近世後期節用集における引様の多様化について
佐藤 貴裕
要 旨
近世後期の節用集では、それまでになく多様の引様が考案された。それは、最善の引様を求めての試行錯誤と捉えられる。しかし、有用性が高くないものや引様として不自然なものも少なくなく、必ずしも順調な発展を遂げたとは言えないようである。この点について、当時の本屋仲間の記録類を中心に検討した結果、早引節用集の板元が、イロハ二重分類など有用な引様を類板(模倣書)と見なしたため、引様の考案の範囲が狭められ、有用性の低い引様や不自然な引様が現れたと考えられた。また、それとともに早引節用集とその板元の存在が、近世後期節用集においては、小さくないものであったことがうかがわれた。
は じ め に
近世において数多くの節用集が開版されたことは周知のことであろう。また、近世全期を通じて収載語や付録の増補・頭書など内容面での充実がはかられたことも知られる(注1)。このような発達は、引様(検索法)にもあてはまると予想されるが、近世全期を通じて徐々に発展していったとは言いがたい。以下に述べるように、近世前期(一七五〇以前)では新たな引様の考案がほとんどなく、近世後期(一七五一以降)、特にその前半に数多く現れるのである。本稿は、後期に現れた引様を検討して、その問題点を明らかにし、引様の多様化の要因を追究するものである。
一 近世節用集の引様
まず前期と後期の引様の概略を示す。なお、以下、語を分類するイロハや門などの指標を分類基準とよび、それらから構成される検索の組織を引様とよぶ。また、引様のなかで分類基準の順序を示す際には、第一分類・第二分類などとよぶことにする。
前期の引様は、古本節用集と同様、イロハ分け(部)の下に意義分類(門)を施す二重分類が主流である。その中では『新増節用無量蔵』(元文二〈一七三七〉)が言語門に再度部分けを施して、部分的な三重分類とするのが注目される。改良には、『万倍節用字便』(貞享三〈一六八六〉)などが言語門を各部冒頭に配したり、『蠡海節用集』(寛延三〈一七五〇〉)・『字典節用集』(寛延四)が漢字一字語から配したり、それまで必ずしも一定でなかった各部の門の順序を統一するなどがある。このようなことからすると、引様への関心はあり、新たな考案の機運もあったと思われる。しかし、新規の引様は『合類節用集』(延宝八〈一六八〇〉)など、門の下を部分けするものが現れるにとどまるのである。したがって、前期の引様は、分類基準は部と門だけで、構成はそれらを組合せた二重分類が中心であったということができよう。また、次のように言い換えることもできよう。節用集は、漢字の「形」を知るための辞書である。そこで、「音」(仮名)と「義」から引くのが、近世前期までの通念であったのかも知れない。そしてそれぞれに一つずつの分類基準が用意されていたのが、近世前期までの引様だったのである。
これに対して後期では種々の試みがなされる。分類基準では、前期には不可欠だった門を廃するものが現れ、仮名数分け・五十音わけ・清濁引撥の仮名の有無などが考案され、「音」(仮名)引きへの傾斜が顕著となる。また、語末の仮名で分類するものも出る。構成では、三重分類を全編に施すものが現れる。また、仮名第二字までの部分けなどの近代性も見られる。仮名遣いの関係で発音と正書法が齟齬する語を一括する試みもなされた。このように後期における引様の考案は、前期には見られない多彩さを呈するのである。
そこで、次節では後期の引様をやや詳細にみることとする。
二 近世後期節用集の引様
まず、管見の書や『大坂本屋仲間記録』(以下『記録』)などから、後期に現れた引様をもつ節用集を開板順に挙げておく。なお、早引節用集は多くの異本があるが、『 早引節用集』の事項だけを示した。また、初板と再板とで内容や体裁などの異なりがわずかなものは初板だけを示した(注2)。
書 名 刊年・成立 類 引様の詳細 備考
@早引節用集 宝暦2(一七五二) A 部 仮 ─
A国字節用集 宝暦7(一七五七)(B)部(門)部 記録
B早字二重鑑 宝暦12(一七六二) B 部*部 ─ 狩野
C安見節用集 宝暦12(一七六二) B 部 部 ─ 記録
D千金要字節用大成 明和元(一七六四) A 部 門21仮 記録
E万代節用字林蔵 明和3(一七六六)(A)部(門)仮 記録
F連城大節用集夜光珠 明和5(一七六八) C 部 引 門6 東北
G広益好文節用集 明和8(一七七一) A 部 偶 門13 前田
