案内
 視点提示の2番目のものです。「対立」と「棲み分け」のうち、「対立」をよりよく見るための視点と言ってもよいでしょう。
 主流・在来の形式に対して、それからはずれるものがあります。もちろん、それが、やがて主流になることもあります。そのような、必ずしも単線的ではない節用集の展開をみるのに、「逸脱」と「典型」という視点から自覚的に見ることが必要だと考えました。なお、「典型」と「逸脱」は、ともに書肆(出版社)の工夫(独占販売を保証する特許のようなもの)をめぐって生まれるものだと考えました。


節用集の世界──典型と逸脱──




 節用集は、一五世紀なかばごろより編まれた辞書である。収載語は、漢字の形ではなく、読みや意味で分類されるので、漢字を書くために引く用字集として使われた。
 江戸時代、徳川政権は、いわゆる「文字による支配」を敷いたため、極言すれば、読み書きができなければ生きていけない時代が到来した。こうした世情では、節用集のような辞書の需要は増えたことであろう。一方で、木版による印刷技術も発達し、営利出版が成り立つようになった。世情と技術があいまって、節用集は、本屋に利益をもたらす商品となり、種々の展開をみるのである。
 その過程で節用集は典型的なスタイルを獲得するが、そこから逸脱するものも出てくる。が、見方をかえれば、逸脱をうみだす力があるからこそ江戸時代の節用集は豊かな展開を遂げたのであり、逸脱が展開のゆくえを象徴する例もないではない。そこで、逸脱を見ることで、江戸時代節用集の世界をかいまみようと思う。

  江戸時代節用集の典型

 まず、基準となる典型的なスタイルを確認しておこう。
 江戸時代の節用集というとき、『合類節用集』(延宝八〈一六八〇〉年刊)や『和漢音釈書言字考節用集』(享保二〈一七一七〉年刊)などを思い浮かべがちである。たしかにこれらは特有の特徴と価値を備えたものだが、それだけに江戸時代節用集一般からみれば異質なものである。ここでは、そのようなものは除き、ごく一般的な節用集での典型を示しておく。なお、『永代節用大全無尽蔵』(明和七〈一七七〇〉年刊。架蔵)の図版を示すが、典型中の典型ということではなく、あくまで一例にすぎない。
 まず、大きさは現代のB5判ほどの美濃判で、巻頭には挿絵入りの付録が配される。絵地図・武鑑・公家鑑・礼儀作法・茶華道・囲碁将棋・料理・珠算・占いなどといった教養記事が多く、言語関係の付録を圧倒する(図1)。
 これらの付録のあとに節用集本文がくるが、その上部(頭書)にも付録が配される(図2)。節用集本文では、イロハ・意義分類体で語を収める。これは、読みの一字めの仮名でイロハ順に分け、さらに十数の意味分野に分けるものである。各語の表示には真草二行体が採られる。これは、行書あるいは草書で大きく漢字表記をしめし、その左に楷書体を小さくしめすものである。行草書には平仮名で、楷書には片仮名で読みがつけられる。ただし、行草書の読みが訓読みなら楷書には音読みを、行草書の読みが音読みなら楷書には訓読みをふるのが普通である(図3)。
 なお、これらの特徴は、それぞれあらわれる時期に差がある。けれども、すべての特徴をもつ節用集は、元禄年間(一六八八─一七〇四)には現れ、長く、幕末まで刊行されるので、典型と認めることとした。ただ、すべての特徴に触れる余裕はないので、漢字・訓の表示法やレイアウトなど「見せ方」にかかわる四点についてみていきたい。

