は、この文句が、他の店の米搗務男たちの間にも拡がつていつた。
「よいしよツ、一番こいツ――《
 上意に、ボンヤリしてゐる首ツ玉と寅さんにツカまれて、私は空俵の上へ拠げとばされる。ボンヤリしてゐるともつと 抛げとばされるから、私も必死になつて組みつき、巌のやうな寅さんの胸板にぶつつかつてゆく。
「う―むと、ちよツぴり強うなつたなイ、よいしよツと――ええか、ほらアツ。《
 懸声よりもはやく、私の身体は宙天にとびあがり、再び空俵の間に埋まつてしまふ。寅さんの毛むくじゃらの手足には、何とも力があり剰つてゐて始末に困るらしい。私は猫の子のやうに弄くり廻され、寅さんがやつと静かになつたときは、 その腕の下で、私はもううごけない。
「お前な、あとでこの薬を買つてきてくれ、え?《
 拠げだされたまま、柿の枝ごしに青い空を眺めてゐると、傍にながくなつた寅さんが、こツそりと紙片を私に渡す。赤 ン坊みたいな小さい平仮吊が、こつぱづかしさうにならんでゐる。
「また、すゐぎんなんかうかい。《
 大きな声をだすと、寅さんは慌てて私の頭をおさヘつけた。私は二度めで、すゐぎんなんかうが、何に使ふ葉だか知つ てゐる。
「お内儀さんに悟られねえやうにな、ええか?《
 主人なら構はないかい? と私が訊きかへすと、寅さんはそれに答へずに、――若いときや、二度なし……イ――と、 物哀しいやうな唄で咽喉をふくらましてゐたが、あふのいた儘で独りごとのやうに呟いた。
「主人だつてさんざあそんでゐるよ。金はあるし、いくらお内儀さんが怒つたツて、仕方ねえやな。《
「あそぶつて、いつかいつたとこかい?《
 私は寅さんに伴れてゆかれた「面白いとこ《を憶ひ出した。すると寅さんはふとい眉毛をしかめて、鹿爪らしい顔でこ たへる。
「もつと凄げえとこだ。一と晩何十円てかかるとこだ。おめえなンぞ生涯拝めねえやうなとこだ。《
 しかし私には生涯拝めないやうなところは想像もつかぬし、興味もない。それよりかこの米搗男はいつたい何が目的で、 この世の中に生きてゐるのだらうといふ気がする。まるで年ぢう酔つぱらツてるみたいだ。
「ツルは売られるの?」  私はフツと訊いてみた。信じられないことだけれど、この男がよく唄ふからだ。
「そんな話だ。《
 陽あたりに伸びちやつたやうに、寅さんは欠伸しながら、苦もなく答へた。私はおどろいた。人買といふ言葉や怖ろし い話はきいてるが、そんなことがほんとに有つて堪るものか。
「真実かい?《
「ツルに訊いてみろ。」  ニヤニヤしながら寅さんがこたへる。嘘だい、この男が私をかついでゐるのだと思つた。売るンて、米や砂糖ぢやあ あるまいし。力ンカンお太陽さまが照つてるぢやないか!
「お前、売られるツて真個か?《
 勝手口でぶつつかつたとき、私は安心したいために、本人に訊いてみた。
「嘘だ、ネヱ?《
 ツルの顔色がみるみる変つて、私を撲たうとした。
「バカつ、バカつ――《
 彼女は泣声でわめきつづけた。私は非常に済まない気がした。全く私はバカだ。そんなことある筈がない。彼女は自分 で店の家族の一人だと思つてるし、九歳からこの家で育つてきたのだ。そしてあの口喧しいお内儀さんがひかへてゐるし、 太鼓腹した主人がいかめしくちやンと坐つてゐるではないか。人買ひなどが忍びこんで来ようたツて、そんな隙はないの だ。私は安心して、彼女から逃げていつた。
 ところが、ある雨の降る晩、その人買が店へやつてきた。高下駄穿いて、堂々と店の表口から入つてきたのだ。――
 そのとき私は店の表暖簾をはづして羽目戸を繰り、大戸だけ残してから、土間の砂糖樽の上に腰かけてゐた。上り框に ちかい人鉢の両側は、番頭と寅さんが分捕つてゐるし、向ふ側にはお内儀ざんが、主人はまだ帳場で、算盤に顔をつつこ んでゐた。
「ごめんください。《
 嗄がれた声がして、さきにツルの母親が入つてきて、破け番傘をすばめ、背中で痩せた足首をブランブランさせてゐる 子供をゆすりあげながら、土間の入口につつたつた。つづいて背の低い男がひよツこりあらはれた。大黒帽子に黒眼鏡を かけ、白い縮緬の兵古帯をしめてゐる。そしてじろツと主人たちの方を見てから、黙つたなりで自分ひとり、雑穀桶の蔭 にかくれるやうに腰かけてしまつた。しかし私はこれが人買ひの正体だと知らないからべつに怖くなかつた。
 すると突然、帳場格子のむかふで、ワアツと、ツルが泣き声あげたので、私は砂糖樽からとびあがつた。いつたい何だ らう? ツルの母親はその泣声をひつ捕まへようと帳場へあがりこみ、格子のところでお肉儀さんに遮ぎられながら、尖 ンがつた唇で唾をとばしてゐる。――ツルが売られるのかも知れない。
「そりやねえ、あんたの娘だから、あんたが勝手にしたつて仕方ないけど――、本人はあの通り泣いてるんだから。《
 どうもへんだ、いつになくお内儀さんの方が受太刀である。たちはだかつて格子のむかふに飛びこまうとする勢ひのツ ルの母親へ、及び腰でオロオロ声である。まるでお内儀さんの方があやまつてるみたいだ。しかしまだ私は安心してゐる。
主人が帳場に算盤で肘をささへながら背後のさわぎを聴いてるからだ。
「ツル、出てこいツ、ツルつ――《
 ツルの母親は背中の子供を落つことさんばかりに喚めきたてる。
「え―い、親上孝もんが、今になつてメソメソしやがつて、恥さらしめツ。《
「まあさう云はんで……、親子ぢやないかね。《
「退いておくんなさい、退いて、えーい、この阿女ツちよ。《
 お内儀さんが負けさうだ。私はいそいで竈の下から薪をツカんできた。おツルがあぶない。彼女はオロオロと泣きな がら、お千加さんの座敷へとびこみ、縁側へゆき、茶の間へもどつて、どこも隠れ場がないのだ。主人がそれと云つたら 私はとびだすつもりだが、どうも容子が違ふ。お内儀さんはもう「勝手にしろ《といふ顔色で手を離してしまひ、ツルの 母親は格子の内部にとびこんだ。ツルの叫び声と一緒にどたばたと足音がぎこえ、それからくらい台所の方で、ウオーツ と吼えるやうなツルの泣き声が起つた。ツルが捕まつてゐる……。
 私は薪を握つて台所と店土間をウロウロした。ツルは跣足で引摺りだされてゐるのに、主人は相変らす算盤に肘をつい た儘だし、番頭も寅さんも、手出しはならぬと云つた顔色で、火鉢にかじりついてゐる。これはいつたいどうしたといふ のだ?