H急用間合即座引 安永7(一七七八) C 部*引**門6 亀田
I二字引節用集 天明元(一七八一) B 部 部**─ 記録
J五音字引節用集 天明元(一七八一) B 部 五**─ 記録
K万徳節用集 天明2(一七八二) C 部*引**門6 亀田
L大成正字通(初板) 天明2(一七八二) C 部*引**門14 亀田
M早考節用集 天明5(一七八五) C 部 門6清 亀田
N大成正字通(再板) 享和2(一八〇二) C 部*門11清 東北
O長半仮名引節用集 文化元(一八〇四) A 部 偶 仮 東北
P蘭例節用集 文化12(一八一五) B 部*部 門9 影印
Qいろは節用集大成 文政10(一八二七) A 部 仮 門13 狩野
R増補広益好文節用集 天保3(一八三二) A 部 偶 門13 亀田
S万代節用集 嘉永3(一八五〇) A 部 仮 門15 東北
(21)節用早見二重引 嘉永5(一八五二) B 部*部 ─ 東大
(22)早字二重鑑(再板) 嘉永6(一八五三) B 部*部 ─ 東北
引様欄 部・イロハ 門・意義分類(数字は門数) 五・五十音 仮・仮名数 偶・仮名数の偶数奇数 清・清濁 引・清濁引撥 *発音と正書法が異なる語の一括掲出 **語末の仮名による
備考欄 亀田・国会図書館亀田文庫蔵 狩野・東北大学狩野文庫蔵 東北・同附属図書館蔵 東大・東京大学国語学研究室蔵 前田・前田富祺氏蔵 影印・臨川書店影印本 記録・『記録』による。
@〜(22)は、第二分類以下に取り入れた分類基準で、A「仮名数によるもの」、B「部・五十音など仮名の順によるもの」、C「清濁引撥などの特徴的な仮名の有無によるもの」に三分される。この類別にしたがって諸本の引様を一覧しておきたい。
A @早引節用集は、部の下を仮名数で分類し、門を排除する。ただし、収載語は一定の意味範疇ごとにまとまっており、原拠となった部門引き節用集(注3)の名残が認められる。D『千金要字節用大成』は現存が確認されないが、「廿一門分ケかな之次第ニ而、文字引出し候書」(『記録』「差定帳一番」明和四)で、部・門・仮名数の構成かと思われる。E『万代節用字林蔵』も現存が確認されないが、「本文之かな付一より段々次第を分チ候書」(同)で、門別の有無は不明だが仮名数を採用するものである。なお、現存する同名書は部門引きに改められたものである。Q『 いろは節用集大成』・S『 万代節用集』は早引節用集の一種で、第三分類に門別をとる。G『 広益好文節用集』・R『 増補広益好文節用集』・O『 長半仮名引節用集』は仮名数の偶数奇数分けを採用する。第三分類は、GRが門別、Oが仮名数である。
なお、Oは門別を語ごとに小字で記すが、引様には関わらず、注に近いものである。
B A『国字節用集』は開板されなかったが、『記録』に「国字節用与申類句分之節用集写本(略)右類句分節用集ハ、私方ニ従先年所持仕候新増節用之趣向ニ御座候」(「備忘録」宝暦七)とある。「類句分」の意味が不明だが、「新増節用」はこの書状の筆者・木村市郎兵衛の蔵板書『新増節用無量蔵』(元文二〈一七三七〉)のことと思われ、これは言語門に再度部分けを施すので、「国字節用集」も同様か全編に再度部分けを施したものと思われる。B『早字二重鑑』は当時の板本は現存しないようだが、『記録』や東北大学狩野文庫蔵天明二年写本によると、第二字の仮名まで部分けを施すものである。また、仮名遣いの関係で発音と正書法とが齟齬する語は一箇所にまとめ(以下「変則の部分け」)、その所在を空見出しで示す。これを補訂したのが(21)『節用早見二重引』・(22)『早字二重鑑』である。C『安見節用集』も現存が確認されないが、「常体いろは分ニ而、二声目を又いろは分ニして、文字引出ス書」(『記録』「裁配帳一番」天明元)で、二重の部分けである。P『蘭例節用集』は二重の部分けの下に門別を施す。巻末に「此書一切売店に出さず彫刻家蔵して同好書写の労をはぶく」とあり、営利目的の開板ではない。二重の部分けは「西洋言語之書」(序)からの影響と思われ、先行のBCとは関係ないようである。I『二字引節用集』は現存が確認されないが、「常体いろは分ニ而、文字のかなとまりを又いろは分ニして、上下のかなを以、文字引出す書」(『記録』「裁配帳一番」天明元)で、第二分類を語末の仮名の部分けとするものである。J『五音字引節用集』も現存が確認されないが、「常体いろは分ニ而、文字の止りのかなを五音あいうゑをヲ以、文字引出ス書」(同)で、第二分類を語末の仮名の五十音分けとするものである。