  真草二行体からの逸脱

 真草二行体は、早く『節用集』(慶長一六〈一六一一〉年刊)から採用された典型の中核である。これから逸脱したものに『頭書大益節用集綱目』(元禄三年刊。図4。亀田次郎文庫本)がある。篆書を付して三行体としたのである。すでに真草二体が定着していたのだから、新たな書体の追加は、比較的容易に発想されたのであろう。
 しかし、篆書を必要とする人には重宝しただろうが、そうでない人には余計な工夫かもしれない。篆書の分のスペースを詰めても、よりコンパクトで安価なものの方がより好まれたようにも思う。実際、『頭書大益節用集綱目』は再版されなかったらしい。米谷隆史(一九九七)が改題本とする『大極節用国家鼎宝三行綱目』(元禄三年刊)があるくらいのようである。
 ただ、こうした逸脱が『頭書大益節用集綱目』で実現されたことには理解できる面がある。本書は、六分冊で刊行されているので、はじめから紙面構成に余裕を見込んでいたと思われるからである。ならば、『頭書大益節用集綱目』の工夫は、利益の点では心もとないけれども、以下にみる逸脱にくらべて、それほどおとしめられるものでもなさそうである。少なくとも篆書を知り、書くためには、この体裁の節用辞書がもっとも簡便なのだから、目的意識は明確だったといえるからである。

  頭書からの逸脱

 頭書は『頭書増補二行節用集』(寛文一〇〈一六七〇〉年刊)で採用された比較的新しい典型である。これからの逸脱は、大阪の本屋・伊丹屋がはじめた「三階版」で、頭書を上中二段に拡大したものであった(図5)。
 伊丹屋は、このレイアウトを『大広益節用集』(元禄六年)から採用したが、宝永六(一七〇九)年ごろ、大阪の吉文字屋らが三階版の『字林節用集』を出版したため、独占権が争われることになった。詳細は佐藤(一九九五)にゆずるが、話し合いの結果は次のようであった。
 一節用集・百人一首、三階板之義は不及申、四階五階成  不申候
 一節用集本文之所、三階板伊丹屋茂兵衛一人ニ而御座候 一字林節用集、吉文字屋市兵衛・柏原屋清右衛門・敦賀  屋九兵衛相合板一代切ニ而御座候
   (中之島図書館〈一九八二〉「裁配帳」一番より) 後二項は、三階版を伊丹屋の独占権とし、『字林節用集』は現行の版木が磨滅するまでの刊行を許したものである。はじめの項は、何人たりとも四階版・五階版を刊行してはならない、とするものである。
 これは同種の争いをふせぐためのものだが、エスカレートを想定している点が注目される。そもそも三階版にどのような利点があるのかはっきりしないのに、四階版・五階版ではなおさら分からない。けれども、本屋たちのあいだには、そうした無駄な逸脱をしかねない雰囲気やエネルギーが横溢していたということなのだろう。このように、当時の出版界事情がうかがわれるのが興味深いのである。
 ともあれ、この争いで権利関係が明確になった。他の本屋に許されたレイアウトは、頭書タイプか、頭書を廃したタイプにかぎられたのである。結局、三階版は、典型を決定づけた大きな意味をもつ逸脱だったことになる。

