佐藤 貴裕
はじめに
若耶三胤子編『合類節用集』(延宝八〈一六八〇〉刊)・槇島昭武編『和漢音釈書言字考節用集』(享保二〈一七一七〉刊)は、近世節用集の代表格であるとの共通理解が国語学に関係する人々にはあるように思われる。しかし、収載語数などの点をのぞけば、どのような点で代表であるのかは、今後の研究にまつべき点も少なくないようである。
そのようなことを意図した研究は、結局のところ、『合類節用集』なり『書言字考節用集』なりの、近世節用集ひいては近世語資料・国語史資料のなかでの位置づけをおこなうことにつながろう。個々の節用集のとる位置を明確にするには、検索法や本文の系統などをはじめ、他にも種々の観点からみることが必要である。また、近世節用集は、出版という形態で流布するので、その点からも考慮がなされるべきと思う。このことは、どちらかと言えばスタティックな書誌的な検討と必ずしも一致しない。むしろ、出版機構のなかでどのように扱われているか、そしてそれが何を意味し、位置づけのためにどんな役割を果たすのかを考えることになろう。以下、そのような見通しのもと、『合類節用集』『書言字考節用集』における版権問題を一覧しておきたい。
なお、『合類節用集』と『書言字考節用集』はいくつかの共通点がある。収載語の異同など内容面はともかく、外形的な面では、たとえば、板元は京都の村上勘兵衛であり、検索法はイロハ分けの上位に意義分類をおく合類型である。書名も『書言字考節用集』の題簽・見返しでは「■合類大節用集・和漢音釈書言字考合類大節用集」と相似る。このような類似のためか、近世の諸資料はもとより、本屋仲間の記録などでも両者を明確に区別しないことがある。したがって、本稿ではこの点に関してさして留意しないことにした。また、両者をあつかうのも、このような理由もあってのことである。
一 『合類節用集』『書言字考節用集』と近世節用集
右のような共通点をもつ『合類節用集』と『書言字考節用集』だが、近世節用集とのかかわりで明らかにされていることは、かなりの差がある。
『合類節用集』の再板本は確認できないが、かわりに検索法や本文などをならった節用集がいくつか開板されたことが知られている。もっとも早いものが『鼇頭節用集大全』(貞享五〈一六八八〉刊)で、本文の上欄に語の解説をかかげたものである。このような形式は、『頭書増補節用集大全』(寛文一〇〈一六七〇〉刊)以来、近世節用集に定着したものである。なお、『鼇頭節用集大全』から転じたものに『合類節用無尽海』(天明三〈一七八三〉刊)がある。ついで、『広益字尽重宝記綱目』(元禄六〈一六九三〉刊)があり、『合類節用集』の小型本よりも小さく、一冊本に仕立てることも可能だった。さらに『三才全書誹林節用集』(元禄一三刊)があるが、これは、従来の節用集のようにイロハ分けの下に意義分類がくるよう改編したものである。なお、世話字集にまで目を転じれば、『一代書用筆林宝鑑』(享保一五〈一七三〇〉刊)の頭書に付録のごとく配された「書面走廻用字」などをはじめ、数多くの例があがることになる。
このような『合類節用集』の改編は、頭書の追加や検索法の改変などは通行の節用集への接近であるし、小型化や書翰見本書の頭書付録にいたっては通俗化というにふさわしい姿を示している。いわば『合類節用集』は近世節用集や世話字集のなかに埋没していったのだが、それを、根を下ろしたものと捉えることもできるのではないだろうか。
これに対して『書言字考節用集』は『書言字考節用集』として再板され、そのことが受容のさまをしめすものとされている。また、海外での出版や対訳辞書との関連、随筆などへの引用が示されてはいる。しかし、近世節用集との関連について述べたものはほとんどない。このことは、必ずしも『書言字考節用集』が他の節用集と無関係であることを示すのではなく、単に関係が把握しづらいことの現れとも考えられる。この点、『合類節用集』では、世話字集へ改編されるほど特徴的な用字が目じるしとなり、他書との関わりが目につきやすかったという事情もありはしないか。ならば、『書言字考節用集』にあっても他書への目安をつければよい。版権問題を一覧する意味はそこにも求められるのである。