C この類のものはいずれも三重分類である。F『 連城大節用集夜光珠』は、部の下を「清濁引撥」の有無で分ける。これは、求める語に濁音(半濁音を含むオ長音・撥音を示す仮名のあるものを「濁引撥」にあて、ないものを「清」とする分類である。なお、濁引撥が重出する語は、引撥濁の順に有無を見、あった項目に掲出する。H『急用間合即座引』は、Bのような変則の部分けをとり、各部の所在を丁付合文(目次)で示す。第二分類の清濁引撥の有無はは語末の仮名に限った。ただし、濁音の拗(長)音は「濁」に入れる。K『万徳節用集』・L『大成正字通』初板も同様だが、拗音は清濁とも「引」に入れる。なお、変則の部分けは、Kが空見出しで、Lは詳細な丁付合文で対応する。M『早考節用集』・N『大成正字通』再板は部門引きの下に清濁を施す。なお、Nは、変則の部分けと詳細な丁付合文をLより引き継いでいる。
以上、近世後期に考案された引様を見てきたが、多様であるがゆえに、問題や疑問もある。まず、後期になって、なぜこのように多くの引様が考案されたのかという素朴な疑問がある。一応は、最善の引様をめざしての試行錯誤とみることができる。確かに、分類基準の多様さやその適用位置をみれば、あらゆる可能性を探ったともいえる。しかし、すべての引様が最善の引様をめざしたものだったかというと、有用性に疑問のあるものもあるようである(注4)。
また、考案の間隔をみると、MとNで一七年の開きがあるが、Mまでは平均二〜三年と狭い。すなわち、宝暦二年から天明五年までの三四年間(以下「集中期」)に、新たな引様の大半が集中するのである。通俗的な辞書の引様がこれほど多く考案された時期はないだけに、このような短期集中という現象も問題となろう。
大まかには以上の二点が問題となる。これについて回答なり解釈なりをえるために考察をすすめていく。まず、各々の引様の有用性を検討することからはじめたい。
三 新たな引様の評価
引様の有用性とは、求める語をいかに速く引けるか、ということであろう。そのためには引様自体の簡明さが求められる。目新しいものでも、複雑であったり不明瞭であっては有用性は低い。また、不自然なものも同様である。そのような観点から、私案として、次に挙げる(a)〜(f)を有用な引様の条件とし、これをもとに個々の引様を検討して、論述の目安をたてることにした。
(a)分類基準の明解さ 分類基準は、門のように概念の理解しにくいものや不分明な点のあるものより(注5)、部や仮名数のように明解で曖昧さのないものの方がすぐれている。
(b)分類基準の分割効率 節用集での検索は、複数の分類基準で分割された語群から語を読み取るものである。したがって、分類基準の数が少ないほど簡便で、語群の規模が小さいほど検索語以外の語を見ずに済み、迅速に引ける。つまり、一つの分類基準で多くの語群に分けられる方が有用性が高いのである。
(c)分類基準へのなじみ 分類基準は、利用者がなじみやすいものがよい。五十音より部が、語頭と語末の部分けより仮名第二字までの部分けの方が、自然でなじみやすい。
(d)発音と正書法との齟齬への対処 仮名遣いの関係で発音と正書法とに差のあるものは、発音で引けるか、同音異表記のものを一箇所にまとめるかしてある方が親切である。
(e)引様全体としての簡明さ 分類基準は多いほど分割される語群が小さくなり、検索に有利である。しかし、三重四重の分類も三様四様の分類基準では、円滑な検索は望めない。
(f)分割語群数(注6) (b)のように、引様で分割される語群数は多いほど検索に有利である。それを、部は四四、仮名数は一〇、門は当該節用集の表記にしたがい、それらの積をとって比較する。
以下、検討を進めていくが、詳細の知られないAEは除いた。
A @は、部や仮名数も明解でなじみやすく、全体的にも簡明だが、発音と正書法の齟齬には配慮がない。なお、仮名数は三〜五字語あたりに語が集中する欠点があり、分割数も一〇字くらいまでが実用範囲なので効率もさほどよくない。QSは、三様の分類基準や門の採用が問題だが、第二分類までは@と同様で、門も第三分類だからさほど扱いにくくはない。Dは、第二分類の段階で門をとるのが問題である。GRは、三重三様の分類基準や門の導入・偶数奇数分けの効率の悪さなどの欠点もあるが、さほどなじみにくくはないだろう。Oも仮名数主体なので明解だが、偶数奇数分けは効率が悪く、偶数奇数を確認してからまた仮名数に戻るのは迂遠である。
