村の節用集  ──農村の文字生活との連関試論──

佐藤 貴裕    

はじめに

 言語資料は、通常、言語生活・言語活動の結果としてもたらされる。が、辞書は、言語理解・言語表現のために、すなわち、言語生活に資することを目的に作られる。この点が他の資料にない特徴であって、辞書の本質にせまるには時代時代の言語生活への定位がまず必要であり、辞書研究の目的の一つとして設定されることにもなる(注1)。筆者の関心事である近世節用集もこの例にもれない。
 言語生活のなかに節用集を位置づけるということは、節用集をとりまく人々──享受する使用者、編集する編者、印刷・供給する書肆──と節用集との関係を明らかにすることである。このうち、編者と書肆については、かならずしも十分ではないが、すでに材料があり、活用されている。たとえば、編者にとっては当該節用集それ自体であって、すでに当該本自体の検討や粉本との比較により、編集意図・方針を明らかにした論考は少なくない(注2)。書肆の場合には、本屋仲間の記録類があり、辞書史の流れを変えた諸事情を明らかにできる場合もある(注3)。結局、この二つの方面においては、ある程度以上に資料は確保されており、それに見合った成果もあらわれているところである。
 しかし、残る使用者との関係については停滞気味のようである。使用者が想定されてはじめて辞書が作られるであろうことを思うとき、言語生活のなかに近世節用集を定位するにあたっても、使用者との関係がまず第一に考察されてよいはずである。にもかかわらず、その方面の研究がもっとも遅れているのである。要因はいくつか考えられるが、まずは方法が確立していないことが挙げられよう。また、方法を構築しようにも参照すべき具体例が十分にないという事情もありそうで、なかば逼塞状態にあるようにも思われる。
 このような状態から抜け出すために、筆者がこれまでに見ることのできた節用集の使用例によってささやかな雛型を示しつつ、今後の研究の方向と当面の目標を見いだそうとするのが、本稿の趣旨である。

一 方針をめぐって

 過去の資料とその享受者との関係を描くのは、節用集にかぎらず、困難があるものである。山本武利(一九八一)も同様の困難を述べ(注4)、野間光辰の発言を引用する。

 企業としての出版が成立つためには、あらかじめその出版物の読者の存在が、前提とせられなければならない。その意味においては、「初めに読者ありき」ということが出来る。しかしながらその読者たるや、いまだ可能性としてのみ存在するに過ぎない。いよいよ書物が出版販売せられたとしても、読者は必ずしも、直接その姿を本屋の店頭に現わすものとは限らぬ。ただ販売の成績によって、僅かに読者の存在を確かめ、読者の数を知り得るに止まる。まして、そうした読者の集積を意味する読者層にいたっては、分散的、非組織的な集団であって、それが潜在的に存在することは想像することが出来ても、その実態を具体的に明らかにすることは甚だ困難である。(中略)はるかに時代を遡った江戸時代の、しかも広汎な読者を持っていたと想像せられる浮世草子の読者層を、今日において調査することは、実は不可能であるといってよい。(野間光辰(一九五八))