二 節用集との版権問題
以下、『合類節用集』『書言字考節用集』をめぐる版権問題を、本屋仲間記録などを中心にみていくことにする。まず、節用集との版権問題からみておこう。
(1)広益字尽重宝記綱目
本書に関しては、京都本屋仲間上組の「済帳標目」に次のような記述がある。なお、この件は、節用集の版権問題が記録された最古の例でもある。
この件は「右元禄七戌五月迄裁判也 下組裁判帳ニ十一人連判有」の年次を有する件よりも前に記載されており、収拾の時期のおおよそが知られる。なお、本書は『合類節用集』とかなり密接な関係にあり、本件以降、村上勘兵衛が中心になって再板されていくので、以下では、本書をめぐる版権問題も加えてみていくこととする。
(2)三才全書誹林節用集 本屋仲間の記録には、本書が、版権上問題になったという記述はない。が、本書の諸本を六類に分けた小川武彦氏によれば、刊記に井筒屋庄兵衛の名だけが記されるのが初摺(I類)と目され、再摺(II類)以降に村上勘兵衛の名が見えるという。このことから、版権上の問題があったことが推測されよう。すなわち、はじめ村上が関与しないまま刊行されたが、彼が『合類節用集』の版権に抵触するものと抗議したため、共同出版の形とし、再摺本からは彼の名が加わったと考えられるということである。
(3)悉皆世話字彙墨宝 本書は、近世中期の著述家として有名な中村平五三近子の作である。「済帳標目」には次のようにある。
「御公辺ニ及」からは村上が奉行所へ訴えでたことが知られるが、「行事へ願下し」とあるので、奉行所は裁許せず、本屋仲間内部で処理されたことになる。
ただし、村上がどのような点を抵触事項とみたかは、記録からは知られない。そこで、国会図書館亀田文庫本により内容のうえから推測しておく。本書の検索法は、イロハ分け・意義分類で通行の節用集と変わった点はない。ただし、意義分類は、天・神・時・官・人・名・衣・食・器・支・魚・貝・鳥・畜・虫・草・数・世・漢の一九門と細かいものになっている。従来の節用集で気形門として一括されるものが、魚・貝・鳥・畜・虫に振り分けられる点などは、『合類節用集』が魚鱗・介貝・龍蛇・虫■・禽鳥・諸獣に分けるのに通じる。また、通行の節用集では言語門として一括されるのが世・漢だが、このうち漢は「漢語の熟字に和訓をつけ書翰風の字ミなあり」と称するもので「俗間にも書状往来のときにあたりて異名或は書翰風の媚たる字づかひをこのむ人もあれば、今はじめて書翰の文字に和訓を裁して、悉くこれをのす」(序)に応ずるものである。収載されたものをみると、「承〓示。蒙 命」(あふせのことく あふせのことく)をはじめ「商風。米花。豆花雨。銀口魚」(あきかぜ あられ あきのあめ あゆ)などもあり、いわゆる世話字の領域に近いものが見られる。さらに詳細を検討する必要はあるが、いまのところ、右のような二点が村上の目に止まった可能性か高いように思われる。
(4)大節用文字宝鑑
ついで、大坂の吉文字屋市兵衛らが開板した『大節用文字宝鑑』との問題がある。「済帳標目」では宝暦六(一七五六)年五月より九月までの項に、
とあるだけだが、大坂本屋仲間の「備忘録」に大坂行司から京都行事への返信四通分の写しがある。第一信は「子(=宝暦六年)六月卅日」の日付があるもので、村上のクレームに対し、大坂行司が吉文字屋らを呼び寄せ、事情を問うたことなどが記されている。その一部には次のようにある。
『大節用文字宝鑑』はもともと吉文字屋らが所有していた版権による開板であって、『広益字尽重宝記綱目』に差し障るものではないという。この返答に京都行事は不満であった。そのことは大坂からの第二信にもあらわれている。