B Bは、二重の部分けなので明解さ・分割効率・なじみ・全体的な簡明さですぐれる。
また、変則の部分けで発音と正書法の異なる語に対処するが、所在の表示が空見出しなのでやや不十分である。Cも同様だが、現存が確認できず変則の部分けの有無も不明である。Pも二重の部分けだが、門を導入する点がやや問題である。変則の部分けをとるが、表示は空見出しによる。IJは第二分類を語末の仮名によるので不自然である。特にJは五十音順なので一層なじみにくい。しかし、両書とも分割効率はすぐれる。
C この類はいずれも三重分類だが、分類基準も三様なので煩雑であると思われる。また、清濁引撥は分割効率で劣る。Fは、濁引撥の重出する語には前述のような補助規則で対応するが、煩雑さは避けられそうになく、補助手段が必要な点では完成度が低いといえる。Hは変則の部分けをとり、その所在を詳細な丁付合文(目次)で示すので十分な対応といえる。清濁引撥の有無も語末に限ったので簡明である。同趣の引様のKLも同様に評価される。Mは清濁だけなので簡明だが、変則の部分けは施さない。Nは清濁だけで簡明であり、変則の部分けと詳細な丁付合文もLから引き継いでいる。
各々の引様の評価は以上のようである。これをまとめると次のようになる。同種の引様は一括した。評価は◎○△×の順に低くなり、空欄は評価不能のものである。(f)の評価は一〇〇〇未満を×、五〇〇〇以下を△、一〇〇〇〇以下を○、それ以上を◎とした。
┌──┬─┬──┬─┬─┬─┬─┬─┬─┬─┬─┬─┬─┬─┬─┐
│類 │A│B │B│A│C│A│C│B│B│C│C│A│B│A│
├──┼─┼──┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┤
│本 │ │(22)│ │ │ │ │L│ │ │ │ │ │ │ │
│ │ │(21)│ │ │ │R│K│ │ │ │ │ │ │S│
│諸 │@│B │C│D│F│G│H│I│J│M│N│O│P│Q│
├──┼─┼──┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┤
│(a) │◎│◎ │◎│◎│×│○│○│◎│△│○│○│◎│○│◎│
├──┼─┼──┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┤
│(b) │○│◎ │◎│○│×│×│×│◎│◎│×│×│×│◎│○│
├──┼─┼──┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┤
│(c) │◎│◎ │◎│○│○│○│○│△│×│○│○│○│◎│○│
├──┼─┼──┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┤
│(d) │×│○ │ │ │×│×│◎│ │ │×│◎│×│○│×│
├──┼─┼──┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┤
│(e) │◎│◎ │◎│△│×│△│△│○│○│△│△│○│○│○│
├──┼─┼──┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┼─┤
│(f) │×│△ │△│○│△│△│△│△│△│×│×│×│◎│○│
└──┴─┴──┴─┴─┴─┴─┴─┴─┴─┴─┴─┴─┴─┴─┘
まず、@のあとBCと有用な引様が出、Dも比較的有用なものなので、ほぼ順調な展開と言える。しかし、この後、欠点の多いFGが続き、比較的有用なHIJが出ても、再度欠点のめだつMNOが出、さらに再転して比較的有用なPQが出ている。展開として不自然さがあるのである。特に注意したいのは、BCのあとに、それを超えられない引様が続出することである。だからこそ試行錯誤だとも言えるが、少々数が多い。近世の節用集は書肆の利益と関係があるのだから、有用性の低い引様を安易に開板するとは考えにくい。このような点でも、展開の不自然さがうかがわれるのである。