「イヤだつて云つてるぢやないか。」  暗い中暖簾の蔭で、ツルは袂を引き裂きながら跣足を踏んばつてをり、その頭髪をツカんで引つぱつてゐるツルの母親 をみると、私は肩をつきとばした。
「な、なにをするんだよ、このガキは。《
 背中の子供ごとひつくりかへつても、ツルの手を離さないで、ツルの母親は私へ喚めきたてる。するといつの間にか私 を突きどけて、先刻の大黒帽をかぶつた男が傍にたつてゐた。そしてツルは苦もなくづるづる引きだされてゆくではない か? ツルは銀杏返しもさんばらになり、涙と鼻汁とで赤ン坊みたいにくしやくしやになつてゐる……。
「直ツ、ひつこんどれ――《
 一緒くたに引きだされて明るい店土間までゆくと、そのとき始めて主人が云つた。ひどい嗄れた声で、こんどはその大 黒帽に話しかけた。私はおどろいた。
「――ま、貸がなくなつてしまへば、煮て喰はうと焼いて喰はうと、ツルの身体はそつちのもんで、わたしの方から文句 のつけやうはないけれど。しかしだネ、これで十年ちかくも家にゐたのだから、泣きながら出られたのでは可哀想で、わ たしの方もねざめがよくない。――その、本人が得心するまで……《
「せめて一晩でもネ。《
 主人についでお内儀さんが云つてゐる。私は狐に誑されてるやうだ。大黒帽の男はツルを大戸の外へつきだしておいて から二足三足もどり、ゆつくり煙草の火を点けながら、まだツルの方を睨んでゐるのに、寅さんも番頭もボンヤリ口を開 けて眺めてゐる。――
 私は大戸の外へとびだした。ツルはまだ泣きながら地蔵堂の境内を廻つて、跣足に銀杏の落葉をビチヤビチヤ踏みなが ら、母親にひつたてられて歩いてゐる。私はどうすればいいのだ……。町端れへ出ると、豆腐屋の蔭の暗いとこに人力車 があつた。ツルは忽ち押しこめられ、すぐ幌がおろされた。もう泣きじやくりもきこえない。大黒帽が暗がりへもどつて きて、何かツルの母親と話してゐる。私はツルを呼びたいが怖くて声が出ない、――そして入力車が動きだした。町にも もう灯が少く、人力車は角をまがつてしまつた。
「なンだ、濡れしよぼたれて――《
 店へ帰ると、芝居でも見物した後のやうに、火鉢の傍へ顔を寄せあつてゐた人々が、私をみてわらつた。私は気がつい て薪を土間に捨てたが、なぜかすぐ皆の傍へゆけなかつた。
「でも可哀想ネ、どこへ売られてゆくのか知ら?《
 寝衣に羽織ひつかけて帳場へ出てきたお千加さんが、ゾクゾクすると云つた恰好で、皆の間へ割りこんでゐる。
「どにへ売られたンだか――《
 主人は欠伸して、
「どうせ筑前ゐたりの炭坑町だらうよ、アツ、アツ、ア――ア。《
 私はひとり暗い台所へきて、声だけを聴いてゐる。――
「しかし、無慈悲な親もあつたもンだな。《
 煙管をたたきながら、惣さんが呟くと、こんどは寅さんの大きな声が云ふ。
「惜しいことしたなイ、どうせ売られる女なら、畜生。《
 そこでお内儀さんの甲だかい声を先頭に、ドツと笑ひ声が起つた。
 私の頭脳は大波に揺られてゐるやうである。お太陽さまは毎日カンカン照つてゐるのに。お内儀さんも、主人もゐたの に……。私は暗い台所の隅で泣けて泣けて仕方がない。
 やがて足音がして、頭の上でお内儀さんの声がきこえた。
「びつくりした。そんなとこで何をしてんだよ。さつさと戸をおろして寝ろ、寝ろ――。《
 私はこつそり涙を拭いて、台所の隅から出てゆかねばならない。(了)   作者付記 私の丁稚奉公の記録はまだ半ばであるが、これで一段落にして、また続きを書くことにする。

      *『新潮』通巻四一四号(昭和一四年四月一日発行)による。
      *上備があるかと思います。ご指摘くだされば幸いです。