この後半部は、情報の摂取という点で興味深い。当時、書物の出版は奉行所が許可するが、実質的な検閲−−幕府批判や風紀糜爛の可能性の有無、既成の書物に版権上抵触しないかなど−−は本屋仲間がまずおこなった。これを板木に彫るまえに写本で受けるのだが、村上は、この段階でクレームを付けてきている。しかも「写本各様未た御披見不被成」なのにである。となれば、写本をみることができた大坂本屋仲間の構成員のなかに、村上へ通告した者がいたことになる。ただ、その名は知られず、通告がその者の好意なのか、村上の築いた情報網とみるべきなのかは判断がつかない。
が、このことに関して、翌宝暦七年の、やはり吉文字屋が計画していた『国字節用集』の件が参考になる。写本の段階でクレームがつき、しかも版権所有者が写本をみていないなど、『大節用文字宝鑑』とまったく同じケースである。版権者である京都の木村市郎兵衛が、京都行事に提出した口上書には、次のようなくだりがある。
さらに、京都行事から大坂行司への書翰には次のように記されている。
確実な情報源として柏原屋(渋川)与市の名が明記されている。柏原屋といえば、宝暦二年に『ホシ早引節用集』を刊行した書肆であり、後年、検索法をめぐる版権問題でいくつかの新案をほうむったものである。節用集の検索法に関心のある書肆であるから、宝暦六・七年ころから敏感に対応していたことも考えられよう。となると『大節用文字宝鑑』の場合にも柏原屋が通告したこともありうるのだが、確証はない。ここでは第三者の立場にあるものが通告する場合があり、版権侵害の事実なり可能性なりを版権者がいちはやく察知することができたことを確認するにとどめておく。
前後するが、『大節用文字宝鑑』がどのような節用集であったかといえば、亀田文庫蔵本によれば、三切横長本で、意義分類の下をイロハ分けしたものである。このことは大坂行司からの第二信にも、 尤市兵衛方ニ三つ切本は所持仕、字尽門部いろは分ケも所持仕居申候と記されている。結局、『広益字尽重宝記綱目』と同じ検索法であることと、同じく小型であることが、抵触事項だったのだろう。なお、その後、村上の主張が通ったかいなかについては記述がない。
5)無双節用錦嚢車 京都・近江屋庄右衛門が開板した本書も村上からクレームがつけられた。「済帳標目」の寛政一二(一八〇〇)年五月から九月までの項には、 一近江屋庄右衛門殿方願相済候ニ付、村上勘兵衛殿ヨリ被指出候口上書とある。また、「済帳標目」の同年九月から翌年正月までの項に 一 無双節用錦嚢車 近江屋庄右衛門殿願写本、但シ銭屋長兵衛殿指出仕候 願人村上勘兵衛・万代講中とある。「願相済」から奉行所から免許が出たことが知られるが、そこで村上がクレームをつけ、後日あらためて村上の書として開板を申請したことになる。もちろん、この間に近江屋との交渉はあっただろう。ただ、近江屋か関係者のなかに強く異を唱えるものがいて、他地で免許を受けようとする動きがあったらしく、大坂にも次のような依頼がなされた。
そのような者がでる背景には、村上の言い分が「微塵にても疑はしきものに対して強いて異を立て、類板呼はりをな」
すのたぐいだったことが考えられる。さらに、一度は免許をうけたという思いも近江屋のがわにはあったことだろう。しかし、そこまでの細部にいたる事情を教えてくれる資料は見当たらない。
三 節用集以外との版権問題
本屋仲間記録には、村上勘兵衛が『合類節用集』などに抵触するとしたのは、節用集だけでないことが知られる。以下、そのような例をみておく。
(1)博物筌
本書は明和七(一七七〇)年に刊行された。国会図書館蔵本によれば、イロハ分け・意義分類をほどこすものである。
意義分類は、乾坤・神仏・人物・官位・芸能・器材(器財とも)・衣食・妙薬・妙術・気形・草木・異名・雑事で節用集に近い点もある。が、凡例に「此書ハ、上九天ノ高キヨリ下千尋ノ底ヲ究メ、泰山ノ大ナルヨリ秋毫ノ末ニ至ルマデ悉ク理ヲトキ、疑ハシキヲ解シ国字ヲ以テ類ヲ分チ、博物ノ助トス」とあるように語釈・解説に重点をおくもので、字引というよりもいわゆる類書に近い性格のものである。