 野間によれば、困難の要因とは、読者が、不特定多数であること、容易に知られない過去の存在であること、の二点に集約される。たしかに、同じことが近世節用集の使用者研究にもあてはまり、とらえどころのなさを印象づけている。ただ、不特定多数という点は、さまざまな特定少数の集合と読みかえることで、研究の第一歩を踏み出せるようにも思う。すなわち、特定少数の人々の使用例を分析し、それを多数蓄積・総合することで、少しでも不特定多数の使用様態に近づけないかということである。また、当面、注目するのは特定少数なのだから、節用集使用者の人となりまで知られる事例にも遭遇しやすくなろう。となれば、遠い過去の存在(なので知りがたい)という二つめの悪条件も相応に軽減できるのではないだろうか。
 このような見通しのもと、まずは、使用例の収集とその分析につとめるのが、言語生活に節用集を定位する第一歩となるわけだが、この方針にも欠点がないわけではない。
 まず、はたして考察に十分な資料が集まるかどうか、ということがある。が、この点については、楽観的に考えている。というのは、近世史学・教育史学・思想史学の分野では、近年、封建制を支えたメディアとして文字・文書の機能を見つめなおしており、研究の蓄積が急速に増えているからである。その成果は、幕府・諸藩の財政をになった農民の言語生活・識字教育のありようから、文書・証文などの証拠能力の認識まで、広くかつ深いものとなっている。さらに、従来、等閑視されがちだった版本の蔵書構成などを視野に入れる機運もあり、ますます豊かな成果を生み出しつつある。こうした研究の過程で示された資料によって、近世民衆と節用集との関係を見ることが容易になりつつあることはたしかである。
 また、当面、特定少数の人々の使用例にかぎるうえでの欠点もある。対象を限定する以上、その使用例が、特殊例なのか一般例の代表なのかの見極めをはじめ、使用者の位相をどのように捉えるかなど、整備する点は多岐にわたることが予想される。また、最終的な結論を述べるまでには、相応の、あるいは相当の時間がかかるということもある。むしろ、問題としては、こちらの方が大きいかもしれない。
 これらの欠点を承知しつつも、一つの方針として特定少数に注目することとし、その使用例から節用集の使用様態を描いてみようと思う。もとより、筆者にも、どのように使用者研究を成立・推進させるかについて定見があるわけではなく、先述のように方法論が確立されているとも言いがたい。したがって、今は、思いつく方法を種々試してみることが重要な時期だと思っている。もちろん、他に有効な方法もあるかもしれないが、それへの呼び水としての働きを小稿が成すことができればと思っている。

 さて、具体的にどのような資料により、どのように記述・検討すればよいのだろうか。
 これまでの研究では、節用集と使用者とが記された資料として川柳・雑俳・戯作などを用いることがあった(注5)。これらは、軽文学ならではの意表を突く視点によって真正面からでは得にくい使用様態を見せてくれることがあって貴重だけれども、それらで得られた例をどこまで一般化できるかは問題となろう。たとえば「一村て物知と成節用集」(『折句たはら』寛政五年)が、一句として成立するからには相応に言い得た部分もあろうし、当時の人びとが共有していた「村・物知・節用集」のニュアンスを駆使して短い中にも必要十分な情報を盛り込んでいるのではあろう。が、節用集の種類、村の文化程度、ひるがえって、あざけるような都会人の文化程度などなどは、実際のところ、どうなのであろうか。無粋を承知でいえば、こうした例は一歩踏み込めば明らかにすべき点ばかりのように思えて、節用集の使用様態の記述には、かならずしも安心して使えるわけではないようにも思われる。
 そこで、本稿では、蔵書構成から当該人の言語生活を思い描き、そのなかに節用集を位置づける、ということを試みようと思う。蔵書構成に注目するのは、当該人の文化程度や知的関心のおおよそが、完全ではないにせよ、比較的容易に察せられるからである。しかも、旧家の蔵書目録は、精力的な地方史編纂事業のおかげで整備されつつあり、それこそ見尽くせないほど存するのも大きな魅力である。
 ただし、これにも欠点はある。当面、対象となるのは、資料の保存されやすい豪農・村役人層などに限られるであろうこと、伝存の過程で部分的に散逸する可能性があり、蔵書目録が必ずしも現実を反映するとは限らないこと、などは承知しておかねばならない。が、これは、致し方ないことであろう。よい条件の資料を求めることは当然であるが、危険性ばかりを考えて手をつかねている段階ではないと思っている。
 また、旧家の古文書類は家単位に一括整理されるが、その点も注意する必要がある。すなわち、個人単位での動向が必ずしも明らかにできないということである。どの時期にどんな人がどんな書籍を購入したのかが分からなければ、精密な検討にはなりがたい。たしかにそうなのだが、家格が長く安定的なものならば、そう的をはずれた推測にもならないように思う。一家の没落や急速な繁栄は「よく聞く話」だが、はたしてそうした転機はすべての家にあったのだろうか。むしろ、転機を迎えた家は例外的であって、多くは同じ家格を長らく保持したのではないだろうか。
 このように、種々の困難が考えられるけれども、とりあえず蔵書目録から言語生活を推測して節用集を位置づけるという方向がどこまで通用するものなのかを試すこととしたい。なお、蔵書目録以外の記録類でも、部分的な蔵書構成や(注6)言語生活水準をうかがわせる例もあり、また、購買記録などではより細やかに誰が何を購入したのかが分かることもある。そうした例についても積極的に利用していくこととする。