また、有用と判断されるBでは発音と正書法の齟齬への対応が必ずしも十分でないが、それを改良したものは出なかった。ところが、それより有用性の低いHKLNで十分な改良が行われる。また、全般的にA類B類よりも評価の低いC類(FHK〜N)に、濁引撥の適用位置・丁付合文・拗長音の扱いなど、それなりの発展が認められる。こうした点でも、展開の不自然さが指摘されるのである。
当該書の流布も考慮してみよう。このうちでは@がもっとも盛行する。しかし、より有用性の高いBの二重の部分けは流布しない。同趣のものが後年開板されるが、Pは私家板であり、(21)(22)は九〇年も後である。この点ではBに引様以外の問題がないわけではない。
たとえば、漢字一字語は使用頻度の相当低い語まで収載するが、漢字二字以上の語は極端に少なく、その用字も特殊であるなど、実用性に疑問がある。しかし、それは収載語の充実などで対応できるのであり、有用な引様が行われないことの説明にはならない。また、以上に検討した引様は、すべて早引節用集以後の考案であるが、結局は早引節用集が流布していく。このことからすれば、近世後期の引様の考案は、無意味であったと考えるほかないことになる。
このように、近世後期の引様の多様化は、最善の引様を求めての試行錯誤と捉えることは困難で、発展のあり方も不自然である。したがって、多様化の要因は、単に引様を検討するだけでは追究できず、その背景を見直す必要もあると考えられるのである。
四 問題点の考察
前節でみたように、後期における引様の多様化は、次のような点が問題であると考えられた。
(1)二重の部分けの再板や改良がなされなかったこと。
(2)二重の部分けのような有用性の高い引様が考案されたにもかかわらず、それに劣る引様の考案が続くこと。
(3)有用性の低いC類において順調な発展が認められること。
(4)もっとも早く考案された早引節用集だけが流布し、その後に考案された引様は流布しなかったこと。
以下では、集中期に現れた引様を中心に、これらの問題点を検討する。その際のアプローチとして、当時の出版事情から多く参照することにした。ここにとりあげた節用集には、P以外は、開板やその準備に書肆が関わっているので、引様についての考察を進める上でも有利だと思われるからである。なお、資料としては、三都の本屋仲間の記録類のうち、質量ともによく整い、先程来引用している『大坂本屋仲間記録』(『記録』)を中心とした。
(1)について検討していこう。なお、BCの九〇年後に(21)(22)として二重の部分けが開板されるが、これについては別に述べる。また、Pは営利の開板ではないので検討しないでおく。
『記録』によれば、B『早字二重鑑』は、江戸の前川六左衛門によって、宝暦一二(一七六三)年六月に真字板が、九月に草字板が開板された。しかし、翌年、早引節用集の板元の一人・柏原屋与市が類板(模倣書)として江戸寺社奉行へ出訴し、絶板となった。与市が大坂町奉行所に提出した報告書を次に掲げる。
覚
一宝暦十二年午之年、江戸仲ヶ間前川六左衛門方ニ早字二重鑑致出来、当地柏原屋与市・本屋伊兵衛両人所持之早引節用集ニ差構候ニ付(略)同(宝暦一三)年十一月十一日於御評定所、寺社御奉行御三人・町御奉行御両人・勘定御奉行御弐人、右御立合之上、早字二重鑑両板共絶板被為仰付(略。『記録』「差定帳一番」宝暦一三)
C『安見節用集』は、『記録』によれば、京都の額田正三郎ほか五名による開板である。しかし、宝暦一二年一一月、早引節用集の板元の一人・本屋伊兵衛が京都奉行所へ類板として出訴し、翌年一月、板木を買収して示談となった。伊兵衛が大坂町奉行所に提出した報告書を次に掲げる。
乍恐奉差上済状
一京都本屋六人ニ而、先達而安見節用集と申書板行出来仕候処、私所持仕来候早引節用同意之類板ニ而御さ候故(略)段々取扱之対談仕、右差構候安見節用之板木私へ譲り請候、尤右安見節用板元六人へ、為樽代と相応之銀子遣シ、(略。同)
このように二重の部分けを施したBCは早引節用集の板元によって板行をはばまれた。
ただし、「早引節用集ニ差構」「早引節用同意之類板」が、具体的にどのような点をさすのかは必ずしも明確ではない。そこで、「差構・類板」の定義を確認すると次のようであり、類板訴訟自体、問題のあるものであったことが知られる。
此の字句(沚キ構)は一般には単に「抗議を申し立つる」場合に使用されて、重板若しくは類板の何れの場合にも『差構える』旨を申立てたのであるが、往々此の字句を類板にして類板と称し得ざる抗議の際に使用し、重板、類板及差構と三段に区画された事があつた。(蒔田稲城『京阪書籍商史』「大阪書籍商史」一一〇頁)(注7)