本書に対しても村上勘兵衛からクレームが付けられた。この件については、京都仲間や大坂仲間の記録には断片的な記事しかないが、さいわい、大坂の書肆・河内屋新次郎の文書が国会図書館に存し、そのなかに「博物筌株要用書」がある。いま、それから経緯を記した部分を引いておく。
村上勘兵衛記録帖ニ有之写
一 博物筌と申書、大坂吉文字屋市兵衛・藤屋弥兵衛両人出板被致候処、則大半紙三ツツ切横本中之趣向ハ合類節用取組書述候書ニて、尤十三門ニ部分致いろは分ニ致、真字・割注・故事来歴等書入有、全く外題ハ博物筌と申外題ながら、全体中は節用之趣向、第一十三門の部立構候。夫故、段々致対談、其上明和七年九月二日立ニて罷下り吉文字屋市兵衛方ニて対談致、彼是問答致候処、此方中分利ニ当り候故、内済之取斗被致候故、不及出訴ニ罷登り候。其後、又々堺屋清兵衛殿・京都中野宗左衛門殿・秋田屋平左衛門殿御両人双方仲人有之て和談相済申候。則板木五ケ一此方へ樽代として銀十枚遣し、右板木ヲ受取候て相合ニ致候。
抵触事項は、「合類節用」(「十三門」から『書言字考節用集』と思われる)の剽窃、一三門分け、割行による施注などであるらしい。詳細については検討を要することだが、一見したところ、類似が立証できるかどうかは微妙のようで、村上が「類板呼はり」をした可能性もあることになる。
(2)文藻行潦
『文藻行潦』(天明二〈一七八二〉刊)は、唐話辞書の一種で、イロハ・意義分類引きをとるものである。意義分類は、天地・人物・親属(親族とも)・人事・身体・宮室・芸文・武備・冕饌(冕服・食服冕饌とも)・器財・神鬼(鬼神とも)・動物・植物の一三で、節用集からはややはなれた名称がめだつ。本書については「済帳標目」の天明四年五月より九月までの項に、
とある。『名物六帳(帖)』『学語編』は唐話辞書なので当然としても、それらに伍して村上が版権を主張したことが注意される。ただ、どのような点が抵触するのかは知られない。おそらくは、漢字と和訓の結びつきの特殊なものが共通するということかと思われるが、今後、比較・検討していく必要がある。
(3)無名の一本
「済帳標目」の天明八年九月から翌九年正月までの項に「一続合類節用ニ構書之事ニ付、大坂懸合之事」と、記されている。該当する記事は大坂仲間の記録にも見当たらず、どのような本が対象となったのかはまったくわからない。ただ、時期のうえでは、「一童蒙節用全書、写本吉市へ戻ス」(出勤帳九番・一一月七日)などがあるが、どうであろうか。「吉市」とは吉文字屋市兵衛のことで、本稿でもこれまでみてきたように、辞書類の新案に熱心な書肆である。「続合類節用」(『書言字考節用集』であろう)をもとに新たな節用集をしたてた、あるいは、本来無関係なのだが偶然類似してしまったということもありそうなことではある。
四 影響あるいは関連する事例
右にみたように、『合類節用集』『書言字考節用集』の板元・村上勘兵衛は、積極的に己れの版権をまもるべく活動していたことが知られる。それは、ときに「類板呼はり」とも見られかねないものであった。それがどんな影響をおよぼすかといえば、一つには他の書肆への牽制となって、村上の版権に考慮した開板がおこなわれることが考えられる。また、一方では、盗用の事実を悟られないよう、工夫をこらすということも考えられないではない。しかし、それが村上の影響と見られるかどうかは確認しにくい面がある。すでに版権に対する相応の意識が確立していたから、何も村上の活動がなくとも、良識のあるものは前者のごとく慎重であり、そうでないものは後者をとると考えられるからである。以下、前者、すなわち、他の書肆などが村上の版権を意識した例をみるが、それが、村上の活動の影響によるものとは必ずしも断言できないことに注意されたい。この節の名が右のようであるのもこうした事情のためである。
(1)いろは節用集大成