二 実例の検討

A美濃国大野郡高屋村(岐阜県本巣郡糸貫町)・古田家
 古田家とそのコレクションは、「江戸時代大垣藩領高屋村の名主を代々勤め、明治時代にもこの地方の名望家として重きをなしていた。その間文書が散逸すること少なく、名主一家のものとしてその数量は全国的にも稀にみる尨大なものである」(注7)という。現在、岐阜大学教育学部郷土博物館に所蔵される同家の文書は、寛永年間(一六二四〜四四)からのものだが、そのなかに、次のような書籍が認められる。
  辞書 万倍節用字便(享保一一年版) 増補掌中以呂波韻大    成(文政一三年版)
  漢学 孟子巻之四(版本) 訓訳示蒙(写本)
  啓蒙・手習 女大学(文化五年写) 駿河状(明和五年写)
  謡曲 謡本(板本。「春日」ほか多数合冊) 半蔀(写本)鶴亀(宝暦五年版) 観世流謡季節記(文化一四年写)
  華道 華道口伝書(写本)
  文学 平家物語巻一一(板本) 本朝藤陰比事巻七(享保一一年版) 
  その他 掌中繰引年代記(享和二年版)  
 辞書としては、『万倍節用字便』と『増補掌中以呂波韻大成』とがあるわけだが、それぞれどのような位置をとるものか、蔵書構成とひきくらべてみよう(注8)
 謡曲に強い関心があることが知られ、これに華道・文学が続くといったところであろうか。ただし、文学書もまとまったものはなく、俳書のたぐいもないので俳諧をたしなむわけでもなさそうである。また、漢籍やその関係書も少ないので、この方面も関心が薄いようである。そのようななか、作詩字書の『増補掌中以呂波韻大成』が見られるのは奇異である。作詩という創造的な行為の前には鑑賞という享受の面があるはずだが、それを示すもの、たとえば『唐詩選』すらないのである。とすると、以呂波韻は、作詩以外の目的で使われたのではないかと疑われる。
 この点は、『万倍節用字便』の特徴を見合せながら考えられそうである。同書は、袖珍判で、日用教養的な付録もない、簡便なものである。漢字の表示も当時の日常書体だった行草体だけである。これに対して『増補掌中以呂波韻大成』は、行草体についで必要だった楷書で表示するが、節用集のように仮名・意義分類で検索できるものである。さらに平仄に分けて示すけれども、それは丁の上下に配されるのでさほどの不便はなかっただろう。すると、『万倍節用字便』と『増補掌中以呂波韻大成』とで、当時通行の節用集と同じように、真草二書体をまかなえることになるのである。もちろん、このようにまとめるのは、両書の収載語の守備範囲の確認など詰めるべき点を省略した乱暴な見方ではあろう。が、二書のどちらかを先に所持していた場合、もう一方を購入すれば、あらたに真草二行表示の節用集を買い足すよりは無駄がなく、相応に有機的な辞書構成になることを考えると、説得力のある推測かと思う。また、このようにでも考えないかぎり、古田家の『増補掌中以呂波韻大成』は宙に浮く存在ともなってしまおう。ともあれ、こうした有りようも、ありうべきパタンの一つとして認めることはできるかと思う。