類板とは一言にして云へば類似或ひは模倣書と云ふのであるが、実際問題としての解釈は区々たらざるを得なかつた。(略)中には今日から見て類板の事実を認め難きものが鮮くなかつた。然るに微塵にても疑はしきものに対して強いて異を立て、類板呼はりをなし、紛議を醸したことは板株制に伴つた弊害と云ふの外はない。(同一〇九頁)
蒔田はBCの場合を「類板呼はり」であるとは明言しないが、早引節用集の板元が、二重の部分けを早引節用集に抵触すると解釈した可能性は十分に考えられることになる(注8)。このことは、のちにI『二字引節用集』・J『五音字引節用集』も類板となったこと、その折りに三都の本屋仲間に出した類板停止の願いに『安見節用集』を併記することからも(注9)支持されよう。CIJの三者に共通するのは二重の部分け(仮名分け)だからである。こうしてBCは早引節用集の類板とされ、その板行も不可能となったのである。ただし、Cを買収した早引節用集の板元は、普通ならそれを開板することができる。ところが、この場合は、京都本屋仲間から、二重の部分けが『新増節用(無量蔵アの引様に抵触するなどの理由で、再板しないという条件を課せられたのである。
京師ニ出来候安見節用集之板木、他所へ遣シ候而ハ、本形ハ懐宝節用ニ差構候、草字一行ハ字考節用ニ構候、本文之趣向ハ新増節用ニ構候、依之此度大坂柏原屋与市・本屋伊兵衛両人へ、右板木丸板ニ而銀四〆三百匁ニ而売渡候得共、大坂ニおゐて本壱部も摺被出候義、かたく相不成候趣之相対ニ而、内済仕候事(『記録』「裁配帳一番」宝暦一三)
このように、早引節用集の板元さえも二重の部分けの節用集を開板できなかったのである(注10)。したがって、これ以降、二重の部分けの節用集は開板されず、その改良も不可能となったのである。
問題点(2)の検討に移る。BCが早引節用集の類板とされたことから、これ以降、同趣の引様は開板できなくなった。開板しても類板とされるからである。また、このことは、早引節用集の類板とされる引様は考案しないという制約としても効力をもつことになる。このような背景を考慮すれば、不自然な引様が考案される要因も明らかとなる。たとえば、I『二字引節用集』が第二分類の部分けを語末の仮名とするのは類板回避の工夫と考えられ、J『五音字引節用集』が第二分類を語末の五十音分けとするのはより慎重な対応であろう(注11)。C類の一見迂遠な清濁引撥も同様である。このように、早引節用集の類板にされないことという制約があったために、劣った引様が続出したと考えられるのである。
しかし、なぜ劣る引様を考案し、あえて開板したのだろうか。書肆をそのようにしむけたのはどのようなことなのか。この点を検討することで、(2)への回答は、より充実するものと思われる。
これについては、当時早引節用集が流布しつつあったことを考慮する必要があろう。早引節用集は、集中期だけでも種々の性格の異本が開板される。『 早引節用集』(宝暦二〈一七五二〉)・『 早引節用集』(同七)は携帯に便利な三切で、掲出字も草字だけに絞った点で実用本位のものといえる。『 早引節用集』(同一〇)は美濃板半切で、当時の節用集の主流だった真草二行の形態をとる。これに収載されない用字・語彙だけを集めたのが『早引残字節用集』(天明五〈一七八五〉)で、姉妹版と言える。『 早引大節用集』(明和八〈一七七一〉)は倍の大きさの美濃板で、机上版と言えようか。これらの開板再板の合計は集中期だけで少なくとも一二回が確認される(注12)。この数字は当時の部門引きの節用集には及ばない。しかし、早引節用集が柏原屋(渋川)と本屋(村上)両家合同の板行だけなのに、部門引きの節用集はその他の書肆からの板行であることを考えれば、早引節用集の流布・盛行がうかがわれる数字であろう。
また、そのような盛行を反映してか、天明以降(一七八一〜)では黄表紙などにも記され、『早道節用守』(山東京伝・寛政元・黄表紙)や『 廓節用』(楽亭馬笑・寛政一一・洒落本)など題目に流用されるまでになる(注13)。また、集中期に現れる各地の重板(無断複製)も早引節用集の盛行を反映するものであろうし、仮名数を採用したA類の諸本(DEG)が出ることも(注15)同様に考えられる。