近世の中ごろから、尾張名古屋でも出版活動が盛んになっていった。その過程で、先行書の重板・類板もおこなわれ、ことに早引節用集の板元である柏原屋・木屋はその対応に追われることになった。そのような類板書の一つに、中村国香編『いろは節用集大成』(文化一三〈一八一六〉序)がある。大坂仲間の記録によれば、文政一〇(一八二七)年二月二〇日以降、何度か柏原屋から売留(売買禁止)の触れをだすよう行司に依頼しており、天保一一(一八四〇)年三月五日にいたって「板木不残受取事済仕候」と報告することができた。
さらに本書をめぐる記録に次のようなものがある。
一柏与より、尾板いろは節用集之本、清右衛門殿持参被申候、是は少々訳合之事在之ニ付、行司之聞届ニ而添章申受度 願出被申候ニ付相談致候所、聞届之書柄ニ而は無之様、又十三門分節用株式へも廻り付候物ニ候哉、ちと物之前後致 趣候而其分ケ申候所、何分差急キ候事ニ付、夫は跡へ廻し候様被申候故、無拠左候ハゝ江戸添章壱通丈認候相談ニ相 成、依之諸事空ニ致帳面等江者書記し不申候、勿論出銀等も請取不申候事
出勤帳五十一番・天保一一年六月二〇日
文中の「添章」とは発売許可証で、「添章なき書物は絶対に頒売を禁止されてゐたのみならず、同業者に発売せざる以前に、仲間以外の顧客に販売することも許され」ず、「更に京都及び江戸に販売する場合には、大阪行司から先方の行司宛の添章を貰ひ受け、そしてその土地の行司から其の土地で販売する添章の下附を得なければならなかつた」というものである。このことから、柏原屋は早くも『いろは節用集大成』を正式に販売しようとしていたことが知られるが、「少々訳合」があるので「行司之聞届」で添章を下付してもらわねばならなかった。普通なら大坂・京都・江戸と三通発行してもらうのだろうが、結局、「江戸添章壱通丈」にした。そのあたりが「行司之聞届」という、特殊事情の存在をほのめかす表現になっているのだろう。一方では「諸事空ニ致帳面等江者書記し不申」と、これまでの手続きなどを御破算にするつもりだった。話の流れは一通りこのようにおさえられるが、完全に理解するには「訳合」を明らかにする必要がある。その手がかりになりそうな具体性をもった文言は、行司の「十三門分節用株式」云々のほかにはないようである。この文言は、『いろは節用集大成』の成立背景をみることで意味をもってくる。本書の検索法は、イロハ分けの下を仮名数引きにし、さらに意義分類をほどこすものである。その点では、早引節用集の一本に意義分類を追加したものと見えるのだが、実際は『書言字考節用集』を早引節用集に改編したものであった。そのことは、出典注を照らし合わせるだけでも容易に察知できるほど明白である。もちろん、『いろは節用集大成』の意義分類は『書言字考節用集』と同じく一三門である。したがって、「十三門分節用株式」とは、京都の村上勘兵衛の版権をさすものと考えられるのである。
ならば、『いろは節用集大成』がまぎれもなく早引節用集の一異本であっても、出版・販売となれば村上の意向をたしかめた方がまさに無難である。しかし、柏原屋がそれに気づいたのはいくつかの手続きを終えたあとであり、その時点で仲間行司に相談したのだろう。普通なら、そうした問題がないことを確認してから、開板なり販売なりの手続きをふむのが順序である。ここにきて「十三門分節用株式へも廻り付」く可能性を聞かされた行司が「ちと物之前後致趣候」と不審がるのも無理はない。そこで、柏原屋は「差急キ候」事情があるので村上への折衝や京都への添章は「跡へ廻」すとの心づもりをつげ、行司も事情を汲んで「無拠」く柏原屋の意向にしたがうことにした。それは「江戸添章壱通丈認」ということだが、当然のことながら京都への添章は出さないという裏の意味が込められている。そして「諸事空ニ致」云々も、村上勘兵衛への折衝を済ませてから新たににやりなおすという含みがあるものと読める。結局、柏原屋と仲間行司との相談は、「物之前後致」ことは江戸への添章だけにし、あとは通常の手続きではじめからおこなうということになろう。
このように村上の版権への配慮を勘案すると、右の記録の個々の文言が互いにひびきあい、全体像も浮かび上がってきそうである。結局、本件は、柏原屋が村上勘兵衛の版権を意識した好例であると考えられるのである。