  逸脱としての楷書漢字の振りがな

 ここでは、これまでとは次元の異なる逸脱が典型のなかに含まれていることを示したい。それ自体が興味深いからだが、四つめの逸脱をみる準備にもなるからである。
 典型的な節用集では、楷書の振りがなは片仮名であった。この組み合わせは、両者とも直線的な筆画なので目になじみ、右側にくる行草書・平仮名振りがなの曲線とも好対照である。ただ、こうした印象は、はじめから楷書の振りがなが片仮名だったかのように思わせ、ほかの可能性を想像させない。が、実際にはいくつかの試みがあった。
 早い例に『頭書増補二行節用集』(延宝七〈一六七九〉年刊。図6A。亀田本)の左傍・平仮名や、『増補頭書両点二行節用集』(延宝九年刊。図6B。亀田本)の右傍・平仮名がある。典型と同じ形式は『広益二行節用集』(貞享三〈一六八六〉年刊)からになる。また『頭書増補節用集大全』(元禄六〈一六九三〉年頃刊。図6C。亀田本)では、楷書の左右に片仮名・平仮名で複数掲げている。このように一七世紀末にはいくつかの形式が集中していたのである。結局、典型の形式は、仮名の位置も含めて、単なる可能性の一つだったことになる。また、延宝から元禄にかけては、亀田文庫本でみるかぎり、典型以外の形式の方が多く刊行されたようである。
 典型の形式は、そのようななかから残ったのだが、視覚上の安定感にくわえ、当時の文字使用のありかたからも自然なものである。たとえば、漢籍などでは楷書漢字の本文に片仮名で送りがなを添えるし、和製の仏教書でも楷書漢字・片仮名まじりのものが多いからである。おそらくは、そうした文字使用の実態を考慮したのでもあろうが、典型にふさわしい落ち着き方であった。
 ただ、楷書への振りがなは、行草書の振りがなが訓読みなら音読みを、音読みなら訓読みを示すものである。これは、読みの可能性や意味を示すものであり、つまりは、漢字を理解するための情報である。この種の情報は、漢字を書くための節用集にはかならずしも必要ではなく、倭玉篇のような漢和字典にこそふさわしいはずである。実際、漢和字典との交渉を明示するものもある。山田忠雄(一九六一)には、右にあげた『頭書増補節用集大全』(元禄六年頃刊)と同じ表示法の『頭書増補節用集綱目』五行本が挙げられるが、その表紙の題には『鼇頭節玉用編』とあるという。「鼇頭」は頭書のことだが、「節玉用編」は節用集と玉篇・倭玉篇との互字なのである。
 楷書への振りがなは、利用者へのささやかなサービスのようにも見えるが、実は、節用集の存在意義にかかわる大きな逸脱でもあった。江戸時代節用集の典型的なスタイルは、そうした逸脱をかかえこんだものなのである。

  節用集からの逸脱

 藪田浄因編『字彙節用悉皆蔵』(宝暦一三〈一七六三〉年刊)は、図7Aのように多くの読みを掲出するものである。これは、典型的な節用集がかかえこんだ逸脱をさらに逸脱しており、その究極の姿ともいえよう。ただ、こうした表示法からまず想起されるのは、倭玉篇である。たとえば『増補倭玉篇』(寛文二〈一六六二〉年刊。架蔵)では図7Bのようになっているのである。
 それにしても、なぜ、ここまで倭玉篇に似せた体裁をとることになったのだろうか。
 漢字を書くための辞書が節用集なら、漢字を読み、理解するための辞書の代表が倭玉篇であった。両書は、漢字をめぐるアプローチが正反対だからこそ、鳥の両翼、車の両輪にもたとえられた(米谷〈一九九七〉)。また、それだけに、両書を編集することは、漢字に関心のあるものが容易に思いつくことだったらしい。早く、易林と名乗るものが、室町時代の節用集のなかで特異な性格をもつ『節用集』(慶長二〈一五七〇〉年跋、刊本)を編み、また、夢梅の名で倭玉篇中の異端『倭玉篇』(慶長一〇年刊)を世に送りだした例が知られている。さらに節用集と倭玉篇を一書の内に提供するものも現れる。山田忠雄(一九五九)によれば、『倭玉篇』(寛永一六〈一六三九〉年刊)が節用集との「合刻」の早い例という。くだって、三階板『大広益節用集』(元禄六年刊)は、上中下段に倭玉篇・語注・節用集を配したものであった。このような歩みが、節用集と倭玉篇の融合というアイディアを醸成した誘因であったとも考えられなくはない。
 しかし、だからといって、そうした発想がすぐさま実現されるものだろうか。右のような歩みは、節用集と倭玉篇を近づけたが、それは内容にまでおよばない。あくまで、節用集は節用集として、倭玉篇は倭玉篇として、それぞれに使い分けるべき独立した存在としてあった。また、倭玉篇の情報を節用集に組み込もうとしてもやはり無理がある。倭玉篇の情報は、漢字を読み、理解するためのものであって、漢字を書くための節用集にはなじみにくいからである。したがって、両書の融合はあまりに大胆なことに思われ、その実現も信じがたいのである。せめて、誘因だけでなく、内因となる要素を見つける必要があるだろう。
 大事のまえには小事の集積がある。大きな変化も詳細に過程をたどれば自然な推移と見える。そう考えるとき、前項の『頭書増補節用集大全』(元禄六年頃刊)と『頭書増補節用集綱目』五行本に目が行く。楷書漢字に複数の振りがなをつける点が『字彙節用悉皆蔵』に近いからである。ことに『頭書増補節用集綱目』は、別名に『鼇頭節玉用編』とあることから倭玉篇との関係は明らかだった。そして、この節用集の刊行者は、山田(一九六一)によれば藪田だという。さらに、楷書に振りがなをつけた初期の例に『頭書増補二行節用集』(延宝七年刊)があったが、この刊記にも「藪田開板」とあるのである。
 したがって、藪田は、漢字理解のための情報を段階的に節用集に盛り込み、ついに『字彙節用悉皆蔵』に至ったことになる。ただ、この過程は、延宝から宝暦までの八〇年以上におよぶので、計画としては遠大にすぎる。新たな工夫を考える際に、繰り返し自家の出版書にヒントをもとめたため肥大化した、というのが現実に近いのであろう。