このように早引節用集は稀に見る流布を呈し、それを反映する現象も展開される。それらが他の板元を刺激することは十分に考えられ、同業者だけに我々の想像以上に影響を受けたとも考えられるのである。たとえば、本稿で扱う節用集ではないが、集中期に現れた『 合類節用無尽海』(天明三〈一七八三〉)は「此節用は二十二門にわけ一門\/ことにいろは分にして(略)誠に早引字尽し節用とは此書をいふなり。元来字数外の節用とは格別多し」(序)と記している。これは、早引節用集への対抗意識として現れた例である。程度の差はあろうが、同様の意識が他の板元にもあったことは容易に想像されよう。このような背景があることから、他の板元にとって、新たな引様を考案して早引節用集に続くことは、商業上の利益につながるから、大きな魅力であったと思われるのである。ここに、たとえ劣る引様であっても、それを開板せずにはおかない強い動機があったと推測されるのである。
問題点(3)については、(2)の延長で考えられよう。種々考案されたもののうち、C類の清濁引撥を含むものだけが早引節用集の類板とは見なされず、開板再板が自由であった。したがって、再板のたびに改良することができたのである。また、初めに出たF『連城大節用集夜光珠』の完成度が低かったこと、早引節用集に続く必要があったことなどもあわせて考えるべきであろう。
問題点(4)については、すでに述べたことから回答が得られよう。有用性の高い仮名数や二重の部分けは早引節用集の類板となるため、他の板元はそれらを回避しながら引様を考案することになった。その結果、清濁引撥によるものが残るが、変則の部分けを除けば、早引節用集よりも劣るものであった。したがって、近世後期に開板された節用集では、早引節用集の引様がもっとも優れたものとなったのである。このことが、早引節用集が他の引様の節用集を圧して流布した大きな要因として考えられるのである。
以上が、集中期における引様の展開に関する筆者の解釈である。これ以降のものは散発的でもあるので、一言するにとどめる。NはC類なので問題はない。Oは早引節用集の類板として争議になり、当事者間で板木を持ちあうことになった(注16)。Pは営利的な板行ではないので問題は起こらない。Qは名古屋の書肆による開板で、類板と【注16して早引節用集の板元が買い取り、後年再板する(注17)。RはGに改編を施したものだが、類板の争議が起こった形跡はない。(21)(22)も同様である。この時期には早引節用集の優位が確立されて、争議に及ばないと判断したのだろうか。天保の改革による本屋仲間の解散中(天保一三〈一八四二〉〜嘉永四〈一八五一〉)には、重板や重板に等しい類板が多数横行したが、Sもその一つである。本屋仲間再興後、類板として板木を買い取られた。(注18)
近世後期における引様の多様化には、以上のような背景があったことが知られた。一見すると多様な引様の考案は、最善の引様への試行錯誤と見られるが、実際は、早引節用集の板元の類板争議によって、順調な発展を阻害されたものであった。また、引様の多様化の要因として、早引節用集の流布も関わることが推測された。
お わ り に
二節で指摘した、宝暦二年以降の三四年間に引様の考案が集中することには言及できなかったが、検討の範囲からある程度の推測は可能である。引様の考案には制約があった。それを満たし、さらに早引節用集を超える引様を考案することは、結局、できなかった。その結果が、天明期に事実上の終焉として現れたと考えられるのである。その後に考案されたものが早引節用集の類板か、清濁引撥の改良にすぎないことも傍証となろう。
また、近世後期の引様の特徴である「音」(仮名)引きへの傾斜にも言及できなかった。あるいは、早引節用集の流布と関係があるのかもしれない。それまで部門引き中心だった引様から、門を廃する挙に出たのが早引節用集である。そして、開板後数十年で流布していく。これを見て、他の板元たちが引様を考案する際に、可能なかぎり門を廃する方向に傾くことは十分に考えられる。それが「音」(仮名)への注目として現れたと考えられるのである。
また、仮定のことであるが、近代国語辞書の引様との関わりにも注目すると、早引節用集の位置は興味深いものがある。近代国語辞書は多重の五十音分けだが、その先蹤は、素朴ながら一〇〇年以上前の『早字二重鑑』『安見節用集』に見られる。また、『蘭例節用集』の例を引くまでもなく、その間における西欧の語学書からの影響は小さくない。このことから、早引節用集の板元が二重の部分けを類板にしなければ、明治を待たずに多重の部分けを施す節用集の現れた可能性も考えられる。