B上野国勢多郡原之郷村(群馬県勢多郡富士見村)・船津伝次平
 船津家は、天保の後半に寺子屋を開き、名主も勤めた家柄であって、美濃の古田家と似たような位置をとる農家である。ここでは三代目の船津伝次平(一八一〇〜五七)を中心にみていく。
 高橋敏(一九九〇)によれば、三代・伝次平は、「農業経営にあっては『多く所有すべからず、又多く作るべからず』の適正規模の堅持の強い信念を貫」いた人物で、天保末までには手習塾・九十九庵を開き、俳号・午麦を名乗って有力な俳諧サークルに加わり、句作に精を出す人でもあった。彼が当主であった時期の購入書籍も「俳諧関係一八、辞書類一三が大半を占め、俳諧人であった一面を偲ばせてくれる」という。収入はほどほどで満足しつつ、その分、文雅に遊ぼうとする人だったようである。
 ここでとりあげるのは、高橋が示した船津家文書「家財歳時記」の分析である。これには天保七年から元治元年にいたる書籍の購買録が含まれているので、購入傾向の推移が明らかであり、かつ、購入者の特定がほぼ完全にできるため、単に書籍目録によるだけでない、数段的確な判断ができるのが強みである。私にまとめて示せば次のようになる。なお、一々の書名は高橋(一九九〇)によられたい。
┌─────┬───────────────────┬─┐
│     │ 諧 歌 書 学 道 来 世 学 他 │ │
│     │ 俳 和 辞 漢 書 往 経 科 そ │計│
├─────┼───────────────────┼─┤
│天保   │ 13 4 6 3 3       2 │31│
│弘化〜嘉永│ 6 2 6 1 2 1       │18│
│安政〜元治│ 4 1 10 20 5 3 6 3 6 │58│
├─────┼───────────────────┼─┤
│ 計   │ 23 7 22 24 10 4 6 3 8 │107│
└─────┴───────────────────┴─┘
 明らかに認められるのは、弘化・嘉永期を軸とする、和から漢への転向である。これは、安政四年に三代伝次平が急逝し、四代に代替わりするのと一致するとみられる。これを手がかりにすれば、辞書のなかにも和から漢への推移は確実によみとれそうである。高橋が何を辞書と見たかは分からぬ部分もあるが、それとおぼしいものを挙げると次のようになる。
  天保 合類節用 大全正字通 古言梯 字音仮名略 名乗字引 歳時記
  弘化〜嘉永 異名抄 玉篇 玉篇(重複) 助字訳通 和漢名数
  安政〜元治 尚古仮字格 仮字用例 四声字林 幼学詩韻掌中詩韻 いろは韻 増補イロハ韻 磨光韻鏡
 安政から元治にかけて詩作用の辞書類が充実するのが目立ち、そのまえの弘化から嘉永にかけても漢への傾斜が認められる。これには、代替わりをまえにして学究肌の四代伝次平羅(注9)の購買傾向が反映しているのかもしれない。それに比すると、天保期での和への傾きが著しいことが明らかにみてとれる。そのなかで節用集に「合類節用」と「大全正字通」があるのは注目に値する。というのは、この二つが特徴的な節用集だからである。
 「大全正字通」は、吉文字屋刊行の『大成正字通』の別名を記したものと思われ、「合類節用」は、京都・村上勘兵衛の『合類節用集(字林拾葉)』か『和漢音釈書言字考節用集(増補合類大節用集)』であろうが、再板の回数からすれば後者である確率が高い。だとすれば、単に文書を書くなどの実用のために節用集を購入したのとは異なる事情が考えられる。現代でも、俳句をたしなむ人は、実に多くの単語や表記を知っており、風物の逸話にも詳しい。句作のための教養が豊かであるということだが、そのためには通常の節用集では事足りず、『大成正字通』のように季語も積極的に採りいれ、その季を月別に表示するものは便利であろうし、『書言字考節用集』のように注記が豊富なものは逸話を学ぶには好都合だったろう。こうしたことから、三代伝次平は、俳諧のために、的確な節用集を利用していたと考えられそうである。同じ時期に「歳時記」を購入しているのも、このことを裏付けよう。

C出羽国村山郡谷地新町村(山形県河北町)・槙藤左衛門
 船津伝次平は俳諧サークルにも属していたというが、豪農や名主層が俳諧をたしなむことは近世後期にはよく見られることで、そうした人々を中心に俳諧サークルが起こるのも全国的な傾向であったという。ここで紹介する槙藤左衛門もそうした関係者の一人である。


 尾形 月並俳諧の全国を席巻したエネルギーは、すごいものですよね。 今田 出羽国、山形県の村山郡の谷地という所の幕末・明治の一俳人をめぐる弟子・友人などの関係図を作ってみたことがあります。二流の俳人などというと土地の人に怒られてしまいますが、その俳人をめぐる文化的な人間関係の広がりは、驚くべきものですね。とくに、弘化・嘉永のころから活発です。その俳人は谷地新町村の槇藤左衛門という豪農ですが、五鳳という雅号で画家としても活躍している。弟子たちは農民・医師・生薬屋・魚屋・納豆屋、家塾の師匠など。パトロンはその地方の豪農たちです。書物の類は山形の本屋北条忠兵衛を通じて江戸の須原屋から取り寄せたりしている。仙台・越後・桑折・須賀川の俳人たちと親密な手紙の交換がある。(略)五鳳は、その土地では寺子屋の師匠もやっている。江戸時代後半から幕末維新期には、そういう知的社会需要と、そしてそれを咀嚼することができるような集団が、各地で成立してきたのではないかなと、そういうような感じがしておりますけれどもね。(今田洋三ほか(一九八一))