  逸脱と典型の関係

 四つの逸脱をみてきたが、あらためて逸脱の力を知ったように思う。ことに最後の倭玉篇との融合は、右のような筋道をつけたものの、正直言って実現できたことがいまだに納得できないほどである。三階版では、無用な工夫を生み出しかねない空気が感じられたし、典型的なスタイルを決定づけたことも知られた。また、同時に、典型的なスタイルが、典型らしいほどほどの特徴をそなえていたことも確認できた。ただ、それは、本屋たちの「見せ方」をめぐる美的感覚によるのではない。
 本屋たちは、出版の独占権をえるために新規の工夫を盛り込んだ。が、それはそのまま、典型からの逸脱を意味する。ならば、新たな工夫のないものが──ほどほどのものが──自動的に典型となるだけのことである。
 また、こうも言えよう。新規の工夫は、大きな利益をもたらすかもしれないし、単に珍奇なだけで資力を無駄に使わせるかもしれない。が、どんなものであれ、他の本屋は真似ることができない。真似たとしても、独占権の所有者が、賠償・絶版など、相応の措置をとるばかりである。結局は真似たものの損になるから、他人の工夫には手を出せず、典型的なスタイルで出版するしかないのである。
 したがって、典型が典型らしいほどよさをそなえたのも、そしてそれを長らく保てたのも、独占権の制度によるのである。
 独占権と典型にこうした関係があるなら、独占権のありよう、ことに制度化された時期を知りたくなる。制度化以前の工夫なら典型にもりこまれるだろうから、典型の成立時期の上限が分かることになるからである。独占権が事実上幕府に公認されたのは元禄一〇年前後だが、それ以前にも本屋間には非公式の合意があったらしい。ただ、その時期は必ずしも明らかではない。が、幸いなことに、制度化以降は独占権が典型的スタイルを間接的に固定化するのだから、逸脱例の発生時期に注目することで制度化の下限を知ることはできそうである。
 節用集における典型と逸脱を見つめることは、節用集の世界をみることはもちろん、その背後にある出版機構の根本的な問題について、なにごとかを発言できる材料をえることにもなりそうである。


参考文献
 上田万年・橋本進吉(一九一六)『古本節用集の研究』東京帝国大学。勉誠社復刻(一九六八)
 佐藤貴裕(一九九三)「書くための辞書・節用集の展開」
『しにか』四月号
 佐藤貴裕(一九九五)「近世節用集版権問題通覧──元禄・元文間──」『岐阜大学教育学部研究報告 人文科学』四四─一
 中田祝夫・北恭昭(一九七六)『倭玉篇夢梅本篇目次第研究並びに総合索引』勉誠社
 中之島図書館(一九八二)『大坂本屋仲間記録』第九巻清文堂
 森末義彰(一九三六)「易林本節用集改訂者易林に就いて」『国語と国文学』一三─九
 山田忠雄(一九五九)「漢和辞典の成立」『国語学』三九
 山田忠雄(一九六一)『開版節用集分類目録』
 米谷隆史(一九九七)「元禄期の節用集について」『語文』(大阪大学)六九


『月刊しにか』2000年3月号所収