このように、近世後期節用集の引様を見るにつけ、早引節用集とその板元の果たした役割は考慮されるべきものと思われ、辞書史の上でそれなりの位置を占めることも明らかとなった。
注1 山田忠雄『開版節用集分類目録』(一九六一)、高梨信博「近世節用集の序・跋・凡例(一・二s(『国語学 研究と資料』1112(一九八七・一九八八))などを参照。
2 AC〜EIJQRの刊年は『記録』に記述された最初の年とした。Hは高梨論文(注1参照)により亀田文庫蔵『節用集』(八一三/Se二一六/一七七八)を当てた。刊年もそれに従った。
3『蠡海節用集』(寛延三)などが考えられる。
4 これは、「世ニ有ルトコロノ節用ハ乾坤門言語門等ノ部分十三門或ヒハ十五門ニヨリテ字ヲ捜ルシカレドモ部門繁キニヨリテ却テ混雑ノ事多シ」(『 早引節用集』序)のほか、門の概念を把握しやすくするために絵を添える例(『絵引節用集』寛政八)や、門名がでるたびに解説する例(『早字節用集』文政八)などから判断した。また、「下駄」「鎧」
のように用途や意味が明解でも、所属する門が不分明な場合があること(この例では衣食門か器財門かで迷う。多く器財門に収載)からも同様に判断されよう。
5 これは、引様の評価の基準として適切でないかもしれない。語数が少ない節用集では、語群数が少なくてもそれなりに機能するからである。が、ここでは、システムとしての有用性だけを見、語数との関わりは別に考えることとした。
6 高尾書店、一九二八刊。いま復刻本(一九六八刊)による。
7 内容の類似も考えられるが、Cは現存が確認されないので不明だが、Bは前述のように特異なもので早引節用集の収載語とは大きく異なるから、この点での問題はないとみて大過ない。
8「一 安見節用集(略)/一 二字引節用集(略)/一 五音字引節用集(略)/右三品共、於京都ニ御願相済板行出来候所、私共方所持之早引節用集之皆々類板ニ而差□難義仕候ニ付、段々対談ヲ以私共へ板行譲り受」(『記録』「裁配帳一番」天明元)。
9「本文之趣向ハ新増節用ニ構候」からは、二重の部分けの板権は『新増節用』の板元にあると判断される。ならば『新増節用』の板元は二重の部分けの節用集を開板できるはずだが、『新増節用』を『大新増節用無量蔵』(安永二〈一七七三〉)として再板しただけであった。その理由は不明だが、あるいは、BCの類板争議を早引節用集の板元にまかせ、直接には板権を主張しなかったことと関係するのかもしれない。とすれば『新増節用』の板元も開板できなかったことが想定される。この想定は、二重の部分けが開板されないことの説明としては完備したものだが、いま、二重の部分けが早引節用集の類板となることを重視するにとどめる。
10 ただし、このような工夫にも関わらず、IJは早引節用集の類板とされた(注8参照)。
11 重板本を除いた数で、それぞれ、一回・五回・四回・一回・一回である。また、この数字は現存本によるもので、「板木総目録株帳」(『記録』)に記された再板年以外のものも含む。
12 詳細については別稿を準備中である。
13 京都・大坂(明和七〈一七七〇〉)、松本(同八)、仙台(安永三〈一七七四〉)、江戸(同四・同七)におけるもの。
14 これら三本は早引節用集の類板とされた。Dは争議の結果、大本に限って板権が認められ(『記録』「差定帳一番」明和元)、Eは絶板となり(同四)、Gは開板に制約を加えられていた(「偶奇仮名引節用集御公訴一件仮記録」)。
15『記録』「偶奇仮名引節用集御公訴一件仮記録」による。
16『記録』「出勤帳五十一番」天保一一年三月による。
17『記録』「出勤帳六十七番」慶応二年一〇月などを参照。
参考文献・資料
上田万年・橋本進吉『古本節用集の研究』(東京帝国大学文科大 学紀要第二) 一九一六
山田忠雄『近代国語辞書の歩み』上下 三省堂 一九八一
中村喜代三『近世出版法の研究』 日本学術振興会 一九七二
大阪府立中之島図書館編『大坂本屋仲間記録』第一巻〜第十四巻 清文堂 一九七五〜一九八九
補記 本稿を成すにあたって、多くの方から便宜をいただいた。厚く感謝申し上げる。なお、本稿は、平成元年度文部省科学研究費補助金・奨励研究(A)課題番号〇一七一〇二二七による研究成果の一部である。
『国語学』160(1990)所収
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