 こうした教養サークルが、特定の書肆と関係を深くもち、書籍を購入していたというのも興味深い。サークルを介して販売網が広がることが考えられるし、それに乗って販売された書籍には節用集も含まれるはずであろうから。実際、北条忠兵衛には、刊記にその名を記した『早引節用集』(角書・増補改正。架蔵)もあった(注10)。刊記には簡単な取り扱い書目も併記されており、「道春点四書・手紙文書半紙本・両仮名庭訓往来・和漢朗詠集・無点庭訓往来・観音経絵抄」の名が認められる。素読や寺子屋での手ほどきを前提としたような書籍であって、やはり俳諧サークルを介して流通させることもあったであろう。近世後期では地方書肆が多く現れるのだが(注11)、その背景には地方都市の繁栄とともにそれを直接間接に支えたであろう教養的な農民層の存在も忘れてはならないであろう。

D能登国羽咋郡町居村(石川県羽咋郡富来町)・村松標左衛門
 船津伝次平や槙藤左衛門のように俳諧をたしなむほどの教養を持つものならば、規模・体裁はどうあれ、著作をものするようにもなる。町居村の村松標左衛門もそうした一人であって、みずから語彙集を編み、「作文節用集」と題した。

12『作文節用集』三、四     村松邦靖氏所蔵 袋綴 墨付三二枚
  (略)両巻ともに最初に「人事」と書かれ、ついで巻三では吉礼・音信・苦患・安佚・遊覧・送別・旅装・貧窮・富貴・喪祭・賓客の順で、また巻四では武業・農業・諸匠・樵業・猟業・漁業・蔵条・織業・商業の順で、各語句につき、それぞれ数十の関係用語をかかげて説明を加えている。たとえば、巻三の「吉礼」に関して「○帷薄不レ修〔妻ヲ未ダ迎ヘヌヲ云〕○万寿〔万歳ト云ト同〕○中元〔七月十五日也〕○除夜〔大晦日也〕(下略)」などと記述されているものがそれである。これは、標左衛門の著述範囲がまことに広範囲にわたることと共に、意欲的な姿勢をも示すものといえよう。 残存するものが巻三、四であることを考えると、ほかに巻一、二があったにちがいない。(清水隆久(一九八一))

 墨付三二枚、伝存しない巻一・二もほぼその程度とすれば、節用集と称するのはやや大仰であろう。また、辞書というよりは、おそらく語彙集型往来の丁寧なものとでも見た方がふさわしいように思われる。
 なお、標左衛門がどのような人物であったかは清水隆久(一九八一)に詳しいのでそちらによられたいが、必要最小限のことがらを次に引いておく。

 宝暦十二年(一七六二)能登国羽咋郡町居村(現 石川県羽咋郡富来町字町居)に生まれ、天保十二年(一八四一)同地において七十九歳の生涯を閉じるまでの間、土に生きつづけた篤農家として、またその博覧強記とあくなき探求心、加うるに初一念を貫徹する強固な意志と実践力によって築きあげた本草学者・農学者としての業績をもって広く藩内外に知られ、加賀藩当局からも信任されるなど、輝かしい足跡をもつ人物である。

 老農と呼ばれた四代船津伝次平に通じる(注12)学究肌の篤農家だったのであろう。そうした人が、曲がりなりにも「節用集」を作るという事態は非常に興味深い。すなわち、三代伝次平のように句作に励む人が高度な節用集を使っていたと推測されたが、それがさらに進んで学究的な方向に進めば、単に節用集の利用者であるだけではなく、簡単なものではあれ、節用集を作りだす側に回ることは十分に考えられるということである。そうした事態が起こりうるのが近世後期の農村だったということにもなろう。