(2)大々全大早引
大蔵永常は、『農家益』(享和二〈一八〇二〉刊)・『広益国産考』(弘化元〈一八四四〉刊)などをものした近世後期の農学者である。その伝記に早川孝太郎『大蔵永常』(山岡書店 一九四三)があるが、「当時の出版界の事情を知る上にも珍らしい資料である」として永常の書翰が紹介されている。そこには、次のような、本稿にふさわしいものもふくまれている。宛て先人はいずれも大坂の書肆・河内屋記一兵衛である。
合類節用ハ増字を致し十三門もどしスミシ也。此度柏与の早引仕直し候様引方一二三言をわけ、かなを数致し候ハゝ大々全大早引とも云様可相成候。尤出所ハ元の如く付申候、京都板元へ早々御懸合之上、合類壱部御遣し可被下候。わきよりせぬやう致度候。
天保一三(一八四二)年九月二九日付
合類節用之方、京都ニ御懸合被成可被下候。無左候而ハ外より重板致し可申様ニ相聞へ候。可相成ハ京都へ御懸合之上、本一部御遣可被下候。
同年一〇月五日付
永常は農書の成功に乗じてか、節用集にも手を染めていた。それは『書言字考節用集』に増補したものを本文とし、検索法をイロハ引きの下を意義分類し、さらに仮名数引きに改めたものだった。ここで注目したいのは、さきの柏原屋は書肆なので当然だが、それにおとらず永常も「無左候而ハ外より重板致し可申様ニ相聞へ候」とあるように、重板・類板に対する意識が確立していたことである。たとえそれが、「わきよりせぬやう致度候」と同趣の、応答のおそい河内屋を急がせるためのレトリックであってもである。ただ、それは、柏原屋などとは少々質の異なるもののようである。柏原屋の場合、村上勘兵衛を直接意識していた可能性が高かったが、永常は必ずしもそうではない。少なくとも書面によるかぎり「外より」重板と言われること、いわば外聞の悪さが関心事のように見えるからである。このあたりが、直接の害をこうむる書肆とそこから離れた場にいる著述者の差なのかもしれない。
おわりに
版権問題をみることを通じて、『合類節用集』『書言字考節用集』と近世節用集とのつながりの一端をみることができたと思われる。特に、『書言字考節用集』のそれが見いだされたこと、節用集以外との関係が見られたことなどが収穫だったと思う。今後、同趣の例をさがすことも必要だが、一方で、関連書との比較・検討をとおして、きめこまかな関連のありようを提示することが、近世節用集史を記述するあたって必要になることと思われる。
注
1 木村秀次「寛文十年本『頭書増補二行節用集』について」(『馬淵和夫博士退官記念国語学論集』大修館書店 一九八一)。
2 高梨信博「近世節用集の序・跋・凡例(二)」(『国語学 研究と資料』一二 一九八八)。
3 古屋彰「世話字尽と節用集」(『金沢大学法文学部論集文学編』二五 一九七八)。
4 小川武彦編『青木鷺水全集』第一巻(ゆまに書房 一九八四)、高梨前掲論文。なお、『日本古典文学大辞典』「三 才節用集」の解説は、イロハ分けと意義分類の関係が逆転したような記述になっており、注意を要する。
5 山田俊雄「節用集改編ものの一例について その一」(成城文芸 七三 一九七五)、古屋彰「世話字」(金沢大学 法文学部論集文学編 二四 一九七六)、同「「世話字尽」展望」(『金沢大学文学部論集文学科篇』四 一九八三)、同「節用集と世話字尽」(山田忠雄編『国語史学のために』第二部 笠間書院 一九八六)および注3。
6 「通俗化」とは、いわば「合類節用集八巻一〇冊」という形式・体裁の崩れに注目したもので、必ずしも日常の文字使用への影響をいうのではない。また、それをいうには、『合類節用集』の用字と日用の用字とはあまりにかけはなれ ているように思われる。そのことは、世話字集への改編ということにも現れているだろう。