E山城国天田郡榎原村(京都府福知山市)・易蔵
 これまで見てきたのは、農村の中核を担う名主層が中心となったが、より下部に位置すると思われる例を見てみよう。
 蔵書構成は、蔵書目録によらなくとも知られる場合がある。日記・随筆などに記載される場合がそれだが、蔵書目録のようにすべての書名を書き上げることが目的ではないので、その分、精度は低くなる。ただし、内容によっては、蔵書目録のおよばない、言語生活の実態を伝えることもあり、重要な資料になることがある。そのような例として野田成亮『日本九峰修行日記』を見ておこう。「文化十二年」(一八一五年)の項に、つぎのような一節がある。

 十六日 晴天。石場村立、辰の刻。道々托針(鉢カ)、榎原村と云ふに行き、笈頼み置き托鉢、昼過かへる。今晩は一宿せよと主し云ふに付宿す、易蔵と云ふ宅。此仁廿歳余りの男なり、書物すきと家内の者共云ふ、又自身にも好物と噺しあり。然らば夜話しに物語り可申とて、勤行等相仕舞の上、書物段々取出すを見れば庭訓往来、節用集、手習の往来等也、外に安(案カ)文の書あり。此人を和文学と思ひ、文を好むの文を書き、末に一句して出したる所、何の挨拶もなく、外に両人朋友も見得しが、此人達も何の沙汰もなく一見して置かれたり。其文は略す、発句は、 空に文字かゝんきほいや土筆 一座興醒めて見へたる故世上噺になりたり。易蔵殿は用事有りとて出られたり。此様な笑止なることはなかりし也、因てよく/\人柄を見て噺し等もすること也。(宮本常一ほか編(一九七二))

 宿の貸主・易蔵が持ち出したのは、節用集・往来物・案文集(文例集)で、文書・書簡を記すには、特に初学者には必要なものである。おそらく、易蔵は、それらを用いて文書を記すなどの実用的な文字使用はできたのであろう。が、彼の教養は、俳句を味わうまでには達していなかった。同席した二人の友人も同様である。「よく/\人柄を見て噺し等もすること也」と自戒した野田の、修行者らしからぬ無慈悲さを非難することは容易だが、教養の次元の異なりが抜きがたく存在したということなのだろう。
 俳諧をたしなむかどうかという点で、易蔵の例は、船津伝次平や槙藤左衛門らと対照的である。農民たちの識字能力にはいくつかの段階があることが明確に知られるわけだが、三代伝次平の所持した節用集が高度なものであったことを考えると、逆に、易蔵の所持していたのは彼の識字能力にみあった、より一般的で簡便なものだったのではないかと想像される。
 易蔵の家格も気になるところである。宿を貸すからには、相応の持ち家があったはずであろうが、かといって名主層にまではいたっていないのだろう。名主であれば、そう記されるであろうから。したがって、最低層までにはいたらない中層あたりの農民ということになろうか。

おわりに

 これまで見てきたことを簡単にまとめておこう。
 船津伝次平(B)のような名主・豪農層にあっては、実用的な読み書きだけでなく、俳諧をたしなむような創造的な文字文化の享受ができるものがいた。そういう者は「合類節用」「大全正字通」など高度な節用集を購入することがあり、それはそれでふさわしい行為と思われた。俳諧サークルの中心者だった槙藤左衛門(C)もそういった人なのであろう。
 この層のなかには、村松標左衛門(D)のように語彙集を編むものもあり、「節用集」と名付けることがあって注目された。単に節用集を享受するだけではなく、規模の差こそあれ、節用集を編むという提供する側にまわったのだから、一段抜け出た層を想定・設定する必要があることを示すものと考えたい。
 これら二層に対し、言語芸術の創作や味読はできないが、実用的な読み書き能力を持っていた層がある。俳諧はたしなまないが本好きの易蔵(E)が入るような層である。古田家(A)は、家格としては船津伝次平らの層に入りそうだが、積極的な徴証を得ていないので、とりあえず、この層に入れておく。その古田家で確認できた節用集が『万倍節用字便』のように簡便なものであったことも、この層の人が所有する節用集としてふさわしいように思える。
 以上、今回の検討からは、およそ三つの層に分かれることが知られた。今後はさらに細かく捉えられればと思うし、また、同趣の例であっても多くを得たいと思う。より確実な検討になることを期してのことであり、かつ、諸例の個別性を可能なかぎり捨象できる準備もすべきだと思うからでもある。
 なお、現在、佐藤の手持ちの資料に、漁師や廻船の乗り組み員など海民と称される人々の節用集の使用例がある。近く、公けにして、本稿での検討も合わせ、改めて近世庶民層の節用集使用について考察したく思う。また、本稿とほぼ同様の問題意識を背景にしたものに佐藤(二〇〇二a・b)があり、佐藤(一九九四)にも関わる部分がある。合わせ参照されれば幸いである。