一方で、そのような用字の性格に注目するとき、改編本の一つに「誹林」の名が与えられた意義を考えるのも、『合類節用集』の本質へせまる手掛かりとなるかもしれない。初期の世話字集が俳句作法書の一部として編まれたことを思い合わせれば、ことにその可能性を感じる。そのためには、たとえば、時期の上で重なり、多様な形態や奔放な文字遣いを許容した談林俳諧などとのつながりを考えていく必要も考えられる。
易林本『節用集』は、「詩文等に用ゐる語が比較的多くして通俗の語は割合に少」く、他の特徴からも「通俗的辞書としては、必しも他の諸本に勝れて居るとは云はれない」と言われる。『合類節用集』開板当時、通行の節用集はこのような易林本の末流だったが、『合類節用集』はそれからも離れた側面をもつものと考えられる。このような『合類節用集』の指向・逸脱は、俳諧という当座の文学の近世的な展開とパラレルな関係にありはしないか。筆者には『合類節用集』が近世的「韻事の書」の一つのありかただと思えるのである。参考、加藤定彦「初期俳諧の言葉をめぐって(上・下)」(『二松学舎大学人文論叢』三・四 一九七〇・一九七二)、同『近世文学資料類聚 古俳諧篇』四七(勉誠社 一九七六)。上田万年・橋本進吉『古本節用集の研究』(東京帝国大学 一九一六。復刻版 勉誠社 一九六八)、安田章『中世辞書論考』(清文堂 一九八三)。
7 前注参照。
8 以下、「済帳標目」の引用は影印の宗政五十緒・朝倉治彦編『京都書林仲間記録』★★★★★(ゆまに書房 一九七七)にもとづくこととし、かたわら、弥吉光長『未刊史料による日本出版文化 第一巻』(ゆまに書房 一九八八)の翻刻を参照することにした。
9 なお、架蔵の初板零本の刊記には、村上の名がなく(秋田屋庄兵衛・小島市右衛門・小嶋孤松子のみ)、問題のおこるまえの刷りであると思われる。それによれば年記は「元禄六癸酉暦霜月七日」とある。
10 『青木鷺水集』別巻(ゆまに書房 一九九一)参照。
11 大坂府立中之島図書館編『大坂本屋仲間記録 第十巻』(清文堂 一九八三)所収。句読点は私に改めたところがあり、以下も同様である。なお、特にことわらないかぎり、大坂の記録はこのシリーズから引用した。
12 拙稿「近世後期節用集における引様の多様化について」(『国語学』一六〇 一九九〇)。
13 蒔田稲城『京阪書籍商史』(復刻版。高尾彦四郎書店 一九六八)。
14 いま、弥吉光長『未完史料による日本出版文化 第二巻』(ゆまに書房 一九八八)の翻刻にしたがう。
15 ただし、一三門分けは、当時通行の節用集ではごく普通のことであったから、村上が己の版権とするのは不可解である。が、いま原文を尊重し、そのまま引いておく。
16 吉文字屋は、板木の五分の一(の権利)を渡したのだから、非があったとみておくこともできよう。が、無駄なあらそいをさけ、譲れる部分を譲ったことも考えられる。
17 柏原屋清右衛門。「清右衛門」は柏原屋の本家当主の名であるらしい。佐古慶三「■■渋川称〓堂伝」(『上方文化』五 一九六二)参照。なお、上の「柏与」は柏原屋与左衛門である。
18 蒔田稲城『京阪書籍商史』(復刻版。高尾彦四郎書店 一九六八)。
19 「行司当役帳」「帳合仕法書」(『大坂本屋仲間記録 第十巻』所収)の記述により佐藤が判断した。
20 「行司之聞届」という形式が確立していたのか、その件限りの措置なのかは確認できない。少なくとも、前者について明記した記述はいまのところみあたらない。また、「聞届之書柄」からは定まった書式があるようにもうかがわれるが、やはり知られない。
21 拙稿「『和漢音釈書言字考節用集』の一展開」(『国語学研究』三一 一九九二)。
22 この資料の存在については、米谷氏より御教示たまわった。記して謝意を表したい。
23 著述者がこのような意識をもつ例はなにも永常にかぎらない。たとえば曲亭馬琴にも同趣の意識があったことは周知のことであろう(前田愛『近代読者の成立』(有精堂 一九七三、復刻版 岩波書店 一九九三)ほか参照)。ただ、 細部については、立場のことなりなどもあって、まったくの同質とは言いにくい面もある。
近代語学会編『近代語研究』第十集(武蔵野書院 1999)所収