 注
(1)時枝誠記(一九五五)二〇九頁参照。
(2)筆者のものでは佐藤(一九八六)ほかがある。
(3)筆者のものでは佐藤(一九九〇)ほかがある。
(4)ただし、山本の場合は、投書欄に注目し、享受者論としては例外的な成果をおさめた。思えば、投書欄とは当該資料(新聞)に読者自身(の見解)が直接に現れるという、羨むべき好条件である。そうした僥倖でもないかぎり、享受者の実相を描くことは困難だともいえよう。
(5)たとえば、八木敬一(一九八四・一九九四)、松井利彦(一九九〇)、佐藤(一九九〇b)など。
(6)語彙論・意味論においては、総体である語彙体系に迫るまえに、部分語彙体系を設定してそこから検討・考察をはじめるのが常道である。「蔵書構成・部分的な蔵書構成」もそれにならって仮構するものである。「蔵書体系・部分的な蔵書体系」としてもよいが、現段階では時期尚早と考え、採らない。
(7)岐阜大学教育学部(一九六七)「序」。
(8)寛永年間からの名主層の蔵書としては少ないようにも思われ、部分的に散逸したおそれも十分に考えられる。が、それはそれとして、掲げたような蔵書構成なら、どのような検討が導き出せるかを記してみたい。言わば例題のような価値を想定して検討しようということである。
(9)四代伝次平(一八三二〜九八)は、和算を修めつつ、旱害時の里芋の栽培法や甘薯の保存法ほか、多くの業績を残した学究肌の篤農家である。のちに駒場農学校農場監督、農商務省農務局に転じ、巡回教師として農事指導を全国的にほどこした。いわゆる明治三老農の一人として著名な人物である。以上、高橋前掲書、『世界大百科事典』(平凡社)などによる。
(10)北条忠兵衛は早引節用集の本来の版元ではないが、株仲間解散中にでも重版したものかと思われる。
(11)朝倉・大和(一九九三)などを参照。
(12)注9参照。

 参考文献

朝倉治彦・大和博幸編(一九九三)『近世地方出版の研究』東京堂出版
岐阜大学教育学部(一九六七)『庶民史料目録(一)古田家文書』岐阜大学教育学部
佐藤貴裕(一九八六)「東西方言対立語からみた『書言字考節用集』の性格」『国語学』一四七
佐藤貴裕(一九九〇a)「近世後期節用集における引様の多様化について」『国語学』一六〇
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佐藤貴裕(一九九三a)「近世節用集の類板──その形態と紛議結果──」『岐阜大学国語国文学』二一
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佐藤貴裕(二〇〇二a)「子どもと節用集」『国語語彙史の研究』二一 和泉書院
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高橋敏(一九九〇)『近世村落生活文化史序説』未来社
時枝誠記(一九五五)『国語学原論 続編』岩波書店
中野三敏・宗政五十緒・尾形仂(一九八一)「〈座談会〉近世の出版」『文学』一九八一年一〇月号
野間光辰(一九五八)「浮世草子の読者層」『文学』一九五八年 五月号
松井利彦(一九九〇)『近代漢語辞書の成立と展開』笠間書院
宮本常一ほか(一九六九)『日本庶民生活史料集成』第二巻 三一書房
八木敬一(一九八四)「江戸の辞書さまざま」『月刊言語』一九八四年一二月号
八木敬一(一九九四)「節用集について」『月刊日本語論』一九九四年四月号
山本武利(一九八一)『近代日本の新聞読者層』法政大学出版局

岐阜大学国語国文学30(2003)所収